フランツ・カフカ
1911/12/25 日記
個人的事項が、ときに穏やかに熟考されることがあっても、そういう事項が、これに類似する別の事項と結合する境界まで達することはない。むしろ個人的事項を政治から分離する境界に達し、その境界が現前する前にそれを感知しようとするところまで行く、そしてどこでもこの境界が強固になっていることを感知しようとするのだ。〜大規模な文学においては、下方で表現され、建物にとって不可欠ではない地下室であるにすぎないものが、ここでは白昼の光にさらされる。あちらでは通りすがりの野次馬を集めるだけのことが、ここでは生死を分ける決定につながる。
1914-15『審判』
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地球上に自分一人住み、訴訟など鼻であしらうことが出来ればと思うのだが、そんな世界にははじめから訴訟が成立するわけもないのだ。
資本主義の罪と、その審判
無限の罪
本書は一つの不条理、突然の罪を主人公が被ることに始まる。
何者か、ヨーゼフ・Kを密告した者があるに相違ない。というわけは、ある朝、身に覚えのない彼が突然逮捕されたからである。
ひとえに、このことは一つの神学的主題であり、原罪へのアンチテーゼと見ることができる。すなわちなぜ、我々は生まれると同時に罪を課され、この生を歩まなければならないのか、と。確かに、この存在論的問題はカフカに通底する議論であると云えるだろうし、示唆に富んだ世界を我々に映しだしてくれる。しかしわたしは、この資本主義が全面化した現代において、本書が持つ可能性はそのような歴史的普遍性を超え、一つの近代的主題として新たなパースペクティヴを獲得したように思えるのだ。それは法治国家の経済合理主義を巣喰うシュルト−罪責と負債のデーモニッシュな両犠牲−というベンヤミンが『宗教としての資本主義』で看破した構造、すなわち、第二の堕罪としての資本主義である。
ニーチェはベンヤミン以前に、罪責が負債として生成され、人間の内面へと沈殿してゆく〈Schuld〉の象徴性を暴いた。それは祖先や神話、そして歴史に象徴的な「前史的なもの」からの負債関係、曰く「みずからの種族は祖先の犠牲と働きの力だけによって存続しているのだという確信であり、これにはみずからの犠牲と働きによって返礼しなければならないという確信である」。如何なる時代にも我々が受ける恩恵とは、かつての人類が築いた所産であり、よって如何なる時代にも我々は前史的なものとの負債関係から逃れることはできないのだ。アダム以降、いやアダムでさえも、前史的なものの恩恵に授かっている。それはまさしく神の恩寵であり、前史的負債の後退は神話へと最終的に帰結する。そして、ニーチェ曰く、前史的負債の起源として存する神との関係こそが、罪として解釈されたのであり、ゆえに返済は贖罪として現れたのだ。この前史的負債の当意は、原初より現代まで、生のすべてを捧げることを要請する。なぜならば我々の恩恵は、かつての偉大なる産物の計り知れない蓄積によって創造されたものだとし、それを継承し、返済、贖罪することは、死でもってしか終わることのない、無限の当意論なのだ。しかし、今や救済は存在しない。ベンヤミンはこうしたニーチェの分析を踏襲し、Schuldを資本主義の内部に秘められた支配的構造と論じる。すなわち、この構造は、資本主義において一つの極点へと至るのだ。いまや前史的負債とは観念的問題ではなく、経済的問題として全面化された。社会保障とは祖先崇拝の制度化であり、国債の常態化は国家へ不断の成長を義務づける。すなわち今日の前史的負債は、使命や意志を超えた現実問題として、我々の生すべてを資本に捧ぐことを共同体の条件とするのだ。ここに前史的負債の経済化がみられるのであり、終わりなき無限の返済に駆られる僕たちは、それを無限の成長、すなわち進歩主義と読み替え、自らを戒めてきた。ゆえに、ホモ・エコノミクス(Homo economicus)とは、ホモ・シュルト(Homo Schuld)に他ならず、彼らの唯一の帰結は、資本主義の供犠そのものに、より一層いそしむことであった。こうして人間の豊かな諸相やオルタナティヴは消失し、すべてが経済のもとへと捧げられ、やがて人々は、資本主義を唯一の現実とみなす。しかし、その果て、我々人類に残されたのは永遠に癒えることのない、ただ罪のみであった。K曰く、
問題は、いつまで続くか見当もつかない訴訟にあるのだ。
ゆえに今世紀、資本主義が宿主とする近代国民国家のもと、命を受けることは誕生とともに罪を被さることと同義である。すなわち、起床という生の目覚めと共に不当な罪という不条理に晒されるKとは、出生と共に負債を課された我々そのものなのだ。突如として罪を刻印され、その本性は分からず、終幕も見えず、義務だけが積み重なり、絶えず負債関係に苛まれながら、亡霊の如く背後に現れた触知しえぬ何かから、死の到来まで逃げまどう。その果て、人々はなぜそのカルマに巻き込まれてしまったか分からぬまま、それを他者へとまで強要する。この資本主義では、Kを囲む作品の人物のように我々は、罪をあるものとして、或いは認識すらせず、勤勉な労働と社会への寄与、成長への奉仕と進歩の美学を他者へと共有する。たとえ我々は直接的な説教をしなくとも、経済成長がために国債をするとき、社会保障がために税金を訴えるとき、そしてその制度に賛同、或いは加担するとき、我々は後世へ罪を引き渡し、後世に返済の命を下しているのだ。ゆえにこの負債は原罪と等しく、我々が誕生によってその罪を受けとるように、生が返済への端緒となる。したがって、人類存続の限りにおいて資本主義とは罪がアプリオリな体系であり、我々はこの贖罪から逃れることができない。よって作中、Kはある工場長より次の言葉を授かる。
人間は誰でも十字架を負わねばならぬのです。
人々が罪からの救済を求めるとき、それは前失楽園的秩序への、すなわち楽園への回帰を望んでいる。その意味で冒頭で以下のように論じらる「まだ、自由な身体」とは、まさに自然状態に最も近い幼年期であり、楽園からの移行期を象徴する。したがって、この不条理なる罪の世界に、少しずつ浸かり始めるKが罪に対する無鉄砲な反抗を辞めたとき、「わけがわかって来たらしいな」と囁かれたのだ。
Kはまだ、自由な身体であったから、「失礼します。」と云い、見張りの間を急いで通り抜け、自分の部屋へ戻った。「わけがわかって来たらしいな。」うしろでそんな言葉が聞えた。
ゆえに銀行家という資本主義的負債そのものを象徴する立場にあるヨーゼフ・Kは、この第二の堕罪に対し、抗い、楽園回帰を希求する。よってそれは秩序からの堕罪、「不秩序」、いわば混沌との対峙であり、したがってKは「秩序の恢復」を求め、この突如として生じる不条理な罪に対し、無罪を求め、抗うことを選ぶのだ。
今朝の事件のためフラウ・グルバハのアパート全体に非常な不秩序が生れ、秩序の恢復にはこの自分が乗り出すほかはない、そんな気がするのだ。ひとたび秩序が保たれるならば、あの事件は痕跡もなく消え去り、すべては昔のままのコースを辿りはじめることであろう。
無罪への手立て──慈悲、延期、そして改革
このことは本書に属す数少ない断片の繋ぎあわせによって成立する言説ではない。なぜならば、物語の果て、度重なる苦悩と無数の努力の果て、彼が芸術家との対話で知ることとなる罪からの出口、すなわち無実の証明とは、寧ろシュルトに条件づけられ、シュルトに支えられた現代資本主義において最も適合的な議論であるからだ。芸術家から提示される贖罪の手段は次の三つである。それは第一に、真の無罪、そして第二に、「形式的無罪」、第三に「進行妨害」である。これは単にKに与えられた手段ではなく、現にこの罪からなる資本主義が、その構造的不和から逃れるための、精微な選択肢と言える。しかしその悲劇的な論説にて、真の無罪は冒頭ですぐさま非現実と切り捨てられた。それはすでに説明したことから明らかだろう。資本主義における国民国家は現代、負債の返済のために負債をし、それによって成長を可能にすることで成立し、我々人類はその返済がために労働へ向かう。確かに、我々個でみてみれば、そのような罪責感には追われていないのかもしれない。成長など高尚な支配者層が論じる言説であって、単一個人の多くはそのような負債関係を感じていないと主張するかもしれない。しかし、彼らが返済がための税を納めることを放棄すれば、国はそれを制度的罪として罰するし、労働を放棄すれば我々は生きていくことができない。それはなにも先進国に限定される話ではなく、資本主義は非暴力化された植民地主義として、前史的負債の罪による秩序を、世界全体へと拡大するのだ。現に、第三世界とは先進国という大企業の子会社のような産業形態と化しており、政治的な独立というヴェールに隠蔽されながらも、先進国が前史的負債に駆動されるとき、第三世界はその資本主義的構成部として植民地的な扱いを被るのだ。したがって、いまや真の無罪とは資本主義の転覆によってしか達成しえないのである。では第二に「形式的無罪」は如何なる選択肢となるのか。芸術家は次のように論ずる。
形式的無罪ですが、これがお望みなら、あなたが無罪であることの実証を私は一枚の紙に書き記す。こうした証明の方式は父から譲られたもので、絶対に他の容喙を許さないのです。さて、この証明を持って私は知り合いの裁判官を歴訪します。たとえば、まず手始めに、今描いている裁判官が今晩ここへ来たとき、証明をみせる。そして、あなたが無罪であり私がその保証をする旨を、声明します。これはしかし形式的な保証ではない、拘束力のある実質的な保証なのです。」厄介な重荷を背負わされたという気持を、画家の眼の中にKは読み、「いろいろと恐縮です、」と云い、「裁判官が、あなたの言葉は信用しても、一向無罪にはしてくれない、そんな心配はありますまいか?」「再三申し上げたとおり、」と画家は答える、「裁判官が一人残らず私を信用してくれるかどうかは甚だ疑わしく、本人の同道を求める裁判官も少くないことと思いますが、そのときは一緒に来ていただかなくてはなりません。もっとも話がそこまで進めばもうしめたもので、面接の際の心得などは勿論前もって詳しくお教えしておくつもりです。また、頭から話を受けつけてくれない裁判官も出て来て、これには手を焼くのですが、いろいろ説得して駄目なら、あっさり諦めてしまうことで、個々の裁判官が決定権を持つのではありませんから、諦めてしまっていいのです。こうして証明書に、必要なだけの署名を得たのち、あなたの訴訟を受け持つ裁判官を訪れます。その署名もおそらく確実に手にはいることでしょうし、そうなれば一段と事情は好転して来るわけで、事実、面倒なことももうほとんど起ることなく、これが被告の最もおおきい安堵の時期なのです。変な話ですが、無罪宣告のあとよりも、この期間に味わう安堵の気持のほうがおおきいのです。かくて、すべては終り、証明書に多数同僚の保証を得た係りの裁判官は、安心して無罪の宣告を行い、きまり切った各種の手続がすめば、私をはじめ知人たちは極めて満足な結果に相好を崩し、あなたはあなたで、無罪放免になる、というわけです。」「それで、無罪放免なのですね。」とKは幾分疑わしげな調子である。「そうです、」と画家は云った、「しかしこれは形式的な、いやこう云ったほうがいい、一時的な、無罪なのですよ。(...)」
国家という裁判機構に、足繁く通い、許しを乞い、罪の免除を論ずる。これはまるで、資本主義に敷かれた生活保護そのものである。その受給がためには、絶えず自らが属する市区町村へ「声明」を一つの書類として届けなければならず、その情けが途切れたとき、我々は再び資本主義の返済関係へと投げこまれるのだ。したがって、これは「一時的な、無罪」である。確かに生活保護とは一見楽園的だ。罪から解放され、制約から解き放たれ、我々はその時真に自由な主体と云える。しかし、それは「本当の無罪と形式的無罪の区別の如き、誠に皮相なものにすぎない」のだ。
私は、裁判所と充分連絡がありますから、自信をもって申し上げられるのですが、裁判所事務室に対する規定では、本当の無罪と形式的無罪の区別の如き、誠に皮相なものにすぎないのです。本当の無罪ならば、一件書類は全然廃棄を命ぜられる。書類は手続から全く姿を隠す。起訴のみならず、訴訟も、いや無罪宣告そのものですら、すべてが取り消されるのです。ところが形式的無罪では事情がちがって来ます。すなわち、書類について申し上げると、その内容に変更はなく、単に、無罪の証明、無罪宣告、その理由、の諸事項が附け加えられるにすぎません。しかも書類はまだ手続中ですから、裁判所の事務所間の絶え間ない交渉に伴う要求によって、書類は、上級裁判所に送附され、また下級裁判所に差戻されてくるといった風に、或いは大きく或いは小刻みに長短の間をおいて、振動を続けます。その進路は予測しがたいものがあり、表面的に見れば、すべてが忘れ去られ、書類は紛失、無罪は実現、とそういう気になり勝ちですが、これは素人考えにすぎません。書類は、一枚も失われず、裁判所に、忘却などは、あり得ないのです。かくてある日──思いもかけず──ひとりの裁判官が注意深く書類を取りあげる。公訴がまだ有効に存続していることを知る。そして、即刻、逮捕の手続きをすますのです。これは、形式的無罪宣告ののち二度目の逮捕までに相当な時間の経過を仮定しての話で、そういう場合も事実あり得るのですが、一方、自由な身体になって家へ戻ると、命を受けた者が早くもその帰宅を待ち受け、ふたたび逮捕されてしまうという場合も決して珍しくはありません。こうなれば、むろん、自由な生活はおしまいなわけです。」「で、また訴訟のやりなおしですか?」とKは茫然自失の態。「もちろん、」と画家は答え、「はじめからやりなおしです。もっとも、最初と同様、形式的無罪になる望みはあるわけですから、もう一度ぶつかっていくこと。意気沮喪は禁物です。」最後の言葉はいささかぐったりしてしまったKをみて、云ったものにちがいない。「しかし、」とKは、なにかまた胸がどきつくようなことを云われてはかなわぬと思い先廻りする気持で、「二度目の無罪は最初の無罪ほど、うまくいかないのじゃありませんか?」「その点、」と画家は答える、「はっきりしたことは申し上げられません。しかし、二度目の逮捕という事実を裁判官が取上げて、被告に不利な判決を下すようなことはないか、という御心配なら、それはあなたの取越苦労です。裁判官は無罪宣告の際すでに二度目の逮捕を予知しているのですから。けれども、そのほかのいろいろな理由から、裁判官の気持や法律的判断が、前回と異る場合はあり得るので、二度目の無罪は、この異った事情に即して運動を行わねばならず、それゆえ、最初の場合に劣らず努力が必要なのです。」「しかし、この二度目の無罪でおしまいじゃないでしょう。」とKが否定的に頭を振れば、「もちろんです、」と画家は云い、「二度目の無罪に続いて三度目の逮捕、三度目の無罪、四度目の逮捕、ときりがありませんが、形式的無罪という概念がすでにそのことを意味しているのです。」
したがって、生活保護の継続とは「二度目の無罪に続いて三度目の逮捕、三度目の無罪」といった出来事に他ならず、この場合においても人類の背後には絶えず罪が遍在する。それは真の無罪のような抹消ではなく、資本主義による慈悲として、「形式的無罪」という存在が制度化されているのであり、なぜなら形式的無罪としての生活保護が全面化してしまっては、資本主義の秩序が再生産されることは叶わず、ゆえに絶えず国家もその奉仕者である国民も、ひいては家族までもが形式的無罪からの脱却、すなわち生活保護の解除を主体へと要請するのだ。したがって、行政機構という資本主義の裁判所には最終的な決定権は属さない。なぜならその背後にある国家と、そのさらに背後にある宗教としての資本主義が危機に陥るとき、その慈悲は消え失せ、罪の隙間一つない全面的一般化を強いるのだ。Kはこのことを知っていた。ゆえに第一章でKを監視していたフランツとヴィレムを罰をする者に対し、Kは「(…)この二人に全然罪はないのだ。罪は組織にある」と論じ、裁判においては「たしかに、この裁判所のあらゆる現象の背後、私の場合でいえば、逮捕及び今日のこの審理の背後には、ひとつのおおきな組織が潜んでいます。組織は、買収しやすい見張り、愚かしい主任、極めて御機嫌のいい時でなければ人間並なことが云えない予審判事、を動かしているばかりではない、さらに、高低さまざまの審判者の層を含んでいます。廷丁とか書記、憲兵その他の助力者、またいやな言葉ですが思い切って云えば、絞首吏、など。さて、この厖大な組織は、何を意味しているのでしょうか?罪咎もない人間を逮捕し、無意味な、そして私の場合が証明しているとおり、ほとんど全く得るところのない手続をとること、これがその意味です(...)」と論じるのだ。ゆえに形式的無罪の議論に対して、芸術家は次のように云う。
「(...)つまり私が知っているのは裁判官でも下のほうなので、終局の無罪宣告を行う権能がなく、この権能は、あなたも私も、私たちすべてが絶対に窺知することの出来ない最高の裁判所のみが、行使し得るものなのです。この裁判所がどんなものか、全然わかりません、また、知りたいとも思いませんが、とにかくこういうわけで、私たちの裁判官は、起訴された人を自由にする権能はないが、一時的に解き放つ権能を持っている。すなわち、この種の無罪宣告によってあなたが一時は起訴から遠ざかっていても、それは引続きあなたの頭上にふらつき、上級裁判所から命令があり次第、即座に効力を発生するのです。
すなわち、この世界のあらゆる局面には「あなたも私も、私たちすべてが絶対に窺知することの出来ない」資本の神によって組織化された神学体系が存在し、「買収しやすい見張り」としての金に魅了された信徒、「愚かしい主任」としてのただ罪をアプリオリなものと疑わない信徒、「極めて御機嫌のいい時でなければ人間並なことが云えない予審判事」という無機的な機械と化した信徒、等に象徴される「高低さまざまの審判者の層」を従え、「罪咎もない人間」に負債関係という罪を課し、それを布教させ、あくまでその秩序が可能にした膨大な利益からの溢れるばかりの慈悲として、「私たちの裁判官は、起訴された人を自由にする権能はないが、一時的に解き放つ権能を持っている」のだ。したがって、第三の可能性へと我々は議論の中枢を移行しなければならない。なぜなら生活保護とは、彼らの意味でも、また罪の全面的な解放を志向する意味でも、逃げでしかないのだ。
Kが黙っていると、「形式的無罪はお役に立ちそうにもありませんね、」と画家は云った、「進行妨害のほうがあなたには向いているように思いますが、御説明申し上げてみましょうか?」Kはうなずいてみせた。画家はだらりと椅子にもたれており、寝巻は前がはだけ、手を突っ込んで胸や脇腹をさすりながら、「訴訟の進行妨害とは、」と云いかけて、最も適切な表現を求めている顔つきで、しばらく虚空をみつめ、「進行妨害とは、訴訟を絶えずその最低の段階にとどめておくことを、云うのです。そのためには、被告並びに助力者、とくにこの助力者が、裁判所と個人的な接触を失わぬようにすることが肝要です。繰り返して申し上げておきますが、労力は、形式的無罪の場合とは比較にならぬほど少くてすむ代りに、非常に細心な注意を必要とします。絶えず訴訟の状況を注視すること、担当の裁判官を、一定期間のみならずなにか事あるごとに、訪問し、好意を持たせるように仕向けること、もし個人的な知己でない場合は、知り合いの裁判官に依頼して運動してもらうのは勿論、直接話し合う機会を断念してはならないこと、こうした点で注意を怠らぬようにすれば、訴訟は決してその最初の段階以上に進むものではないのです。これは勿論訴訟の終了ではありません。が、無罪放免も同様、有罪判決を受ける心配のほとんどない状態なのです。この進行妨害は、形式的無罪ほど被告の将来に不安がないのが、特徴です。不意に逮捕されるなどという不愉快な驚きを味わわなくてもすむ。形勢が極めて不利な場合でも、形式的無罪ならつきものの焦慮奔走を、覚悟する必要がありません。しかしながら他方この進行妨害は、被告にとって、軽視すべからざる短所を持っています。と云っても、被告はいつまで経っても無罪放免にはならない、という事情は、短所にはなりません。この点、形式的無罪といえども本質的に見て同様だからです。短所と云ったのは、それではないのです。訴訟が停滞するには、単なる口実でもいい、とにかく理由が、要ります。つまり、なにか表面に現われる出来事が起らねばならない。そこで、時期を見計らっていろいろ指令を発するとか、被告を訊問するとか、審理を行うなどの工夫が必要になってくる。かくして訴訟は無理に押し込められた狭い範囲内で、堂々廻りを続けるよりほかはない。こうした措置が、被告にある程度の不愉快さをもたらすのは、当然ですが、いずれにしても格別気になさるほどのことではありません。すべてはほんの形式なのです。たとえば訊問にしても非常に簡単なもので、出かける暇がなかったり気が向かなかったりした場合には断りも聞いてくれますし、裁判官によっては指令の時期をあらかじめ打ち合せることすら出来ます。つまり、被告である以上たまには係の裁判官のところへ顔出ししなければいけない、というだけのことなのです。」
本文を読んだところで、絶望したことだろう。すなわち、芸術家が最も現実的な選択肢と呼ぶこの手段こそが無限の先送り。我々が成長と読み替える進歩主義、資本主義の精神であり、いわば私が冒頭で論じた死まで続く無限の罪なのである。慈悲か延期か、資本主義の内側にはこの手立てしか残されていない。
「この二つの方法は、被告の有罪判決を阻止する点で、共通点を持っています。」と云った。「しかし本当の無罪も阻止してしまう。」小さな声で、自分のそんな気のつき方を恥じるように、Kは云い、「全くおおせのとおりです、」と早口に画家は云った。
罪を強迫する信徒たち
前提知識なしに本書を読んだか、類稀なる知性の持ち主でなければKと同じく「奴らは、何者なのか?何の話をしているのか?──何に属しているのか?法治国の国民であるK、国は平和に、法律は確固として立つ、何者がこの住居に、不当な侵入をあえてしたのか?」と疑念を抱いたに違いない。しかし、この地平に見れば、作中に出てくる不条理な人間たちが何を求め、何に従っていたかが明瞭に把握されることだろう。いわば冒頭に登場するは、「買収しやすい見張り」としての金に魅了された信徒、「愚かしい主任」としてのただ罪をアプリオリなものと疑わない信徒なのである。ゆえに彼らは何も知らされておらず、それで事足りている。彼らは宗教としての資本主義の「ほんの下っ端なのだ」。
「歩くんじゃない。君は逮捕されたのだ。」「どうやらそうらしいのですが、」とKは云い、重ねて、「いったいなぜこんな目に逢わされるのですか?」「それは説明出来ない。われわれの職掌外の事柄だ。部屋へ戻って、静かにしていたまえ。とにかく手続はもう始まっているのだから、そのうちに話が判るようになるだろう。(...)」(...)「君はそんな口出しが出来る身分じゃない。逮捕されているのだ。」「どんなわけがあって、逮捕されるのですか? それも、こんな無法なやり方があるでしょうか?」「また始まったね、」と見張りは云い、パンを一片、蜜の壺に浸して、「そんな質問にはお答え出来かねる。」「ぜひ、答えて頂きたい、」とK、「これが、身分証明書です。あなたがたの身分証明書、それから、拘留状を、出して下さい。」「冗談じゃないよ、」と見張りは云うのである、「往生際のわるい男だ。今、誰よりも一番君の近くにいるのは、このわれわれだろう。君はこの親友をいらいらさせるつもりらしいが、そいつはためにならないぜ。」「おとなしく、観念したらどうだ。」とフランツが云い、持っていたコーヒー茶碗を、口許まで運ぶのをやめ、いかにも意味ありげな、しかし意味のとれない視線で、Kを凝視する。こちらは、誘い込まれてフランツと視線でわたり合うのであるが、やがて書類を叩いて見せ、「これが、身分証明書です。」と云った。「うるさい!」と大男の見張りはいきなり呶鳴りつけ、「子供以上にそうぞうしい男だ。いったい、どうしろと云うのだ? 身分証明書や拘留状の話を持ち出してわれわれ見張りの者と議論すれば、それで君の厄介な訴訟が簡単に片づく、とでも思っているのか? われわれはほんの下っ端なのだ。身分証明書のことなぞわかるはずもない。毎日十時間ずつ見張りをしてその報酬を貰うのが、君との関係のすべてだ。もっとも、当局としても、このような逮捕に先立って拘留の原因なり被拘留者の人物なりを充分に調査してかかることは、改めていうまでもない。この調査に誤謬はないのだ。わしは裁判所の下の方の連中しか知らないが、この限られた知識からいっても、われわれの役所が人々から犯罪を嗅ぎ出すのではなく、逆に、法律にもあるとおり役所が犯罪に引き寄せられ、われわれ見張りを寄こさぬわけにはゆかなくなる。これが、法律だ。ここに何の誤謬がある?」「そんな法律はないでしょう。」とKは云った。「それだからますます君は困るというのだ。」「あなたがたの妄想ですよ。」とKは答え、見張りの考えのなかへ何とかして忍び込み、それを自分に有利な方向へ導くか、或いは相手に同化する気持でいたのだが、見張りは突っ放すように、「今にわかるだろう。」と云い、フランツが嘴を入れて、「おい、ヴィレム、あいつは、法律なんぞはない、自分は無罪だ、と云ってるんだぜ。」「お前の云うとおりだが、話して聞かせてもどうせ駄目だ。」ともう一方が云った。
いつの時代も秩序に従順な者は、利害の下僕と愚かなる大衆であり、彼らは社会構造に潜む不条理を受容することから始める。いや、或いはその存在にすら気づいていないのだ。よって、根幹に住まう原理への盲目さとは、沈黙と単純化の当為論によって表現される。
「ところで、この事件はいずれにしても大して重要性は持っていません。私は公訴されたが、その理由となるべき犯罪が私には全然ない、という点から私はそう推論出来る。いや犯罪の有無じゃない、問題は、誰の手によって私が公訴されたのか、ということです。手続はどこの役所が、とっているのか? あなたがたは役人なのか? どなたも制服を着ておられないようだし、その着物は」とフランツのほうへ向きなおり、「制服と申し上げたいが、どうみても旅行服です。こうした疑問に明快な解答をいただければ、それで万事解決、われわれはお互に気持よくお別れ出来るとおもいます。」主任はマッチ箱をテーブルの上に置いて、云った、「君は非常に間違った考え方をしている。君の事件に関してはこの連中も私も、全くの点景にすぎない。事件の内容など全然知りもしないのだ。規定と寸分違わぬ制服を、御注文なら着てもいいが、それでべつにどうということもなかろう。君が起訴されているか否かについても断言出来ないし、第一はじめからわれわれの関知するところではないのだ。とにかく君は逮捕された、これだけは断言出来る。見張りが何かほかに余計なおしゃべりをしたかもしれないが、それは要するに単なるおしゃべりにすぎません。御質問にも一切お答えは出来かねるが、われわれに対し、また、事件の成行について、頭を悩ますよりも、静かに君自身に思いをめぐらすよう、御忠告申し上げたい。無実の罪を着せられているという気持をあまり振りまわさぬよう、それは、君が与えたたいして悪くない印象を、かえってぶちこわすことだ。それから、なるべく言葉を慎しむのが肝要です。君がしゃべったことは、ほんの二言三言にとどめておいてもあとは君の態度だけで充分わかったのだし、とにかく、しゃべり散らしたところで格別有利に形勢が展開するわけのものでもない。」(...)「あまりむずかしくお考えになってはいけませんわ。人間はどんなことにぶつかるか、わかったものじゃありません。(...)」(...)Kが立ち上ったので、グルバハも立ち上り、Kの云ったことがよく呑み込めなかったので、少々うろたえており、そのため、「どうかそうむずかしくお考えにならないで下さい。」などと、云うつもりもなくまた云ってはまずいようなことを、云ってしまい、涙をいっぱいたたえ、むろん握手などは忘れてしまった。「べつにむずかしく考えているつもりはないのですが。」そう云ったKは俄かに疲労を覚え、こんな女に同意を求めることの無意味さを感じた。
ここに宗教としての資本主義に内在する象徴的な不和が生じる。彼らは成長が何かを答えることができないのに、成長はどのようにして起こるか、或いは成長のために何をするべきがよいかは雄弁であり、意味と無意味の非対称性が存在しているのだ。起源の合理が不在であるにも関わらず、その当意には合理が求められる。これこそ資本主義の罪そのものなのだ。
(...)「ハステラー検事は私の親友なのですが、」と云い、「電話をかけてもかまいませんか?」「よろしい、」と主任は答える、「尤も、電話をかけるという意味は私には判りかねるが、たぶん個人的に用件でもおありなのにちがいない。」「意味がわからない?」腹を立てたのではなく撲りつけられたような気持でKは大声を出た、「あなたは何者です? 意味などを求めるくせに、自分のすることはおよそ無意味の骨頂だ。それでもあなたは正気なのですか?(...)」
そしてもう一人、Kが資本の神学体系の代表的な信徒として選ぶは、「極めて御機嫌のいい時でなければ人間並なことが云えない予審判事」である。それに最も象徴的なのは第二章であり、Kが群衆に向かい、その知的雄弁さを通じ、この罪の不当性について訴え、その後その審問室から退出しようとした時、予審判事は次のように告げた。「まだ気がついていないらしいから云っておくが、君は今日、逮捕された者が訊問の際に当然享けるべき利益を、放棄したのだ。(...)」それはいわば罪を受け入れることで利益を得ることができる資本主義という構造への暗示そのものであり、その無機的な倫理的判断であるといえる。しかし、ここで重要なことは、なにも彼らには悪意というものは存在しないことだ。裁判所事務室のある少女Kに対して「(...)あたしたちは誰ひとり心のつめたい人間なんか、おりません。みんな、人助けが好きです。ただ、職掌がら突慳貪な人間にみられやすいだけなので、これは本当にたまらないことですわ。」と囁くように、彼らはこの世界でヘゲモニーを獲得した資本主義において、最も真っ当で摩擦の少ない選択肢を提示しているに過ぎないのである。そして、そのような予審判事の読む法律の書が、快楽であることは、交換という法を支える基礎に対応する。
女はエプロンで本を拭き、ぞんざいに表面の塵埃だけ落してから、渡した。積んである一番上の本を開いた。いかがわしい絵が現れた。男と女が裸でソファに腰をおろしている、作者の汚らしい意図はむき出しにわかるのだが、手法が極めて稚拙なので、とにかく男と女がいるということだけしかわからない。それがじつに肉体的な感じで絵からとび出し、しゃちこ張って坐っており、遠近法がまずいため、硬ばった身体をやっとこさで寄せ合っているといった恰好である。Kはこれ以上見るのがいやになり、二冊目の本の扉をちょっと覗いてみると、それは「グレーテが夫ハンスから受けた虐待の告白」という小説であった。「これが法律書か、」とKは云い、「こんな連中に裁いてもらうのだからね。」「あたし、応援しますわ。」と女がいった。
アダム・スミスからリオタールまで、あらゆる論者が示したようにこの資本主義において基礎として機能するのは、快楽にほかならない。したがって、法に属すものが学ぶべきは快楽の原理であり、それこそがまさに自然法なのだ。そして裁判室とは、いわば宗教としての資本主義の教会であり、罪への審判を下す聖域である。第三章、廷丁の女を追いかける過程でKは「裁判所事務室昇降口」という札を見つけ、裁判所の内部が外部同様腐敗の極に達しているという事実を確めたい要求に駆られ、廷丁の誘いのもと、裁判所事務室へと入った。そして事務室に入るや否やKの体調は不調をきたし、とある少女は次のように助言する。
娘はしかしKの態度は気分がわるいことに原因があるのだと最初に気がつき、椅子を持って来て、「お掛けになりませんか?」とすすめた。Kはすぐ腰をおろしてしまい、それだけでは不安定な感じなのでもたれに肱を掛けた、「眩暈がなさるんじゃありません?」と娘は訊ねる。Kのすぐそばにその顔があった、成熟した女のほとんどすべてが持つ強烈な表情があった、「御心配なさらなくとも。」と娘は云った、「ここではよくあることですから。初めてのかただと、大抵あなたのように気分がわるくおなりになるのです。ここは、お初めてですか? そう、それなら、あたりまえですわ。この天井は外から陽がかんかん照りつけていますから、梁が熱くなって部屋のなかがむうむうするのです。これじゃ、どんなにうまく出来ている部屋でも、事務室には向きません。部屋の空気だって、ほとんど毎日のように訴訟当事者が大勢詰めかけて来ますからまるでもう呼吸も出来ないくらい。今などはましなほうなのです。そのうえ、洗濯物を乾しに来る下宿人もたくさんあって、むやみにとがめるわけにもゆきませんし、そんなわけですから、少しぐらい気分がわるくおなりになるのもあたりまえですわ。でも、この空気はすぐ慣れて来ます。二、三度もおいでになれば、胸を押しつけるようなこの部屋もほとんど苦にならなくなりますの。(...)」
しかし先程とは反対に、Kが事務室から立ち去ろうとした時、それは逆転したのだ。
気がつくと、娘が開けてくれた出口の扉の前にいた。気力が俄かに蘇って来た感じで、即座に階段を一段降り、解放された自分を改めて味わってみたが、こちらに身体をかがめている二人に、その位置で別れを告げた、「いろいろお世話さまになりました。」と云って何度も二人の手を握り、立ち去ろうとしたとき、事務室の空気に慣れた二人は、階段から来るそれほど新鮮とは云えない空気にも耐えがたいらしく、Kに返答する力もなくなり、Kが素早く戸を締めてやらなかったら娘のほうは倒れてしまったかもしれぬ。
すなわち、ここでは聖と俗、清と汚が反転しているのであり、ベンヤミンが『宗教としての資本主義』にて、万物を経済的な秩序へと移行することで資本の神に奉仕する労働が占有する平日こそが祝日であり、休息とはむしろ平日、すなわち、聖と俗が反転したことに対応する。だからこそ「最下層の貧民に属するこのアパートの住人たちががらくたを投げ込んでおくような場所」に、裁判室が存在するのだ。
知識社会化による体系の完成
そして最後に本書における重要な罪機構における信徒とは、弁護士であるだろう。Kは叔父から紹介を受けた自称最も才覚のあるハルトルフ・フルドのことを「あまり信頼出来る人物ではない」「うさん臭いあの弁護士」と呼称しているように、全く信用を置いておらず、それであれば自らで弁護書面を出そうかと画策するほどであった。そして、Kにしてみれば弁護士の主張には「これといって計画の持ち合せ」もなく、ただただ状況をのらりくらりとかわし、詭弁と饒舌に満ちた欺瞞の言説を永遠と語る専門帝国主義の権化そのものなのだ。
なぜならば、彼は弁護のための情報が必要なはずなのに対し、全くもって情報をKから聞き出さず、「これまでにしばしば徹底的に、もしくはある程度、勝った経験がある」としながらも、肝心の証拠は「職務上の秘密である」と隠し、「最初の弁護書面はもうほとんど出来上っている」といいながらも、未だそれは届かず、また弁護書面は今後の方向を決定する重要なものとしながらも、単なる参考資料の一つとして「全然眼も通して貰えない場合」を指摘し、訊問と観察のほうが重心といってみたら、弁護書面を含めた総合的判断であると論じたり、ましてや最初の弁護書面は保存されず、紛失されるものであり、「それゆえ、最初の弁護書面を書く方針などまるで雲をつかむような工合で、まぐれ当りをねらうより仕様がない」とする。
また、「真に有効適切な弁護書面は、被告の訊問に伴って個々の公訴事実及びその理由が次第に明瞭になりもしくは推測されるに至ってようやく、作製に取掛ることが出来る」から弁護とは不利かつ困難であり、法律によって認められないとしながらも、「このことから、弁護士無用論を引き出すのは、甚だしい認識不足と云わねばならぬ」とも論ずる。そこでその所以というのは、「手続は、一般のみならず被告に対しても公開を禁ぜられており、もちろん全然禁じてしまうわけにはいかないまでも、事実上非公開に近い」ことで、「弁護士の持つ各種の個人的な縁故」から弁護の成功へと導くことができるとまで論じるのだ。そして「この方面から手を廻すことによってのみ、徐々に、しかし、確実に、訴訟の運行に対し、こちらの意志を反映させることが出来るのだ。このような縁故をもつ弁護士はきわめて少数であり、この点ではあなたは大いに有利な選択をされたわけだ。このドクトル・フルドほど顔のひろい弁護士なんてものは、おそらく一人か二人ぐらいだろう」と自らを称すのだ。ゆえに彼は次のように報告をあげる
既にお話ししたように、弁護書面はまだ提出していないが、急いではかえっていけないので、有力筋とあらかじめ会談を行うことが先決問題であり、これはもうすませてある。その結果は、正直なところ、一言では蔽い難いものがあるが、詳細にわたっては当分お話ししないほうがよかろう。そんな話を聞かされてよかったためしはなく、むやみにあなたを楽観的にさせるか、疑いぶかくさせるかがおちなのだ。ただ非常にうまく行っていると云い極めて積極的な態度を示してくれた人もあり、一方、あまり楽観出来ないという意見だがいろいろ助言は与えてくれた人もある、と、この辺で報告は勘弁してほしい。それゆえ、結果はまず上乗だが、予備会談はすべてこんな調子で始められ時日の経過とともに次第にその真骨頂を発揮するものなのであるから、最初からかるがるしく断定を下してはならない。とにかく、形勢は決して絶望的ではない。この上、例の書記長を何とかして味方に引き入れることが出来れば──そのためもういろいろ工作に取りかかっているが──外科医のいわゆる清潔な傷というやつで、充分将来に期待して差支えないわけだ。
したがってここにKとフルド、ひいてはこの世界における被告と弁護の非対称性が生じる。弁護士とは「裁判所に対してなんらかの改革を試み、実行する気持は全然ないからであり、これに反し──誠に興味ある現象なのだが──被告という被告は、どんな単純な連中でもほとんど例外なく、訴訟のそもそもの初めから、改革案などに頭を悩まし始め、時間と労力とを空費するのだ」。だからこそレェニは前章で「裁判所にはどんな人だって楯突くことは出来ません。結局、白状させられてしまうのです。だから、あなたも、この次にはきっと白状するって約束してほしいの。うまく逃げられるかどうかは、それからのことですし、それもあなた一人の力じゃとても駄目。あたしもいろいろ細工してみるつもりだけど、気をわるくしないで頂戴ね」とKに指摘するのだ。よって以下のように帰結される。
現状に甘んじること、これが最も腎明な策である。ささいな点の改革は或いは可能であるかも知れないが──いずれにせよ改革などとは愚かしい妄想にすぎず──うまく行ったところで、将来のためいくらかたしにはなるというものの、絶えず復讐の念に燃えている役人たちに眼をつけられてしまい、取返しのつかない損失をこうむるのがおちだ。眼をつけられないようにすること!ずいぶんひどいと思った時でも、おとなしくしていること!それから、この厖大な裁判組織は、いわば永久に浮遊の状態にあり、その上にいるわれわれが赤手空拳、なんらかの改革を試みたとしても、かえって自分の足場をはずして墜落するぐらいのことであり、この大きな有機体は──各部分が密接にむすびついているから──少々の妨害なら、他の場所で容易にその補償を見出し、結局、微動だにしない。のみならず、妨害を受けることによっていっそう密接に結合し、一層注意ぶかくなり、一層きびしさを増し、一層悪意に燃えはじめる。そうした場合もなきにしも非ずだ。この事情をしっかり頭に叩き込んでおくこと。とにかく、仕事は黙って弁護士に任せておくことだ。(…)訴訟はかくて、もはや助力の入り込む余地のない段階、はいることを許されない法廷がそれを取扱う段階、被告すらも弁護士の手の届かぬところへ行ってしまう段階に、到達したのだ。
前述したように形式的無罪と進行妨害とは、慈悲と延期とは、どちらもが「改革」ではなく、すなわち、罪からの解放ではない。いわば罪を基礎とする資本主義への従属こそ、弁護士のアティチュードであり、彼らこそ我々を観客化する資本主義的暴力の使いである。すなわち「弁護を弁護士に任せておく限り、訴訟にじかに触れる機会は少く、遠方から観察しているのであって、訴訟の手が直接自分のところまで届くことはほとんどなかった」。このことから、契約解除を決意し、フルドのもとへ向かったKは、まさに芸術家が教えてくれたような形式的無罪或いは進行妨害によって、五年もの期間訴訟を長引かせたブロックと相対する。しかし、先に論じたようにそれは服従であり、さらにコンヴィヴィアリティの剥奪であり、それによるさらなる従属である。
間もなくブロックは来たが、入口で立ち止ってしまい、はいっていいものかどうか考えているようだ。(...)少くとも追っ払われる心配はないとブロックは見て取り、爪先立ちではいって来る。顔面は硬直し、背に廻した両手がぶるぶる痙攣した。扉は、万一の場合の退路にと、開けたままにしておく。(...) Kは黙ってしまった。眼を据えて、この混乱した男を、眺める。僅か数分間のうちに、何という変り方であろう! 訴訟が、この男を奔命に疲れさせ、敵味方を区別する能力を失わせたのか? 弁護士は意識的に侮辱を試みているのであり、それはつまり、自分の力をKに見せつけうまくいけばKを屈服させるつもりであることが、男にはわからないのか? ブロックにはそうした洞察力がなく、或いは、洞察したところで弁護士に対する畏怖がすべての力を奪っているのかもしれないが、それではなぜ、弁護士を欺き、ひそかにほかの弁護士を依頼するほど、狡猾或いは大胆な真似をあえてするのであろう? しかも、この秘密を即座に暴露出来るKに、食ってかかるとは? そればかりではない、男は、今、ベッドのそばまでいき、ここでまたもやKに対する苦情を訴え始めたのだ。「先生、」と男は云い、「あの男の話し振りをお聞きになりましたか? まだ時間で数えるくらいしか訴訟の体験がないくせに、五年も経験のある私に向ってえらそうな口を利き、嘲弄をすら試みるのです。節度、義務、裁判所の慣習の何たるかについては、微力ながら出来る限り研鑽を重ねたこの私を、青二才が、嘲弄するのです。」「人のことなんか、どうだっていいじゃないか。君が正しいと思うことをやればいいのだ。」「おおせのとおりです、」とブロックは我とわが身を激励し、弁護士のほうをちらりと横眼で見てから、ベッドのすぐそばに跪き、「このとおり、先生、跪いています。」と云った。
いわば、弁護士とは資本主義に使える官僚であり、科学者であり、政治家であり、資本家である。すなわち、資本主義における罪とその神学的体系とは、専門職帝国主義による各人の没主体化によって完成されるのだ。先ほど論じたように、罪とはカフカの類型において、慈悲、延期、そして改革に分類される。そして自己による弁護とはまさに主体的で能動的な意志を基礎とする改革であり、この選択肢こそが、すなわち革命こそが問題なのだ。だからこそカフカが一生で触知した「秩序の恢復にはこの自分が乗り出すほかはない、そんな気がするのだ」という直感は正しかった。ここにのみ解放の糸口が残されているのだ。だからこそ弁護士とは本書を通じ、Kの最大の敵として描かれる。なぜならば、楽園回帰とは、知識社会化、或いは主知主義的合理化による専門職帝国主義によって不可能となってしまうのだ。彼らの手によって一度、ブロックの如く「遠方から観察している」客観的観客的態度へと変貌させられてしまえば、我々は自ら弁護する手立て、革命の火種を失う。ここにこそ初めてカフカの官僚主義的主題の重要性が顕現するように思うのだ。
ゆえにいつの時代も世界に横行するはあらゆるヴァリエーションの奴隷化と搾取であり、芸術家が描くように、正義の勝利とはいつの時代も狩猟へと転倒する。
>「お仕事中ですね?」「ええ、」と画家は掛けてあった上衣を取って、ベッドの手紙の上へ、投げ出した、「肖像画です。おもしろい仕事なんですが、まだ出来上っていません。」偶然とは云いながらうまくしたもので、一目で裁判官の肖像であることがわかり、裁判所の話を持ち出す絶好のきっかけになるわけだ。それはまた、弁護士の事務室にあった画とおそろしくよく似た画で、もっとも、人物は全然ちがい、漆黒のもじゃもじゃした鬚が頰の上のほうまで這いあがったでっぷりした男であり、例の画が油絵、これはパステルで軽くざっと描いたものである。が、堂々たる椅子の横のもたれを握り締め、威嚇的な態度で立ち上ろうとするポーズは、全然同じであった。「裁判官ですね。」という言葉が喉まで出かけたが、まあ待てと思い、細部を丁寧に見るような恰好で、絵のそばへ寄った。画の中央、椅子の背もたれの上方にある大きなものが、何なのか見当がつかなかったので、訊ねると、これはもう少し筆を加えなくちゃならないのです、と答え、テーブルの上からパステルを一本持って来て、その大きなものの輪郭を少しなするのであったが、まだ一向はっきりしない。やがて、「これは正義の女神なんです。」画家はそう云った。「なるほどね、」とKは云い、「繃帯で眼かくしをしている。ここに秤がある。しかし踵に羽根が生えて、飛んでいるようですね?」「ええ、注文でこんな風に描いたのですが、正義の女神と勝利の女神を一緒にしたつもりなのです。」「妙な取り合せですな。」とKは微笑し、「正義が静かにしていないと、秤が揺れるし、これじゃ正しい判決も覚束ないな。」「それはこちらが譲歩したのです。」(...)ただし正義の女神の周囲では、陰影にごく僅か明るみを持たせてあり、そのため輪郭がいやにくっきり浮び上ってくるので、正義の女神ともつかず勝利の女神でもなく、すっかり狩猟の女神になってしまった。
そして本書にはブロックともう一人、Kと同じ境遇にある存在に遭遇する。それは第三章。裁判所事務室へと入ったKはその薄暗い空間で、同じ境遇たる「仲間」、被告に出会うのだ。Kはその一人に話しかけるが、答えにどもり、被害者意識に苛まれ、軽い接触に過度な怯えをかえす。その時廷丁は次のようにいうのだ。
被告はたいていあんな風に神経質になっています。
これはドゥルーズやフロムが明らかにした症状、すなわち資本主義の神経症的問題へと接続されることだろう。慈悲と延期の先にあるのは、奴隷化と精神的な病。主体と実存の喪失にあるのだ。
総論
資本主義において我々はヨーゼフ・Kの如く、生の目覚めとともに理由もわからず、出口も明示されず、ただただ罪と返済の関係になげこまれる。そうした不条理に戸惑う我々は、いつしかグルーバッハや、フランツとヴィレム、カール、フルド、レーニ、そして予審判事や廷丁、弁護士に象徴される一神教的資本主義の敬虔な信徒に囲まれ、彼らは沈黙、単純化、服従をせがむ。しかし、彼らはなぜこの不条理な罪科に応答しなければならないかという疑問に対し、ただアプリオリなものとして盲目的に従う愚かさか、選択に左右される利害関係を論ずるかしか、その答えを持っていない。そこに正当な理由は存在し得ないのだ。
したがって、近代に基礎づけられた救済なき罪という構造的歪みに対し、疑念を抱き、反旗を翻す者は、形式的無罪(apparent acquittal)か進行妨害(deferment)、すなわち、資本主義による罪の慈悲か延期かの決断を迫られる。ティトレッリによって作中論じられるこうした罪に対するアティチュードの典型的表現とは、先進国にみられる生活保護システムであり、罪と労働の返済関係から逃れようとする者は国家という資本主義的裁判機構に、足繁く通い、許しを乞うことで、罪の免除を訴えるのだ。しかし、その情けが途切れたとき、我々は再び資本主義の返済関係へと投げこまれる。なぜなら形式的無罪としての生活保護が全面化してしまっては、資本主義の秩序が再生産されることは叶わず、ゆえに絶えず国家もその奉仕者である国民も、ひいては家族までもが形式的無罪からの脱却、すなわち生活保護の解除を主体へと要請しなければならない。したがって、これは一時的な無罪である。確かに資本主義的成長による社会保障と生活保護、そして福祉とは一見楽園的だ。罪から解放され、制約から解き放たれ、我々はその時真に自由な主体と云える。しかし、それは全くもって皮相なものにすぎない。生活保護の継続とは、二度目の無罪に続く三度目の無罪、四度目の無罪といった出来事に他ならず、この場合においても人類の背後には絶えず罪が遍在する。それは真の無罪のような抹消ではなく、資本主義による慈悲として、形式的無罪という存在が制度化されているのだ。
ゆえに、資本主義において真の意味における罪からの解放は不在であり、我々がその選択に安住し、ディストピアのうちに築きあげられた虚構的で倒錯的な楽園へと収容されることでむしろ罪の肯定と没主体化へと加担してしまう。Kが裁判室で出会う神経症を煩った被告と、弁護士の奴隷と化したブロックこそその象徴であり、資本主義のシステムにあずかり、慈悲と延期の恩恵を授かる者は、かくしてヴェールに秘匿された改革の可能性を知らぬまま、その力を失い、ただ逃避的に傍観する意志なきシニシストへと加工されてしまうのだ。
したがって、カフカの『審判』とは罪を基礎とした返済と罰、法と主体、力と利害の資本主義的構図を見事に描写した近代的主題を帯び、同時に他作品に比して、なお一つの道が残されている。もっともそれは希望というよりも、他の可能性が閉ざされた後に残る、絶望の淵に立たされた悲観的な決意にほかならない。Kは冒頭より、この無限かに思われる不条理に抗うすべを知っていた。すなわち、「秩序の恢復にはこの自分が乗り出すほかはない」、と。
1915『変身』
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/icons/学歴.icon カネッティ解釈
なぜ小さくなったのか
自分が相手よりもだんだん小さくなることによって、 強者と自分との間の距離を大きくした。この収縮によって彼は二つのものを獲得した。彼は自分が暴力にとってあまりにも微々たるものになったことによって、威嚇から消え失せ、 そして暴力に至るあらゆる忌わしい手段から彼自身を救ったわけである
たとえば、学校の教室で、目立ちたくないと思ったら、自然とうつむいて、肩をまるめ、 身体を小さくしようとするのではないだろうか。 外の世界に脅威を感じるとき、人は自然と小さくなろうとする。これによって我々は脅威の目にとまらないようにしようと試みるのだ。
小さくなることは、もちろん、脅威に対して、より弱くなってしまうことでもある。しかし、同時に自分自身が誰かの脅威になってしまうこともなくなるのかもしれない。
1918/1/5 日記
わたしは、いずれにしてもすでに重く垂れ下がっているキリスト教の手によって、キルケゴールのようには生に導かれはしなかったし、ひらひらと逃れてゆくユダヤの祈薦マントの裳裾の端に、シオニストのようにやっとのことで取りすがったりはしなかった。わたしは終末である、さもなければ発端である。
1917『学会への報告』
カフカは『流刑地にて』を『審判』および『変身』とともに『処罰』というタイトルで一巻にまとめて出版する意図を持っていた(プラハ・カフカ博物館にて)。
1919『流刑地にて』
1926『城』
土地測量士の意図
土地測量師の土地(Land)には、陸、陸地、土地、区画、州、国などの他に、界、領域、分野という意味がある。