フロイト
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耳の聞こえない女性:
耳の異常ではなく心理的な問題が身体に作用している
それは夫の浮気からであったがなんら気にしていない様子
この心理的な問題が身体的な症状に転換していることを「転換ヒステリー」と呼ぶ このヒステリーの原因を「心的外傷」。それに伴う情動を意識の外に追いやることを「抑圧」と名づける。つまりは抑圧されてる外傷体験を意識化することが核である。(無意識の意識化) 1903年に彼は、ホメーロスに比べ、ウェルギリウスのほうがより心理学者らしいことをしていると主張する
ex)詩人は、「天上の神々の心にこれほどの怒りが宿るのか?」(tantaene animis caelestibus irae?) と述べており、これは心理学的である。
考古学的解釈
考古学をメタサイコロジーとを、隠されたものを解明する観点において類比的に捉えるという欲望充足なのではないか。
トロイアーの遺跡を発掘した、かのシュリーマンをフロイトは敬愛していてよく上記引用をしていた。
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概論
夢とは
われわれ自身の心の所産であり、夢は思考を幻覚によって表現する。
オットーへの復讐・イルマの従順さ・鼻甲介状のかさぶた(コカインの害)
フロイトは過去、鼻粘膜の局所麻酔剤としてコカインを使い親友を殺めてしまったことがある
母親を手に入れようと思い、また父親に対して強い対抗心を抱くという、幼児期においておこる現実の状況に対するアンビバレントな心理の抑圧のことをいう。
父を殺し母の傍にあって亡き父の地位を占めている伯父は、幼児時代の抑圧された願望を実現しているのだと指摘する。なおこの作品はシェークスピアの父の死後まもなく書かれたという。
クローディアスは、ハムレット自身の抑圧された幼年期欲望を体現しているからである。それゆえ、復讐へと彼を駆り立てるはずの忌み嫌う気持ちは、彼の中で、自己非難ないし良心の呵責によって代替されてしまう。そしてこの良心の呵責は彼に向かって、本当のところは彼自身が、罰せられるべき罪人よりもましな者ではないのだ、ということを突きつけてくる。ハムレットの心の中では無意識に留まっていたに違いないものを私が意識に翻訳すればそのようになる。 夢の中での記憶はこれまでの覚醒時の生活から生成される。
覚醒時に思い出されない材料の源の一つは幼年時代の生活・覚醒時に1回しか起こらなかった・辻褄が合わず混乱している等
覚醒時の道徳的性向に反する夢のこと。覚醒時に抑止していたあるものからなり、夢の中でこそがありのままの姿。
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夢判断の手法論
一つのまとまった全体としての夢ではなくて,夢内容の個々部分だけを注意力の対象にすると背後の考えが見えてくる(歪曲されているからであり、帰納法的に通有性を導出する感じ??) /icons/白.icon
夢工程
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圧縮: 夢思想の複雑的で膨大な材料をアグリゲーションする 移動: 多面的被制約性の元に、明らかに価値の低い別の要素が夢内容に現れる場合が珍しくなく、心的価値の高い要素からエネルギーを剥奪して価値の低い新しい価値ある要素に作りかえる ex)上司を憎んでいて、同じ思いを抱いた同僚と仲の良い人の夢。夢のなかで、上司を非難する計画を同僚と立てるが、思いもかけずその同僚と大喧嘩となり、最後に上司が現われて喧嘩の仲裁をとる(引用) 第二次加工: 夢作業によるアトミックな加工物を接続させ、調和のとれた夢内容に変換する https://scrapbox.io/files/647db9812a46d9001b260f07.jpeg
覚醒時の心的過程はMの方向に前進的に移動するのに対して、夢をつくる興奮はWへ向かうので、夢は退行的性格をもつ。夢の中で表象(観念)が、それがかつて出てきたところの感性的形象へ逆戻りすることが退行である。 /icons/白.icon
子供の遊びと詩人の創作活動という対応関係
大人は遊びのオルタナティブとして空想をする
個々の空想は、いずれも欲望成就であり、満足をもたらしてくれない現実を修正しようとするものである。この原動力としての欲望は、空想している人の性別や性格や生活状況によってまちまちであるが、大きく見れば二つの主要な方向にグループ分けできる。つまり、人となりを格上げする功名的欲望か、もうひとつ、性愛的欲望のどちらかということである。
神経症患者からフロイトによる精神分析という特殊な場で引き出したものであり、普通は公にされることはなく個々人の心のうちにとどめられる。
詩人は、変更や隠ぺいを通して利己的な白昼夢の性格をやわらげる。さらに、自らの空想を叙述するなかで純粋に形式的なすなわち美的な快をもたらすことによって我々を魅了する。
超自我的な無意識的な歪曲ではなく、能動的な歪曲?? /icons/白.icon
フロイトは、ドイツ語の遊び(Spiel)という語が、「劇」という意味も持っているこ
とを生かして、子供の遊びの中に、劇や芸術につながる創造性の発露を見て取ってい
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無意識の人類学への導入
主題
人間はその文化的経験を一定の社会組織下で始める。その組織体とは一人の家父長が彼の姉妹と娘に独占的な性の特権を持っている形(原初的ホルド)。ある時性を奪われていた息子たちが父殺しを計画し殺し食べてしまった(オイディプス・コンプレックス)。が、彼らは罪の意識に敗け、それ以後彼らの母、姉妹、娘と性関係を持ちたいという欲望(インセスト禁忌)を抑えてしまう。そしてその女たちを別の集団(外婚制)にやってしまう。同時に殺人と食人の罪滅しに彼らは動物を父のシンボルとし(トーテム)、そのトーテムの神話をつくり、トーテム動物を食用とすることを、儀礼時を除いて禁じた(カニバリズム)。こうして原初の父殺しは”その集団の無意識”(ユングの集合的無意識??)の中に記憶として伝えられた。 彼らは父の代理であるトーテムの屠殺を許されざることとして、自らの行為が再びなされないようにし、自由になった女たちをあきらめることによって、果実を断念する。
今や彼らは食すという行為において原父と同一化を成し遂げ、彼の強さをわがものにした。
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父は本島において親族でも生物学的関係を持つものでもない
俗的な父の役割は母の兄妹が持つ
夫方居住婚であるからして家や土地に愛情を持たない
異形のコンプレックス
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彼らは自分たちが兄弟であることに気づき、誰も分離されることを望むまいと思うでしょう。~彼らはみんなで一致団結して、誰も愛しい母親には接触をするまいと決意します。~このようにトーテムとタブーが今や、ソポクレスの出典と関係がなくなってしまっているのですが、いままで誰もこの奇妙さに驚いてはいないようです。 すべての幼児が心の内で父親を殺し、母親をめとりたいという願望を抱いているというものが、父親殺しのあとに、近親相姦の断念という従来の筋書きとは逆の展闇が記されていることを指している。
『オイディプス王』においては単なる「アポロンの神託による運命」というメタファーからオイディプスが真理に直面し自らの眼球を抉り出すというメタファーのアクセントの移動であり、典型的事件においては「父への憎しみ」の対になるものが「母への愛」から「父への罪責感」へと移動したということである。 /icons/白.icon
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生ける原父は「お手本」と表現されていることからもわかるように、息子における自我理想の機能を備えている。 ただこれだけだとナルシシズムな存在に過ぎず、禁ずる法として作動しない
喰人の弁証法によって現父は兄弟たちに体内化されて、統治者として社会組織、道徳的禁制、そして宗教の端緒として機能するようになる。つまり超自我的 プラトンは肉体は魂の牢獄であるといったが、我々の文化の基礎には、原始時代の兄弟たちによって殺害されたいわば「不在の存在としての父」が潜んでいるということができるだろう。 父への罪責感がトーテムという切り口から法の象徴化をなし得たともいえるのではないか?? /icons/白.icon
悲哀=喪
悲哀は愛する人、または祖国、自由、理想等々といった、愛する人が抽象化された概念の喪失の際にいつも起こる反応である。似たような作用の下で、病的な気質が疑われる多くの人々においてはメランコリーが起こる。ーの心的に目立つ特徴は、深刻な苦痛に貫かれた不機嫌、外界への関心の破棄、愛する能力の喪失、あらゆる仕事の抑制、そして自己感情の低下であり、これは自責や自己罵倒の形をとって現われ、妄想的に処罰を求めるまでになるほどである。我々が、悲哀が自己感情の低下を除いて同じ一連の症状を示すことを確認すると、イメージがつかみやすくなる
つまり悲哀とメランコリーは愛する対象の喪失という同一の契機に発生する
table:マトリクス
悲哀 メランコリー
自責や自己罵倒 ✕ ◯
喪失意識 ◯ ✕
患者は誰、を失ったかはわかっていても、それについて何、を失ったかは知らないのである。~~このようにメランコリーは意識から逃れた対象喪失と何らかの方法で関連付けられているが、何を失ったかについて意識的な悲哀とは区別されるということがわかるだろう。
自責や自己罵倒のロジック
メランコリー患者の様々な自己告訴を辛抱強く聞いていると、その中でも最も強いものが、患者自身に当てはまることはほとんどなく、些細な変更はあるにしても、その告訴は患者が愛している、あるいは愛していた、愛していたはずの他者に合致するという印象がぬぐえない。~~メランコリー患者には対象選択とある特定の人物へのリビドーの固着が存在した。その愛する人から実際に侮辱を受けたり、失望させられたりすると対象との関係に揺らぎが生じる。その結果は、リビードを対象から取り去り、新たな対象に移動させるという普通のものではなく、成立により多くの条件を必要とするように思える別のものである。対象備給はあまり困難なく放棄されることがわかっているが、自由になったリビードは別の対象に向かうのではなく、自我に引き戻されるのである。そこにおいてリビードは自由に使われるのではなく、断念された対象と自我との同一化を創り出すことに従事する。対象の影が自我に落ちて、ある特別な審級が自我を見捨てられた対象そのものと判断する。このような方法で対象喪失は自我の喪失となり、自我と愛する人との葛藤は、自己批判と同一化によって変貌した自我との間の内部分裂へと陥るのである。 /icons/白.icon
対象喪失による悲哀が続く限り、その人の外界への関心は失われ〜知的には愛する対象がもはや存在しないことはわかっているのに、それでそのリビドー向きを変えようとしない。〜対象に固執する〜みたさえれぬフラストレーションの苦痛である喪の仕事が完了した後では、自我は再び自由になって現実に戻る。 /icons/白.icon
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メランコリーとはそもそも所有できない対象を、その喪失の予感から、喪失した対象として所有する空想力である(病跡学的解釈)
メランコリーは対象喪失に先立つが、その喪失の予感ゆえに悲哀を味わうというパラドクスをはらんでいるといわなければならないだろう。~メランコリーとは、愛の対象の喪失に対する退行的な反動というよりも所有できない対象を喪失した対象として示そうとする想像的な能力のことである
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メランコリー者は、そもそも対象を所有できる可能性などなかったのに、そこで詩人のごとく想像力を働かせて、所有できない対象を喪失した対象であるという風に自分にとって好ましいように考えて世界の秩序を配置換えしているということが言える。
快感原則がはばまれるまず第一の場合は、通常の場合として、われわれになじみ深いものである。われわれの知るところでは、快感原則は心的装置の一次的な働き方にふさわしいものであるが、外界の重圧のもとにおかれた有機体が自己をまもるさいには、最初から無用であり、そのうえはなはだ危険である。自我の保存本能の影響をうけて、現実原則がそれに交代する。現実原則は、最後まで快感を獲得する意図を放棄することはないけれども、満足を延期し、満足のさまざまな可能性を断念し、長い迂路をへて快感に達する途中の不快を一時感受することを、うながし強いるのである。快感原則は、そのときにもなお、長期にわたって、ひとしお「教育しにくい」性的衝動の働き方になっている。そして、快感原則は、これらの性的衝動によって働くにせよ、再三再四、実原則を圧倒して有機体全体に損害をおよぼすことになるのである。 人間の心は、衝動的な欲動の貯蔵庫としてのエス、道徳や法を担う倫理的な超自我、そして外界・エス・超自我の三者に仕えて(現実検討力や欲求不満耐性等を用いて)バランスをとる自我に三分されると定式化した 自我理想: 自我理想とは、人が幼児期にナルシシズム的な完全性を夢見ている段階で主体を支配する心的審級 自我理想の見地から、ナルシシズム的な満足の充足を監視し、この立場から現実の自己をたゆまず観察し、理想に合わせるような役割を果たす特別な心的な審級が発見されたとしても、意外なことではない。しかしこうした審級が存在するとしても、それを発見するのは不可能であろう。われわれに可能なのは、そのように審級の存在を認識することだけである。そして良心と呼ばれるものは、このような特性を満たすものだということができよう。
良心の生成過程
良心が番人の役割を果たすこの自我理想は、両親の批判の影響によって形成されたものであり、この批判が声として伝えられるのである。そしてその後の時期には、教育者、教師の影響と、周因にいる漠然とした無数の人々の影響が加わって形成される(同胞や世論など)。
宗教は人類が父とのエディプス的関係を克服しそこなったために生まれた荒唐無稽なものであると考え、理性の力でもって将来的に信仰されなくなっていくことを望んでいる
人類の共同生活は、外部からの苦難によって生まれた労働への強制と、愛の力-男性の側からいえば性欲の対象である女性を、そして、女性の側からいえば自分の分身である子供を、手許にとどめておこうとする愛の力-という二重の楔によって生まれたのだ。すなわち、エロスとアナンケは、人間文化の生みの親ともなったのだ。 /icons/白.icon
正義について
最後に重要な文化の特性として我々が尊重しなければならないものは、どのような方法で人間相互の関係つまり社会的関係が、隣人、援助者、性的な対象、家族や国家の構成員として規定されているかということである。~人間が共同で生活することは、多数者がまとまり、それがどの個人よりも強くなり、しかもどの個人に対しても団結して、初めて可能になる。「むき出しの暴力」と非難される個人の力に対して共同体の力は「法」として対立するのである。~つまり喫緊の文化的な要求は正義である。正義とは、一度確立された法の秩序が、個人の利益のために二度と脅かされないことを保証することである。~文化が発展すると個人の自由は制限を受け、正義はすべての者にその制限を課すのである。
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しかし、人間はあくまで個人としての自山を求め続けるものだとフロイトは指摘する。そして人類の争いの多くはこの個人的な要求(自我)と文化的な集団の要求(超自我)、つまり「法」との対立によって生まれる。 私たちは人間の罪責感はオイディプスコンプレックスから生じ、兄弟同盟によって父が殺害されたことを通して獲得されたものだという仮説を捨てることができない。~しかし、人間の罪責感を原父殺害に求めるとすると、これは「後海」の事例だ。そのとき、行為の前に良心や罪責感の前提を見つけられるだろうか。この場合、後海はどこから来たのか。~この後海は父に対する原初的な感情のアンビヴァレンツの結果だ。息子たちは父を憎むと同時に愛してもいたのだ。攻撃によってこの憎しみが満足されると、行為に対する後悔の中に愛が出現し、父との同一化によって超自我が確立される。
厳しい超自我の要求と、個人の利益を代表する自我の間の惹藤である。フロイトにとって、この無意識の葛藤から生じる無意識の罪責感が「文化の中の居心地悪さ」の原因である。総じていえば、我々が文化の中で感じる居心地悪さの背後には後期オイディプス・コンプレックスに基づく超自我と自我の葛藤があるのだ。 (1)トーテミズムとして宗教的な現象が出現~多神教が登場するまでの時期
典型的事件の次の段階に至って、動物に代わって人間の顔をした神が誕生することになる。フロイトは父親を殺害した後に力を握るのは女性だと考え、ここに母権制の社会が生まれると主張している。そのため強力な母性神の時代が訪れると想定する。その後、家父長制の時代が訪れるとともに神々は男性となるが、この段階ではまだ諸神が併存している。 男性の神々は、最初は偉大な母親の傍らに控える息子たちとして登場し、のちになってからやっと、父親としての姿を明確に示すようになるのである。多神教のこれらの男性の神々は、家父長時代の影響を映し出したものである。多数の男性の神々が存在し、互いにほかの神々に制約を加え合いながら、ときには上位にある優位の神に服従するのである。ところで次の一歩を進めると、私が取り上げてきた主題、すなわち一人で、唯一で、絶対的に支配する父となる神が再来するのである。
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(2) ユダヤ教において一神教が登場し、これを継承したキリスト教が登場した時期
フロイトはモーセという男を紀元前 世紀ごろに生きたファラオであるイクナートンの時代のエジプト人と断定し、その時代においてのみエジプトで栄えた一神教であるアートン教の理念をユダヤの民に授けたとしている。 聖書の記述が放置してしまった、あるいは聖書の記述が作り出してしまったこの暗闇の中から、今日の歴史研究は二つの事実を取り出すことができた。一つは、 ゼリンによって見出されたものだが、聖書そのものがはっきりと記述しているように立法者として指噂者たるモーセに対して頑迷で反抗的であったユダヤ人たちが、ある日謀反を起こしてモーセを打ち殺し、まさしくかつてエジプト人がしたように、強制的に与えられたアートン教を捨て去ってしまったという事実である。もう一つは、 マイヤーによって示されたもので、エジプトから帰還してきたユダヤ人たちが後年になってパレスチナとシナイ半島とアラビアの間にある地域で別の近縁の諸部族と合流し、豊かな水に恵まれたカデシュの地で、アラビアのミディアン人の影響のもと、新たな宗教、火の神ヤハウェ崇拝を受け入れたことである。 /icons/白.icon
(3) 中世から現代にかけてユダヤ人の迫害が続き、反ユダヤ主義が猛威を振るう時期