フロイト
エピグラフ
魂の治療としての言葉
プシューケーはギリシア語で、ドイツ語に訳せば魂ゼーレということになる。したがって、プシューケーの治療とは魂の治療を意味する。というと、精神生活における病的諸現象の治療のことであろうと早合点されそうである。ここでは、この言葉をそういう意味で使っているのではない。プシューケーの治療とはむしろ魂からの治療、つまり、心身の障害を治療するに当って、何はさておき、まず、しかもじかに人間の精神的なものに作用を及ぼすような手段を用いる治療を指して言っているのである。 そこでフロイトは魂の治療は如何にして可能と考えるか。
そういう手段としては、とりわけ言葉を用いる。言葉は、魂を治療するための本質的な工具でもあるのだ。しかし心身の病的な諸障害を、医師の「単なる」言葉によって除去しようとするとは言っても専門外の方にはなかなかわかっていただけそうにない。魔術をじろと言うのか、と言われるかもしれない。いや、そう言われても、あながち間違いとは言い切れないのだ。われわれが毎日話している言葉は、他褪せてはいるか魔法であることにかわりはないからだ。しかし言葉に昔の魔力のせめて一部だけでも取り返してやろうと、科学がどんなに尽力しているかを理解していただくためには、少々回り道をする必要があるだろう。
科学的に訓練された医師たちにしても、魂の治療の価値を重んじることを学んだのは、ほんの最近のことである。これは、ここ半世紀の医学の発展を見れば、容易に推し測られる。医学はいわゆる自然哲学に隷属してほとんど不毛の時代が続いたあと、やがて自然科学の影響を幸運にも受けて、科学としても技術としても長足の進歩を遂げた。(...)しかしこれらの進歩や発見は、すべて人間の肉体的なものにかかわるものばかりであった。だから、正しくはないが理解し易い一定の判断傾向ができ上ってしまうと、いきおい医師たちが自分たちの関心を専ら身体的なものに限定してしまい、精神的なものにかかわる仕事は、ややもすると、自分たちが軽蔑する哲学者に譲り渡してしまうようになった。
さて、医師は昔から、古い時代には今日よりもずっと頻繁に魂の治療を行なってきた。今かりにこの魂の治療という言葉を、治療に最適な精神状態と諸条件とを患者に喚起してあげる努力の意味に理解するならば、この種の医療行為は歴史的には最古のものである。古代民族が操り得た治療行為は、ほとんど専ら心の治療であった。たとえ霊液を飲ませ外科的処置を施した場合でも、その効果を持続させるために徹底した精神療法を併用することを怠らなかった。古代人が呪文や斎戒汰浴を用いたり、神域内で眠ることによって神託夢を得ようとしたことなどはよく知られているが、これらは、その人の魂に働きかけたからこそ治療効果を持ったのかもしれない。医師の役割を果した人物はかつて大いなる声望を得たものであったが、医術がそのそもそもの初めにおいては神官の手に委ねられていたために、その声望は神的な能力に直接由来するものとされた。こうして当時医師の人格は、今日と同じように、治癒に都合のよい精神状態を患者につくり出すための主要条件のひとつであった。われわれは今、言葉の「魔法」をも理解しかけているのだ。言葉とは、一方の人間がもうひとりの人間に影響を及ぼそうとする時の、最も重要な媒介者ではないか。すると言葉は、それを向けられた人に精神的変化を惹き起こすための有効な手段ということになる。だから、言葉の魔力は病的諸現象、とくに精神状態そのものに原因のある病気を克服することができると主張しても、もはや何の不思議もない。
子供の遊びと詩人の創作活動という対応関係
大人は遊びのオルタナティブとして空想をする
個々の空想は、いずれも欲望成就であり、満足をもたらしてくれない現実を修正しようとするものである。(...)詩人は、変更や隠ぺいを通して利己的な白昼夢の性格をやわらげる。さらに、自らの空想を叙述するなかで純粋に形式的なすなわち美的な快をもたらすことによって我々を魅了する。
主題
人間はその文化的経験を一定の社会組織下で始める。その組織体とは一人の家父長が彼の姉妹と娘に独占的な性の特権を持っている形(原初的ホルド)。ある時性を奪われていた息子たちが父殺しを計画し殺し食べてしまった(オイディプス・コンプレックス)。が、彼らは罪の意識に敗け、それ以後彼らの母、姉妹、娘と性関係を持ちたいという欲望(インセスト禁忌)を抑えてしまう。そしてその女たちを別の集団(外婚制)にやってしまう。同時に殺人と食人の罪滅しに彼らは動物を父のシンボルとし(トーテム)、そのトーテムの神話をつくり、トーテム動物を食用とすることを、儀礼時を除いて禁じた(カニバリズム)。こうして原初の父殺しは”その集団の無意識”の中に記憶として伝えられた。 彼らは父の代理であるトーテムの屠殺を許されざることとして、自らの行為が再びなされないようにし、自由になった女たちをあきらめることによって、果実を断念する。(...)今や彼らは食すという行為において原父と同一化を成し遂げ、彼の強さをわがものにした。
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オイディプス・コンプレックス批判
トロブリアント島では母系社会であり、父は本島において親族でも生物学的関係を持つものでもない。俗的な父の役割は母の兄妹が持ち、夫方居住婚であるからして家や土地に愛情を持たない。
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彼らは自分たちが兄弟であることに気づき、誰も分離されることを望むまいと思うでしょう。~彼らはみんなで一致団結して、誰も愛しい母親には接触をするまいと決意します。~このようにトーテムとタブーが今や、ソポクレスの出典と関係がなくなってしまっているのですが、いままで誰もこの奇妙さに驚いてはいないようです。 すべての幼児が心の内で父親を殺し、母親をめとりたいという願望を抱いているというものが、父親殺しのあとに、近親相姦の断念という従来の筋書きとは逆の展闇が記されていることを指している。
『オイディプス王』においては単なる「アポロンの神託による運命」というメタファーからオイディプスが真理に直面し自らの眼球を抉り出すというメタファーのアクセントの移動であり、典型的事件においては「父への憎しみ」の対になるものが「母への愛」から「父への罪責感」へと移動したということである。 /icons/白.icon
悲哀=喪
悲哀は愛する人、または祖国、自由、理想等々といった、愛する人が抽象化された概念の喪失の際にいつも起こる反応である。似たような作用の下で、病的な気質が疑われる多くの人々においてはメランコリーが起こる。ーの心的に目立つ特徴は、深刻な苦痛に貫かれた不機嫌、外界への関心の破棄、愛する能力の喪失、あらゆる仕事の抑制、そして自己感情の低下であり、これは自責や自己罵倒の形をとって現われ、妄想的に処罰を求めるまでになるほどである。我々が、悲哀が自己感情の低下を除いて同じ一連の症状を示すことを確認すると、イメージがつかみやすくなる
つまり悲哀とメランコリーは愛する対象の喪失という同一の契機に発生する
table:マトリクス
悲哀 メランコリー
自責や自己罵倒 ✕ ◯
喪失意識 ◯ ✕
患者は誰、を失ったかはわかっていても、それについて何、を失ったかは知らないのである。~~このようにメランコリーは意識から逃れた対象喪失と何らかの方法で関連付けられているが、何を失ったかについて意識的な悲哀とは区別されるということがわかるだろう。
自責や自己罵倒のロジック
メランコリー患者の様々な自己告訴を辛抱強く聞いていると、その中でも最も強いものが、患者自身に当てはまることはほとんどなく、些細な変更はあるにしても、その告訴は患者が愛している、あるいは愛していた、愛していたはずの他者に合致するという印象がぬぐえない。~~メランコリー患者には対象選択とある特定の人物へのリビドーの固着が存在した。その愛する人から実際に侮辱を受けたり、失望させられたりすると対象との関係に揺らぎが生じる。その結果は、リビードを対象から取り去り、新たな対象に移動させるという普通のものではなく、成立により多くの条件を必要とするように思える別のものである。対象備給はあまり困難なく放棄されることがわかっているが、自由になったリビードは別の対象に向かうのではなく、自我に引き戻されるのである。そこにおいてリビードは自由に使われるのではなく、断念された対象と自我との同一化を創り出すことに従事する。対象の影が自我に落ちて、ある特別な審級が自我を見捨てられた対象そのものと判断する。このような方法で対象喪失は自我の喪失となり、自我と愛する人との葛藤は、自己批判と同一化によって変貌した自我との間の内部分裂へと陥るのである。 /icons/白.icon
対象喪失による悲哀が続く限り、その人の外界への関心は失われ〜知的には愛する対象がもはや存在しないことはわかっているのに、それでそのリビドー向きを変えようとしない。〜対象に固執する〜みたさえれぬフラストレーションの苦痛である喪の仕事が完了した後では、自我は再び自由になって現実に戻る。 /icons/白.icon
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メランコリーとはそもそも所有できない対象を、その喪失の予感から、喪失した対象として所有する空想力である(病跡学的解釈)
メランコリーは対象喪失に先立つが、その喪失の予感ゆえに悲哀を味わうというパラドクスをはらんでいるといわなければならないだろう。~メランコリーとは、愛の対象の喪失に対する退行的な反動というよりも所有できない対象を喪失した対象として示そうとする想像的な能力のことである
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メランコリー者は、そもそも対象を所有できる可能性などなかったのに、そこで詩人のごとく想像力を働かせて、所有できない対象を喪失した対象であるという風に自分にとって好ましいように考えて世界の秩序を配置換えしているということが言える。
快感原則がはばまれるまず第一の場合は、通常の場合として、われわれになじみ深いものである。われわれの知るところでは、快感原則は心的装置の一次的な働き方にふさわしいものであるが、外界の重圧のもとにおかれた有機体が自己をまもるさいには、最初から無用であり、そのうえはなはだ危険である。自我の保存本能の影響をうけて、現実原則がそれに交代する。現実原則は、最後まで快感を獲得する意図を放棄することはないけれども、満足を延期し、満足のさまざまな可能性を断念し、長い迂路をへて快感に達する途中の不快を一時感受することを、うながし強いるのである。快感原則は、そのときにもなお、長期にわたって、ひとしお「教育しにくい」性的衝動の働き方になっている。そして、快感原則は、これらの性的衝動によって働くにせよ、再三再四、実原則を圧倒して有機体全体に損害をおよぼすことになるのである。
死の欲動
生命のあるものがかつていったん放棄したものの、あらゆる進化発展の迂路を経ながら帰り着こうとする昔の状態、生命の出発点である状態でなければならない。生命あるものはすべて内的根拠に従って死に、無機的なものへと帰ってゆくということを、例外なき経験として仮定することが許されるなら、われわれは次のようにしか言いようがない。すなわち、あらゆる生命の目標は死であり、翻って言うなら、無生命が生命あるものより先に存在していたのだ、と。
宗教的要請の起源
それはフロイトによれば、第一に自らへ降りかかる苦難を耐えうるが為の安らぎであり、第二に混沌なる人間世界に正義という秩序化を施す社会的調和であり、第三に時空間的な延伸による欲望成就にあると云う。
ゆえにフロイトは「伝統とか、人々のあいだの調和とか、慰めになる内容とか、じつに豊かなものが、宗教には含まれている」としたうえで次のことこそが本質的であるとする。それすなわち人間存在の悲劇とそれに応ず救済である。
批評家たちはときに、宇宙と比較すると人間がいかに小さく、無力な存在であるかを実感した感情をあらわにする人々を「深く宗教的な人」と呼ぶことがある。しかし実はこうした無力さの感情は、宗教性の本質ではない。宗教性の本質となるのはこの感情の次の段階、すなわちこの感情に反応し、これに抗って救いを求める気持ちなのである。
こうしてフロイトは宗教の有用性を認めたうえで、真実として誤用することを徹底的に拒む。
宗教的な教義は全体として幻想であり、証明できないものである。だからいかなる人も、こうした教義を真理とみなすことを求められたり、これを信じることを強制されたりすべきではないのである。こうした教義のうちにはあまりに真理とかけ離れていて、わたしたちが現実の世界で苦労しながら経験するものときわめて矛盾するので、心理学的な差異を適切な形で考慮するならば、妄想と呼んでもよいものがある。これらの多くが幻想として、現実にどのような価値があるかは、判断できない。こうした幻想は証明できないものであると同時に、反駁することも困難である。この種の幻想を批判的な観点から詳細に検討するには、まだ十分な知識がえられていないのである。 現代の科学的な研究によって、宇宙の謎はそのヴェールを脱ぎ始めたが、解明されるまでにはまだ長い時間が必要である。科学はまだ多くの問いに、答えを示すことができないでいる。それでも外部の現実についての知識を獲得するための唯一の方法は、科学的な研究を進めることなのだ。直観や瞑想などに期待するのは、一つの幻想にすぎない。直観や瞑想は、わたしたちの精神生活を解明するためのきわめて難解な〈鍵〉を与えてくれるだけなのだ。この作業は、宗教なら簡単に答えを示すことができるさまざまな問いにたいしては、いかなる回答も示してくれないのである。 しかし問いに答えられないからといって、そこに恣意的な解釈を紛れ込ませ、宗教の体系のさまざまな部分について、個人的な憶測に基づいて説明しようとするのは、冒瀆というものだろう。そのようなことで解決するには、この問題はあまりに重要なのだ。あまりに聖なるものだと言いたいくらいである。ここで次のような異議に直面するかもしれない。どんな頑固な懐疑論者でも、理性によっては宗教の教義に反論できないのだとしたら、そもそもそれを信じてはならないという理由があるのだろうか。伝統とか、人々のあいだの調和とか、慰めになる内容とか、じつに豊かなものが、宗教には含まれているではないか。これを信じておけばよいではないかというわけだ。 たしかに誰も宗教を信じることを強制されるべきでないのと同じように、誰も宗教を信じないように強制されるべきではない。しかしこのような理屈をつけて、自分が正しい思考の道を歩んでいると思い込むのは、自己欺瞞というものである。この理屈にはまさに「怠惰な理由」という批判があてはまるのだ。
1928/11/25 フィスターへの手紙
私訳
『素人分析の問題』と『幻想の未来』の間の秘密の絆を、あなたは察知したでしょうか。前者では、私は分析を医師から、後者では司祭から守りたいのです。私は、まだ存在しない、医師である必要も司祭である必要もない、weltlichen Seelsorgern 〔≒世俗司祭或いは世俗的な魂の治療者〕という立場に、それを引き継ぎたいのです。」 人類の共同生活は、外部からの苦難によって生まれた労働への強制と、愛の力-男性の側からいえば性欲の対象である女性を、そして、女性の側からいえば自分の分身である子供を、手許にとどめておこうとする愛の力-という二重の楔によって生まれたのだ。すなわち、エロスとアナンケは、人間文化の生みの親ともなったのだ。 /icons/白.icon
正義について
最後に重要な文化の特性として我々が尊重しなければならないものは、どのような方法で人間相互の関係つまり社会的関係が、隣人、援助者、性的な対象、家族や国家の構成員として規定されているかということである。~人間が共同で生活することは、多数者がまとまり、それがどの個人よりも強くなり、しかもどの個人に対しても団結して、初めて可能になる。「むき出しの暴力」と非難される個人の力に対して共同体の力は「法」として対立するのである。~つまり喫緊の文化的な要求は正義である。正義とは、一度確立された法の秩序が、個人の利益のために二度と脅かされないことを保証することである。~文化が発展すると個人の自由は制限を受け、正義はすべての者にその制限を課すのである。
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しかし、人間はあくまで個人としての自山を求め続けるものだとフロイトは指摘する。そして人類の争いの多くはこの個人的な要求(自我)と文化的な集団の要求(超自我)、つまり「法」との対立によって生まれる。 私たちは人間の罪責感はオイディプスコンプレックスから生じ、兄弟同盟によって父が殺害されたことを通して獲得されたものだという仮説を捨てることができない。~しかし、人間の罪責感を原父殺害に求めるとすると、これは「後海」の事例だ。そのとき、行為の前に良心や罪責感の前提を見つけられるだろうか。この場合、後海はどこから来たのか。~この後海は父に対する原初的な感情のアンビヴァレンツの結果だ。息子たちは父を憎むと同時に愛してもいたのだ。攻撃によってこの憎しみが満足されると、行為に対する後悔の中に愛が出現し、父との同一化によって超自我が確立される。
厳しい超自我の要求と、個人の利益を代表する自我の間の惹藤である。フロイトにとって、この無意識の葛藤から生じる無意識の罪責感が「文化の中の居心地悪さ」の原因である。総じていえば、我々が文化の中で感じる居心地悪さの背後には後期オイディプス・コンプレックスに基づく超自我と自我の葛藤があるのだ。 暴力について
アインシュタインは権利レヒトと権力マハトという概念を用いたが、フロイトは権力を「暴力ゲヴァルト」という語に置き換え、分析を試みる。そしてこの権利と暴力という二項こそが「戦争という問題の解決策」への一助となると論じるのだ。 現代のわたしたちは、暴力と権利は対立する概念だと考えています。しかし実際にはこの二つはたがいにそれぞれが結びついて発達してきたのです。これはすぐに証明できることです。そこで原初の時代に戻って、どのような状況から暴力が発生してきたかを調べてみれば、戦争という問題の解決策も、すぐにみいだすことができるのではないでしょうか。
そこで論じられる「暴力」の発生とは、人間間に生じる「利害の対立」と「意見の対立」である。これは大変興味深い。なぜならば、まさにこれを調停する文明的な非暴力的道具こそが、貨幣(資本主義)と投票(民主主義)であるだろう。アイン・ランドが銃かお金か、と問うたことで資本主義を肯定した論理はここに帰結されるだろうし、シャンタル・ムフが、民主主義は敵対性を「対抗者」という概念に非暴力化したと論じていることは、その証明である。しかし、その意味で暴力とは非常に効率的だ。なぜならこの両者どちらもが、暴力によって解決するのだ。 そして利害を動物的な対立とし、意見を人間的な対立と論じることも重要である。いわばこれは、人間は主に欲望と理念(イデオロギー)において、対立を深めるという種の議論であり、この発露として、すなわち欲望の非暴力的充足として資本主義が、そして理念の非暴力的充足として民主主義が生まれたのだ。よってこの意味では、資本主義の批判によく取り上げられる、その「端ない欲どうしさ」などといった言説はお門違いな転倒なのであり、なぜならば資本主義とは人間の「利害の対立」におけるその端ない欲どうしさを非暴力的に受けとめるための器なのであって、問題は人類そのものなのだ。
人間のあいだで利害が対立したときに、決着をつけるのは原則として暴力なのです。動物たちはみんなそうしているのですし、人間も動物の一種なのです。ただし人間の世界では利害の対立だけではなく、意見の対立も発生します。いまではこの意見の対立は、きわめて抽象的な次元にまで及んでいるので、暴力に頼らずに解決する技術が求められるようになりました。しかしそれは文明が発展してきて、初めて可能になったことです。人間たちが小さな群れで暮らしていた原初の時代には、あらゆる問題を解決したのは腕力でした。腕力の強い者が、さまざまな物の所有者になり、自分の意見を押し通したのでした。そして道具が登場すると、道具は腕力をさらに強めることも、腕力の代わりに使われることもあったのです。優れた武器をもっている人、武器を巧みに使うことのできる人が、勝者になったのでした。すから武器の登場とともに、むきだしの腕力よりも、才覚が重視されるようになりました。それでも闘いの最終的な目的は同じでした。相手を傷つけるか、相手の力を麻痺させて、要求をひっ込めさせ、抵抗させなくしたのです。
そこで第一に生じる帰結は殺戮であり、第二に生じるは服従であった。
そのためにもっとも効果的なのは、暴力で相手を完全に排除してしまうこと、すなわち殺してしまうことでした。敵を殺すのが好ましいのは、二つの理由からでした。敵はもはや二度とわたしに立ち向かうことができなくなりますし、敵が殺されるのをみていたほかの人々へのみせしめになり、わたしに刃向かわなくなります。(...)ところが人間はやがて、敵を殺してしまうのではなく、おびえさせておいてから生命を助けて利用すればよいのではないかと考え始めたのでした。すると暴力を行使する目的が、相手を殺すことではなく、服従させることになったわけです。こうしていわば敵に情けをかけるようになったのです。(...)これが原始状態です。力の強い者が、むきだしの力を使うか、才覚に支えられた暴力を使うことで、他者を支配するのです。
ここで一旦冒頭の問題へと帰ることにしよう。なぜならこの地点においては未だ「暴力」はあれど、「権利」は存在しない。殺戮と服従の地平を支配するは、ただ力あるのみだ。しかし、これこそが権利への生起へと帰結される。すなわち、殺戮と服従に対する民衆の抵抗として、権利の希求が始まるのだ。しかし、ここで重要なのはその手段がまたもや暴力へと陥ることである。暴力とはこれほどまでに有用で効率的なのだ。
もちろんこのような原始状態は、次第に変化するようになり、暴力から権利への道が始まるのです。しかしこれはどのような道なのでしょうか。この道はただ一つだと思います。一人の人の力が強くても、弱い人がたくさん集まれば、これに対抗できるのです。「団織は力なり」なのです。多数の人が団結すれば、一人の暴力に対抗できます。ですから団結した人々の力が、一人の暴力に抗して、権利を確立したのです。こうして権利は、共同体の権力として生まれたわけです。しかし注意が必要なのは、この権力もやはり暴力だということです。共同体の権利に逆らおうとする人には、暴力を行使しようとするのです。この権利はむきだしの暴力と同じ手段を使うのですし、同じ目的を目指しているのです。むきだしの暴力と違いがあるとすれば、これがただ一人が自分の目的のために行使する暴力ではなく、共同体が全体として行使する暴力だということだけです。
そして、こうして生起した権利の永続化、制度化において、法が誕生するのだ。しかし、ここで用いられる力もまた暴力なのだ。したがって、暴力に反旗を翻し、権利を獲得したものの、その手段に使われるのもまた暴力であり、そうして獲得した権利を維持するのも暴力であるのだ。ゆえにこの意味でシュミット的な友敵の構図は暴力を説明するに不十分であることがわかる。なぜならばフロイトが言うように、「共同体の内部でも、利害の対立は原則として暴力で解決するしかないのです」。 ところでむきだしの暴力から、新しい権利へと進むためには、ある心理学的な条件が満たされる必要があります。この多数者の団結は、持続的で長期的なものでなければならないということです。一人の支配者を打倒するために多数者が団結しても、その目的が実現した後で団結が解消されてしまうのでは、何も生まれません。打倒された支配者の次に強い者が、あるいはみずからそう考える者が、ふたたび暴力で人々を支配しようとするでしょう。そしてこのゲームには終わりがないのです。ですから共同体は永続的な形で維持されねばなりません。共同体として組織され、掟(法律)を定め、懸念される叛乱を未然に防止し、掟が守られるように監視する機構を設立する必要があります。そしてこの機構は、共同体の暴力が法に則って行使されるように配慮するのです。団結した人々には、このような利害の共同性を承認することによって、いわば共同体感情ともいうべき感情的な結びつきが生まれるのです。この感情によってこそ、共同体は固有の力をもつことができるのです。これで重要なことはすべて語ったような気がします。暴力が多数の統一された集団のうちに委ねられることで、一人の個人の暴力が克服され、この集団はその成員の感情的な結合によって維持されるのです。(...)このように共同体の内部でも、利害の対立は原則として暴力で解決するしかないのです。ところが共同体の成員は同じ土地でともに暮らしているので、ある共同性の感情が生まれます。それにこうした対立は必ず解決しなければならないものなので、この共同性の感情のおかげで、対立を短期間に解決しようとする気持ちが生まれます。その場合には、対立が平和的な方法で解決される可能性が絶えず高まるのです。(...)法とはもともとはむきだしの暴力だったこと、現在でも暴力による支えを必要としていることを忘れてはならないのです。
死の欲動
であるならば、一つの思考実験をしてみよう。あなたに与えられた世界とは誰しもが食い尽くせないほどに利潤に満たされた世界、いわばコモンズの喜劇であり、同時に熟議民主主義者が願うようなオプティミズムが弁証法的完成を迎えた世界であるとしよう。あらゆる対立が解消された時、人は戦争を無くすことができるのか?そこでフロイトが提唱するのが死の欲動である。 さてこれで、あなたが指摘されたもう一つの主題を検討できるようになりました。あなたは、人間がいかに戦争にすぐに熱狂してしまうかと、驚いておられました。そして人間には憎悪や殺戮の欲動のようなものが働いているために、戦争へとつきすすんでしまうのではないかと指摘しておられました。これについてもわたしは、全面的に賛同いたします。わたしたちは、人間の欲動には二種類のものしかないと考えています。一つは、生を統一し、保存しようとする欲動です。プラトンの『饗宴』ではこの欲動をエロスと呼んでいるので、わたしたちもこれをエロス的な欲動と呼びます。性的な現象についての一般的な考え方を敷衍して適用すれば、これを性的な欲動と呼ぶこともできるでしょう。もう一つの欲動は、破壊し、殺害しようとする欲動で、これを攻撃欲動や破壊欲動と総称しています。(...)わたしはさまざまに思索した後に、この欲動はすべての生物のうちで働いていて、その生物の生命を奪って、命のない無機物の状態に戻そうとするものだと考えるようになりました。ですからこの欲動は、まさしく死の欲動という名前で呼ばれるのがふさわしいのです。これに対してエロスの欲動は、生物の生きようとする努力を代表するものです。 そしてフロイトは死の欲動を分析するにあたって、それはエロスと未分化であることを強く論じる。であるからして、エロスは善であり、死の欲動は悪であるという単調な評価を下すことは出来ず、むしろ複雑に絡み合う両者のの総合こそがあらゆる現象としてこの世界に現れているのだ。その象徴として論じられるものは自己保存と愛であり、自己保存がために他者を排除することや、愛がために耐え難い支配と所有の欲動が精神を蝕むことはエロスとタナトスの途切れることのない共存なのである。
ご存じのように、これは愛と憎悪の対立という周知の関係を理論的に美化しようとするものにすぎません。あなたのご専門の物理学の分野では昔から、引力と反発力の両極性が検討されてきたのですし、これに類似したものと言えるかもしれません。この対立について、善と悪の価値評価を始めるのは性急なことでしょう。どちらの欲動も不可々なものであり、この二つの欲動が協力し、対抗することで、生命のさまざまな現象が誕生するのです。ところで片方の欲動だけが、孤立した形で働くことはないようです。片方の欲動にはつねに、ある程度の大きさの反対の欲動が結びついているのです(精神分析の用語では、混ざり合っていると呼びます)。この混ざり合いによって、欲動の目標が修正されることがあります。場合によっては欲動の目標を実現するには、これらが混ざり合う必要があるのです。たとえば自己保存欲動はエロス的な性格のものですが、この欲動がみずからの意図を貫徹しようとすれば、どうしても攻撃欲動を活用しなければならなくなります。対象に向けられる愛の欲動は、そもそも対象を自分のものにするには、支配欲動を必要とするのです。この両方の種類の欲動の表現を、分けて考えるのが困難だったので、この二つの欲動の存在を認識できるようになるまで、長い時間がかかったのです。わたしの考察はずいぶん長くなりましたが、もう少しおつきあいください。人間の行動は、さまざまな種類の欲動が加わった複合的なものとなっているのです。人間の行動が一種類の欲動の動きだけによるものであるのは、ごく稀なことです。欲動の動きというものはそもそも、エロスの欲動と破壊欲動で構成されているものなのです。原則として、人間が行動できるためには、複数の動機が同じように構成されて、作用することが必要なのです。
そしてこうした破壊欲動は二つの志向性を有する。それこそが内と外であり、自己へ向かうか他者へ向かうかなのである。したがって、他者への破壊欲動の頂点こそが戦争なわけであるが、だからと言って自己へ向かわせれば解決するわけではない。なぜならそれこそが、精神病理における一つの原因を成すからだ。
そして死の欲動が自分の特別な器官の力を使ってその生物の外部に、すなわち対象に向けられるときには、破壊欲動となります。生命体はいわば外部のものを破壊することで、みずからの生命を守ろうとするのです。ところが死の欲動の一部は、生命体の内部に向かっても働きつづけているのです。そして精神分析では、正常な現象も病的な現象も、この破壊欲動が主体の内部に向けられることから説明しようとしてきたのです。キリスト教の考えからみると冒涜と思われるかもしれませんが、人間の良心も、攻撃の欲動が主体の内部に向けられたために発生したのだと主張してきたのです。こうしたプロセスがあまりに強くなると、その生物にとって懸念すべき状態になるのは、ご理解いただけると思います。何よりも不健全なものだからです。ところがこの欲動の力が外部の世界での破壊に使われると、生命体にとっては負担が軽くなるわけであり、好ましい結果をもたらすのは確実なのです。
だからこそ、冒頭に論じたようにフロイトにしてみれば、利害と意見の対立をすべて解消したからといって戦争の芽をすべて摘み取ることは出来ない。なぜならば、戦争へと人々を突き動かす一つの所以たるタナトスとは人間から分ち難い「自然の本性」なのであり、それは我々が腹を空かせ、睡魔に闘うように、抵抗し難い情念なのだ。したがって、その解決策は二つへと帰結する。すなわち、全人類のタナトスを自らへと向け、全人類で病理にうなされるか、戦争に変わるタナトスの外的発露の手立てを示すことにある。
共産主義者たちも、人間の物質的な要求を満たして、共同体の成員のあいだに平等性を確立すれば、人間の攻撃性を消滅させることができると考えています。しかしわたしにはこの期待は幻想にすぎないと思われます。(...)それにあなたが指摘しておられるように、人間の攻撃的な傾向を完全に消滅させることを目指すべきではないのです。この欲動を別の場所に向けて、戦争においてその表現をみいださないようにすればよいのですから。
タナトスの心理学
欲動理論におけるこの新しい状況について、その前史からお話しするつもりはありません。ただ基本的に生物学的な考察を基礎とするものであることは、指摘しておきたいと思います。そしてここでは最終的な考察結果だけをお話しすることにします。まずわたしたちは、二種類の本質的に異なる欲動が存在することを想定しました。一つはもっとも広義に解釈した性欲動です。お好みであれば、これをエロスと呼んでもいいでしょう。もう一つは、破壊を目的とした攻撃欲動です。こうお話ししても、とくに目新しいことではないと思われるかもしれません。愛情と憎悪という昔ながらの対立に、理論的に新しい衣装を着せただけにすぎないと思われるかもしれません。愛情と憎悪の対立というのは、物理学が無機物の世界で想定している牽引力と反発力という別の両極性と似たもののようです。しかしおもしろいことに、この愛情と憎悪の対立という主張が、多くの人にとっては革新的なものと判断されたのです。
ではなぜこの古典的な対立項が革新的なものと論じられたのか。それは人間に内在する暴力性を一過性の症状や、ある種のエラーとして扱いたかったためにある。
しかも好ましくない主張であり、できるだけ早く克服されるべき主張とみなされたのでした。わたしは、このような拒否の背後には、強い感情的な要素が混じっていると考えています。人間に攻撃欲動があるということを認めるのに、なぜこれほど長い時間が必要だったのでしょうか。この公然たる事実はだれにも周知のことなのに、なぜこれを理論のうちで利用することが躊躇されたのでしょうか。こうした目標をもつ欲動があるのは[人間ではなく]動物であると主張していたら、それほど抵抗されることもなかったでしょう。しかし人間の本性にこのような欲動があると認めることは、忌まわしいことだと感じられたのです。多くの宗教的な想定にも、社会的な慣習にもそぐわないことだったのです。 とんでもない、人間の性格は生まれつき善であるはずだ、少なくとも温厚であるはずだというわけです。人間がときに残酷で、暴力的で、残忍にふるまうとしても、それは感情生活の短い混乱によるものであり、多くは挑発された場合にかぎられるというのです。あるいはこれは、人間が作りあげてきた社会秩序が目的にそぐわないために生まれたのだと主張されるのです。残念ながら、歴史が教えてくれる教訓も、わたしたちが実際に経験した出来事も、こうした抗弁を裏づけるものではありません。いずれもこの「性善説」が主張することは、誤った幻想の一つであるという判断の正しさを示しているのです。人間は現実においてはたがいに傷つけあっているにすぎないのに、人生を美化し、暮らしやすいものとしようとして、こうした幻想をもちこむのです。
ゆえにタナトスとは、死を求める欲求とは、暴力的で残酷性を引きだす心とは、決して病ではなく一つの人間本性である。ここにフロイトのテーゼがあるのであり、これこそが性善説の隠していた人間の素性なのだ。しかし、我々の意と直感に反するこの衝動は本当に存在するのか?その実在に対する疑念に対し、応答するべく、その典型としてのサディズム・マゾヒズムを論じる。
ただしここでこの問題について議論をつづける必要はありません。わたしたちは歴史の教えと人生の経験にしたがって、人間には特別な攻撃欲動と破壊欲動があるという想定を擁護しようとしているわけではなく、サディズムとマゾヒズムという現象を評価しようと試みた一般的な考察に基づいて、こうした想定にたどりついたからです。ご存じのことと思いますが、わたしたちがサディズムと呼ぶのは、性的な対象が苦痛を与えられ、虐待され、屈辱を味わうという条件のもとで、性的な満足がえられることです。マゾヒズムとは、みずからを虐待の対象としたいという欲求が存在する場合のことです。(...) さて、マゾヒズムが精神分析にもたらす特別な問題の考察に戻りましょう。ここでは当面は、マゾヒズムの性愛的な要素は無視しておきます。するとマゾヒズムは、人間には自己破壊を目的とする傾向が存在することを保証してくれます。自我はもともとすべての欲動の動きを含むものですから(ただし自我というよりも、ここではエスと、そして人格の全体と言うほうが適切でしょう)、そこには破壊欲動も含まれていることになります。するとマゾヒズムの起源は、サディズムよりも古いと考えられるようになります。そしてサディズムは外部に向けられた破壊欲動であり、これが攻撃性という性格をおびることになります。(...) すなわち破壊欲動がエロス的な欲動と結びついてマゾヒズムとして表現されるか、多かれ少なかれエロス的なものがつけ加わって、破壊欲動が攻撃欲動として外界に向けられる場合です。ところでこの攻撃欲動は、現実の障害物と衝突するために、外界では充足できない可能性があることの意味を考えるべきでしょう。この場合には[攻撃欲動は]おそらく後戻りして、内部で働く自己破壊の力を強めることになります。 実際にこうしたことが起きるのであり、このプロセスがいかに重要なものであるかは、やがてご説明するつもりです。攻撃が実現を妨げられると、重大な損害としてうけとられるのです。実際に人間は、自己破壊の傾向からみずからを防衛するために、他者や他の事物を破壊する必要があるかのようです。これは道徳家には悲しむべき知らせではあります。
このようにして我々はタナトスの存在においては一つの確信を得ただろう。しかし、それは本当に死までをも望むのか?確かに、我々人類にはサディズム・マゾヒズムが横行しており、それはある種の人間本性というレベルにおいて存在する。しかし、死は生物である人間において、最も受け入れ難い存在であり、それを志向する欲動など到底受け入れ難い。そこでフロイトが提唱する概念があらゆる動物に見られる一つの自己保存的な性格「反復強迫」である。人間は、ひいては如何なる動物もが、特定の器官を喪失した場合、それを修復し、再生しようという身体の力学にさらされる。フロイトはこれこそが死を呼びこむと論じるのだ。すなわち、我々は誰しもかつては非存在であった。この非存在へ、ノスタルジーにも似た志向性でもって、強迫的に反復しようとする欲動こそがタナトスなのである。 しかし道徳家は、精神分析の理論が正しいはずはないと、これからも長いあいだ、みずからを慰めることでしょう。ある特別な欲動があって、その有機的な〈故郷〉である人間そのものを破壊しようとするなんて、考えられないことだと主張することでしょう。(...) ただしこうした欲動は、以前の状態を再現しようと努力していることが明らかになっているのです。ある状態が達成された後で、これが破壊されたとしましょう。するとその瞬間に、その状態をふたたび作りだそうとする欲動が生まれるのです。そしてこの欲動によって、反復強迫と呼ばれる現象が発生するのです。たとえば胎生学的なプロセスは、ほんらいは反復強迫なのです。広範な種の動物には、喪失した器官を新たに再生する能力がそなわっています。またわたしたちが[疾患や負傷から]治癒することができるのは、[外部から]補助的な手段として治療が加えられるためだけではなく、[わたしたちの内部に]治癒欲動とでもいうものが働くおかげなのですが、この欲動は下等動物にきわめて強く残っている同じ欲動の名残なのです。魚類が産卵のために回遊するのも、おそらく渡り鳥が移動するのも、そしてもしかすると動物において本能の現れとみなされるすべてのものも、この反復強迫の命令によるのであり、この反復強迫は、欲動の自己保存的な性格の表現なのです。(...) しかし、さまざまな欲動にみられるこうした自己保存的な性格は、わたしたちが検討している自己破壊の欲動を理解する上でどう役立つでしょうか。この欲動は以前のどのような状態を再現しようとしているのでしょうか。この答えはすぐにみつかりますし、それは新しい展望をひらいてくれる答えなのです。生命は、考えられないほどの遠い昔に、想像できないような方法で、生命のない物質から誕生したと言われますが、それが真実であれば、わたしたちの前提に基づくと、生命を消滅させて、無機的な状態をふたたび作りだそうとする欲動が、その時点で発生したはずなのです。 この欲動は[生命を滅ぼすという意味では]わたしたちが想定している自己破壊的な欲動であり、これはすべての生命プロセスの中で作動している死の欲動の現れと理解することができるのです。するとわたしたちが存在を想定している欲動は、二つのグループに分かれることになります。一つはエロス的な欲動であり、これは生きようとする物質をつねにより大きな統一体にまとめあげようとするものです。もう一つはこの営みに抵抗する死の欲動であり、これは生きているものを無機的な状態に戻そうとするものです。この二つの欲動の共働する機能と対抗する機能によって生命現象が生まれるのですが、その終末は死なのです。 しかし、これはショーペンハウアーの哲学ではないという。なぜならばフロイトはタナトスのみを我々に内在する欲望のダイナミクスであると論じない。生と死、エロスとタナトス、その相互的な志向性の複雑な絡み合いによって我々の命というものが表象されるのであって、ここにフロイトの二元論的人間観が表れるのだ。
この説明を聞かれたみなさんは肩をすくめて、それは自然科学じゃない、ショーペンハウアーの哲学だとおっしゃるかもしれません。しかしみなさん、冷徹で苦労の多い詳細な考察によって洞察できたことを、大胆な哲学者が見抜いていたとしても、不思議なことではないのです。それにこれらはすべてすでに語られていたことであり、ショーペンハウアー以前の哲学者たちも同じようなことを語ってきたのです。また、わたしたちの理論はショーペンハウアーの哲学そのものではありません。わたしたちは死が生命の唯一の目的であるなどとは主張していないのです。死とならんで生があることを見逃してはいないのです。わたしたちは二つの根本的な欲動の存在を認識しており、それぞれの欲動に独自の目標を認めています。 (1)トーテミズムとして宗教的な現象が出現~多神教が登場するまでの時期
典型的事件の次の段階に至って、動物に代わって人間の顔をした神が誕生することになる。フロイトは父親を殺害した後に力を握るのは女性だと考え、ここに母権制の社会が生まれると主張している。そのため強力な母性神の時代が訪れると想定する。その後、家父長制の時代が訪れるとともに神々は男性となるが、この段階ではまだ諸神が併存している。 男性の神々は、最初は偉大な母親の傍らに控える息子たちとして登場し、のちになってからやっと、父親としての姿を明確に示すようになるのである。多神教のこれらの男性の神々は、家父長時代の影響を映し出したものである。多数の男性の神々が存在し、互いにほかの神々に制約を加え合いながら、ときには上位にある優位の神に服従するのである。ところで次の一歩を進めると、私が取り上げてきた主題、すなわち一人で、唯一で、絶対的に支配する父となる神が再来するのである。
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(2) ユダヤ教において一神教が登場し、これを継承したキリスト教が登場した時期
フロイトはモーセという男を紀元前 世紀ごろに生きたファラオであるイクナートンの時代のエジプト人と断定し、その時代においてのみエジプトで栄えた一神教であるアートン教の理念をユダヤの民に授けたとしている。 聖書の記述が放置してしまった、あるいは聖書の記述が作り出してしまったこの暗闇の中から、今日の歴史研究は二つの事実を取り出すことができた。一つは、 ゼリンによって見出されたものだが、聖書そのものがはっきりと記述しているように立法者として指噂者たるモーセに対して頑迷で反抗的であったユダヤ人たちが、ある日謀反を起こしてモーセを打ち殺し、まさしくかつてエジプト人がしたように、強制的に与えられたアートン教を捨て去ってしまったという事実である。もう一つは、 マイヤーによって示されたもので、エジプトから帰還してきたユダヤ人たちが後年になってパレスチナとシナイ半島とアラビアの間にある地域で別の近縁の諸部族と合流し、豊かな水に恵まれたカデシュの地で、アラビアのミディアン人の影響のもと、新たな宗教、火の神ヤハウェ崇拝を受け入れたことである。 /icons/白.icon
(3) 中世から現代にかけてユダヤ人の迫害が続き、反ユダヤ主義が猛威を振るう時期