ユング
"Is Analytical Psychology a Religion? Rationalist and Romantic Approaches to Religion and Modernity"より
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ゼーレに宿る意味の病
私の事例の約三分の一はそもそも臨床的に診断しうる神経症には苦しんでおらず、人生の意味や目標の喪失に苦しんでいる。
しかしユングにはこれに応答ができていないとする。
これにあたる英語の日常語は「私は立往生している」I am stuck である。私がそもそもみちの可能性を探求しなければと思っているのは、この事実があるからである。というのは私は患者の「あなたは私にどんな忠告をされますか?私は何をしたらよいのですか?」という質問に何と答えたらよいのかまったく分からないからである。
しかるに彼は「神話学・考古学・比較宗教史」を学ぶ。それはなぜか。まさに宗教とは「太古性」をもつ治療なのであり、人間はその地平において意味と接続されてきた。ゆえに彼から唱える「空想」とは、意味の病に対する最も原初的な治療なのである。
このため未開人の心理学・神話学・考古学・比較宗教史についてできるかぎりたくさん知ることは、私にとってきわめて重要な事柄である(...)私はこの試みの危険を過小評価してはならないと確信している。それはちょうど虚空へ橋を架け始めたようなものである。それどころか皮肉屋なら、このやり方では要するに医師は患者と一緒に空想を楽しんでいるにすぎないと批判するかもしれないし、実際にもすでにしばしばそうした批判がなされている。この批判には反対する理由はなく、それはむしろ正鵠を得ている。それどころか私は患者と一緒に空想することに労を惜しまない。というのも私は空洞を価値の低いものとは思っていないからである。空想は私にとってつまるところ男性的な精神の母性的な創像力である。この理由においてわれわれは空想をけっして軽視しない。(...)想像力の創造的活動は人間を「でしかない」に縛りつけられた状態から解き放ち、遊びの状態にまで高めてくれる。そして人間とは、シラーが言っているように、「遊んでいるときだけが完全に人間」なのである。(...)しかし臨床的事実から見ると、神経症の大半は何よりもまず、たとえばこころゼーレの宗教的欲求が稚拙な啓蒙幻想のせいでもはや気づかれなくなっていることに基づいているのである。今日の心理学者はもうそろそろ、教義や信条など少しも重要でなく、むしろあまり重要だとは思えない心的機能としての宗教的な構えの方が重要であることに気づいてもよかろう。 ゆえに彼は世界の現実と心の現実、ゼーレの現実を区別する。意味の病に惑うゼーレにおいて、幻想=神話とは全き現実なのであって、そこにこそ治療の秘儀が隠れているのだ。
〔訳註〕もとのラテン語は cura animarum で、ドイツ語は Seelsorege、英語はcare of souls、日本語では「魂への配慮」や「魂の治療」となるが、カトリックでは「司牧」、プロテスタントでは「牧会」と訳されている。本書ではプロテスタント流に「牧会」と訳し、それに応じて、これを遂行する人 Seelsorgerを「牧会師」と訳すことにする。なお、プロテスタントの「牧師」はカトリックの「司祭」とともに、教会の制度として確立された職業としてのPfarrer の訳語である。cura animarum は哲学用語としてはプラトンのpsuchagogiaに始まり、魂のために自分で配慮することを意味する。が、キリスト教では特に他者の魂のために献身的な配慮をすることを意味する。礼拝において福音を伝える一般的な魂への配慮と、個人の具体的な生活状況に応じて神の言葉を伝え、薄く特殊な魂への配慮がある。聖職者に限らず、教会員すべてのつとめであり、それゆえ、プロテスタント教会は、告解を制度的に確立することで魂の配慮の任務を聖職者に集中させたカトリック教会を批判し、宗教を魂への配慮の運動として理解する。宗教心理学と深層心理学に刺激されて起こってきた魂への配慮のための心理学を、プロテスタントの側では牧会心理学 pastoral psychology と呼んでいる。
医学は一九世紀になると、方法論と理論において一つの自然科学になり、その哲学的前提である因果論と唯物論に忠誠を誓いました。医学にとっては、精神的実体としての魂は存在しませんでした。同様に、実験心理学もまた、魂なき心理学であることを目指していました。
そこで次のように、そうした魂なき心理学の自然科学的性質の限界を指摘する。
日常的な物分かりのよさ、常識、コモン・センスの要約としての科学によって、たしかにわたしたちは遠くにまで行くことができますが、けっしてこのうえなく陳腐な現実と平均的な正常性の境界標を越えることはできません。それらは、根本的に言って、魂の苦悩とそのもっとも深い意味への問いにたいする答えを少しも出してくれないのです。精神神経症は、究極のところ、自らの意味を見出せずにいる魂の苦悩です。しかし、魂の苦悩からこそあらゆる精神的創造、精神的人間のあらゆる向上が生まれるのであり、病の原因は、精神が沈滞し、魂が不毛であることに求められます。
他方でユングは自然科学的に虚構と規定されてしまうような所与な価値を礼讃する。それこそがまさに魂なき心理学の限界である。
このように認識することによって医師はいまやある領域に踏み込むことになりますが、そこへ近づこうとすると必ずといっていいぐらいこのうえないためらいを覚えてしまいます。すなわち、ここで彼は、治癒をもたらす虚構であるところの精神的意義を伝えなければならなくなるのです。というのは、まさにこれこそ、理性と科学から与えられうるあらゆるものにまして患者が熱望しているものだからです。患者は、自分の心をしっかりと捉え、自分の神経症的な魂のカオス的な錯乱に有意義な形を与えてくれるものを求めているのです。医師はこの課題を遂行するだけの力量を持ち合わせているでしょうか。彼はおそらく患者をまず、神学者あるいは哲学者のところへ行かせるか、あるいは現代の基調となっている大いなる困惑に委ねることでしょう。実際、医師としての彼にはその職業上の良心が要請するところからいって、ある世界観を持つ義務はありません。しかし医師は、もし自分の患者が何に病んでいるかをあまりにもはっきりと分かってしまえば、どうすればいいのでしょうか。 患者が病んでいるものとは、すなわち、自分には単なるセックスだけがあって、愛がなく、暗闇を手探りすることを恐れているために肩仰がなく、世の中と人生に幻滅しているために希望がなく、自分自身の存在の意味が分からないために認識がないということです。(...)患者が生きるのに必要とするもの、すなわち、信仰と希望と愛と認識を与えてくれそうな体系や真理は単純に頭で考え出すことはできません。
今こそ、牧会師と魂の医師がこの巨大な精神的課題を達成するために手を握り、力を合わせるべき時でしょう。
治療の問題は、一つの宗教問題です。
残念ながらフロイトが見逃してきたことですが、人間はこれまで、一人で地下世界あるいは無意識の諸力と取り組むことができたためしがありません。そのためには人間は、従来、その時代の宗教から与えられてきた精神的援助を必要とするのです。無意識をあらわにするということは、魂の強烈な苦悩が噴出することを意味します。それは咲き誇っている文明が野蛮人の侵入の犠牲になったり、ダムが決壊したために肥沃な耕地が怒り狂う急流に流されたりするのにたとえられるからです。世界大戦もこのような侵入でした。それが証明したのは、永遠に機会をうかがっているカオスから秩序だった世界を引き離している隔壁がいかに薄いものであるかということにほかならなかったのです。しかしあらゆる個人もまた同様です。理性の暴力を受けた自然が、個人の理性的に秩序だった世界の背後で復讐心に燃えながら、隔壁の崩れ落ちる瞬間を待っています。そのとき、どっと意識の中へ氾濫して蛮行を働こうとしているのです。太古の昔の原始時代以来、人間はこの危険、すなわち魂の危難に気づいてきました。それゆえ宗教や呪術の風習は、脅威から身を護ったり、魂に加えられた傷を癒すためのものです。したがって呪術師はつねに僧侶、体と魂の救い主でもあり、宗教は魂の苦悩にたいする治療体系なのです。このことがとくにあてはまるのは、キリスト教と仏教という二つの最大の宗教です。苦しんでいる人間の助けになるのは、けっして彼が自分一人で考える内容ではありません。ただ、啓示された超人間的真理だけが彼から苦悩の状態を取り去ります。
今日、破壊の波はすでにわたしたちのもとに及んでおり、魂は傷を負っています。そのため、患者たちは魂の医師を僧侶の役割へと追い込んでいます。医師が自分たちを苦悩から救ってくれるものと期待し、それを要求しているからです。それゆえ、わたしたち魂の医師は、厳密に言えば、本来、神学部に該当するはずの問題に関わらねばなりません。だが、わたしたちはこの問題を神学に委ねるわけにはいかないのです。神学者を経由せずにそのまま直接、自分たちのもとにやってくる患者たちの魂の困窮に日々、わたしたちは挑戦されているからです。 通常、これまでの概念や考え方はすべて失敗するので、わたしたちはまず、病の道 der Weg der Krankheitを歩まねばなりません。それは、葛酸を先鋭化させ、耐えがたいまでに孤独を強める迷路 Irrweです。しかしその道をあえて歩むのは、あらゆる破壊を生む魂の深みからこそ、救いもまた、生成するという希望があるためです。わたしが初めてこの道を歩んだとき、それがどこへ通じているか、分かりませんでした。魂の深みに何が秘められているか、見当がつかなかったのです。それは、以来、わたしが集合的無意識と記述し、その内容を元型と呼んできた深みです。
近代心理療法が提起する基本的問題は、あまりにも重要で広範囲に及んでいるために、一回の講演の枠内でこまごました点にまで立ち入ることは、よりよく理解していただくためには必要ではあっても、当然のことながら断念しなければなりませんでした。それでも、魂の医師がどのような態度をとるかをうまく明らかにすることができたものと期待しております。(...)それでも、わたしがスケッチ風に描きました近代人の精神の態度は、現実の事態に即応しているものと考えております。しかし、いずれにせよ、わたしが神経症の治療とそこに含まれている根本問題に関して述べましたことは、純然たる真理です。わたしたち医師は、魂の病の治癒を目ざす自分たちの努力が神学の側から共感的な理解を得られるとしたら、もちろんそれこそ大歓迎することでしょう。
世界観という最終審級
ユングは「こころゼーレの両極は、すなわち生理的な極と精神的な極は、切り離し難く互いに結び合っている」などとし、こころの機能をを二極に分割した。上記でいう精神的な次元において、心の治療を可能にする存在として掲げる「世界観」とはまさにこの意味で理解できるだろう。論理的帰結としてのニヒリズム、宗教への近づき難い分断から生まれる精神的病理。その意味で彼は哲学と宗教の素養を療法家に求める。 心の最も高度な支配者はつねに宗教的−哲学的性格をもっている。それはそれ自体としてはまったく原初的な事実であり、それゆえわれわれはそれが未開人の間に最も発達しているのを見ることができる。(...)もし患者の本性が集合的な解決に抵抗すると、ことは面倒になる。このような場合には、療法家が患者の真実にふれて自分の信念が壊れてもよいと思っているかどうかという問題が浮かび上がってくる。もし彼が患者を引き続いて治療したいと思うならば、彼は患者とともに良かれ悪しかれ先入見なしに探求の旅に出て、その激情状態にふさわしい宗教的−哲学的観念を発見しなければならない。
よって「宗教的−哲学的体系」としての「世界観のようなもの」にこそ、心の精神的次元における治療の本質が隠れているのであり、その意味でキリスト教を評価する。
一方では原罪についての、他方では受難の意味と価値についてのキリスト教の教義は、それゆえ大きな治療上の意味をもっており、西洋の人々にとって疑いなくイスラム教の宿命論よりもはるかに適しているのである。
F・X・チャレット曰く「〔神学がユング心理学に取って代わられるという〕フィリップ・リーフの予言の成就を歓迎するユンギアン達がいる。(...)実際、ユングは彼らにとって、救済をもたらし、「新しい天啓(new dispensation)」となるような心理学を提唱した預言者的人物なのである。(...)そしてユングの『ヨブへの答え』は「世界の宗教の主要聖典」と同等の地位を与えられている」。また、ディッド・ウルフ曰く「時に、ユングが心理学ではなく神学を書いているのだと結論する読者を責めることはできない。これはとりわけ『ヨブへの答え』に当てはまる」。
好意的な読者へ-本書の序論
ユングは本書を読解するための糸口を示す。それは第一に「心的」な実在性に基づく論述である。
本書の内容が少しばかり風変わりなので、短い前置きが必要であり、読者はこれを必ず読んでいただきたい。すなわち、本書では宗教的信仰の神聖な対象を俎上に載せることになるが、そのようなことを論ずる者は誰であれ、まさにそのような対象をめぐって相争っている両派の間でずたずたに引き裂かれる危険に曝されるものである。この争いは独特の前提に、すなわちある事が物理的事実として示される・あるいは示された・ときにのみ「事実」であるという前提に、基づいている。たとえばキリストが処女から生まれたという事実を、ある人は物理的に真実であると信じるが、他の人は物理的に不可能であると反論する。誰にでも明らかなように、こうした対立は論理的には決着のつけられないものであり、それゆえそうした不毛な論争は止めるのが賢明というものであろう。つまりどちらも正しいし、どちらも間違っているのであって、双方が「物理的に」という言葉を捨てようと思いさえすれば、簡単に和解できるであろう。というのも心的な真理というものもあるからであって、これについては物理的には説明も証明も反論もできないのである。たとえばライン河が昔あるとき河口から水源まで逆流したと広く信じられているとすると、この言い分は物理的に受け取ればおよそ信じがたいことと言わざるをえないが、しかしこのことが信じられているということ自体は事実なのである。そうした信仰は心的な事実であって、反論しようもなければ証明を必要としてもいないのである。 宗教的な発言はまさにこの部類に入るのである。それは例外なく、物理的には確かめようのない対象に関わっている。そうでなければ、それは有無を言わさず自然科学の分野に入れられてしまい、自然科学によって経験不可能なものとして無効とされてしまうであろう。物理的な事柄については宗教的発言は何の意味も持たない。その世界では宗教的発言はただの不思議であり、それだけで疑いの眼を向けられるであろうし、また一つの精神・すなわち一つの意味・の実在さえ証明できないであろう。なぜなら意味とはつねにおのずから示されるものだからである。キリストの意味や精神はわれわれの内にあり、奇跡によらずとも感じ取ることができる。奇跡は意味を掴み取ることのできない人々の知力に訴えるだけである。奇跡は精神の実在を理解できないときの代用品にすぎないのである。こう言ったからといって、精神が生き生きとして現われているときにたまたま不思議な物理的出来事を伴うことがあるということを否定するものではなく、ただそうした出来事があったからといって精神を本質的に認識する代わりを務めることもできなければ、精神を認識させることもできないということを主張しているにすぎない。宗教的な発言が物理的に証明されている現象としばしば対立することさえあるという事実は、精神が物理的知覚から独立していることを、また心的経験が物理的事実からある程度独立していることを証明している。
ここからユングはこの心的領野の自律性でもって、議論を先駆的・超越論的次元へと深化させる。そこで導入されるは「ゼーレの告白」である。ユングは第一にゼーレの-我々が日常からは触知し難い-先駆的・超越論的次元の存在を指摘する。そしてそれら対象の表象として「宗教」を位置づける。ゆえに彼の自伝にあるが如く「究極的に心理学的表象としてのキリストの問題へと導かれていった」。確かに我々人類は如何なる場所や地理に生まれようと宗教とやらを涵養してきた。それは人間の先駆的・超越論的次元が宗教によって獲得される「なにか」を示唆することと言い換えられるだろうし、それが明確でない以上、無意識的な次元であると言える。そしてそれは同時に集合的であり、であるからして「宗教的発言」とは人間の普遍的次元の告白、「ゼーレの告白」なのだ。それゆえに「批判的理性の手の届かないことが分かっている情動的基盤に・基づいている」とするのである。 魂ゼーレは自律的な要因でおり、宗教的発言は魂ゼーレの告白であって、それは最終的には無意識的な・つまり先験的な・働きに基づいている。この働きは物理的に知覚することはできないが、しかしその存在はそれに対応した魂ゼーレの告白によって証明される。魂ゼーレの発言は人間の意識を通して伝達される、すなわち具象的な形式を与えられるが、この形式はこれはこれでまた外的内的な雑多な影響に曝されている。それゆえ、宗教的内容について語るとき、われわれは言葉では表現しえないものを指し示すイメージの世界と関わり合っているのである。これらのイメージや比喩や概念がどの程度明瞭にあるいは不明瞭にそれらの先験的な対象を指し示しているかは分からない。たとえばわれわれが「神」と言うとき、われわれが口に出すイメージないし概念は、時代が変わるにつれて多くの変遷を受けてきたものである。その場合、これらの変化が単にイメージや概念にのみ関わるのか、それとも言葉では表現しえないものそのものに関わるのかは一信仰によるのでないかぎりしはっきりとは言うことができない。なるほどわれわれは神を、いかようにも姿を変え・どこまでもとうとうと流れる・活気に溢れた・働きとしてイメージすることもできれば、逆に永遠に不変不動の存在としてイメージすることもできる。われわれの知性ではっきり理解できるのはただひとつのこと、すなわち知性が扱っているのはイメージ・人間の想像力とその時代的地理的制約に左右されそれゆえ何千年もの長い年月の間に何度となく変化してきた表象・であるということだけである。疑いなくこれらのイメージは意識を超越した何ものかに基づいており、その働きによってその表出は際限なく無秩序に多様化することなく、いくつかの少数の原理ないし元型と関係していることが認められる。これらの元型は、魂ゼーレそのものや物質と同じように、それ自体では認識することができず、それのモデルを描いてみることしかできないが、そのモデルが不十分なことは周知のことであり、そのことは宗教的発言によってつねに繰り返し証明されている。(...)しかしそれらのイメージがヌミノースを型に・すなわち批判的理性の手の届かないことが分かっている情動的基盤に・基づいているということを忘れてはならないであろう。ここでは心的な事実が問題なのであって、それを無視することはできても、ないと言い切ることはできないのである。それゆえこの点についてすでにテルトゥリアヌスは正当にもこころに証言を求めている。その著書『魂ゼーレの証言について』の中で彼はこう言っている。「これらの魂ゼーレの証言は、真実であればあるほどそれだけ単純であり、単純であればあるほどそれだけ皆に親しまれ、皆に親しまれれば親しまれるほどそれだけ共通のものとなり、共通のものであればあるほどそれだけ自然であり、自然であればあるほどそれだけ神に近い。魂ゼーレの権威のおおもとである自然の荘厳さを考えてみるならば、誰もこの証言をとるに足らない無意味なものとは思えないであろう。教師に授けられているものは弟子にも与えられているはずである。自然は教師であり、魂ゼーレは弟子である。教師が教えることや弟子が習うことは神から与えられたものであり、神こそは教師のそのものである。魂ゼーレがその最高の師から自らの内に受け取ることのできるものを、あなたはあなたの内なるあなた自身の魂ゼーレを通じて理解することができる。あなたの感情を揺り動かす、その魂ゼーレをこそ感じとりなさい。魂ゼーレは、未来を暗示する出来事に対してはあなたの予言者であり、前兆に対してはあなたの解釈者であり、結果に対してはあなたの保護者であることを思いなさい。神から授けられた魂ゼーレが人間に予言することができるとしたら、なんとすばらしいことではないか。魂ゼーレが自分を授けた神を認識するとしたら、もっとすばらしいことではないか。」 そこでユングが訴えるは表象の絶対性である。「ゼーレの告白」は純粋である。意識には現象学的自由があるが、先駆的・超越論的次元としての無意識からは抗い難き情動が自生的に発生し、宗教などの表象を要請する。それを唯物論の相からみるならば、虚偽であるが、全人類的な宗教の自生的発現を知るものからすれば、それは「意識を越えたもろもろの実在を指している」ことがわかるだろう。このもろもろの実在こそが「集合的無意識の諸元型であり、これは神話的モチーフの形をとったイメージ連合」すなわち宗教を発現させるのである。その意味でユングは「聖書の記述をもゼーレの発言とみなす」のだ。 私はさらに一歩踏み込んで、心理主義の嫌疑をかけられる危険をも顧みず、聖書の記述をも魂ゼーレの発言とみなす。意識の言うことはごまかしや嘘やその他の気紛れでありうるが、魂ゼーレが言うことは絶対にそうではない。つまり魂ゼーレの発言は意識を越えたもろもろの実在を指しているので、つねにわれわれの分別を越えているのである。このもろもろの〈実在〉とは集合的無意識の諸元型であり、これは神話的モチーフの形をとったイメージ連合を産み出す。この種のイメージは作り出されるのではなく、むしろ既成のものとしてたとえば夢の中で内的に知覚される。それらはわれわれの自由にはならない自発的現象であり、それゆえそれらにはある種の自律性があると考えるのが正しいのである。 これこそ、本書でヤングが試みる方法論である。すなわちゼーレの告白としての聖書、ヨブ記の研究であるのだ。そしてそれを魂の医師として成し、先駆的・超越論的次元に接近すること。そこに本書の重要性が秘められている。 本書で私が試みるのは、ある伝統的な宗教的表象を吟味することである。私の扱うことがヌミノースな諸要素であるために、私の知性だけでなく感情も試されることになろう。それゆえ私は冷たい客観的な見方をすることはできず、むしろ私の主観的な情動を言葉にしなければならない。それによって初めて私は、聖書のあれこれの書を読んだときに・あるいはキリスト教の教義から受ける印象を思い起こすときに・感ずることを、表現することができるのである。私は神学者として書くのではなく(私は神学者ではない)、素人として、また多くの人々の魂ゼーレの生活に深く入り込むことを許されている医師として書くのである。私が述べることは、たしかにとりあえず私の個人的な見解ではあるが、しかしそれと同時に私は私と同じ問題意識を持っている多くの人々を代表して発言しているのだと考えている。 本書における方法論
ユングの遺志によって彼の死後、発行されたのであった。
VII 研究
ユングの使命
私の仕事が、まもなく、世界観の問題と、心理学と宗教との関連に近づき始めたのは、私の仕事の本質的な側面を示している。私はまず『心理学と宗教』(一九三八)、ついで『パラケルシカ』(一九四二)において、これらの問題について詳細に論じた。この本の中の二番目の論文「精神現象としてのパラケルスス」は、この観点からとくに重要である。パラケルススの著作は、古めかしく異様な文体であるが、鍼金術師によって提出された問題の明確な公式化をふくむ独創的な考えを、豊富に蔵している。パラケルススのおかげで、遂に私は、宗教と心理学への関係において錬金術の本質を-別の言い方をすれば、宗教哲学の一つの形として錬金術の本質を論じることができるようになった。これを私は『心理学と錬金術』(一九四四)の中で論じた。 私が、無意識の象徴性と、他の象徴の関係のみならず、キリスト教との関係という問題を心の中で絶えず思いめぐらしていたのは、至極当然のことである。私は、キリスト教の教えに対して戸を開いておくだけでなく、西洋人にとっては、これが中心的な重要性をもつものだと思っている。しかしながら、これは新しい光の中に、つまり、その時代の精神によって作られる変化に照らして見られる必要がある。さもなければ、現代とは係わりのないものとなり、人間の全体性に影響を与えない。私はこのことを著述の中で示そうとつとめてきた。(...)キリスト数との関係の中に、分析心理学を導入しようとする私の試みは、究極的に心理学的表象としてのキリストの問題へと導かれていった。 私は再び私の家に未だ中へはいったこともない大きい別棟がつけられているという夢をみた。私はそれを見ようと心に決め、とうとう中にはいった。そして、大きい二重扉に行きあたった。それを開け私は実験室としてしつらえてある部屋にはいった。窓の前には机があり、その上に沢山のガラス器具や動物学実験用の設備がおいてあった。これは私の父の仕事場であった。しかし父はそこにいなかった。壁ぞいにある棚には沢山のびんがあり、いろんな考えうるかぎりの種類の魚がいれてあった。私は驚いてしまった。何と今私の父は魚族学をやろうとしているのだ!そこに立って周囲を見まわすと、そこにカーテンがあって、時々強い風でも吹いているようにはためいているのに気がついた。突然、田舎出の若者のハンスがそこに現われた。私は彼にカーテンの後の窓が開いているかどうか見てくるように言った。彼は行き、しばらく帰って来なかった。帰ってきたとき、私は彼の顔に怖れの表情を認めた。「はい、何かがいました、幽霊がでています!」とだけ彼は言った。そこで私自ら出かけてゆき、そこにドアがあって、それは私の母の部屋に通じていることをみとめた。何だか気味悪い雰囲気であった。その部屋はたいへん広く、天井からおのおの五つの箱が二列、床より0.6mくらい上にぶら下がっていた。それらは庭園の小さいあずまやのようで、2m四方くらいの広さがあり、それぞれ二つのベッドがおさまっていた。私は、これは私の母が訪ねてきた部屋で-実際は彼女はずっと以前に亡くなっていたが-彼女が訪問してくる霊の眠りのためにこのようなベッドをしつらえたのであることを知っていた。彼らは二人組でやってきた、いわば幽霊の夫婦で、ここで一夜を、あるいは一日をすごしたのだ。(...)この夢の中の最も大切なイメージは、「霊魂のためのレセプションの部屋」であり、魚の実験室である。前者はやや滑けいめいているが結合を表わし、後者は私のキリストに対する強い関心を示している。つまり、キリスト自身は魚(ichthys)であるから。両者とも、十年以上にもわたって私を捉えつづけた事柄であった。魚の研究が私の父のものとされたのは注目すべきことである。夢の中で父はキリスト教徒の魂の世話人であった。というのは、古代の考えによると、キリスト教徒の魂はペテロのにとらえられた魚であるからである。同じ夢の中で、母が死者の魂の保護者であるのも注目すべきことである。かくて私の両親は共に「魂の治癒」の問題を背負って現われてきており、それこそまさに私の仕事なのである https://scrapbox.io/files/6813e589cb3eebc245eea599.jpeg