シラー
日の光に浮かぶ塵と塵が結びあって / 愛のハーモニーを奏でる、/ 天球と天球を結び合わすのは愛、/ 諸宇宙が存続するのも愛があればこそ。/ 宇宙の時計仕掛けから愛を奪えば─ / 大宇宙は崩壊して雲散霧消し、 / 君らの世界は轟音をたてながら崩壊する、/ 泣きたまえ、天文学者たち、その大崩壊を!
私は、美しい社会の理想として、多くの複雑なターンで形づくられながら、巧みに踊られた英国式ダンス以上にふさわしいイメージを知りません。バルコニーの観客は、交錯する無限に多様な動きを目にするのですが、その動きは、決定的に、しかし気ままに方向を変えながら、けっして互いに衝突ずるごとがないのです。すべてがこのように整えられているために、各々の踊り手は、他の人が来るときにはもうその場を空け渡していています。すべてが互いにとても巧みに、しかしわざとらしくなく適合しているために、誰もが思うがままにしているように見えるのに、けっして他の人を遮ることがないのです。そうしたダンスは、個人的に主張される自己自身の自由と、尊重された他者の自由との、完全な象徴なのです。
1791年に病に倒れ、財政的にも困窮していたシラーに対し、デンマークの王子フリードリヒ・クリスティアン・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=アウグステンブルク公は、3年間に渡って年間1000ターラーを給付した。シラーはアウグステンブルク公に対する感謝の証として、自らの芸術哲学を公にする前に書簡の形で書き送ることを約束し、1793年6月13日に第1信を送るとこから始まった。それゆえ本書は「美と芸術について私の調べえたところを、一連の手紙にしてあなたに差しあげることをお許し願えることと思います」から始める。この意味でディルタイはシラーを、人間社会における芸術家の機能の意義を認めた最初の人であり、創造的芸術家の自覚と誇りを無限に昂揚せしめるあらゆることが、ことごとく彼の中から出発している、と論じている。
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「自然国家家(der Naturstaat)」から「倫理的国家(der sittliche Staat)」へ、「肉体的人間」(der physische Mensch)から「道徳的人間」(der moralische[Mensch])への改良には、何らかの中間項が必要となる。シラーによれば、それこそが「芸術」(die schöne Kunst)の「美的教育」なのだ。
第一信
まずシラーは「美と芸術」についての「魅力と価値」を下記のように論じる。
そしてシラーは「私の考えは、豊富な世才とか読書から得たものというよりも、自分自身との単一な交際によって得たもの」として「これから述べる主張の拠りどころの大部分が、カントの原理であること、それを私はここで隠しだてしようとは思いません」とする。つまりシラーの理論はカントに依拠したフッサール的な作業によって成し得た、人間の実存を解き明かす理論なのである。
知性が内的感性の対象となったものを、自分自身のものにしようとするには、まずそれを破壊してかからなければならないことです。分析を術とする化学者と同様に、哲学者もまた分解してみてはじめて結合をさとり、芸術を拷問にかけてみてはじめてそれが自発的な自然の作品であることを知るのです。(...)美しい肉体を概念の中でこま切れにして、見すぼらしい言葉の骸骨の中に、その潑剌とした精神をしまい込まなければならないのです。(...)それゆえにあなたも、これから先の研究が、その問題を知性に近づけようとするとき、そのために感性から遠ざけられるようなぐあいになっても、どうかよろしくお許し願いたく、道徳的経験について語られるところは、さらにいっそう高い程度で、美の現われについて語られてるはずです。
これは第三書簡を読めば理解できよう。上記でいう感性と知性は、自然的「現実」と道義的「形式」の二項に対応できる。つまり「知性に近づける」とは道義的形式(=道徳的経験)の側に近づけるという意味であり、―美をもって「自然的国家(現実)」を、より高度な「道義的国家(イデア)」に達するように、美はその二項の均衡であるからして―そうすることで「いっそう高い程度で、美の現われについて語」ることが可能になるのだ。
第二信
著者が本書を綴ったときは、フランス革命直後であり「政治的自由」を最も問われた時代であった。そうした時代であるからこそ、政治の問題から距離のあるように見える美の問題にあえてとりくむことの是非を論ずる。
だがシラーの思いに反し、物質への欲望や有用性が支配的になり、芸術の意義が認められない時代背景にあることを次のように論ずる。
役立つことが、時代の大きな偶像で、すべて力あるものは、これをよろこび、すべて才能あるものは、これに仕えなければならなくなっています。この粗雑な秤の上では、芸術の精神的功績などは、なんの重みももちません。いっさいの激励も奪いとられて、芸術は世紀の騒がしい市場から姿を消していきます。
だからこそシラーはデンマークの王子フリードリヒ・クリスティアン・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=アウグステンブルク公に向けて「政治的問題を経験の中で解決するためには、美的問題を通ってその道に出なければならないこと、なぜならば、自由にまでたどりつく道が美であることを知って欲しいのです」と愬えたのだ。
第三信
シラーはまず人間像を二つに区別する。それが「自然的必然性」(物的、形而下的、肉体的)が支配的な人間と、「道徳的必然性」(心的、形而上的、精神的)が支配的な人間である。これはまさに革命時代(十八世紀フランス)に象徴的である。後々「自然的必然性」に偏重主義的な未開人と、「道徳的必然性」に偏重主義的な野蛮人に区分するが、これは十八世紀フランスを支配した二つの極、即ち快楽主義と啓蒙主義と対応するだろう。
人間をまさに人間たらしめるものは、いつまでも粗野な自然がつくりだしたままのものにとどまっていず、自然が前もってつれて歩いてくれた道を、逆に理性によって後戻りをし、必要から強制される仕事を、自由な選択による仕事につくりかえ、そして自然的 physisch (物的、形面下的、肉体的) 必然性を道徳的必然性に高める能力にあるのです。人間は官能的な仮眠から我にかえり、自分を人間として認め、自分の周囲を見まわして、自分を―国家の中に見いだすのです。人間がその自由によってこの地位を選べるようになるまでは、欲望の強制が、人間をそこに投げこんでいたのです。人間が理性の法則に従って動けるまでは、必要が粗野な自然律によって、いっさいを処理していたのです。
こうした「粗野な自然律」或いは「自然的必然性」が支配的な状態を「盲目的な必然性」と言い換えた上で、それらによる「野卑な性質」を「高貴なもの」に塗り替えるのが「美」なのである(この意味で"己の美学"という語をシラー的に解釈するなら、「粗野な自然律」に基づく人間本性を新たなる姿に規定することこそ自身を秩序づける美学だと言えるだろう)。
ここでこの構図を国家論に発展させる。では「自然的国家」から「道義的国家」への改造には何が必要か。そこでシラーは「自然的人間は実在的で、道義的人間は未確定」であるとしたうえで、「人間が自分の意志で、しっかりと法則に身を託す時間をもたないうちに、理性がその足もとから自然の様子を引きさらってしまうことになる」と改良主義的見解を展開する。
つまり「道義的国家」に至るためには歯車を止めてはならぬのであり、それゆえに「自然的」なものと「道徳的」なものの両者を媒介する「第三の性格」としての「美」を用いて、緩やかに改良すべきだと論ずるのだ。なぜなら「美」とは次の引用にあるように、「前述の二者と近親」であると同時に、それらを「目に見えない道義の感覚的な担保として」結びつけ「一本の道に開」くことが可能であるからだ。
第四信
ここで指しているのも「自然的必然性」(物的、形而下的、肉体的)と「道徳的必然性」(心的、形而上的、精神的)の話である。つまり自らが理想とするイデアの「不変の統一体」、即ち完全に「道徳的必然性」のもとに行為する「理想的人間」と、自然律と道徳律が入り乱れた流転的な「自分」。こうした二項があり、後者を前者に固定させる、言い換えるなら「一致させることが、生存の上に課せられた大きな問題」なのだ。
上記から詳細な国家論の描写にはいる。先程論じた「理想的人間」や「道徳的必然性」(心的、形而上的、精神的)が支配的な人間とは、イデアという語が用いられるように、自らの「うち」にある「客観的」なものであることをまずは留意せなばならない。その自分の「うち」の、「客観的人間性」の代表的なものが「国家」なのであり、それゆえ理性に要求されて「理想的人間」を目指した者は「国家」を規準とするのである。そうした意味で国家が提示する「客観的人間性」が、「自然」に根差す「多様性」を排他せずに「客観的なものに高め」ることを(=反理性偏重主義)、重要視するのであり、またその文脈で国民の「主観的人間性を、それが客観的なものに高められている程度に応じて」、国家のレヴェルが計れる(=尊敬できる)と述べるのである。その意味で次のように結論づけるのである。
第五信
三信で論じた「第三の性格」の要請に照らして同時代の社会と人間のあり方が批判される。まさに本信の冒頭はそれを象徴するテーゼである。
今日の時代―現在起こっている諸事件―それが私たちに示しているものが、はたしてこの性格でしょうか?
そこでひきあいにだされるのが、「野蛮人」と「未開人」である。それは四信の最後に、教養なき人間として紹介される。「人間は、自分自身と二重の方法で対立しているようです。つまり感情で原理を支配してかかる場合の未開人(Wilder)としてか、あるいは原理が感情を破壊する場合の野蛮人(Barbar)としてです。(...)しかし教養ある人間は、自然を自分の友とし、その専横を抑制しながら、その自由を尊んでいます」(ここだけ小栗孝則訳ではなく石原達二訳を使用)。雑に還元するなら、理性偏重主義が野蛮人(Barbar)であり、動物的な方が未開人(Wilder)である。 今日この時代の演劇の中で写しだされている姿は、なんという有様でしょう!ここには野蛮化、かしこには虚脱、―人間退廃の二つの極端が二ついっしょに、一つの時期の中に集中しています。一段と低級な多数の階級の中には、野卑な無法な衝動が現われ出ていて、市民的秩序の紐帯がゆるめばすぐに身を脱し、制しがたい狂暴さを表わして、動物的な満足に向かって走り出しています。
ここで指している「人間退廃の二つの極端」が先程紹介した「野蛮人」と「未開人」である。「野蛮化」が「野蛮人」なのは字義通りであるが「虚脱」が「未開人」なのは、その次の「市民的秩序の紐帯がゆるめばすぐに身を脱し、制しがたい狂暴さを表わして、動物的な満足に向かって走り出しています」にかかっている。この二極がシラーの時期に集中しているのである。本信の末尾に「われわれの見るところの時代精神は、背理と粗暴との間を、不自然とただ単なる自然との間を、迷信と道徳的な無信仰との間を動揺しています」とあるのは、まさに二極での揺れを象徴している。「不自然」とは「野蛮人」であり、「ただ単なる自然」が「未開人」であることからもわかるだろう。
自然児からは、彼が道を踏みはずすと狂人が生まれ出ますし、(...)理性の啓蒙―、これを洗練された階級の人たちが自慢にするのは、べつにさしつかえないことですが、全体からみて、これが思念の高貴化に影響をあたえたことはほとんどなく、むしろ腐敗を格言的に証拠立てているようなものです。
第六信
野蛮的或いは未開的な近代人に対して、ギリシア人を対置する。そして彼らを近代人の「模範」とまで高め評する。
ギリシア人(...)は、技芸のあらゆる魅力とあらゆる品位とに結びつきながら、しかも、私たちの場合のように、それらの犠牲になっていないのです。ギリシア人が私たちを凌駕しているのは、現代には縁遠くなった素朴さばかりではありません。彼らは、私たちがなにかにつけて自分らの風習の反自然性に対する慰めとしている上述の長所の点で、私たちの競争者であると同時に、ときには私たちの模範でさえあるのです。形態に満ちていると同時に蘊蓄に富み、思索しつつ同時に形成し、繊細であると同時に精力的で、空想の若々しさと理性の男らしさとが一つになって、すばらしい人間となっているのです。
またシラーは近代の離散的性格にも批判を投じる。第四信で「国家というものは、単に客観的なまた発生的なものばかりではなく、個々人の中にある主観的なまた特殊的な性格をも尊敬すべき」及び「国家は、部分が全体のイデエにまで高められているかぎり、実在しうる」とあるように、シラーは国家に個と全体の調和を求める。これは下記引用を見る限り「ギリシア国家」が、その模範たりえることがわかるだろう。しかし近代というのは理性に任せて分解が為され、機械的な断片の集合になっているとするのだ。
理性は、人間の天性を分解し、それらを自分のすばらしい神々の世界に拡大して、そのまま投げちらしていますが、しかしそれは粉々に引きちぎるのでなく、さまざまに混ぜ合わしてのことです。実際ギリシアのどの神の中にも、完全な人間は欠けていないのです。私たち近代人の場合は、なんという違いでしょう!私たちの場合にも、種の像が個の中に拡大されて、別々に投げ出されてはいます、―しかしそれは断片の形で、変化のある混合の形でなく、したがって種族の総体性を拾い集めるためには、個体から個体へと訊ねまわらなければならないのです。(...)ギリシア国家の―個々がみな自主的な生活をたのしみながら、いざとなれば、全体になることのできる―あのポリープ的性質は、いまはただ一個の精巧な時計仕掛けに―数かぎりなく無数の、しかも生命のない部分部分のつなぎ合わせがつくる、全体で一個の機械的生活に―その席をゆずっているのです。国家と教会、法律と風習とは引き裂かれ、快楽は労働から、手段は目的から、離されています。永遠にただ全体の一個の小さな断片に縛りつけられたまま、人間自体もただ断片として、自分をつくりあげているのです。永遠にただ自分が乗りまわす車輪の単調なひびきを耳にするだけで、人間は決して自分の存在の協和性を発展させていませんし、また自分の天性の中にある人間性を明瞭に刻印するかわりに、ただ自分の職業、自分の知識の複製品となっているだけです。しかも部分をわずかに全体に結びつけている零細な取るに足らない接合物さえが、自発的に彼らの示す形式に頼らず (もっともあのような精巧で、明るさの嫌いな時計仕掛けを彼らの勝手にさせられましょうか?)、―細心な几帳面さをもって彼らを、彼らの自由な見解を拘束することになる法式どおりに動かしているのです。 シラーによれば、こうして断片化が進行した社会には国家という機能が個にとって不要のものとなり崩壊の一途を辿るという(下記言明は、恐らく合理化の結果としてのフランス革命、即ち次期国王アウグステンブルク公に向けて王政国家の崩壊の理由を示唆していると言えるだろう)。
こうして実際に個々の具体的生活はだんだんと、全体の抽象がその貧弱な生存をつなぎとめているために、すり減らされてしまい、そして永遠に国家というものが、その人民にとって無縁なものになっていくのです。なぜなら感情は、どこにも国家というものを見ないからです。余儀なく統治する側は、人民の多様性を等級別によって弱め、使い古しの演技を通して見るよりほかに人間を見ることができず、 結局は、人間を単なる理性の作り物と混同しているうちに、その姿をまったく眼界から見失ってしまうのです。(...)少しも楽にしてくれない公約をいつまでも国家が持ちつづけていることに倦み果てたあげく、既成社会は(いままでにすでに多くのョーロッパの国家の運命が示しているように)道徳的な自然状態の中に崩潰してしまい、そこでの団体的な力は、ただ単に一党派だけに限られ、それを必要とするものからは憎まれたり背かれたりし、それがなくても困らないものからだけ尊重されているのです。
ただそれは原体制の真っ向からの批判ではないことを理解しなければならない。シラーは「現代の人々が、単位としてみても、知性の秤にかけてみても、昔の最善の人の前で立派に主張できる長所をもつこと」を認めているし「種族としては、実に有利なものを持っている」とする。そのうえで更にシラーは「個々人は、その本質のこのような細分化によって何も得るものは無かったにせよ、人類という種は、これ以外の仕方では進歩し得なかったであろう、ということを私はあえて申し上げたいのです」として、機械的国家の到来は進歩に必然的な歩みと理解するのである。
ギリシア人(...)が、もっと高い発達に向かって進もうとしたならば、ちょうど私たちと同じように、その本性の総体性(totalität)を放棄して、真理を別々に分けられた道のうえで追求しなければならなかったと思います。人間の中にある多種多様の素質を発展させるには、それらを互いに対立させておく以外の方法はなかったのです。このいろいろの力のアンタゴニズム(対敵作用)は文化の大きな器具です。しかしそれはただ単なる器具です。なぜならば、これが続いているあいだはまさに人は文化への途上にあるからです。 しかし、人間の中では個々の力が孤立し、そして勝手に一つの法を立ててわがもの顔に振舞っているために、つい事物の真理と衝突を起こし、やむなく、ふだんは惰性から安閑と外面的な現象に満足している常識を、対象の奥底深く押しこめてしまうのです。(...)力の行使における一方性は、必ず個人を誤謬に導くものですが、しかし種族を真理へ導こうとはしているのです。私たちが自分の精神の全精力を一つの焦点に集め、そして自分の全本性をただ一つの力の中に収縮することによって、はじめて私たちはその個々の力に、いわば翼をつけ、自然が定めたかに見える垣を巧妙に飛び越えるのです。 Totalitätは小栗は相対性と訳すが、上記では石原訳ベースで援用
即ち、シラーによれば合理は「真理へ導く」と同時に「真理は(...)多くの殉教者つくっていくでしょう」とするのだ。合理は恩寵をもたらしたことを理解したうえで、シラーはそのためだからと言って全体性或いは調和を失ってはならないと強く訴えるのである。そしてそのために美或いは芸術を再建すべきだとシラーは王子に説くのだ。
しかし、いったい人間はなにかある目的のために、自分自身の身仕舞いを忘れてもいいものでしょうか?自然がその目的のために、私たちから完全性を―私たちのために理性が、その目的のために規定したものを―響い取ってもいいのでしょぅか?要するに個々の力の発達が、やむなくその総体性を犠牲にするということが間違いなのです。あるいは、たとい自然の法則が、現に非常な努力をそれに払っていようとも、技術によって破壊された私たちの天性の総体性を、あるより高い技芸に再建することは、私たちの手に一任されていることなのです。
第七信
「第三の道」として美或いは芸術を以て総体性を再建することを論ずる前に、それを試みることは国家には可能であるかという問いに対してシラーは次のように答える。
この作用を国家の手に期待すべきでしょうか?それは駄目です。なぜならば、現にいまあるような 国家がその禍をひき起こしているからです。また理性が、イデエにまかしきっているような国家は、こうしたよりよい人間性を打ち建てることはできず、むしろ自分自身をまずその上に築きあげなければなりません。
第八信
第九信
個人「の中にある多様性を、理想とする統一性に服従させる」ため、「国家が手渡してくれないある道具を捜しださなければなりませんし、またいっさいの政治的腐敗のもとにあっても、つねに純粋で澄み切っている泉をひらかなければなりません」としてシラーは美に達する。
いまこそ私は、これまでの自分のいっさいの考察がめざしてきた主点に達しました。その道具とは美の芸術です。その泉は、美の芸術の不滅な典型の中にひらかれているものです。
シラーはそのもとにドイツ流の息苦しさを感じさせる芸術家の当為論を展開する。それは普遍のみを追いかけんとする芸術家の在り方を説いている。シラーはその意味で芸術家「にとって時間というものはないのです」として、時代に呑み込まれることを徹底的に斥ける。
そしてシラーは万人を導く力をそこに見る。嗜好にアクセスできる芸術にこそ、唯一あらゆる教えから同時代の者を解放する方途となるのである。
第十信(以下:石原訳ベース)
すなわち、人間は自己の使命から二つの相対立する方向へ逸脱しうるものであり、我々の時代はまさに実際、この二つの邪道へと迷いこんでおり、(...)我々の時代はこの二重の迷妄から美によって引戻されねばなりません。
これが第五信から第九信までの概略である。美は野蛮人や未開人など如何なる邪道な者をも特定の方向に導くことが可能である。「しかしどのようにして美的陶冶はこの二つの相対立する疾患に対応するとともに、二つの相矛盾する性格をみずからのうちに統合することができるでしょうか」。が、ここでシラーは「美に対する感情を育てれば道徳の教化に役立つ」というありきたりな主張をするわけではない。そして寧ろ道徳と美は相反することを主張する。そこで例証するのは「芸術が栄え、趣味が支配したどの時代においても、人間性はほとんど決って堕落」していることだ。
アテネとスパルタがその独立性を確保し、各々の制度の法に対する尊敬の念が基礎としてはたらいていたあいだは、趣味はまだ成熟しておらず、芸術はまだ幼年時代にありました。そして美は心を支配するまでにはなかなか達していませんでした。(...)ペリクレスやアレキサンダー大王のもとで芸術の黄金時代がやって来て、趣味が広く一般に支配するようになったとき、ギリシャはもはや力と自由を失っていました。雄弁が真実を偽造し、智慧をソクラテスの口のなかで、徳をフォキオンの生活のなかで侮辱したのです。ローマ人は、御存知のように内乱によってその力を費消しつくし、そしてその性格の剛直に対してギリシャ芸術が勝ち誇るのを見るよりも早く、東洋的奢侈によって女々しくなり、幸福なる君主のくびきの下に身を屈しなければなりませんでした。アラビア人においても、その文化の曙光が現れたのは、その戦闘精神のエネルギーがアッバス朝の玉笏の下で衰えてからのことです。近イタリアで美術が出現したのは、ロンバルディアのみごとな同盟が崩れ、フィレンツェがメディチ家の支配下に服し、あの勇ましきすべての都市にみちていた独立不羈の精神が不名誉な服従に道を譲るに至った後のことでした。このうえ近代国家の例をまだ思い出してみるのはほとんど余計なことで、その美的洗練はその独立性の衰退と比例しておりました。過去の世界のどこへ眼をむけようと、趣味と自由とは互に避けあい、美は英雄的な徳の没落した後ではじめて支配権を握るという事実を我々は見出すのです。 ペリクレス、アレキサンダー大王、アッバス朝、メディチ家のもとで芸術の台頭が起こったのは、「都市にみちていた独立不羈の精神が不名誉な服従に道を譲る」ことによって誘因され、その意味で「美は英雄的な徳の没落した後ではじめて支配権を握るという事実を我々は見出すのです」。こうした理由をもって「高度で偉大な普遍性をもった美的陶冶が、政治的自由や市民的徳性と手を携え、また美的習慣が善い習慣と、振舞の洗練性がその真実性と手を携えて歩んだというただ一つの例さえあげることができない」と結論づけるのだ。
では美的陶冶は民を道徳的に強化させることは不可能であるのか。そこで重要なのは、さきほど例を挙げた歴史的即ち経験的「美」と「経験以外にその源泉をもつ美の概念」の異なる性質を理解することにある。確かに「現実性」に基づく前者の「美」のもとに教化を志向するならば失敗に終わるかもしれないが、シラーは後者の「美」をもとに教化を試みることでそれを可能的なものに昇華するのだ。
概略するならシラーが美的陶冶を以て道徳に導かんとする「美」とは、「純粋な理性概念」、「抽象の道」、「先験的な道」として「現実性」を越える「美」のことを指すのである。それゆえ、例証したトレードオフな道徳と美の歴史を指して「美の影響力に関してこれまでの経験が教えたことだけを頼っているならば、人間の真の陶冶にとってそれほど危険な感情を育成することは、そんな気に乗ることではありますまい。(...)しかしながら、経験はおそらくこういう問題を決定する裁判所ではありますまい」とするのだ。
第十一信
本信からはシラーの人間論に入る。シラーは本性を「人格」と「状態」を区分し、前者に静的で後者に動的な性格を与える。そしてこの性格が無矛盾であるには、両者が混ざり合ってはならないことを説明する。
永続的なものは人間の人格とよばれ、変転するものは人間の状態とよばれます。我々が必然的な存在者〔神〕のなかでは同一不二のものと考える、この人格と状態―自己とその規定性―は、有限の存在者〔人間〕においてはいつも二つに分かれています。いくら人格が不動でも状態は変り、いくら状態が変っても人格は不動です。(...)有限な存在者としての人間においては、人格と状態とは分れているのですから、状態が人格にもとづくことも、人格が状態にもとづくこともできません。もし後者の場合だったら、人格は変化せねばならず、前者の場合だったら、状態は不動のはずです。
ここから始まるのはデカルト=カント的図式である。存在は絶対的及び必然的な原則から始まらなければならない。ゆえに人格こそが「自己自身の根拠」なのである。
我々が存在するのは、思考し、意欲し、感じるからではありません。また我々が思考し、意欲し、感じるのは、存在するからではありません。我々は存在するがゆえに存在するのであり、また我々の外になにか他のものが存在するがゆえに感じ、思考し、意欲するのです。したがって、人格は自己自身の根拠でなければなりません。というのも、永続的なものは変化から出てくることはできないからです。それで我々は第一のものとして、絶対的で自己自身のうちに基礎をもつ存在の理念、すなわち自由をもつことになりましょう。(...)我々は第二のものとして、一切の依存的存在ないし生成の条件、すなわち時間をもつことになりましょう。「時間は一切の生成の条件である」というのは、同一律的命題です。なぜなら、それは「継起は結果として生じるものの条件である」というにすぎないからです。永遠に不動の自我において、そしてただそこにおいてのみ自己を示す人格は、生成すること、時間のなかで始まることはできません。なぜなら、かえって逆に時間がそのなかで始まり、不動のものが変異の根拠にならなければならないからです。
これは第一信での言及、そして後に続く「人間はこれを空間においては自分の外にあるものとして、また時間においては自分のなかで変化するものとして」とあるように、超越論的感性論であると言えよう。シラーは、こうしたカント的自我のもとに「相対立」する「二つの根本法則」を紹介する。「第一は絶対的実在性にむかう」ような「感性的衝動」で、「第二は絶対的形式性にむかう」ような「形式衝動」である(衝動の定義は一二信で行われる)。シラーはそのアンビバレントな例として花をあげる。 不動のものが変移の根拠にならなければならない(...)花が咲き、そして萎む、と言うとき、我々は花をこの変化における永続的なものとするのであり、二つの状態〔咲くと萎む〕がそこにおいて表される、いわば一つの人格を花に付与しているわけです。
第一二信
我々の内なる必然的なものを現実化し、我々の外なる現実的なものを必然性の法則に従わせるという、この二重の課題を果たすために、我々は二つの相対立する力によって突き動かされます。この力はその目的の実現にむかって我々を駆りたてるのですから、衝動とよぶのがふさわしいでしょう。この衝動の第一のものは、感性的衝動と私が名づけようと思うもので、人間の身体的存在、すなわちその感性的本性に発し、(...)人間性の完成を不可能にするものもやはりこの衝動にほかなりません。それはより高く志向する精神を断ちがたき鎖で感性界につなぎとめ、抽象概念を無限への自由な飛翔から現存世界の制約へとよび戻すのです。次に、二番目の衝動は形式衝動と名づけることができるもので、これは人間の絶対的存在、すなわちその理性的本性から発し、人間を自由にし、その現象の多様性を調和させ、状態の変化にかかわらずその人格を確保することに努めるのです。 換言するなら、感性的及び身体的に「現存世界」へつなぎとめるのが「感性的衝動」であり、理性的及び精神的に「抽象概念」への無限な飛翔へと導くものが「形式衝動」であるのだ。その具体例として音楽をあげる。
時間中に存在するものはすべて継起的ですから、何かが存在するということは、その他の一切のものが締出されるということにほかなりません。楽器で一つの音を聴くとすれば、可能的に与えられるすべての音のうちこの唯一の音が現実的であるということです。人間は現存するものをそれゆえこの衝動だけがもっぱら活動するときは、必然的に最高の限定が現存するわけです。
第一三信
一見したところの二つの衝動の傾向は、一方が変化へ、他方が不変へとむかうことによってこれ以上相対立するものもないように見えます。にもかかわらず、、人間性の概念を汲みつくすのはこの二つの衝動であり、両者を媒介しうるような第三の根本衝動などはまったく考えられない概念です。ではこの本源的で徹底的な対立によって完全に廃棄されてしまったように見える人間性の統一を、どのようにして再建したらよいのでしょうか。
第一四信
そこでシラーは「人間性の統一」を再建する「遊戯衝動」を提案する。 「人間は自己の実在性を犠牲にして形式を求めてはならず、また形式を犠牲にして実在性を求めてもなりません(...)。」(...)十全な意味で人間であるということは、この二つの衝動のうち一方だけを、あるいは一つずつを順々に満足させるにとどまるかぎりでは、決して知ることができません。(...)しかしもし彼がこの二様の経験を同時にする場合、つまりおのれの自由を自覚するとともにおのれの現存を感受する(...)場合が経験のなかに出現しうるとすれば、それは人間のなかに一つの新しい衝動を目覚めさせることになるでしょう。前述の二つの衝動は人間のなかで協働しているのですから、一つ一つして見れば、この衝動はその各々と対立しており、新しい衝動と言ってもよいでしょう。感性的衝動は、変化が存在し、時間がないようをもつことを欲し、形式衝動は、時間が廃棄され、いかなる変化もないことを欲します。したがって、両者が結合してはたらくこの衝動(私が名称の意味を説明するまで、遊戯衝動とよぶことをさしあたりお許しください)―この遊戯衝動は、時を時のなかで廃棄し、生成を絶対的存在に、変化を同一性に結びつけうるようにむけられるもの、ということになりましょう。
ここで言われる「遊戯衝動」は、「根本衝動」でないことを理解しなければならない。あくまで「根本衝動」である「感性的衝動」と「形式衝動」の「結合」によってうまれる二次的衝動が「遊戯衝動」であるのだ。
感性的衝動はその主体からすべての自己活動性と自由を締出し、形式衝動はその主体からすべての依存性と受動を締出します。しかし自由を排除するものは自然的必然性であり、受動を排除するものは道徳的必然性です。したがって両衝動ともに、一方は自然法則によって、他方は理性の法則によって心に強制を加えます。(...)感性的衝動は自然的であらざるをえず、形式衝動は道徳的であらざるをえない
即ち、第三信での「自然的必然性」(物的、形而下的、肉体的)と「道徳的必然性」(心的、形而上的、精神的)とそれを結ぶ「第三の性格」としての「美」はそれぞれ、「感性的衝動」、「形式衝動」、「遊戯衝動」に対応するのだ。そして両衝動は、人間を駆り立てる意味で双方向から「心に強制」を加える。「遊戯衝動」はこれらを昇華する。
両衝動がそのなかで結合している遊戯衝動は、心を道徳的かつ自然的に同時に強制することになるでしょう。ところが遊戯衝動は一切の偶然性を廃棄しますから、一切の強制をもまた廃棄し、人間を自然的にも道徳的にも自由にするはずです。
一五信
あまり気の乗らない道を通ってあなたをお連れしましたが、目的地にだんだん近づいてきました。いましばらくともに歩みを進めることに御同意下さい。そうすれば、ますます自由な視野が開け、魅力的な展望がおそらく途中の労苦を忘れさせてくれるでしょう。
第一に本信では、感性的衝動を詳細に検討する。
よって、形式衝動には生命が存在しないと言い換えられるだろう。啓蒙思想家は理性を人間性の回復だと論ずることからも、先見的な合理性への批判及び反省を行っていることがわかる。初信にて、フランス革命時に蔓延る野蛮人(理性の信奉者たる啓蒙思想家)と未開人(快楽に隷属されたリベルタン)に対する批判を試みたように、その意味でシラーは均衡を求めた。
形式衝動と素材消耗とのあいだに共通なもの、すなわち遊戯衝動が存在しなければならない。というのも、現実性と形式との統一、偶然性と必然性との統一、受動と自由との統一、このことだけが人間性の概念を完全なものにするのですから。(...)どちらか一方の衝動がもっぱら活動するというのは、人間の本性を未完成なものにしてしまい、そこに一つの制限を置くことになります。(...)御存知の通り、我々はもっぱら物質でもなく、またもっぱら精神というわけでもありません。したがって人間性の感性としての美は、経験の証拠にもあまりに忠実でありすぎる鋭敏な観察者が主張するような、また時代の趣味がそれへと引下る傾向にあるような、単なる生命ではありえず、一方また経験からあまりに遠かった思弁的な哲学者や、その説明においてあまりに芸術の要求に引きずられる傾向のある哲学的芸術家によって判断されるような、単なる形態でもありえません。(...)「美しいものは単なる生命でも、単なる形態でもなく、人間に対し絶対的形式性と絶対的実在性という二重の法則を授けることによって生ける形態、すなわち美でなければならない」と。したがって理性はまた、こういう要求をかかげるのです。「人間は美ともっぱら遊ぶべきであり、また美とだけ遊ぶべきである」と。 ここで第六信で「ギリシア国家の―個々がみな自主的な生活をたのしみながら、いざとなれば、全体になることのできる―あのポリープ的性質は、いまはただ一個の精巧な時計仕掛けに―数かぎりなく無数の、しかも生命のない部分部分のつなぎ合わせがつくる、全体で一個の機械的生活に―その席をゆずっているのです」としたように、ギリシャがその体現であると論ずる。
ギリシャ人(...)は地上でおこなわられるべきことをオリュンポスの山へ移したのです。彼らは天上の真理に導かれて、死すべき者の頬にしわを刻む辛苦労働も、空虚な外面を磨く虚しい快楽も、ともに至福な神々の額から拭い去り、永遠に満ち垂れる神々をあらゆる目的、義務、配慮の束縛から解放し、無為と無頓着とを神々の地位の羨むべき運命といたしました。それは最も自由にして最も崇高な存在に与えられた単に人間的な名前にすぎません。自然法則の物質的強制も道徳法則の精神的強制も、二つの世界を同時に包含する必然性という、より高度な概念のなかでともに消滅しました。そしてこの二つの必然性の統一から、真の自由がはじめて輝き出るのでした。(...)しかし我々は天上的な慈仁にやすらかに身を捧げる一方で、天上の自足性は我々を脅して尻込みさせます。全き形態、完全に閉じられた創造は自己自身のなかにやすらい、住まい、あたかも空間の彼岸にいるかのように、譲歩も抵抗もありません。そこには力と戦うべき力はなく、時間性が入りこむ隙間もありません。一方で押えがたく捉えられ、引きつけられ、他方で遠くに隔てられ、我々は最高の休止と最高の活動の状態に同時に置かれます。そしてそこに、あの不可思議な感動が生じるのです。それを表現するのに、悟性はいかなる概念もなく、言葉はいかなる名もありません。 まさに、遊ぶこととは「最高の休止と最高の活動の状態に同時に置かれ」ることだと言える。この二重の形式が混在する「不可思議な感動」こそ美を齎す遊戯衝動を象徴するのであろう。よって前傾されたテクストは、「我々は相対立する二つの衝動の交互作用と相対立する二つの原理の結合とから、美が生じるのを見ました」として次信が始まるように、美のダイナミクスを見事に表現したものであると言えるだろう。
一六信
我々は相対立する二つの衝動の交互作用と相対立する二つの原理の結合とから、美が生じるのを見ました。したがって、美の最高の理想は実在性と形式との最も完全な結合と平衡のなかに求められることになるでしょう。しかしこの平衡はつねに、現実界では完全には到達できない理念にとどまります。現実においては、一方の要素がどうしてもいつも他方の要素より過重になってしまうのです。それで、経験の成し遂げうる最高のものでも、実在性のほうが重くなったり、形式のほうが重くなったりして、両原理のあいだが動揺するでありましょう。
こうして存立する感性と形式の「平衡はただ一つのもの」であるが、対照的にで「理念における美はどこまでも不可分の一者ですが、これに対して経験における美は、平衡が動揺して二様の仕方で(...)二重の存在とな」るとして、経験的美の類型化を行う。そこで提案されるは融和的或いは融解的美と、緊張的或いは精力的美である。
厳密な必然性をもって、美には融和的な作用と緊張的な作用とが同時に期待されるということが帰結します。すなわち、感性的衝動と形式衝動をともにその限界内にとどめるためには融和的作用が、そして両衝動が各各の力を保持するためには緊張的作用が必要なのです。しかし美のこの二つの作用は理念から見れば、まったく唯一不二のものでなければなりません。それは両性質を一様に緊張させることによって融和させるべきであり、両性質を一様に融和させることによって緊張させるべきなのです。(...)したがって、理想-美においては単に観念において区別されるにすぎないものが、経験の美においては現実存在において異るのです。理想-美は不可分、単一ではありますが、異った関係のもとでは、融解的性格としても精力的性格としても示されます。一方、経験においては融解的な美と精力的な美というものが実際に存在するわけです。
では融和的或いは融解的美と、緊張的或いは精力的美とはなんたるか。シラー曰く双方が軌を一にするは、感性と形式の平衡である。しかし平衡には二つの方途が存在するのだ。それこそが感性と形式の平衡を、両者の緊張関係をもって為すことと両者の融和をもってなすことである。それゆえにシラーは「質料か形式のどちらかの強制のもとに置かれている人間に対しては、融解的な美が必要です。なぜなら、彼は調和や優美を感受する以前から、すでにとうに大きなものや力によって動かされているからです。趣味に耽溺している人間に対しては、精力的な美が必要です。なぜなら、彼は未開の状態からもちこしてきた力を洗練性の状態のなかであまりにも軽率に見失いがちだからです」と結論づけるのだ。
融解的な美が人間にある程度の柔弱と衰弱をもたらすのを防ぎえないと同様に、精力的な美はある程度の粗野と硬さの残滓を払拭できません。なぜなら、後者の美の作用は心を自然的にも道徳的にも緊張させ、その弾力を増加させるところにあるために、気質や性格の抵抗によって印象の受容力が容易に減じられ、繊細な人間性でも生硬な性質にだけふさわしいような抑圧を蒙ったり、心性の崇高さには熱情の恐るべき噴出がつきものなのです。したがってまた、規則と形式の時代には、自然は支配されると同様しばしば抑圧され、克服されると同様しばしば傷つけられるのが見出されるでしょう。一方、融解的な美の作用は心を自然的にも道徳的にも融和するところにあるのですから、同様に容易に、感情の力までが欲求の暴力によって抑えこまれ、また性格も情熱にだけふさわしいような力の消耗を蒙るということになります。したがって、いわゆる洗練された時代には、しばしば柔軟は柔弱に、平坦は浅薄に、正確は味気なさに、自由は恣意に、軽快は浮薄に、やすらいは無感覚に退化してしまい、また最も軽蔑すべき戯画がこの上なく立派な人間性と隣合せになっているのがよく見られるのです。それで、質料か形式のどちらかの強制のもとに置かれている人間に対しては、融解的な美が必要です。なぜなら、彼は調和や優美を感受する以前から、すでにとうに大きなものや力によって動かされているからです。趣味に耽溺している人間に対しては、精力的な美が必要です。なぜなら、彼は未開の状態からもちこしてきた力を洗練性の状態のなかであまりにも軽率に見失いがちだからです。
そうしてシラーが帰結するは、経験的美の二極を、唯一なる理念的美の「なかへ解消」することと、感性と形式の統一こそが本研究の主題であるとするのだ。
このようなわけで、私は研究の歩みにおいて、美的観点において自然が人間とともにとった道をまた私の道ともして、美の種概念から類概念へと昇っていくことにしましょう。私は融解的な美の緊張した人間への作用と精力的な美の弛緩した人間への作用とを吟味し、最終的には、相対立する二つの美の種を理想-美の統一のなかへ解消するとともに、あの二つの相対立する人間性の形式を理想・人間の統一のもとに没入させるでありましょう。
一七信
一六信にて論じられた美を成すための方途と対照的に、本信では「理念の国から現実の舞台へと降りたって、人間を一定の状況下、つまり本源的に人間という単なる概念からではなく、外的環境や彼の自由の偶然的使用から出てくるもろもろの制限下において、人間を捉」えることで、美の欠落がいかにして生じるかを紐解く。
人間性の理念が人間においてたとえいかに多様な形で制限を受けるにしても、全体としてはただ二つの相対立する片寄りが起るにすぎないことを、その内容がすでに我々に教えています。すなわち、人間の完全性が感性的な力と精神的な力の一致しあう勢力のなかにあるとすれば、人間がその完全性を失うのは、一致の不足によるか、あるいは勢力の不足によるかのいずれかです。
感性と形式のどちらか一方の欠如による平衡の崩壊、或いは双方の欠如によって生じる緊張関係の不足。ひいては荒れ狂う緊張関係の衝突による一致の不足、すなわち分離状態によって、「美の理想的な完全性」は瓦解するのだ。そして経験的美の二極とはまさにそれぞれを美へと引き戻すダイナミクスなのである。それでは前信で提起された理念的美とはなんたるか。
理念的美が可能にするは、経験的美における融和的=融解的美と緊張的=精力的美の総合的なダイナミクスである。すなわち、唯一なる理念的美は経験的美の二極の作用を兼ね備える。
二つの相対立する制約は―これがいまや証明されなければならない点なのですが―美によって廃棄されることになるでしょう。この美は、緊張した人間には調和を、そして弛緩した人間には勢力をふたたび依復させ、このようにして、その本性に従って制限された状態を絶対的な状態に戻し、人間を自己自身において完成した全体にするのです。
すなわち、理念的美は―「緊張した人間」に「融和的な作用」を齎し、「弛緩した人間」に「緊張的な作用」を齎すことが可能なのだ。よって理念的美は二つの経験的美を廃棄する。それは言い換えれば自由である。
感性によって一方的に支配された人間、すなわち感性的に緊張した人間は、形式によって解放され、自由になるのであり、法則によって一方的に支配された人間、すなわち精神的に緊張した人間は、質料によって解放され、自由になります。
一八信
しかしこの中間的状態とは果たしてなんだろうか。なぜなら自然=感性的な対象は「経験によって」、また道徳的=精神的対象は「理性によって、それぞれ直接に確実です」。ただ美にとってそれはなんだろうか。
質料と形式、受動と能動、感覚と思考とのあいだの深淵は無限であり、決してなにものによっても媒介できない(...)これこそ美に関する全問題が最終的にかかっている肝腎かなめの点であり、この問題の満足のいくような解決に成功すれば、美学の全迷路を通り抜ける導きの糸を同時に発見したことになるのです。
ここで十七信の主題へと回帰する。下記でシラーが唱えるは、二つの経験的美を唯一なる理念的美の「なかへ解消」することで、経験的美を廃棄することそのものであると言えよう。
美は、互に相対していて決して一つになりえない二つの状態を互に結びつける、と言われます。この対立から我々は出発しなければなりません。我々はそれをまったく純粋、厳密なかたちで捉え、認識し、二つの状態がはっきりと分たれるようにしておかなければなりません。そうでないと、我々は混合することはあっても、統一することはありません。第二に、この二つの相対立する状態を美が結びつけ、それゆえこの対立を廃棄すると言われます。二つの状態は互にどこまでも対立しあうのですから、この状態を結びつけるには、それを廃棄することによるほかないのです。それゆえ我々の第二の仕事はこの結合を完全なものにして、それを純粋、完璧に遂行し、二つの状態が第三のもののなかにまったく消滅し、全体のなかにいかなる分裂の跡も残らないようにすることです。そうでないと、我々は別々のものにしてしまうことはあっても、統一することはありません。
そしてそれこそが従来の美学者の失敗であると言える。
哲学の世界で美の概念についてかつて交され、一部、今日に至るも交されている論争の原因は、十分に厳密な区別を立てないで研究をはじめたか、まったく純粋な統一まで研究を貫徹しなかったかのどちらかによるのです。美というこの対象を反省する際に、感情の導きに盲目的に自己をゆだねてしまう、前の場合に展する哲学者たちは、感覚的印象の総体になんら個別的なものを区別しないので、美についていかなる概念にも到達できません。一方、もっぱら悟性の指導を仰ぐ他の哲学者たちは、美の総体に部分だけを見て、精神と物質とはその完全な統一のなかにあっても、どこまでも別になってしまっているために、美についての概念に到達できません。前者は、感情のなかに結びつけられているものを分離すべき場合に、か動的な、つまり作用する力としての美を廃棄してしまうことを恐れます。後者は、各性のなかに分れているものを結びつけようとする場合に、論理的な、つまり概念としての美を廃棄してしまうことを恐れます。前者は美を作用するがままに考えようとし、後者はそれを考えられるがままに作用させようとするわけです。それでどちらも真理を捉え損うことになりますーすなわち、前者はその限られた思考能力で無限の自然と張りあおうとするために。後者はその思考法則で無限の自然を制限しょうとするために。一方はあまりに厳格な美の解剖によってその自由がひわれることを恐れ、他方はあまりに大胆な統一によってその概念の規定性が損われることを恐れます。しかし前者は、美の本質を自由に置く点ではまったく正当ではありますが、その自由が無法則性ではなく法則の調和であり、恣意ではなく最高の内的必然性であることを願慮しておりません。後者は、同等の権利をもって美に要求しうる規定性が一定の実在性の排去ではなく、すべての実在性の包合であり、それゆえ限定ではなく無限性であることを願慮しておりません。もしも数々が、皆性の前では分れている二つの美の要素から出発しながらも、やがてそれを通じて大が感覚にはたらきかけ、そのなかでは例の二つの状態はまったく消滅してしまうような純粋な美的統一にまで上ってゆくならば、両陣営の人々がともにつまずいた障害をうまく避けることができるでありましょう。
一九信
いまや人間の感覚が刺載され、無数の可能的規定のなかからただ一つの実在性が得られなければなりません。一つの表象が彼のなかに生じなければなりません。(...)空間中に一つの形態を描こうとすれば、我々は限りなき空間を限定しなければなりません。時間中に一つの変化を表しようとすれば、我々は時間を分割しなければなりません。してみれば、我々は制限によってのみ実在性に達し、否定ないし排除によってのみ音定ないし現実的定立に達し、我々の自由な規定可能性の廃棄によってのみ規定性に達することになるのです。(...)空間中に一つの場所を規定する以前には、我々にとってそもそも空間は存在しません。しかし絶対的空間がなければ、我々が場所を規定するということもないでしょう。時間についても同様です。我々が瞬間をもつ前には、我々にとって時間はありません。しかし永遠の時がなければ、我々が瞬間の表象をもつこともないはずです。したがって我々は、もちろん部分によってのみ全体へ、限界によってのみ無限界へと到達するのですが、他面においてはまた、全体によってのみ部分へ、無限界によってのみ限界へと到達するのです。
一つの実在性、一つの表象を以て初めて我々は全体へ至るが、同時に一つの実在性、一つの表象は全体の裡に存在する。ゆえに部分と全体、限定と無限は、相互的な媒介或いは互いの存在に準拠することでそれぞれが存立し得るのである。では途端に始まったシラー形而上学講義は如何にして美学と軌を一にするのか。
人間というものには、受動的規定可能性と能動的規定可能性という二つの異った状態が区別され、また受動的規定と能動的規定という同様に二つの状態が区別されます。
二十信
自由は、人間が完全で、彼の両方の根本衛動を展開させる場合にはじめて、そのはたらきを始めるのです。したがって、人間が不完全で、両衝動の一方が締出されたりするかぎりでは、自由は女如せざるをえず、そして人間にその完全性を返してくれる、ありとあらゆるものによって恢復できなければなりません。さて、人類全体においても、個々の人間においても、人間がまだ完全ではなく、両衝動の一方だけがもっぱら活動するという時機が現実に示されます。御存知のように、人間は単なる生命に始まって形式に終るものであり、人格より前に個体であり、制約から無限へとむかうものです。それで、感覚が意識に先行するために、感性的衝動が理性的衝動より以前にはたらくのであり、この感性的衝動の先行性という点に、人間の自由の全歴史を解く鍵があるのです。
人間が種としてる個体としても、単なる生命から形相へ、個人から人格へ、制約から無限へと向かう際には、感覚が意識に、感性的衝動が理性的衝動に先行する。ゆえにそれこそが空虚な状況に、受動的規定がなされる始点を意味すると同時に、「自由の全歴史を解く鍵」を意味するのだ。
人間は直接に感覚から思考へ移行することはできません。一つの限定が一方で廃棄されることによってのみ、それに対立する限定が入りこむことができるのですから、人間は一歩後戻りをしなければなりません。それで彼は受動を自己活動に、受動的規定を能動的規定に代えるために、さしあたり一切の規定から解放されて、単なる規定可能性の状態を閲歴しなければなりません。つまり、なにかが彼の感覚に印象を与える前に、なんらかの仕方で自分がかつていた単なる無規定性というあの消極的状態へと戻らなければなないのです。しかしこの状態は、内容的にはまったく空虚なものでした。それで、この状態から直接なにか種極的なものが出てこなければならないのですから、いまや、おなじ無規定性とおなじ無制限の規定可能性とが、できるだけ大きな内容と結びつくということが問題となるわけです。人間が感覚から受取る規定は、実在性を失ってはならないために、保持されねばなりません。が同時に、それが制限であるかぎり、無制限の規定可能性が生れるべきであるために、廃棄されねばなりません。してみれば、問題は状態の規定を破壊すると同時に保持するということになります。そしてこのことは、この規定に他の規定を対抗させることによってのみ可能です。秤の皿はからのとき釣合っていますが、ひとしい重量のときもまた釣合うのです。 即ち人間の自由の全歴史とは、空虚な無限性或いは無規定性に始まり、第一段階にて感性的衝動の先行性によって受動的規定が為され、第二段階にて理性的規定が浮上し、第三段階にてそれらが均衡を成し「ひとしい重量」となることで「感覚と思考とのあいだの深淵」に広がる無限なる美及び自由を獲得する一連を意味するのだ。それゆえに、美への到達は、無限性への回帰を意味する。まさにシラーはそれを「なにかが彼の感覚に印象を与える前に、なんらかの仕方で自分がかつていた単なる無規定性というあの消極的状態へと戻らなければなないのです」と表したのである。
二一信
ここにきてシラーは空虚な無限性と美的な無限性の差異について論ずる
規定可能性に二様の状態があり、規定にも二様の状態があります。いまや私はこの命題を明らかにすることができます。心はおよそなにも規定されていないかぎり、規定可能的です。しかしそれが排他的に規定されていないかぎり、すなわち、その規定において制限を受けていないかぎり、同様にまた規定可能的です。前者は単なる無規定です(それは実在性がないために制限がありません)。後者は美的規定可能性です(それはすべての実在性を結びつけるために制限がありません)。(...)美的規定可能性と単なる無規定性とは、ともに一定の存在を排除するという唯一点で出会って、他のすべての点では無と総体のように、すなわち無限に異っています。したがって、欠如からくる無規定性は空虚な無限性として表象されますが、その真の対をなす美的な規定自由性は充実した無限性と見なければなりません。
規定可能性には「単なる無規定」と「美的規定可能性」があり、前者は一切の実在性をくが故に制約がなく、後者は全ての実在性を結びつけるが故に制約がない。よって、前者は空虚な無限性と表象されるのに対して、後者の美的な規定自由性は、満たされた無限性とみなされるのだ。そしてそれは無規定ゆえに両者は無の性格を有する。
してみれば、美的状態(...)は無なのです。それゆえ、美やそれが々の心を誘う気分が認識や心性についてはまったく無関心で役に立たないと説く人々は、完全に正しいと認めなければなりません。(...)したがって美的陶治によっては、人間の人格的価値ないしその尊厳は、それが人間自身にのみ依存しうるかぎりでは、まだまったく無規定であり、それが到達しえたものといっては、人間がしたいことを自分からするということを本性上可能にしたということ―つまり、人間があるべきところのものであるという自由が人間に完全に返されたということ以上ではありません。
即ち、無規定ゆえに自由なのであり、それは空虚な状態の自由とは異なり、自然と道徳のもとにありながら可能になる自由なのだ。言い換えるなら、自由の高次元での回復こそ、美的無規定性の本懐なのである。
二二信
自然状態は、「すべての印象に対して我々の弱く移ろいやすい心を開いてくれますが、同時にその分だけ、奮励努力にむかう力を減殺」する。道徳状態は「我々の思考力を緊張させ、抽象的思考を誘うものは、我々の精神を強化して抵抗力をつけますが、同時にその分だけ精神を頑なにし、そして独立性の強化に役立つに比例して感覚性を奪ってしま」う。この不完全なあり方を超克するものこそ美的状態なのであり、美的状態へと至るとき私たちは、受動的な力に対しても能動的な力に対しても同程度にその支配者であり、真剣な事柄にも遊びにも、抽象的思考にも直観にも、同程度に容易に向かう。このような「力と活潑さに結びついた精神の、このような高度の落着きと自由」こそ、「真正の芸術作品」が私たちに与えてくれる美的な気分なのである。
そこから真正の芸術作品とはなんたるかを語る。
真の美しい芸術作品では、内容は無で、形式がすべてでなければなりません。(...)見る者、聞く者の心はまったく自由で、傷つけられることがあってはなりません。(...)情感に訴える芸術(悲壮のように)も決して異論の対象とはなりません。なぜなら、第一にそれは特殊な目的(悲壮なもの)に役立つのですから、まったくの自由芸術というわけではありません。また次に、芸術を真に知る人なら、芸術作品はこの種のものでも、それが最高の感動の嵐においても心の自由を守れば守るほど一層完全なものであるということを否定しはしないでしょうから。情熱の芸術というものはあります。しかし情熱的な芸術というのは矛盾です。なぜなら、美の必然的効果は情熱からの自由だからです。また教育的(教訓的)ないし改善的(道徳的)芸術という概念も矛盾しています。なぜなら、心に特定の傾向を与えるなどということより美の概念に反するものもありませんから。しかし芸術作品が単にその内容によって効果を与える場合、必ずしもそれがその作品の無形式ということの証明になるとはかぎりません。それが判断する者における形式の久知からくることも同様によくあることが証明できます。判断する者が緊張しすぎたり、あるいは弛緩しすぎたりすれば、つまり、単に悟性とともにとか、単に感覚とともにとか受取るのに慣れてしまえば、彼はどんなみごとな全体においても単に部分だけに、またどんな美しい形式においても単に質料だけにしがみつくにすぎないでしょう。彼は生まの要素を感受することができるだけなので、芸術を楽しむ前に作品の美的組織を破壊してしまい、巨匠が限りないわざで全体の調和のなかに消し去った個別的なものをわざわざほじくり出してしまうのです。芸術に対する彼の関心は、もっぱら道徳的なものか、自然的なものです。本来あるべき姿の美的なものではありません。こういう読者は真面目で悲壮な詩を説教のように享受し、素朴な詩や滑稽な詩を酒のように享受します。そしてたとえ数世主の詩(クロップシュトック)のようなものであろうと、悲劇や叙事詩などから教育を求めるほど無趣味ならば、彼らはアナクレオンやカトゥルスの詩にきっと憤慨するにちがいありません。 アナクレオンはギリシャの詩人、カトゥルスはローマの詩人で、ともに酒や女など人生の快楽を歌いあげた。「悲劇や叙事詩などから教育を求めるほど無趣味な」道徳徒が彼らを憤慨するは、彼らの真反対に位置する過激なエピキュリズムにあるだろう。しかし、シラーはカントの目的なき合目的性。即ち実践的無関心状態において存する美こそ真なる美であると謳う立場と意を共にするゆえ彼らの解釈を拒む。またそれは感官に支配される古典的美学と異なり、むしろそれから解放するものだともする。よって、シラーの言う「真正の芸術作品」とは美的状態に同じ中間状態であると同時に、中身を排した最も純粋な形式性を有した芸術作品にあるのだ。 二三信
「しかしこのような媒介がはたして本当に不可なのだろうか、とあなたは反論されるかもしれません。真理と義務は、感性的人間においてすでに自分だけで、また自分自身によってでもその入口を見つけることができるのではないか、と」。などとその反駁を想定し、シラーは次のように応答する。
真理と義務を負うには「その規定力」をうちから錬成するべく、「規定可能性」を取戻すべきにある。そして「規定可能性」を取戻すにはそれを失うことが求められ、それは「空虚な無限性」と「美的な無限性」の分水嶺を意味する。しかし、前者を選ぶことは「能動的規定の可能性をもまた失うことになるでしょう」。よって「感性的人間を理性的にするには、あらかじめ彼を美的にする以外に道はありません」とシラーは帰結するのだ。しかるに、美的陶冶。即ち美的教育の必要性を訴える。
二四信
シラーは二十信で説明された人間の三段階を改めて、「人間は、物理的状態においてはただ自然の力だけを受動します。美的状態においてはその力から解放されます。そして道徳的状態においては、それを支配します」と区別し、道徳的状態への通過儀礼は義務として科されるとい云う。
では果たしてシラーにとって自然的な状態はなんたるか。シラーはその第一段階「理性なき動物」であるとして、つぶさに描写する。
自然状態へ出来する現象は「絶えずその圧迫と不安におのの」く結果となり、「有無を言わせぬ欲求に追いたてられ」ることで欲望に要請された存在としか関係を結ばない断片の宇宙に住まい、他者に映る受動的規定によって自らを定義し、相対的な諸関係の只中で暗澹な生活をおくる。これがシラーの定義する自然状態なのだ。よって自然状態「にとって世界は単に運命であって、まだ対象では」ないのであった。
人間のなかに理性が最初に出現しても、そのことはまだ人間性の始まりではありません。人間性は彼の自由によってはじめて決せられるでしょう。そして理性はまず第一に彼の感覚的依存を無際限にするところから始めます。この現象はまだその重要性と普遍性にふさわしく明らかにされていないように私には思われます。御存知のように、理性は絶対者(自己自身によって根拠づけられ、かつ必然的なもの)の要求によって人間のなかにその本性を示すものです。そしてこの要求は彼の自然的生命の個別的な状態においては十分に実現できませんから、自然的なものを完全に捨てて、制限された現実性から理念へと登高するよう彼を強制します。しかしこうした要求の真意が、彼を時間の制約から免れさせて感性界から理想界へと登高させるというところにあるにしても、それが(この感性優位の時代にはほとんど避けがたい)誤解によって自然的生活へと向けられ、人間をそこから解放するどころか、恐るべき奴隷状態へと突き落すということもありえます。そして事実またそのとおりの状態なのです。人間は前方へ、無制限の未米へ向って進もうとして、想像力の翼をはばたかせ、単なる動物性が閉じこもっている現在の狭い制約を捨て去ります。ところが、目眩く想像力の前に無限なるものがたち現れる一方で、彼の心はまだ個別的なもののなかに住み、瞬間に仕えることを止めていませんでした。絶対への衝動は彼をその動物性の只中で驚かせます―そしてこの暗黒の状態においては、彼のすべての努力は単に物質的なもの、時間的なものへと向い、またもっぱら自己の個体に制限されているために、彼はこの要求によって自己の個体から離脱するどころか、それを無際限に拡張し、形式ではなく、潤れることのない質料を求め、不変的なものではなく、いつまでも持続する変化や自己の時間的存在の絶対的確保を求めて努力するにすぎません。思考と行動面に適用されることによって彼を真理と道徳へと導くべきあの衝動は、いまや彼の受動と感覚面に関係づけられて、無制限の欲求、絶対的欲望以外のなにものも生み出しません。かくして、彼が精神の領域で得る最初の果実は心配と恐術です。どちらも理性の作用によるもので、感性のではありません。しかしそれはその対象を捉え損い、その定言命令を直接に質量に適用してしまう理性の作用なのです。この樹木のならせる果実はすべて、無制約な幸福の体系であって、今日あるいは全生涯、あるいは全永遠―それで別にそれ以上尊厳が増すわけでもありませんが―をその対象とするでありましょう。単に生存や幸福のためだけに生存や幸福が際限もなく持続するというのは、単なる欲望の理想であり、単に絶対的なものめがけて努力する動物性によって提示される欲求にすぎません。したがって、こういう種類の理性の表現によって、自己の人間性のためになにか得るところがあるわけでもなく、彼は動物の幸福な制限性だけを失ってしまうのです。彼が動物に対してもつ利点と言えば、遠くへの努力のために―しかも無際限の遠さのなかで現在とは別のなにかを求めるというわけでもなしに―現在の所有を失うという、羨ましくもないものにすぎません。しかし理性がその対象において捉え損うことなく、また間において迷うこともないとしても、感性はまだ長いあいだ、答を傷るでしょう。人間がその性を用いて周囲の現象を原因と目的で結びつけはじめるや否や、理性はその概念に従って絶対的な結合、無制約的根拠へと突進します。そういう要求が目覚めうるためには、人間はすでに感性を乗り越えているのでなければなりません。しかし感性は逃げていく者を連れ戻すために、まさにこの要求を利用するのです。つまりここにこそ、人間が感性界を完全に捨て去って純粋な理念の領域へと飛翔しなければならぬと言われる点があるのでしょう。というのも、悟性はいつまでも制限されたものの内部にとどまりつづけ、最終的なものに出会うことなしに永遠に問いつづけるのですから。しかしここに語られる人間はまだそんな抽象力はありませんから、彼が感覚的な認識領域のなかで見出さず、またそれを恵えて純粋理性のなかにはまだ探し求めないものを、感覚的な認識領域のもとにある彼の感情領域のなかに探し求め、それを見かけ上見出すでしょう。感性は彼の固有の根拠となって自己自身に法則を与えるようなものはなにも示しませんが、いかなる根拠も知らず、いかなる法則をも願慮しないものを彼に示します。それで、彼は問いかける悟性を最終的な内的根拠によって安心させることができないので、無根拠の概念で悟性を少くとも黙らせ、そして物質の盲目的強制の内部にとどまるのです。なにしろ彼は理性の崇高な強制を捉えることなどまだできはしないのですから。感性は自己の利益より他の目的を知らず、また駆りたてられるのに盲目的偶然以外の原因を感じませんから、当然、人間は感性の利益をその行為の規定者にし、盲目的側然を世界の支配者にするのです。人間のなかの神聖なもの、すなわち道徳法則でさえも、感性におけるその最初の出現においては、こういう欺瞞を免れません。それは単に命じるのみで、人間の感性的な自己愛の関心にさからって語るのですから、彼がこの自己愛を外的なものと見て、理性の声こそ真の自己と見るところまでいかないときは、それが人間にとって外的なものと見えるのは当然です。それゆえ彼は、理性が与えてくれる無限の解放ではなくて、課せられる東縛を感じるだけです。立法者の威厳を自分のなかに感じるどころか、単に奴僕の東と力弱い反抗を感じるだけです。感性的衝動は彼の経験のなかでは道徳的衝動よりも先行するために、彼は必然性の法則に時間における始まり、すなわち実証的な源果を与え、そして最も不幸な誤りによって自分のなかの不変なもの、永遊なものを過ぎ去りゆくものの性にしてしまうのです。彼は、正、不正の概念がそれ自身において永遠に妥当するものではなく、意志によってもちこまれた約束事と見るようになってしまいます。人間が個々の自然現象の説明において自然を越えて、その外に、その内的合法則性のなかでのみ見出されるものを探すように、道徳的なものの説明において理性を越えて、その道程で神性を求めることにより自己の人間性をとり逃がしてしまうのです。人間性を捨て去ることによって贈われた宗教が、そのような由来にふさわしいおぞましき姿を示したり、永遠によって東紗されるととのなかった法則を、人間がやはり絶対的に永達にかたって拘束するものとは考えないとしても少しも不思議ではありません。彼の相手にするのは神聖な存在者ではなく、単に力の強い存在者にすぎません。したがって人間が神を崇める心も、自分を卑しいものにする恐怖なのであって、彼自身の評価によって自分を高める畏徴ではありません。人間がその理想とする使命からのこのように多様な逸脱は、無思慮から迷安へ、意志の久知から意志の腐敗へと、いくつもの段階を経過するもので、それらすべてがおなじ時代に起りうるということはありませんが、しかしそのすべてにおいて生命の衝動が形式衝動を支配しているのですから、全部が自然的状態の結果にちがいありません。理性が人間にまだ少しも語りかけることなく、自然的なものが盲目的必然性で彼を支配している場合にせよ、あるいは理性が感性からまだ十分に純化されておらず、道徳的なものがまだ自然的なものに奉仕している場合にせよ、いずれにせよ人間を支配する唯一の原理は物質的なものであり、人間は、少くともその最終的傾向から言えば、感性的存在者なのです。1唯一の相違は、前の場合では、彼は理性なき動物であり、後の場合では理性的動物であるということだけです。しかし彼はそのどちらであってもなりません。彼は人間であるべきなのです。自然が彼を独占的に支配してはならず、また理性が彼を条件付きで支配してもなりません。どちらの立法も互にまったく独立的で、しかもまったく一致しなければならないのです。 二五信
自然状態とは世界と未分化な存在であり、世界そのものであり、所与を享受する存在にある。しかし美的状態を以て自由を獲得した時、自らを打ちたて新たな世界が創造されるのである。よって美的な無限性とは、被造物の世界から画された者の前に広がる、自らの世界の「規定可能性」を示しているのである。
観察(反省)は人間をとり巻く宇宙に対する彼の最初の自由な関係です。欲望がその対象を直接捉えるとすれば、観察はその対象を遠くへ置き、人間を感情の昂奮から逃れさせることによって、まさにそれを自己の真の失われることのない所有物にします。単なる感覚の状態では人間を未分割の力で支配した自然の必然性が、彼の反省においてその力を止め、意識の散乱する光が収斂し、無限なるものの写しである形式が移ろいゆく地の上に反映することによって、感覚のなかに瞬間の平和が訪れ、永遠の変転者である時そのものも立ち止るのです。人間のなかに光が生れると、彼の外にもまた、もはや夜はありません。彼の内部が静まると、宇宙における嵐も和ぎ、自然の相争う力は永続的な境界のあいだでやすらうのです。してみれば、太古の詩が人間の内面におけるこの大事件を外部世界の革命として語り、時の掟に勝つ思考をクロノスの国を亡ぼすゼウスの形象で表しているのも決して不思議ではありません。 大地の象徴ガイア―原初神たるガイアの意味する大地は天をも内包した世界そのものであり、文字通りの大地とは違う存在である―に始まり、時間の神クロノスに終わる〈前ゼウス神話〉は、全宇宙を統べる絶対神の物語の終幕を意味する。未分化の統一された世界にゼウス・ポセイドン・ハデスで境界を定め、世界を画す行為はまさに、世界と一体にある自然状態の人間が美的状態を以て世界から自らを分離し、一つの世界を獲得するアレゴリーなのである。そうしたのちに獲得される精神の安寧を暗に示し、「内部が静まると、宇宙における嵐も和ぎ、自然の相争う力は永続的な境界のあいだでやすらうのです」とするのであった。
自然を単に感覚するだけのときは自然の奴隷であった人間は、それを考えることによってその立法者となります。以前は単に力として彼を支配したものが、いまや彼の規響する眼差しのもとで対象になります。彼にとって対象となるものは、彼に力をふるうことはできません。なぜなら、対象であるためには、それは彼の力を蒙らなければならないからです。彼が物質に形式を与えているあいだ、またそのかぎりでは、彼はその作用を傷つけられることはありません。なぜなら、人間の自由を奪うもの以外はどんなものも精神を傷つけることはできず、彼は無形のものに形を与えることによってみずからの自由を証明するのですから。単に質量が重く形なく支配し、不確かな境界のあいだにぽんやりした輪郭が動揺しているようなところでは恐怖が支配します。自然のどんな恐しいものも人間がそれに形式を与え、それをみずからの対象に変えることができれば、彼はそれにうち克つのです。彼がみずからの独立性を現象としての自然に対して主張しはじめると、同時に自己の尊厳を力としての自然に対しても主張することになり、気高い自由の力で神々に対して立ちあがります。神々は彼の表象となることによって、彼の少年時代、不安におののかせた幽霊の仮面を投げ捨て、彼自身の姿を見せて彼を驚かせます。猫獣の盲目的な強さで世界を支配する、東洋人の神的な怪物は、ギリシャ人の空想では人間に親しい領域に集合し、ティタン族の国は亡び、無限の力は無限の形式によって制御されるのです。
即ち、人間は美的状態を以て自らの世界の神となることで、万物を「対象」化し、自然の「無限の力は」対象化=形式化されることで、自然は「無限の形式によって制御される」のだ。よってフーコーがカント論にて「一九世紀の人間は、人類の中に受肉した神なのです」と云うは、シラーの美的状態を形容する最たるテーゼなのだろう。
知性というのは秩序、すなわち合目的性を喜ぶが、しかし空想力(ファンタジー)・想像力(イマジネーション)は無秩序を楽しむ