ポール・ド・マン
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レトリックの再刻
今日、フランスやその他の地で実践されている文学記号論のもっとも顕著な特徴の一つは、文法的(とりわけ統語論的)構造と修辞的構造とを、両者間にありうる食い違いに対しての明確な自覚なしに結合させて用いている、ということである。ロラン・バルト、ジェラール・ジュネット、トドロフ、グレマスおよび彼らの弟子たちは皆、文学的な分析において、文法とレトリックの機能を完全に連続させ、なんの困難も妨害もなしに文法的構造から修辞的構造へと移行するという点で、ヤコブソンを単純化するとともに、ヤコブソンから退行している つまり、フランス的な文学記号論の提唱した比喩(tropes)や文彩(figures)に関する研究は文法的・統語論的研究の支配下でなされる二次的なサブ研究のようなものにすぎず、レトリックの分析は普遍文法という強固で一枚岩的なパターンに同化・吸収されてしまうのだ。
ド・マンはジュネットが範列的(paradigmatic)で隠喩的な文彩と連辞的(syntagmatic)で換喩的な構造とを無造作に結合し、両者間に生じる可能性のある「論理的緊張」の契機をいっさい考慮に入れていないと論じている。つまり、彼に言わせるなら、ジュネットの分析は比喩を文法に重ね合わせるという完全に「記述的かつ非弁証法的」な性格のものであり、構造主義的記号論の悪しき還元主義から一歩も踏み出してはいないということになるであろう 論理的緊張とは
比喩と文法の両項の不連続性を提唱した思想家が下記である
「解釈項」は、記号と対象物の間に介在し、記号と対象物の間に生じるのは一義的な「解読(decodage)」ではなく、解釈項に媒介された「読み」である。 別の記号へ、それからさらに別の記号へと無限に解釈されていかねばならないもの
パースは永久的に「ずれ」を生み出すようなこうした記号の無限解釈プロセスを「純粋レトリック」と呼ぶ バークの緊張
ケネス・バークは〜deflectionという概念を言語のレトリカルな基盤とみなしている。つまりそれは文法的パターンの内部で作用する記号と意味の無矛盾的な連結を弁証法的に転覆するものと考えられている。ここから文法とレトリックの区別というバークの有名な主張が生まれるのである ド・マンの主張
意味と形式=記号、あるいはレトリックと文法との間の「偏差」という考え方であり、とりわけ重要なのはそうした「偏差」が意図的な操作をへて生み出されるものではないという指摘にある。これが解釈項でありdeflectionであり差延である。 「偏差」への契機は言語内部のいたる所に潜在し、テクストは外部からの意図的・暴力的な力を加えるまでもなく内部から自然と綻びをきたすのだ。
脱構築とは、われわれがテクストに付け加えた何かではなく、そもそも最初からそれがテクストを構成していたのである
このように、ド・マンは意味と形式、レトリックと文法との間に生じる「論理的な緊張」を認識の外部に追いやり、文法的構造とレトリック的構造との間に安易な「和解」的対応図式を打ち立てようとしてきた批評的方法を執拗かつ適切に批判している
美の基礎づけとなりうる
更に人間性の基礎づけともなりうる
人間性というのはそれ自体としてはあの二つの衝動から構成されざるをえないものですが、しかしそれはただちに必然性と自由との間の均衡の取れた関係に等置されます。これをシラーは自由な戯れ、Spieltieb〔遊戯衝動〕と呼びます。そしてこれが人間に関する決定的な原理となります。人間はこの自由な戯れの可能性によって規定されるというのです。つまり「われ戯れる、ゆえにわれあり」といったところなのでしょう ① Spielraum〔自由活動の余地〕
② 均衡
原理のレヴェルにおける均衡・調和を意味してもいます。つまり必然性と偶然性のあいだ、規則と恣意的なものとのあいだの均衡・調和ということです。
サッカーの例
サッカーはまさに固有の規則に従って行われねばなりません。〜ところが他方、そういった規則には、きわめて恣意的なものが若干ともなってもいる。〜ペナルティー・キックは10ヤードだかそれくらいのところからシュートされねばならないことになっている〜なぜそれが11ヤードではなく、また9ヤードではないのでしょうか?これはまったく恣意的な決定です。しかしその決定はそれ自体の内部では法の原理なのであり、また法として機能しているのです。
③ Schein〔見せかけ/形象〕としての規定
戯れ〔演劇〕とは、舞台上でのリプレゼンテーション(再現・上演)、見せかけ(アピアランス)〔仮象〕、つまり演劇性を表示するものでもある
人類学的作用
この見せかける能力というのは、進歩した社会だけでなく未開社会をも特徴づけている、と言います。彼に言わせれば Putz und Schein への関心、つまり装飾と見せかけへの関心が生じているときにこそ社会は発生する。まさにそのとき美的(エステティック)なものが現前しているのであって、それが強力で確固たる社会的な力として働くのだ、というのです。
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シラーの二つの衝動の戯れから美の理想=人間性が生まれる、それを養うのが美的教育
シラーにおける美的国家の概念とはこうした美的教育の結果として生じることになる政治秩序のことであり、またそのような政治秩序こそ美的国家の概念から導出される政治制度にほかならない
美的なものの政治作用
美的なものというのは文化に属しており、だからこそ美的なものは国家に、つまり美的国家に属しているのです。こうして美的なものは、以下の引用に見られるように国家を正当化することになるわけです。
芸術は感情の表現である。芸術家が非芸術家と区別されるのは、自分の感じていることを表現することもできるという事実による。芸術家はさまざまな形式でそうすることができる。ある者は絵によって、ある者は音によって、またある者は大理石によって―あるいはさまざまな歴史的な形式で、政治家も芸術家である。政治家に取っての民衆とは、彫刻家にとっての石にほかならない。画家にとって色彩がなんの問題にもならないように、指導者と大衆のあいだにはほとんどなんの問題もない。絵画が色彩の造形芸術であるのと同じように、政治は国家の造形芸術である。したがって、民衆なき政治とか民衆に抗する政治とかいったものは、ナンセンスである。大衆を民衆に変形し、民衆を国家に変形すること―これこそつねに純粋な政治的課題の最も深い意味であった。 ロックは言葉の性質を明らかにするために「言葉の意味から出発しようとする」。そこで第一に単純観念というある種の思考実験を導入する。 s
ある存在物の名前を他の存在物の名前から切り離す境界線をくっきりと画定し、この境界線の出入りを取り締まる方法など、けっして存在しない。
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ド・マンの文学概念
一般に信じられている通念とは逆に、文学というのはメタファーからなる不安定な認識論が美的な快楽によって宙吊りにされる場などではけっしてない。厳密さと〔美的な〕快楽とを一点に収斂させることができるという見かたなど錯誤にすぎないことが示される場、それが文学なのである。
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ド・マンのアレゴリー概念
〈現前/不在〉と〈快楽/不快〉という四項から正方形をつくり、これを一つの同質的な「幾何学的」構造のなかに書き込むことなど不可能だろう。にもかかわらずこの不可能性をあたかも可能であるかのように認識してしまうとすれば、そうした認識は、実際にはあらゆる連続性(シークエンス)を破壊してしまうものを、何らかの物語(ナラティヴ)のなかに連続的に秩序づけられているかのように見せかけようとしているにすぎない。そしてこうした(アイロニー的な)擬似認識こそ、われわれがアレゴリーと呼んでいるのにほかならない。
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/icons/bard.icon 上野成利:訳註
テクストを理解可能性へと回収しようとする動き、偶発的(ランダム)に出来する出来事(イヴェント)を時系列的(テンポラル)な歴史記述(ヒストリオグラフィ)の内部へと回収しようとする動き、つまり首尾一貫した物語(story)の内部へと回収しようとする動き。
こうした読み方は、レトリックを通じて美的ないし詩的(poetic)に仮構しているにすぎないにも関わらず、そこには確固とした連続性があるという幻想(illusion)に陥っている。
このように出来事としてのテクストをレトリックによって物語の内部に回収することこそ美学イデオロギーの機能である。 /icons/白.icon
出来事性とは
1:忽然と出来し偶発的(random)に起こる(happen)もの、生起する(take place)もの、それが出来事(イヴェント)である。
そしてこうした出来事の偶発的な出来作用(occurrence)そのものを、<歴史>と呼ぶ。
こうした「出来事としての歴史」という考えかたは、時系列的(temporal)な流れに沿った一続き(sequence)の連続的・因果的な系列として歴史を捉えようとする考えかたとは、完全に対極である。
2:出来事というのは物質的(material)な性格をもったものでもある。テクストの場合に当たるものが文字(letter)である。
テクストには文字がまさに物質的な次元で書き込まれ(inscribe)、書き記され(note)、書き留められ(write down)ている。したがって、書かれたものすなわちエリクチュール(writing)をあくまでもそうした物質性(materiality)に即して捉えるかぎり、それは人間的な情動(affect)の入り込む余地などいっさいない、したがって人間的な価値や意味とはさしあたり無縁な、それ自体一つの物質にほかならないということになるだろう。
つまり、出来事というものが、物質的に世界に出来するものであるかぎり、テクスト上に出来したエリクチュールもまた、物質的(material)な書き込み(inscription)として把握しなければならない。
エリクチュールがあくまでも物質的な出来事であるかぎり、書き込まれた言葉は人間の主体の手を離れて自由奔放に意味表情(signifying)をおこなう。かくしてテクストはシニフィアンの戯れにほかならない。 /icons/白.icon
言葉の性質
比喩的性格
出来事性の2を基礎づけとするなら『クラテュロス』にみられる言語観、すなわち記号とそれが表象するものとが齟齬なく一致するとみなす立場は斥けられざるをえない。 そしてだとするなら言葉とは実在物をそのままい写しとったものではなく、一種の比喩(フィギュア)である。そもそもいかなる事象もそれ自体としてくっきりとした輪郭で象られる形象として現れることはない。にも関わらずそれを何らかの形象として現象レヴェルで捉えようとする作用―比喩表現(フィギュレーション)〔形象化〕―が生じるとき、言葉が生まれる
その意味では言葉とはそもそも比喩なのである。
行為遂行的性格
恣意的な意味作用がエクリチュールにそなわっている以上、言葉が何らかの指示対象を指し示す働きというのは、記号と意味との特定の結びつきを根拠なく断言するというパフォーマティブなかたちをとらざるをえない 「AはBである」という述定は一見コンスタティブに見えるが、その裏にはそれを無根拠に断言する主体(主語)が暗黙のうちに繰り込まれれている。 そうだとすれば言葉とは、行為遂行的に意味を措定(posit)しながら、存在物にそなわる固有の特性(property)・属性(attribution)を措定している
それゆえ、なんらかの概念について認識論的に正確な定義をあたえようとしても、それは言葉による恣意的な措定であることを免れない。
理解可能性とレトリック
テクストの意味作用のエントロピー増大の法則を阻止し、テクストを理解可能性の内部へと回収しようとする動きがさまざまなレトリックである。 そうしたレトリックで最も典型的なのは二項対立である。男性/女性、精神/自然、理性/感性といった図式を導入することで、恣意的な指示作用の働きのために不安定な状態に置かれたテクストは、一義的に読解可能な安定的なものとなる→主題へ
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/icons/bard.icon +M laboratory:類する主張
下記表現はまさにわかりやすくド・マンの主張を表現している(引用) 「私」とは「私という物語」ではない、「私」とは「生のディティールが多重に交差するひとつの場=肉」なのである。
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/icons/bard.icon 宮﨑裕助:再考(引用) 文字通り社交ダンスの実現する「美」が、そうした対立をひとつの調和へともたらすという社会的理想の象徴とみなされており、一方には個人が思い思いに追求する自由、他方には-社会が法の名のもとに個人に要求する服従―どんな社会でもその成立構造を問うていくと必ず直面する、こうした自由と支配、自律と他律との古典的な対立が、美という情動の経験を介して、ひとつの調和的秩序へと総合されるというわけだ。
ダンスという、高度な訓練が必要とされる身体の動きは、洗練されればされるほど技巧性は退き、あたかも自然が織りなす無垢な戯れのように、優美さを帯び始める。かくしてシラーは、この優美さのうちに、たんなる個々人の身体の総和以上のものとして、個の自由と全体の秩序とを両立可能にする調和―美しい社会の理想―のモデルを認めるのである。