ロラン・バルト
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基礎づけ
言語体と文体
周知のように言語体は、一時代のどの作家にも共通した、規則的・習慣的なある全体である。これは言語体というものが作家のコトバ(パロール)を貫通している自然のようなものだが、そのコトバになんの形式も与えないし、形式も養いさえもしないものだということを意味している。〜したがって言語体は文学のこちら側にあり、文体はほぼ向こう側にある。〜文体は典礼の私的な部分であり、作家の神話的な深みからたちのぼり、かれの責任のとどかぬところに拡がる。〜文体は垂直な次元しかもたないで、個人の閉ざされた記憶のなかに沈み、ある素材体験から出発して、自らの不透明性を構成する。
形式
ところで形式というものはすべてまた価値でもある。だから、言語体と文体との間には、今ひとつ、形式上の現実、すなわちエクリチュールのための席がある。〜エクリチュールは歴史的な連帯行為である。言語体と文体はオブジェだが、エクリチュールは機能である。すなわち、エクリチュールは創造と社会の間の関係であり、社会的用途によって変形された文語であって、人間的意図においてとらえられ、こうして歴史の大きな危機に結ばれる形式なのだ。
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歴史的変遷
古典主義
ブロジョワ・イデオロギーの上に、コトバが秩序正しい社会の流通体として機能した快楽にみちたラシーヌやバルザックの古典主義時代。 ブルジョワジーのイデオロギー的単一性は単一のエクリチュールを生み出した
上記序論での言及
ポスト古典主義
フローベール以降の古典主義崩壊時代とエクリチュールの変遷を大別することができよう。フローベールとともにコトバは作家の地平に現れ、ある文書体を選択することが作家の責任となる時代が始まった。 ところで1850年の周辺の年代には三つの新しい歴史的事実の結合が見られる。それはヨーロッパの人口が減少から増大に転じはじめたことであり、冶金工業が織物工業にとってかわったこと、いいかえれば近代資本主義の誕生であり、フランス社会の三つの敵対する階級への分裂、すなわち自由主義の幻想の決定的な崩壊である。これらの組み合わせがブルジョワジーを新しい歴史的状況に投げ込んだ。その当時まではブルジョワ・イデオロギーが普遍的なものの尺度にほかならず、過不足なくそれを満たしていた。〜ところがそれ以来、この同じイデオロギーが他の可能なイデオロギーのなかのひとつのようにしか見えなくなる。〜エクリチュールが多様化しはじめるのはまさにそのときである。〜百年来、フローベールやマラルメやランボーやゴンクール兄弟やシュルレアリストたちやクノーやサルトルやブランショやカミュらが、文語の統合や爆破や純粋化へのいくつかの道を描いてきたし、−なお描いている。〜作家が語の複合体を描くたびに、文学の実存そのものが疑問に付される。現代がそのエクリチュールの複数性のうちに読みとらせてくれるもの、それは自らの歴史の袋小路にほかならない。 零度のエリクチュール
ついに、言語の自立性と社会的道具性の中点(零店)にたつ乾いたエクリチュールがカミュとともに生まれた。 序論での言及
エクリチュールは今日、不在という最後の転身に到達している。ここでわたしが零度のエクリチュールと呼ぶ、こうした中性のエクリチュールのなかには否定の動きそのもの、そして持続のうちにその動きを完遂することの不可能性が容易に識別される。 系譜
こうした透明なコトバは、カミュの『異邦人』によって創始されたが、それはほとんど文体の理想的な不在といっていい不在の文体を成就した。エクリチュールは一種否定的な法(モード)に還元され、そこでは言語の社会的あるいは神話的な性格は廃棄されて、形式の中性で無気力な状態に席を譲っている。フローベールのエクリチュールがある掟をふくみ、マラルメのエクリチッールが沈黙を想定し、プルーストやセリーヌやクノーやプレベールらのエクリチュールが、それぞれの流儀で社会的自然の実存にもとづいており、これらすべてのエクリチュールが形式の不透明さをふくみ、言語と社会の問題提起を行い、コトバを、知識人によってではなく、職人とか魔術師とか進行記録係とかによってあつかわれるのが当然のオブジェとしてうちたてているとすれば、中性のエクリチュールは、道具性という古典主義芸術の第一条件を現実にふたたび見出している。 結論
たとえば、サルトルの小説は、その規範(断続的ではあるが)が小説に先立つ全地質学を通じてうちたてられた。〜サルトルが小説的持続をうち破ることを試み、(『猶予』において )自分の物語を複線構造にして、現実的なものの同時遍在性を表現しようとするとき、事件の同時性のかなたに、単一で均質な時間、すなわち話者の時間を再構成させているのはナレーションのエクリチュールにほかならない。話者個人の声は十分に認知可能な偶発事によって限定されながら、寄生的な単一性によって歴史があらわきなるこを妨げ、小説に多分偽りの証言のあいまいさを与えている。 『ランセの生涯』は『墓の彼方の回想』とともにバルトが終生愛した作品であった。この本は、リシュリューからの庇護を受け、ボシュエを友人として持つある裕福な家庭に育ったランセという人物の伝記の形を取っている。ランセは12歳の時にすでに『アナクレオン』という書を物しており、文芸に非常に優れた才能を持ち、古典ギリシャ語への造詣も深かった。彼はモンバゾン邸やランプイエ邸などに、つまり社交界に出入りするようになり、青春時代を放縦に過ごしてきた。人生のちょうど半ばにおいて、文人でありながら狩りをすることがとても好きだったランセは狩りから帰ってきて、恋人であるモンバゾン夫人の斬られた首を見つける。これを契機として、彼は回心し、トラピスト教会という厳しい宗門に入るのである。彼はもはや文芸を捨ててしまい、ただ教会をより厳正なものとすべく改革していく「改革者」となる。シャトープリアンはこのランセに自らの姿を見出していると言われている。ランセ同様シャトーブリアンも政治という俗世間の中に浸かった後に、政治の場から離れ純粋に執筆活動の方へと赴くのだ。 L’immixtion de Chateaubriand dans la vie de Rancé n’est donc nullement diffuse, sublime, imaginative, en un mot «romantique» (en particulier, Chateaubriand ne déforme pas Rancé pour se loger en lui), mais bien au contraire cassée, abrupte. Chateaubriand ne se projette pas, il se surimprime
バルトはシャトーブリアンとランセとの関係を中心に論じている。シャトーブリアンは自分の姿をランセに投影しようとしたが、それに失敗しているとバルトは言うのだ。確かに『ランセの生涯』には、ランセと彼をとりまく歴史的・文化的状況の記述の中に、「私」(=シャトーブリアン)という言葉が、時折顔を見せる。この「私」の挿入によって、『ランセの生涯』は純粋にクロノロジックな伝記として成立することがなく、所々で分断された断片的な著作となっている。
ここでバルトは『ランセの生涯』のパラドックスを見出す。ランセは、俗世間を捨て、文芸を捨てた。確かに彼は回心後も宗教的作品を書いたが、それを除いては何も書くことがなくなったのだ。そして、シャトーブリアンはと言えば、ランセが捨てた文学というものを文学において書かなくてはならなかった。
しかしながら、シャトーブリアンはこの文学的死者に対して、一つの文学的生命を与えなくてはならないのだ。
則、文学を放棄した生を文学として再生すること。これは言いかえれば、言語活動(ことば)による表現を回避するような生を言語活動(ことば)によって表現するということになる。そして、バルトは、このようなランセ=シャトーブリアンのパラドクスは一般的なものであると下記で示す。 彼は、ランセにおける言語活動(ことば)に回収されない生と、それを言語活動(ことば)によって表現せざるを得ないシャトーブリアンとの矛盾を以下のように言いかえている。この矛盾が我々の作家たちのまわりを徘徊しはじめて、まもなく二世紀になる。その結果、我々は書かない純粋な作家を夢見始めている。
我々はランセのように、言語活動を回避するような生を常日頃から経験している。経験したことは、言葉によって記述してしまうことは出来るが、それを味わった「私」個人としての感覚はそこには見あたらない。それは常に逃げ去ってしまう。それでもそれは言葉によってしか表現することはできない。ここに言語活動のアポリアがある。言語活動は普遍的であるが、そうであるが故に、私の個別性を消去してしまうのである。
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諸言
修辞学の圏域-Introduction
ここで取り上げる修辞学とは、紀元前5世紀から19世紀まで西欧に君臨したメタ言語ランガージュをいう(その対象言語は《弁論ディスクール》であった)。西欧以外の国(インド、イスラム)の経験は扱わないだろう。また、西欧についても、アテネとローマとフランスに限られるだろう。 こうした「弁論ディスクールについての言述ディスクール」としての「修辞学」の内側には、どうやら「いくつかの実践」が「同時に存在したり、あるいは、継起的に現れたりした」らしい。そこでその実践を六つ紹介する。 一、技術、つまり、古典的な意味での《術》。説得術。規則や手法をまとめたもの。それをうまく使えば、たとえ説得すべきことが《偽り》であっても、弁論の聴衆(後には、著作の読者)を論破することができる。
ソフィストを代表とする、修辞学に下支えされた-雄弁な知性が及ぼす-空間演出能力は、真偽問わず聴衆や読者を惑わす。その意味で実践的な「技術」なのである。 二、教育。修辞術は、初めは個人的に伝授されていたが(修辞学教師とその弟子、依頼人)、急速に教育制度に組み入れられた。学校では、今日なら、高等学校、大学と呼ばれるものの中心をなし、試験科目に変貌した(エクササイズ、レッスン、テスト)。
三、学問、あるいは、そこまでいかなくても、原=学問。つまり、ある同質の現象、すなわち、言語活動の《効果》の範囲をきめる自立的な観察の場。(b)これらの現象の分類(これの最もよく知られた名残りが《文彩》のリストである)。(c)イェルムスレウ的な意味での《操作》、つまり、メタ言語。対象言語(論証的言語活動と《文彩的》言語活動)を素材―もしくは、所記―とした修辞論の総体。 ここでいうイェルムスレウとはデンマークの構造主義的言語学者である。彼の言う操作について、バルトは『記号学の原理』の中で次のように述べている。「操作とは、経験的な原理、すなわち矛盾しない(一貫した)、網羅的な単純な原理にもとづく記述であるとすれば、学問上の記号集合つまりメタ言語はひとつの操作であり、これに対しコノテーション的記号集合は操作ではない」。つまり、上記で述べられていたことは、無矛盾な整合性或いは同質な現象の「効果」などを通じて修辞論が学問化していくことを論じていると理解できるのではないか。 四、倫理。修辞学は《規則》の体系であるから、この規則という語の両義性を帯びざるを得ない。それは、実践的目的から生れた手法の教科書であると同時に、「法典」であり、倫理的規則の集成である。その役割は情念的言語活動の《偏差》を監督する(つまり、許可したり、制限したりする)ことである。 ここでバルトが修辞学を「情念的言語活動の(...)監督」としている点は非常に興味深い。一で論じていたように「技術」としての修辞学は「真偽」を問わずして聴衆や読者を惑わすのだから、その意味で修辞学は情念的言語活動の最も洗練された体系なのである。だからこそそれは「倫理的規則の集成」とも言い換えられるのだ。これについて本書の後半に詳しく論じられている表現で補論できる。バルトはラミと古典主義者たちに依拠しながら次のように述べる。「文彩は情念の言語活動だというのである。情念は事物に対する視点をゆがめ、特殊な言葉を要求する」。 五、社会的実践。「修辞学」は指導階級に言葉の所有権を確保させる特権的な技術である(それを習得するには金を支払わなければならないから)。言語活動は一つの権能であるから、人びとはその権能を、擬似科学とし、それに近づくための選抜規定を設け、《話せない者》には門戸を閉ざし、秘伝伝授を金のかかるものとした。二千五百年前、所有権の訴訟から生れた修辞学は、今や、ブルジョア文化の秘伝伝授の最後の関門である《修辞》学級として、衰弱し、息絶えようとしている。
「特権的な技術」或いは「権能」としての修辞学は、特権階級にのみ許された言語活動なのである。
六、遊戯的実践。以上の実践はいずれも恐るべき制度的(当世風にいえば、《抑圧的》)体系をなしているので、修辞学に対する嘲弄、《黒い》修辞学(不信の眼、軽蔑、皮肉)が発展するのも無理はない。すなわち、遊び、パロディー、エロティックな、あるいは、卑猥なほのめかし、学生の冗談、要するに、中学生のやりそうなことのすべて(これは、しかし、今なお、探求し、文化的コードとして確立すべき課題である)。
こうした実践らに対して、修辞学の圏域の広大さを次のように表現する。
これらすべての実践は修辞学的事象の広さを立証している―しかし、この事象に対しては、いまだ、いかなる重要な総合も、いかなる歴史的な解釈も行われていない。それは、おそらく、(言語活動にのしかかるタブーのほかに)修辞学という帝国、どんな政治的帝国よりも、規模、寿命の点で、広大かつ強靭な、真の帝国が、学問や歴史的考察の枠そのものを取り払い、歴史そのもの、少なくとも、われわれが考え、取り扱うことに慣れている歴史そのものを問題にし、他の場所で、記念碑的歴史と呼び得たようなものを構想することを余儀なくさせるに到るからである。修辞学が学問に無視されていることは、だから、多様性、多元的決定を認めたがらない一般的風潮と似通っている。しかし、修辞学が―体系内部の変化は種々あったとはいえ―二千五百年の間、ゴルギアスからナポレオン三世に到るまで、西欧に君臨してきたことを考えていただきたい。修辞学が、後動だにせず、泰然と、あたかも不滅であるかのように、アテネ民主主義、エジプト国、ローマ共和国、ローマ帝国、ゲルマン大侵寇、封建制、ルネサンス、君主制、大革命等が、誕生し、通過し、消滅するのを、無感動に、顔色も変えずに眺めてきたことを考えていただきたい。修辞学は、もろもろの体制を、宗教を、文明を消化してきた。ルネサンス以後、息絶え絶えではあるが、事切れるのに三世紀もかかっている。しかも、まだ死んだとは断言できないのだ。修辞学は、超文明、すなわち、歴史的、地理的西欧の超文明とでも呼ぶべきものに接近する道を開いている。修辞学は(後に生れた文法と共に)われわれの社会に言語活動とその至上権(ゴルギアスによれば、Kurosis)を認めさせるに到った唯一の実践であり、その至上権は、社会的には、また《領主権》でもあったのだ。修辞学が言語活動に課した分類は、継起する多様な歴史全体に真に共通する唯一の絆である。あたかも、内容のイデオロギー、歴史の直接的な因果関係の上部に、形式のイデオロギーが存在するかのように、あたかも―デュルケームとモースが予感し、レヴィ=ストロースが確認した原理であるが―、それぞれの社会には、タクシノミックな同一性、社会=論理ソシオ=ロジックが存在し、その名の下に、別のレベルで認められる歴史や社会性を破壊せずに、もう一つの歴史、もう一つの社会性を定義することが可能であるかのようにである。この広大な領土を、これから二つの方向で、踏査することになろう(大まかにざっと見るという意味で)。すなわち、通時的方向と体系的方向である。 修辞学史
修辞学の創世記-コラクス(構成=連辞)とゴルギアス(表現=文彩)
(メタ言語としての)「修辞学」は所有権の訴訟から生れた。紀元前四八五年頃、シチリア島の二人の僭主、ゲロンとヒエロンが、シラクサに人を住まわせ、賃金労働者を分配するために、追放や住民の移転や土地の収用を行なった。彼らが民主主義的な蜂起によって打倒され、人々が ante quo 〔以前の状態〕に戻ろうとした時に、無数の訴訟が起った。なぜなら、所有権が曖昧だったからである。これらの訴訟は新しいタイプのものであった。民衆の中から多数の陪審員が動員されたので、彼らの前で相手を論破するためには、《雄弁》である必要があった。このような雄弁は、同時に民主主義と煽動政治の性格を帯びており、また、司法的なものと政治的なもの(後に、審議的と呼ばれたもの)の性格を帯びていたので、たちまち、教育の対象として確立した。この新しい学問の最初の教師は、アクラガスのエンペドクレス、シラクサにおける彼の弟子コラクス(授業料を取った最初の人)、ティシアスであった。このような教育は、シラクサとアテナイの双方で訴訟を起す商人たちの論争のおかげで、(ペルシャ戦役の後)これまた急速にアッティカに伝わった。紀元前五世紀中葉になると、修辞学はすでに部分的にはアテナイ的なものになっていた。 コラクスはすでに aratio〔弁論〕を主要な五つの部分に分けていた。それが、数世紀の間、弁論の《プラン》を形成することになる。五つの部分とは、(1)序説、(2)叙述、または、行為(事実の報告)、(3)議論、または、立証、(4)余談、(5)結尾、である。司法的弁論から学校の論文に移っても、このプランが、序論、論証的な本論、結論という主要な構成をそのまま保っていることを確かめるのは簡単である。要するに、この最初の修辞学は大連辞論なのであった。
上記を読めばわかるように、原初の修辞学は「連辞サンタグムの、言述の修辞学であって、言い回しの、文彩の修辞学ではなかった」のだ。次にバルトは「ゴルギアス」の修辞学を「宿駅」とする。なぜならバルトにとって「大ざっぱにいって、完璧な修辞術(たとえば、クインティリアヌスの修辞術)には、二つの極がある。一つは、連辞的サンタグマティックな極であり、言述の諸部分の順序、taxis または dispsitio〔配置〕である。もう一つは範列的パラディグマティックな極であり、修辞の《文彩》、lexis またはelocutio〔表現法〕である。コラクスがもっぱら連辞的な修辞学を説いていたことはすでに見た通りである。ゴルギアスは《文彩》を工夫するよう求めて、修辞学に範列的な展望を与えた。彼は散文を修辞学に向って開き、修辞学を《文体論》に招き入れたのである」。 レオンティウム(シラクサの北、今日のレンティーニ)のゴルギアスは、紀元前427年にアテネに来た。(...)ゴルギアスの(われわれにとっての)役割は、散文を、学問的言述、美的対象、《至高の言語》、《文学》の祖先として権威づけ、修辞的コードに組み入れたことである。どのようにしてか。初めは韻文で作られていた「追悼の辞」(挽歌)が散文になり、政治家たちの手に委ねられた。それらは、(今日的な意味では)書かれないとしても、少なくとも、記憶に収められ、つまり、何らかの形で、定着されたのである。こうして、(司法的、審議的なものに続いて)第三のジャンル、演示的なものが生れた。装飾的散文、見世物=散文の登場である。このような韻文から散文への移行の際に、韻律と音楽が姿を消した。ゴルギアスは、散文の内的なコード(詩から借用したものだが)によって、それらの跡を埋めようとした。すなわち、語尾同音の語、文の均斉、また、半諧音による対句の強調、隠喩、頭韻等である。
「アリストテレス修辞学」期の始動-プラトンとアリストテレス的系譜(キケロ、クィンティリアヌス、ディオニュシオス、プルタルコス、偽ロンギノス) プラトンは二つの修辞学を取り上げた。悪い修辞学とよい修辞学とである。一、事実としての修辞学はどんな演説にせよ書く活動(もはや単に司法的な修辞には限られない。この概念の綜合化は重要だ)である作文術がら成っている。その目的は真実らしさであり、幻覚である。それは、修辞学教師の、学校の、ゴルギアスの、ソフィストの修辞学である。二、権利としての修辞学は真の修辞学であり、哲学的な修辞学、さらにいいかえれば、弁証術である。プラトンはこれを鎮魂術(言葉による魂の形成)と呼んでいる。 この「よい修辞学」として「弁証術」こそプラトンの著作に象徴的な「対話」である。
プラトンの修辞学は文字を遠ざけ、個人的な対話、adhominatio〔対個人的議論〕を探求した。弁論の基本的な様式は愛の霊感で結ばれた師と弟子の対話である。共に考えるを弁証術のモットーにしてもいい。修辞学とは愛の対話なのである。
こうして独自の「修辞学」論を展開したプラトンに対して「古典的教科書の教授内容はすべてアリストテレスに発している」し「(プラトンを除けば)修辞学全体がアリストテレス的」であるとまでする。そんな「アリストテレス修辞学」を論ずる前に、強調しなければならない基礎づけがある。それはアリストテレスが修辞学を論ずる際に、修辞学を「言述という事象」として位置づけるのだ。下記で引用した言述のアリストテレス的区別が修辞学史において非常に重要である。
アリストテレスは言述という事象に関して二つの論文を書いた。しかし、この二つの論文ははっきり区別されている。すなわち、Techne rhetorike〔修辞学〕は、日常的なコミュニケーションの、公衆の面前における弁論の術を論じ、Techne poietike〔詩学〕は想像力喚起の術を論じている。前者では、観念から観念への弁論の進行が扱われ、後者では、イメージからイメージへの作品の進行が扱われている。(...)この対立を認める著述家はすべてアリストテレス修辞学の傘下に入るといえるだろう。この対立が中和された時、「修辞学」と「詩学」が融合する時、修辞学が詩の(《創造》の)techne〔技術〕となった時、アリストテレス修辞学は終焉することになる。(...)
こうしたアリストテレス修辞学は中世において終焉を迎え、この融合によって「文学という観念の起源そのものに当る」わけで、「詩学によって統合される前の修辞学」期としての「アリストテレス修辞学」期という一つの支配的な時代区分は非常に重要なのである。そこで本章では「アリストテレスの修辞学の理論はアリストテレス自身と共に、実践はキケロと共に、教授法はクィンティリアヌスと共に、(一般化による)変貌は、ハリカルナッソスのディオニュシオス、プルタルコス」そして偽ロンギノスの順で論じてゆく。さあ、それでは基礎づけを論じたところで肝心のアリストテレス自身の修辞学理論のバルト的解説を紹介するとしよう。
アリストテラスの「修辞学」は(...)意識的に程度を落し、《公衆》の、つまり、常識の、世論のレベルに適用された論理学である。(...)それは、作品の美学よりも、公衆の美学を含むことになるだろう。だからそれは(...)われわれの時代の大衆文化マス・カルチャーと称せられるものにうまく適合するであろう。その大衆文化では、アリストテレス的な《真実らしいこと》、つまり、《公衆が可能だと思うこと》が支配しているのである。なんと多くの映画、新聞小説、商業的ルポルタージュがアリストテレス的規則をモットーとしていることだろう。《真実らしくない可能なことよりも、可能でないか真実らしいことを》。現実に可能なことでも、世論という集団的検閲によって拒否されるならば、それを語るよりは、たとえ科学的に不可能であっても、公衆が可能だと思うことを語った方がいいのである。(...)そこから、意識的に公衆の《心理》に従う良識の修辞学が生まれたのである。 この意味でまさに、公衆的を扇動する論理を展開可能にした「情念的言語活動」こそ修辞学の実践の一つであると言えるのだ。次に「アリストテレスの理論のある種の実用化」を生じさせたキケロについて論じる。キケロはその生涯を通じて7著記し勢力的に修辞学を展開した第一人者である。 キケロの『修辞学』には、次のものが含まれる。(1)『ヘレンニウスに贈る修辞学』(彼の著であるとすれば)。これは、いわば、アリストテレス修辞学のダイジェストである。しかし、エンテューメーマの理論に代って、《問題》の分類に重点が置かれる。修辞学が専門化されるのだ。そこにはまた三つの文体(単純、崇高、中庸)の理論が現れる。(2)『弁論の発見について』。これは青年期の(不完全な)著作で、もっぱら司法的であり、とりわけ、一つ、または、二つの前提に証明がついている展開された三段論法である帯証式に多くのページがさかれている。(3)『弁論家について』。これは十九世紀に到るまで非常に人気のあった著作である(《良識の傑作》、《公正で、健全な理性の傑作》、《高邁で、濶達な思想の傑作》、《最も独創的な修辞学概論》。キケロは、プラトンを思い出したかのように、修辞学の品位を高め、学校での教育に反対した。それは専門化に対する貴紳の復権要求であった。この著作は対話の形式を取っている(クラッスス、アントニウス、ムキウス・スカエウォラ、ルフス、コッタ)。それは弁論家を定義し(弁論家は普遍的な教養を持たなければならない)、「修辞学」の伝統的な諸部門を検討する(Inventio〔発見〕Dispositio〔配置〕、Elocutio〔表現法〕)。(4)『ブルートゥス』。ローマにおける弁論術の歴史。(5)『弁論家』「弁論家」の理想像。第二部は一層教育的である(これは後にピエール・ラミュスによって詳細な註釈がつけられるであろう)。そこでは、クィンティリアヌスによって再び取り上げられる《リズム》の理論が詳述されている。(6)『トピカ』。これは、マルクス・アントニウスの権力奪取後、ギリシャに向う船の上で、記憶を頼りに、一週間で書き上げた、アリストテレスの『トピカ』のダイジェストである。われわれにとって最も興味あるのはquaestio〔論題〕の構造的な網目である。(7)『区分』。キケロ親子の対話の形で、問と答から成るこの小さな教科書は、キケロの論文の中で、最も簡潔で、最も倫理的でないものである(だから、私の好きな論文である)。それは、完全で、基本的な修辞学であり、くまなく修辞学を分類しつくしたという長所を持つ一種の教理問答である(それがpartitio〔区分〕の意味である。すなわち、体系的な切り分け)。キケロ修辞学には次の性格を認めることができる。(《体系》に対する恐怖。キケロはアリストテレスにすべてを負っているが、アリストテレスを非知性化し、思弁に《趣味》や《自然味》を浸透させようとした。このような非構造化の極点は聖アウグスティヌスの『神聖修辞学』(『キリスト教の教理』第四巻)において達せられた。雄弁に対する規則は何もない、しかし、雄弁はキリスト教の説教者にも必要である、ただ明晰であればいい(それが愛だ)、用語よりも真理に専心すべきだ、等々。修辞学におけるこのような擬似自然主義は学校における文体の概念をまだ支配している。(b)修辞学の自国化。キケロは修辞学をローマ化しようとした(これが『ブルートゥス』の趣旨である)。《ローマ性》が現れたのだ。(c)職業的経験主義(キケロは政治生活に没頭した弁護士であった)と深い教養に対する要求との神話的な結合。この結合には洋々たる前途が約束されていた。教養が政治の装飾となったのだ。(d)文体の昇華。キケロ修辞学は eloouio〔表現法〕の発展を予告している。 続いて紹介するのは「アリストテレス修辞学」を教授法に落とし込んだクィンティリアヌスである。「彼は国家から報酬を受けた公的な修辞学教師であった」と同時に「彼の名声は、生前、非常に高く、死後、光輝を失ったが、四世紀から、再び輝き出した」。その証拠として例えば「ルターは誰よりも彼を好んだ」し他にも「エラスムス、ベール、ラ・フォンテーヌ、ラシーヌ、ロランが彼を非常に高く持ち上げた」のだった。彼の教育論は『弁証家の教育について』にて「一二巻にわたって、子供の頃からの弁論家の教育を描いている。それは完全な教育プランだ」。そのエッセンスをバルトが次のように紹介している。 教育には三つの段階があった(今日なら、三つの課程というところだ)。一、国語の習得。乳母や奴隷や家庭教師に言葉の欠陥があってはならない(クリュシッポスは乳母たちが哲学で鍛えられることを望んだ)。両親はできるだけ教育があることが望ましい。ギリシャ語から始め、読むことと書くことを習う必要がある。生徒をぶってはならない。二 、grammaticus 〔文法家〕(わが国の《文送グラメール》という語よりも広い意味だ。いわば、文法教授資格者だ)のもとで。子供は、多分、七歳頃から、文法家のもとに通う。子供は詩の講義を聞き、音読をする(lectio〔朗読〕)。また、作文を書き(寓話を語り、詩を敷衍し、箴言を詳説する)、役者としての授業を受ける(いきいきした朗読)。三、rhetor〔修辞学教師〕のもとで。かなり早く、多分、十四歳頃、思春期に入ったら、修辞学を始めなければならない。教師は、絶えず、身を以って範を垂れなければならない(しかし、生徒たちは立ち上ったり、拍手してはならない)。二つの主要な訓練は、 (a)課題作文。叙述的論証や歴史的事件の要約と分析、初歩的で、いく人かを比較対照した称讃演説、共通の論題(提題)の詳説、下書(preformata materia)を与えられての演説。 (b) declamationes〔練習弁論〕、すなわち、仮定的な場合に関する弁論。いわば、虚構の論理の訓練である(したがって、declamatioは、すでに、ほとんど作品と同じようなものだ)。この教育法がどんなに言葉に無理強いするものであるかは明らかである。言葉は四方八方から包囲され、生徒の肉体の外に排出される。あたかも生れながらしゃべることが阻害されており、沈黙から脱するのに、あらゆる技術、あらゆる教育が必要であるかのように、また、あたかも、やっと習得し、やっと獲得したこの言葉が、世界との良好な《対象的》関係を、世界や他者の制圧を示しているかのように。転義と文彩を論ずることによって(第八-十巻)、クィンティリアヌスは初めて《書くこと》の理論を基礎づけた。第十巻は書きたいと思う人のために書かれている。いかにして《実のある流暢さ》(firma facilitas)を身につけるか。つまり、いかにして、生れながらの遅筆、白いページに対する恐怖を克服するか(facilitas)、しかしまた、いかにしていうべきことをいい、おしゃべりや駄弁や饒舌に陥らずにいるか(firma)。クィンティリアヌスは文筆家の予備課程の輪郭を作ったのだ。すなわち、沢山読み、沢山書くべきである。手本を模倣すべきである(文体模写をすべきである)。十分推敲すべきである。しかし、それは《寝かせた》後にすべきである。そして、仕上げ方を心得ていなければならない。クィンティリアヌスは、手が遅いこと、《思考》と筆記は速さが違うこと(これはシュルレアリスト的問題だ。どうしたら思考と同じくらい速く書くことができるか)に注目している。ところで、手が遅いのは好都合なのだ。口述してはならない。書くことは、声にではなく、手に、筋肉につながっていなければならない。手の遅さをよしとすること。急いで下書を書くものではない。 最後にホラティウス、ディオニュシオス、プルタルコス、偽ロンギノス、タキトゥスを通じて「アリストテレス修辞学」が終焉する。それは先んじて論じたように「言述」のなかに位置づけられる修辞学/詩学の区別が融合して「文学性」が打ち立てられる契機である。あくまで上記の区別が明示的で前統合段階なのが「アリストテレス修辞学」期なのであり、それが上述した論客によって終焉を迎えるのだ。
アリストテレス修辞学の最後の事件。諸説統合による稀薄化。「修辞学」は「詩学」と対立することをやめ、今日なら、われわれが《文学》と呼ぶであろうような一つの超越的概念に包括されることになる。それはもはや単に教育の対象としてあるのではなく、(近代的意味で)一つの芸術となった。以後、それは書くことの理論であると同時に、文学的形式の宝庫となった。このような移行は五つの時点で確認することができる。一、オウィディウスは、詩と雄弁術の親近性も想定したということで、中世にしばしば名前が挙げられた。このような比較はホラティウスによっても、『詩法』の中で、同様に確認された。彼の『詩法』の題材は、多くの場合、修辞学(文体の理論)である。二、ハリカルナッソスのディオニュシオスは、アウグスティヌスと同時代のギリシャ人であるが、その著『語の配列について』の中で、アリストテレス修辞学の重要な要素(エンテューメーマ)を捨て、もっぱら、文の動きという新しい価値に関心を寄せた。こうして、文体という自律的概念が現れたのである。文体はもはや論理(述辞の前に主辞、語尾変化の前に実体詞)を基礎としない。語順は変えることができ、ただリズムの価値によってのみ導かれるのである。三、プルタルコスの『倫理論集』の中に『いかにして青年に詩人たちの作品を読ませるか』と題する小冊子がある。それは文学の美学を徹底的に倫理化したものである。プルタルコスはプラトン主義者であるが、プラトンが詩人たちに向けた非難を取り除こうと努めた。どのようにしてか。まさに「詩学」と「修辞学」を同一視することによってである。修辞学は(しばしば感嘆すべき)模倣する術から(しばしば非難すべき)模倣された行為を《切り離す》ことを可能にする手段である。詩人たちを審美的に読むことができるようになって初めて、詩人たちを倫理的に読むことができるようになるのである。四、『崇高について』は紀元一世紀の著者不明の論文である(誤ってロンギノスの著とされ、ボワローによって仏訳された)。これは一種の《超越的》「修辞学」である。sublimitas〔崇高〕とは、要するに、文体の《高さ》である。それは文体そのものである(《文体を持っている》という場合の文体)。それは文学性である。それが、熱烈に、霊感の鼓舞のもとに、擁護されている。《創造性》の神話が現れ始めたのだ。五、『弁論家に関する対話』の中で(タキトゥスの著書かどうか、時折、問題にされるが)、タキトゥスは雄弁が衰退した原因を政治的に説明している。それは時代の《悪趣味》のせいではなく、「フォルム〔広場〕」に沈黙を課し、人々を詩という参加していない芸術の方に追いやったドミティアヌスの専制政治のせいである。しかし、そのためにかえって、雄弁は《文学》の方に亡命し、それに浸透し、それの主要な要素となったのである(eloquentia〔雄弁〕は文学を意味するようになる)。 新修辞学
「アリストテレス修辞学」以後の修辞学として次に「新修辞学」を論ずる。
人間の文化とは物語ありきで成り立ち構成されるということ。
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記述のレヴェル
機能のレヴェル
物語単位は二つの種類がある。それが「機能」と「指標」である。
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なぜ、作者は死なねばならないのか。それはエクリチュールを開いておくためだった。作者の影が作品の背後に見えてしまえば、作品は、作者を説明するものへと固定され狭められてしまう。作者が死ぬということは、読者に創造がゆだねられるということ。
ここで問われているのは、科学と文学の相違であり、とりわけそれらを構成する言語活動の両者の引き受け方の相違である。
科学にとって言語活動は道具でしかなく、この道具をできるだけ透明で中性的なものにするのが望ましいし、それを科学の材料(操作、仮説、結果)に従わせることが望ましいのだ。この科学の材料というのは、言語活動に先立ってその外に存在すると言われている
これが科学の言語活動に対する態度であるとしたら、文学の方は以下の通りである。
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二項対立への愛
記号論、構造主義を通過じてからのバルトは事象を考察する際、この概念装置を好んで用いるのだ。ところで「二項対立」という概念装置は、ポスト構造主義やポストモダンと呼ばれる思考からは極めて評判が悪い。特に、デリダやポール・ド・マンなどの「脱構築」の思想にとって、「二項対立」とは否応なく一方が他方より優位にあり、本来的なもの/派生的なものという区分を設け、前者を正統的な起源とする思考であるが故に真っ先に批判の対象となる。 しかしバルトは、知的モードが「二項対立」を基盤とする構造主義から去った後も、なお「二項対立」を愛し続けた。彼は「ある思考法への愛」(L'amourd'une idee)という断章において以下のように述べている。
しばらくの間、彼は二項対立の方法に熟狂していた。二項対立は彼にとって真に愛の対象であったのだ。この思考法が開発されつくされることなど決してありえないと彼には思われたのだ。<たった一つの差異によって>あらゆることが言えるということが、彼の中に一種の喜びを、絶え間ない驚きを引き起こすのであった。~ 二項対立を手放してしまった記号学などもはや彼にはほとんど関係がない。
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道徳性/道徳
道徳性は道徳とまったく相反するものとして理解されなくてはならない。
第一の道徳
「快楽/享楽」などの(二項)対立について以下のように語る。
これらの対立はしばしば、邪魔なものを取り払い、より遠くへとすすむことを可能にするのです。つまり、単に語り、書くことを可能にしてくれるのです