レヴィ=ストロース
1948『親族の基本構造』
禁止(「~してはならぬ」という否定的命令)一般が見方を変えれば規定(「~せよ」という肯定的な命令)でもある
インセスト禁忌も近親以外との性的結合や特定の範疇の親族を結婚相手として指定する体型を伴っている。
上記インセスト禁忌と婚姻規定の表裏一体をなすより複雑な構造こそが自然から文化への移行を可能にし、『贈与論』で論じたような社会的紐帯が駆動される。
1949『自然と文化』
> 人間の元にある普遍的なもの(文化)はなんであれ自然の次元にあり、自然発生を特徴とする。
1955『悲しき熱帯』
①ある要素が他の要素との関係によって定まるような要素の集合
ソシュールの一般言語学に端を発する関係論的な記号観の影響
言語の体型において言語の意味は同じ言語集合の元同士の差異によって決定する
②変換を通じて別の体型となっても変わらない、体形の潜在的な特性
数学的及び形態学的な”変換”概念を背景にもつ
射影幾何学において射影変換を行うと台形は四角形になり、楕円は円になる
不変な性質を持つ”変換群”に属す
だが位相幾何学における位相変換では変形が可能で不変な閉曲線という性質を持つ
変換により図形が多様に変化する際に不変の性質として現れるものを構造と呼ぶ
この数学的発想を導入するとソシュール的な体形論とは異なる
①は相対的に決定し、②は不変で絶対的な潜在の特性が見つかるため
③自然から文化への移行を駆動する主体にとって無意識的な次元を成す
ヤコブソンやトルベッコイが発展させた音韻論に基づいている
音素は①の要素間の関係によって決まるし、同型性の観点から②的な「変換」可能性がある
音韻論において言語は意味作用を持つ文法的単位の水準と意味作用を持たない弁別特性の束からなる音素の水準に分節される。
差異の体型を単語のレベルで唱えたソシュールに対して、ヤコブソンらは意味作用を持たない音素の構造にそれを見出した
音素は自然の多様な音素材の二項対立を見出すことによって構造化され、意味作用を持つ文法的単位を形成する手段になる!!!
つまり音素の無意識的な構造は物理的な音(自然)の領域と意味(文化)の領域の中間にある。この音素に相当する無意識的な精神の構造を解明する探究こそがレヴィ=ストロース的構造概念
1962『野生の思考』
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サルトル批判
レヴィ=ストロースは最終章にて「サルトルの著作におけるこの対立の表現法は、メラネシアの野蛮人のやり方と大差はなく、また実践的惰性態の分析は、アニミズムの言語をそのまま復活させただけのものである」とした上で、その注釈にて次のように評する。
サルトルの(...)哲学は(他のすべての哲学と同様に)第一級の民族誌的資料である。現代の神話を理解しようとすればその研究は不可欠だろう。
これはつまりサルトル流の実存主義を「現代の神話」として一蹴するのだ。レヴィ=ストロースは次のようにも言う。即ち彼にとってのサルトル的現象学は民族研究と同様の手法をもってして、現代の神話(としての当為或いは実践)を言語化しているに過ぎず、それを理論的なものとしてはならないということである。雑に言い換えるなら、サルトルが行ったのは歴史研究ではなく現代人の心理研究なのである。
サルトルが自分の属する文化についてやっていることは、民族学者が異なる文化に対して行おうとすることと同じである。すなわち、そこに生きている人びとの立場に身を置き、その人たちの意図をその原理とリズムの中で理解し、一つの時代ないし文化を一つの「意味する総体」と見るのである。この点についてわれわれがサルトルから教えられることは多々ある。しかしそれは実践的性質の教えであって、理論的なものではない。
では本書にていかなる理由をもって、この実存主義と構造主義の議論の火蓋をあげたか、それを明らかにしたい。サルトルの主張はデカルトからサルトルまでの主体論を批判する。
私の展望の中では、自我は他者に対立するものではないし、人間も世界に対立しない。人間を通じて学ばれた真理は「世界に属する」ものであり、またそれゆえにこそ重要なのである。(...)自然学を築こうとしたデカルトは、人間を社会から切り離した。人間学を築こうとするサルトルは、自分の社会を他の社会から切り離す。
これこそ構造主義の主たる言明である。彼によればデカルトとフッサールによって人間は孤立(独我論)し、サルトルによって社会は「エスノセントリズム」となるのだ。そして次に批判するのはサルトルの「ほとんど神秘的と言ってよい歴史観」である。
サルトルの体系では、歴史がまさに神話の役割を果たしている。
1964-71『神話論理』