カミュ
生に意義をあたえることを拒んだ思想家たちのうち、文学の領域内のものであるキリーロフ、伝説から生れたペレグリヌス、仮説に属するジュール・ルキエを除いては、この人生を拒否するにいたるほどまでに自己の論理をつらぬいたものはただのひとりもないのである。 カミュはそういって本稿を始める。「再読を強いる」とはなにを指すのか。カミュによると「カフカの作品における問題の解決のされ方、というか解決の欠如」には「さまざまな説明を思いつく」ように、「ときには二通りの解釈の可能性」あるように著者によって企図されているという。それゆえ「読者に再読を強いるのだ」。だが、カミュは「カフカの場合、作品の細部にわたってすべてを解釈しようとのぞむのは間違いであろう」とする。なぜならカフカの作品が表現するのは特定の読み方による一つの主題ではなく、作品全体で表現された「象徴」だからである。
象徴というものはつねに全体としてあるのであり、それをいかに精密に言葉に置きかえてみたところで、芸術家にできることは、その象徴の動きを復原することだけだ。つまり逐語訳というものがありえないのである。それにまた、象徴的作品ほど理解しにくいものはない。象徴というものは、つねに、象徴を用いる人間を超え、その人間が表現していると意識している以上のことを、実際にはその人間に語らせるものである。この点からいって、象徴を把握するもっとも確実な方法は、象徴に正面から挑みかからず、統一をあえて避けた精神をもって作品にすこしずつとりかかり、作品のひそかな底流など求めようとしないことである。とくにカフカの場合は、かれの作品の書き方に同意し、表面に現われたものからドラマに接近し、形式から小説に接近するのがしかるべき態度なのである。