ルター
教皇と教会法についての批判
ルターは教皇の権利を主に二つへ分別する。それは教皇を主体とする赦しと、神を主体とする赦しである。それは以下のように記される。
五条
教皇は、自らが科した罰、あるいは教会法に従って科された罰以外には、他のどのような罰の赦しを宣言することも、あるいは赦すこともできない。
六条
教皇は、神によって罪が赦されたと宣言すること、あるいはそれを承認すること以外には、どのような罪も赦すことはできない。また、自らに委ねられている責務に関する訴訟事項を赦すこと以外には(それゆえ、このような事項が見過ごされるなら、罪はなお残ることになる)、他のどのような罪も赦すことはできない
すなわち自らを主体する罪においては、教皇自身と教会法の課した罪、神を主体とする罪においては代行者としてそのすべてを赦す。このなかで一つ不透明な罪が存在する。それは教会法の制定した罪である。教皇の課す罪は教皇各々の主観であり、神は聖書にある。しかし、教会法はなにか。教皇が課した罪を他者に赦そうが赦すまいがそれは勝手である。正統性など個人以上でも以下でもない。神の課した罪とはそのすべてが聖書に記されている。
では教会法の正統性とはなにか?これこそルターの問いである。すなわち当時において教会法はまるで聖書と同様神の法として機能しており、それに反するは異端とされてきた。しかしルターは考える。それは所詮人間のつくった法だと。すなわち、所詮その法が通ずるのはこの現世に限るであろうと。しかし、当時の教会法とは現世を超える煉獄へもその影響を及ぼすものとして描かれていた。したがってルターは次のようにいう。
八条
教会法が定める悔い改めは、生きている人間にのみ関わるものであり、死者については何も課していない。
十条
教会法による悔い改めは煉獄でも適用できる、と死を迎えようとしている者に言う司祭は、無学であり、害を及ぼす者である。
十一条
教会法が定める〔この世の〕罰を、煉獄における罰に変えているあの毒麦は、司祭たちが眠ってしまっているあいだに蒔かれたのだろう。
二十二条
それどころか教皇が、この世で教会法の定めに従って解決されねばならなかった〔のに解決されなかった〕罰を、〔今は〕煉獄にある魂においては赦すことができる、などということはない。
そしてこうした審判は教皇自身にも見られる。教皇は神を通じてのみ、罪を赦す権能は有することを強調しつつも、その領域を侵犯してはならないとする。
二十条
だからこそ教皇は、すべての罰についての完全な赦しを与えることで、それによって単純にすべての罰が赦されると理解するのではなく、それはただ自らが科した罰の赦しだけだと理解しているのである。
三十三条
人間と神を和解させる教皇の贖宥は計り知れないほど高価な神の恩寵である、と主張する人がいるなら、その人は厳しく警戒されるべきである。
三四条
なぜなら、〔教皇が与える〕贖宥の恩寵は、人間によって制定された償罪のサクラメントでの罰とだけ関係しているからである。
三十八条
しかし、教皇の赦しとそれへの関わりを軽視するようなことがあってはならない。(これまで述べてきたように)それは神の赦しの宣言なのである。
このようにして教皇と教会法の欺瞞と過信を暴く。教皇は自分の課した罪と教会法の課した罪を裁くことができるのであり、教会法とはこの現世における罪のみを制定でき、すなわち彼岸までをも車中におさめ、赦す権能とは神のみに宿るのだ。その意味でいえば、「教皇が煉獄に対してもっている権限と同じものを、その司教も、高位の聖職者も、それぞれの司教区、聖堂区に対して個別的にもっている」のである。
しかし、当時教皇と教会法はまるで彼岸までをも自らの植民地であるように、それはまるで神のように自らを誇示する。その結果こそかの有名な免罪符なのである(二十六条)。
免罪符と金銭についての批判
それゆえ、教皇の贖宥によって人間はすべての罰から解放され、救われる、と説明する贖宥の説教者は誤っている。
それは神によってではなく、教皇によって発行されているのである。三十五条にあるように贖宥とは「魂を買い戻すことができ〔人を煉獄から連れ戻せ〕ると考え」、すなわちそこに痛悔は必要なく、「罰から〔無責任な仕方で〕解放されてしまう」のだ(四十四条)。
したがってそんなお金があれば、貧しい者へ分け与えるべきだと訴える。
四十三条
貧しい者に与え、困っている人に貸し与える者は、贖宥をお金で買うよりもよい行いをなしている、とキリスト者は教えられるべきである。
四十五条
困っている人を知っているのに、その人を見ず、贖宥のためにお金を使う人がいるとすれば、その人は贖宥を手に入れることはなく、神の怒りを自らに招くことになる、とキリスト者は教えられるべきである。
五十九条
聖ラウレンティウスは、教会に集まる貧しい者たちこそ教会の宝である、と語っている。しかし、それは彼の時代の用語使用に基づいて語っているのである。 八十四条
また、敬虔で神に愛される魂こそが贖われるということを、お金のためなら不敬虔な者や敵にまで適用しておきながら、〔真に〕敬虔で愛された魂自体の困窮に対しては無償の愛で償うことをしない神と教皇のこの新しい敬虔とは、いったい何だろうか。
そして、贖宥に変わる手立てとして告げられるは万人に開かれた「痛悔」である。
三十六条
真に痛悔したキリスト者であれば、贖宥の証明書なしでも、その人が当然得ることができるはずの罪と罪過からの十分な赦しをもつ。
三十七条
〔このようにして〕真のキリスト者になった者であれば、生きている時も、死んでも、贖宥の証明書なしに、神から与えられるキリストとその教会のあらゆる宝に与ることができる。
したがって八十七条にて「また、教皇は、十分な痛悔によって完全な罪の赦しを与えられる権利をもっている者たちの何をさらに赦すというのか。さらに何を与えるというのか」などと、勇敢にも教皇へと問うのであった。そして教皇とは「とりなしの行為〔代理の祈りとしての代禱〕によって魂に赦しを与えるのは最もよい行いである」と訴えるのだ。
しかしなにも免罪符の存在の全てを否定しているわけではない。その神へも背く過大な表現に意を呈しているのである。以下のようにその限定的な効力と、価値は認めるのだ。
四十七条
贖宥を買うのは自由であって命令ではない、とキリスト者は教えられるべきである。
四十八条
教皇が人に贖宥を与えるとき、教皇は〔人が贖宥を買うために〕喜んで払うお金よりも、むしろそこでは欠けている自らのために捧げられる祈りを願っているのだ、とキリスト者は教えられるべきである。
四十九条
教皇の贖宥は、キリスト者がそれを信頼しないなら有益だが、それによってキリスト者が神への畏れを失うようなことがあるならまったく有害だ、とキリスト者は教えられるべきである。
神の宝について
プロテスタントの当為論
九十二条
それゆえ、キリストの民に「平安、平安」と語る預言者は皆、立ち去れ。そこに平安はない。
九十三条
キリストの民に「十字架、十字架」と語る預言者は皆、幸いである。そこに十字架はない。
九十四条
キリスト者は、苦難、死、地獄によって、キリスト者の頭であるキリストに熱心に従うよう勧告されるべきである。
九十五条
キリスト者は、〔これまで見てきたような〕平安の保証よりも、むしろいくつもの困難をくぐり抜けて天の国に入ることを固く信じなければならない。
三つの砦について
第一の砦-人類皆祭祀
皇、司教、そして司祭、修道士たちは霊的で、諸侯、王、手工業者と農民は世俗的な身分だと言われています。そのような驚愕すべき、しかも巧妙な言い方が考案されているのです。けれども、そのような言い方に脅かされる必要はありませんし、恐れを感じることもありません。『コリントの信徒への手紙一』第一二章〔第一二節以下〕でパウロが「私たちは皆一つの身体であるが、しかもすべての肢体は他の肢体に仕えるために独自の業をもっている」と述べているではありませんか。すべてのキリスト者は誰でも皆、霊的な階級に属しているのです。それぞれの職務の違い以外には何の違いもありません。最も重要なことは、私たちは一つの洗礼、一つの福音、一つの信仰をもっており、私たちは皆同じキリスト者だということです。〔一つの〕洗礼、〔一つの〕福音、〔一つの〕信仰が、私たちを皆、霊的なものにし、キリスト者にするのです。 すなわち、万人を調停する者としての祭司はその権威を失う。これはひとえに神と万人が直接リンクしていることを意味し、祭司が人々へ聖別を与えるのは、人が人に聖別という偽りの徴を与えているのにすぎず、逆説的にいえば人は神より直接聖別を受けているのだ。
『ペトロの手紙一』第二章〔第九節〕で「あなたがたは王なる祭司であり、また祭司である王」と言われ、また『〔ヨハネの〕黙示録』〔五・九以下〕で「あなたは私たちをその血によって祭司、王とされました」と言われているとおり、私たちは誰でもまさに文字どおり洗礼によって祭司として聖別されているのです。それと同じように、私たちには教皇や司教が与えるよりも高次の聖別が与えられているのです。教皇や司教の聖別だけでは誰も司祭になることはできませんし、司祭はミサを執行することも、説教することも、罪の赦しを宣言することもできるはずがありません。
しかしそれは何も司祭的役割の否定ではなく、司祭的身分、すなわち権力の否定である。
司教の聖別というのは、まったく同じ力をもつすべての人々の中から誰かを代表として選ぶこと、また民衆の名によって一人の人物を他の人の中から選び出し、その人が代表して他の人ももつ力を行使するように命じることと同じなのです。あるいは、王の子供が一〇人いたとして、その一人が同じ相続人である他の者の中から自分たちの遺産を管理するために一人の代表を選ぶことと同じなのです。彼らは皆、王であり、同じ力をもちますが、ただ一人だけに遺産の管理が命じられるのです。さらに具体的に考えてみたいと思います。信仰の深い信徒たちの小さな群れが捕えられ、司教によって聖別された司祭がいない荒野に放置されてしまったなら、その時には既婚者であるか独身であるかなどは問われず、誰か一人を今いる人の中から選び出し、その職務につけないでしょうか。そして、その人を司教や教皇が選んだ者と同じように本当の司祭として認め、その人は洗礼を授け、ミサを執行し、罪の赦しを宣言し、説教することを命じられるに違いありません。必要な場合には、誰でも洗礼を授け、罪の赦しを宣言するのです。そのとき、もし私たちすべてが司祭でなかったら、それは不可能です。(...)信徒と司祭、諸侯と司教、あるいはローマ主義者たちの言う「霊的なもの」と「この世のもの」という区別は、その職務あるいはその業務以外の違いを意味しているわけではなく、両者のあいだに身分的な違いはありません。なぜなら、彼らはどちらも同じように、霊的な身分に属する真の司祭、司教、教皇だからです。ただ〔聖書が言うように〕皆が同じ業をすべきではないように、皆が同じ職務をもっているわけではないのです。この点については、私がすでに引用した『ローマの信徒への手紙』第一二章、あるいは『コリントの信徒への手紙一』第一二章の聖パウロの言葉や、また聖ペトロによって『ペトロの手紙一』第三章で述べられているように、キリストがすべての者たちの頭であり、それぞれはその肢体なのです*21。キリストが、一つはこの世のもの、もう一つは霊的なもの、というように二つのものあるいは二つの身体をもつわけではないのです。キリストは私たちの頭であると同時に一つの身体をもっておられます。ですから、今、霊的なものと呼ばれている司祭、司教、教皇の職務、すなわち彼らの神の言葉とサクラメントを扱うという職務は、彼らの職務なのであって、それゆえ高貴な身分であるとか、他のキリスト者から区別されるというものではないのです。それと同じ意味で、この世の権力者は剣と鞭をもち、それで悪人を罰して、よき敬虔なものを守る職務を帯びています。靴造り、鍛冶屋、農民が、それぞれ自分の稼業という職務をもっているように、彼らも聖別された司祭、司教としてそれぞれの職務を、また業務によって他の人々にとって有用で役に立つことを行わなければなりません。このようなさまざまな業は、まさに一つの身体のそれぞれの肢体が相互に役に立っているように、身体と魂のために一つの共通の目的に向けられているのです。
第二の砦-サタンに支配されたカトリック
同じキリスト教を信じる人間なのに、このような違いはどこから生じるのでしょうか。それは人間が作り出した掟からであり、人間が作り出したいくつもの捏造されたものから来るのです。
そこでその一つの鍵となるのは自我の肥大である。この意味でまさに近代、理性によって育まれる啓蒙主義と人間主義、そして自我の拡大はルターに予見されていた。プロテスタントはよく、神対自の構図がために誤解されているが、ルターにおいては反自我であり、反理性主義なのだ。であるからして、聖書回帰、すなわち神の言葉に変えることを望む。
もし全世界の力が私たちの手の中にあるのだとしても、私たちはまず慎重に準備をすべきであって、大いなる権力あるいは理性に依存して何事かを始めてはならないということです。というのも、神はよい行いが自らの力でなされたとか、理性によって始められるということを許したまわないし、また許そうともなさらないからです。神はこのような仕方でなされるよい行いを滅ぼしてしまうでしょう。『詩編』第三三編〔第一六節〕で歌われているとおり、「王は自らの多くの軍勢によって救われるのではないし、勇士たちは自らの大きな力によって助けられるのではない」のです。それらのものは何の役にも立ちません。かの偉大な君主として君臨された皇帝フリードリヒ一世、皇帝フリードリヒ二世をはじめ、多くのドイツのための皇帝たちが、この世ではまことの畏れをもって迎えられたのに、あの教皇によって悲劇的な仕方で抑えつけられ、抑圧されることになったのはこのような理由によるのではないか、と私は考えて心を痛めているのです。これらの人々は神に頼るよりも自らの力により頼んだのではなかったでしょうか。それゆえ、これらの人々は倒れねばならなかったのです。(...)ですから、この世のいかなる肉の力にもより頼むことはせず、謙虚に、ただ神を信頼し、問題と取り組み、真実に神に祈り、助けを求め、悪人たちが手に入れようとしているものなどには目もくれず、悲劇的な状況にあるキリスト教界の艱難と困窮という目下の一大事にのみ集中すべきなのです。(...)神を畏れることを忘れて謙遜さが失われる時には、暴力がはびこり、不幸がもたらされます。教皇やローマ主義者たちはこれまでサタンの力が働くのを許し、諸侯たちを攪乱してきたのですが、私たちが〔これらと戦う際に〕神の助けではなく私たち自身の力や策略によって事をなそうとするなら、私たちも同じようなことをすることになってしまうでしょう。
聖書を超えた諸物とはこの意味で理性によってつくられた人間の捏造であり、それはルターにおいて祭祀や教皇もまた同様なのだ。したがって、「神の助け」、すなわち聖書「ではなく私たち自身の力や策略によって事をなそうとする」行為はまさに理性が為す人間の捏造であり、神から離反する行為、サタン的な行為なのだ。
このような例外条項を作り出して、罰することのできない罪を可能にし、自由に罪を犯させる機会を作り出してしまったのが、よき霊の働きであるはずがありません。それゆえ、私たちは、キリストが命じられたように、また使徒たちが命じてもいるように、この悪い霊の業や言葉と戦い、これを追い出す責任があるのです。私たちは、教皇や教皇の手下たちが悪魔的なことを計画し、またそれを宣伝しているのを平然と黙認していてよいのでしょうか。私たちは洗礼を受けた時に命をかけてそれを守ると誓った戒めと真実を、人間的なもののゆえに放棄してよいのでしょうか。もしそんなことになるのなら、私たちはそのことのゆえに神に見捨てられ、誘惑された魂に対する責任を負わねばならなくなるはずです。ですから、教会法に「教皇が無数の魂をサタンに引き渡すほど悪い者だったとしても、人は彼を罷免することはできない」と書かれているのは、サタンの首領が言わせた言葉でしょう。ローマ主義者たちは、このサタンの言葉の上に立って、サタンの行いに反抗するのではなく、むしろ全世界の魂をサタンに手渡してしまおうと考えているのです。
すなわち、聖書から離別し、理性と自我によって構成された人間の捏造の象徴とは、教会法であり、それはまさに聖書という神の法に背く、悪魔の法なのである。そしてそれを基礎として構築されたカトリック教会とはルターにしてみれば悪魔に占拠された教会なのである。
ローマ主義者たちが、これまでの人生で聖書から何も学んでいないのに、自分たちだけが聖書の教師であろうとしていることです。彼らは傲慢にも権威を独占し、教皇は良い人であっても悪い人であっても信仰においては過ちを犯すことなどないと言って私たちを騙そうとしていますが、それについては何らの証拠も示そうとしません。そのため、教会法には、異端的でキリスト教的ではないだけでなく、理論的には破綻した規定まで存在しているありさまです。彼らは自分たちがどれほど無学で、しかも悪人であっても、聖霊は決して自分たちを見捨てるはずがないと言い張るので、自ら望むことをただひたすら勝手に書き加えていくのです。それなら、聖書はいったい何のために必要になるのでしょうか。聖書は何のために有用だというのでしょうか。そんなことなら、いっそのこと聖書を焼いてしまおうではありませんか。そして、信仰深い心にしか宿ることのない聖霊を無学だがもっていると主張して憚らないローマ主義者の手下たちだけで満足しようではありませんか。しかし、聖霊は敬虔な心以外のどこにも内在しません。もし私が教会法を読まなかったら、サタンがローマでこのような愚かなことを行って、自分たちの味方を得ている、という事実を信じることはできなかったでしょう〔が、私は読んでしまったのです〕。
教会がすべきこと、あるいはしなくてよいことを私たちが信じる聖書の知性に従って批判し、自分自身の知性ではなく、より高次の知性に従うよう教皇に強いるべきなのです。その昔、アブラハムは、私たちが地上の誰かに服従するよりもさらに厳格に、アブラハムに服従したはずの〔彼の妻〕サラの言葉に完全に聞き従わざるをえなかったではありませんか。また、バラムのロバは預言者より賢明ではなかったでしょうか。神が一頭のロバを使って一人の預言者に反対したのだとすれば、どうして一人の信仰深い人が、教皇に反対して語ることはありえないなどと言えるのでしょうか。『ガラテヤの信徒への手紙』第二章〔第一一節以下〕で語られているとおり、聖パウロは聖ペトロが誤っていると批判しています。つまり、キリスト者は誰でも信仰について責任を負い、理解し、それを守って、あらゆる過ちを断罪する権能を与えられているのです。
第三の砦
第三の砦は、これまでの二つの砦が倒れるなら、同じように倒れるはずです。教皇が聖書に逆らって行動するのなら、聖書に従う私たちは『マタイによる福音書』第一八章〔第一五節以下〕でキリストが「あなたがたの兄弟があなたがたに対して罪を犯したら、彼のところに行って、そのことをあなたと彼の二人だけで話しなさい。もし彼があなたの言うことを聞かなかったら、一人か二人を一緒に連れていきなさい。それでも聞かなかったら、そのことを教会に言いなさい。彼が教会の言うことも聞かなかったら、彼を異教徒とみなしなさい」と言っているとおり、教皇を罰して、従わせる責任があるのです。聖書では、教会の一つの肢体は他の肢体に配慮するように言われています。ですから、教会を統治している肢体が悪い行いをし、それによって他の多くの肢体に被害を与えて、さまざまな衝突を起こしているのなら、私たちはできるだけのことをするべきではないでしょうか。もし私がその人を教会員の前で訴えるのであれば、私は教会の肢体すべてをその場に集めなければならないのです。
まさに彼はキリスト教界が改善されるために立ちあがろうとするのだ。しかし旧制に浸るものは、その悪魔的な所与を理解したとしてもなお、染みついた権力への恐れを抱くことだろう。しかし、ルターは次のようにいう。
それを最も誠実になしうるのは、この世の支配者です。なぜなら、今日では〔聖パウロの時代と違って〕この世の支配者もまた同じようにキリスト者であり、他の司祭と同じように司祭であり、同じ霊的な者として同じ権能をもち、神に与えられた職務や業を、それが必要とされる場合には、誰に対しても自由に行使することができるからです。ある町で火災が発生したとします。そのとき、自分は市長の権能をもっていないとか、火事が市長の家から発生しているといった理由で、誰も何もせずに傍観し、火がさらに燃え上がるというようなことがあれば、それは理屈にも現実にも合わない判断です。このような場合、どの市民も、他の市民に声をかけ、皆を呼び集める責任があるのではないでしょうか。たとえそれが教皇庁であっても、また他のどこであっても、火の手が上がっているのであれば、それがキリスト教の霊的な都市であればますます、そのような対応がなされるべきではないでしょうか。敵がある都市に攻め込んできた場合でも同じはずです。そのとき率先して立ち上がり、他の者たちも立ち上がらせる人が誉め称えられて、皆から感謝されるのは当然のことです。そうであれば、今はサタンのような敵に攻め込まれているのですから、そのことを知らせ、キリスト者たちを呼び覚まして、彼らを召集する者に栄誉が与えられないはずがないのです。
これはまさにウルトラモンタニズムに犯された王への号令である。。「ウルトラ」は「超える」という意味、「モンタ」は「山々」で、ここではアルプスのことである。したがって、「ウルトラモンタニズム」とは、政治の実際がドイツから見るとアルプスの山々の向こう側に支配されている姿を指す。ドイツ国民の神聖ローマ帝国は、王朝の正統性のために絶えずローマ教皇の顔色をうかがわねばならず、その象徴はカノッサの屈辱である。 その物語は以下のようなものである。雪深いアルプスを越え、神聖ローマ皇帝ハインリヒ四世は孤独に歩いていた。彼は破門され、帝国の全てが彼の手から離れつつあった。その原因はただ一つ、教皇グレゴリウス七世との叙任権をめぐる対立である。帝国の運命を握るはずの皇帝は、もはや誰からも守られなかった。凍てつく風のなか、彼は山の向こうにそびえるカノッサ城へと向かう。そこには、“皇帝より上位に立つ”と自負するローマ教会の権威が座していた。ハインリヒは城門の前で三日三晩、雪の上に裸足のまま立ち尽くした。皇帝はもはや皇帝ではなく、赦しを乞う一人の罪人にすぎなかった。三日目の朝、教皇はついに門を開く。皇帝はひざまずき、赦しを受け、こうして世界は「皇帝より神の代理人が上に立つ」という秩序を刻み込まれた。
すなわち正統性を有すために獲得したはずの王権神授はいつしか鎖となり、王自体を苦しめたのである。したがって、ルターは王も含む万民が祭司であることを謳うことによって、ローマの呪縛から王を解放したのだ。しかしこのことは勿論王の神聖を失うことへ帰結し、後のピューリタン革命を準備する。
教会の改善を妨げようとするのであれば、もはや教皇やその権力など顧みる必要はなく、たとえ教皇が破門を宣言したとしても、それは愚かな者たちの計略にすぎないのだから軽蔑して、神をこそ信頼し、逆に教皇は破門して訴追すべきなのです。このような教皇の権力は不遜きわまりないものです。教皇であってもそのような権力はもっていませんし、もし彼がそれをもとうとするなら聖書の言葉がそれを打倒するでしょう。パウロが〔『コリントの信徒への手紙二』一〇・八で〕コリントの教会の人々に「神は私たちに、キリスト教界を堕落させるためではなく、改善するために権力を与えてくださったのだ」と言っているとおりです。誰がこの言葉を無視してよいというのでしょうか。キリスト教界の改善に役立つはずのものを妨害するなら、それはサタンあるいは反キリストの権力です。それゆえ、このような権力にはどのような場合にも従ってはならず、私たちの身体、財産、私たちがもちうるあらゆるものによって抵抗しなければならないのです。
そしてその先には苦難があることを承知していた。だからこそ、そのすべての退路をルターは断ち切る。
もしこの世の権力が教皇に対抗したことによって何らかの不思議な奇跡が起こったり、あるいはそのような者たちが災難に遭ったりしたとしても(ローマ主義者は、すでに数回それは起こっている、と誇らしげに主張していますが)、それは私たちの神への信頼の欠如ゆえに悪魔によって引き起こされたものとみなすべきでしょう。キリストが『マタイによる福音書』第二四章〔第二四節〕で「私の名前で偽キリストたちや偽予言者が起こって、しるしや奇跡を行い、選民さえ惑わすだろう」と述べ、また聖パウロがテサロニケの人々に〔『テサロニケの信徒への手紙二』二・九以下で〕反キリストがサタンによって偽の奇跡的なしるしで強力なものになるだろうと述べているとおりです。それゆえ、聖パウロが〔『コリントの信徒への手紙二』一三・八で〕「私たちはキリストに逆らっては何をする力もなく、キリストのためであるなら何をすることもできる」と述べているとおり、キリスト教的なあらゆる権力はキリストに逆らうようなことは何もすることができない、という確信に堅く立とうではありませんか。ですから、もしキリスト教的な権力がキリストに反する何事かをなすというのであれば、それはいずれも反キリストであり、悪魔的な権力です。ですから、それらがなすかもしれない奇跡や災害なども何の証明にもなりません。特に、さまざまな書物に書かれている最後に起こる最悪の時代についても、実は何の意味もないものです。だからこそ、私たちは堅く信仰に立ち、神の言葉に従わねばなりません。そうすれば、サタンは彼らがなそうとしている驚くような出来事を行うのをあきらめるでしょう。
こうしてルターは三つの峠を締めくくる。それはまるで理論、当為、格律に隔たれており、第一のマニフェストも捉えられる構成をなしているのだ。
さて、これまで私が述べてきたことで、ローマ主義者たちが私たちの良心を脅かし、弱体化させようとしてなしてきた偽りの噓にまみれた威嚇はすべて取り除かれたと思います。明らかに、ローマ主義者たちは私たちと同じように剣〔に象徴されるこの世の権力〕の支配のもとにあります。また、聖書を正しく解釈するのではなく、権力によって聖書を読む力などというものは与えられていないこと、さらに、公会議の開催を阻止したり、その決定を制限したり、勝手に公会議の権限を取り上げたり、根回しをしたり、この会議の自由を奪ったりする権力も与えられていないことが明らかになったと思います。ですから、もしローマ主義者たちがそれを行おうとするなら、彼らは明らかに反キリストとサタンの一味だということが明白になりますし、キリストとはその名前以外に何の関係もないものであることになるのです。