ブランショ
フーコーが青春時代を回顧して「僕はブランショになろうと熱望していた」と述懐し、また『外の思考』などの著作においてブランショに言及していることや、ジル・ドゥルーズが「ブランショこそが死の新しい概念を作り上げた」と称賛していることは注目すべきである。ジャック・デリダも、その文体からしてブランショの圧倒的影響下にあり、『滞留』や『境域』などの著作で、ブランショに言及している。
文学空間への萌芽
ブランショにとっての文学論
ブランショは言語(名付け)が「殺害」してしまうもの、つまり不在化してしまうもの、より正確にいえば、言語が「殺害」=不在化することによってはじめて言語以前に存在していたことが知らされるものを救わねばならないと考えるのである。
しかし、今ではもうない何かが、そこにあった。何かが消え去ったのだ。いかにしてそれを再び見出せばよいのか、いかにして以前に存在したものに戻ればよいのか、私の権能のすべてが、それを後に存在するものに変えるとするならば。文学の言語は、文学に先立つこの瞬間の探求である
則、ブランショにとってこの「言語以前に存在したもの」の救済をなそうする試みこそ、文学にほかならない。
そしてブランショは名づけはすでにして言語による殺害であるがゆえに、無名なものを無名なままに捉えることは名づけの権力を持つ主体によってはなされえないと捉える。主体は主体である限り、自己の内面とその外としての対象という二分法の中に留まらざるをえず、その「外」と関係することができないのだ。したがって、主体自身が消滅するに至る全体の否定−不在化が要請されるのである。
そしてブランショとハイデガー=ヘーゲルとの重要な差異は、後者が自己の固有性や可能性を最重要の問題としていたのに対し、ブランショにとっては他者・他なるものとの関係が最重要であるということ。そしてブランショ文学はある種の空間を開くと考えている。この空間は繰り返しも述べているような全体の否定−不在化を前提とする。 文学という想像世界の性質
一般的に作家は無活動に従っているように見える。なぜなら彼は想像的なものの支配者であって、彼に続いてその世界に入ってくる人たちは、そこで自分たちの真の生活を見失ってしまうからである。しかし作家が示す危険はもっとずっと重大である。事実彼は活動を破滅させる。それは彼が非現実的なものを用いるからではなくて、現実「全体」をわれわれの自由に任せるからである。非現実は全体とともに始まる。想像的なものは現実世界の彼岸にある見知らぬ土地ではない。それは世界そのものであるが、総体としての、全体としての世界である。したがって想像的なものは現実世界のうちにない。というのも、それは全体のうちにあるここのあらゆる現実の総括的な否定により、それらの活動中止によりそれらの不在により、この不在そのものの実現によって、全体としてとらえられ実現された世界だからである
則、作家の想像世界は現実から切り離された、全体としての非現実=想像的として捉えられ実現した世界ということ。
作家の言語は、それが革命的なものであっても、命令の言語ではない。命令するのでなく、提示するのであるが、それも、示そうとするものを現前させるのではなく、全体の背後に、その全体の意味とその不在として示すことによってなのである。その結果、読者に対する作家の呼びかけは、世界を奪われた人間がその世界に回帰しようとしてその表面に慎ましく掴まっている努力を示しているだけの、空虚な呼びかけに過ないということになる―あるいは、絶対的な価値があって始めて手にすることができる「なすべき何か」は、読者の目には、まさしくなされ得ぬもののように、または、なされるために労働も行動も必要としないもののように映ることになる。
つまり招かれざる実存の世界、イデアのテクストによる再現にすぎないのである。
サドによる宣言
ブランショによるとサドは「二十巻の書物」を通じて「彼は一種の〈エロティシズム権利宣言〉を表明している」としてその内容を次のように述べる。
サドの原理宣言、彼の基礎哲学と呼べるものが、まさに単純そのものであるだけに、ますます不安は大きくなる。この哲学は利益の哲学であり、次いで全面的なエゴイズムの哲学である。誰もが自分の気に入ることをしなければならず、自らの快楽以外には掟をもたない。このモラルは、絶対的孤独という原初的事実の上に成り立っている。サドはそのことをあらゆる形で述べ、繰り返している。自然はわれわれを単独者として生まれさせたのであり、ある人間と他の人間とのあいだにはいかなる関係もない。唯一の行動規則は、したがって、私が自分を幸福にさせるようなことなら何でも好むということであり、この選択が他者に引き起こしかねない結果などどうでもいいということなのだ。他人の最大の苦痛でさえ、常に私の快楽ほどには重要ではない。ほんの小さな享楽を得るのにかつてないほど大罪を積み重ねなければならないとしても、それが何だろう。享楽は私を満足させ、私の内にあるが、犯罪の効果は私に及ばす、私の外にあるのだから。 Anthing goes!!-唯一者の哲学
ブランショによるとサドは「破壊精神」と同一化することで〈唯一者〉へ至る方途を示したという。
ではその破壊的な宣言に如何なる功績があったのか。ブランショは次のようにいう。
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本質的孤独
本質的孤独のための作品の分析
まずブランショは世俗的孤独概念や「芸術家の孤独、芸術家がその芸術活動を営むのに不可欠といわれているあの孤独を目ざしているわけでもない」。として両者を拒む。また後者を下記のように説明する。
リルケは、ソルムス・ラウベッハ伯爵夫人に、こんなことを書いている(一九〇七年八月三日)「何週間も前から、私は、二度ばかりちょっと中断されたほかは、ただの一言も口にしませんでした。遂に、私の孤独は閉じ、私は、果実のなかの核のように、仕事に没頭しています。」この場合、リルケの語る孤独は、本質的には、孤独ではない、それは、精神集中なのだ。
そして「芸術作品、文学作品などの、作品の孤独は、われわれにより一層本質的な孤独をあらわにする」として、「本質的孤独」を理解するべく「作品の孤独」を分析するに至る。そこで「作品の無限」を論ずる。
作品が無限であるとは〜芸術家は作品を終わらせることは出来ぬにしても、作品を、ある限りない作業が行われる閉じた場とはなし得るという意味だ。
この作品は永久に「未完結的性質」をもちながら「閉じた場」であることはどういうことなのか。ブランショは「作家は、作品が出来あがっているかどうかを、決して知ることはない」として、そうした「無知が、彼を守り、彼の気をまぎらせ、根気よく仕事を続けることを許す」と論じる。とするの「作品を書いている者は、隔離されており、書いてしまった者は、解雇されている。その上、解雇されていながら、そのことを知らぬ」を理解できるだろう。つまり、「書いてしまった者は、解雇されている」というのは「閉じた場」をなし得たことを意味し、その「解雇」の「無知」ゆえ「作品が出来上がっているかどうかを、決して知ることはない」という「未完結的性質」が立ち現れるのだ。それゆえ「閉じた場」でありながら無限の「未完結的性質」をもつという「完結してもおらず、未完結でもない」というアンビバレンスな状況が成立しえるのだ。それゆえ下記のように言い換える。
このように見れば、作品の無限とは、精神の無限にほかならぬ。
そしてこうしたアンビバレンスな状況を下記のようにも説明する。
ところで、作品―芸術作品、文学作品―は完結してもおらず、未完結でもない。作品は、存在している。作品が語るのは、もっぱらそのこと、つまり、それが存在しているということであり、―それ以上の何ごとでもない。このことを別にしては、作品とは何ものでもない。作品にそれ以上を表現させようとする者は、何ものも見出さぬ。または、作品が何ものも表現せぬことを見出す。〜作品の孤独を形づくる第一の骨組は、かかる、要求の不在であり、この不在が、作品が完結しているとか未完結だとか言うことを許さない。作品は、何の証拠もなく存在し、また、何の用途もなく存在する。作品は、おのれを真実と証しすることはない。真理が、作品をとらえることは出来るし、名声が、作品を照らし出しはする。だが、かかる現実存在は、作品とは何のかかわりもなく、かかる明証性は、作品を、確かにも、現実的にもしない、それを、明白なものにもしないのだ。作品は孤独である。これは、作品が伝達不可能だとか、読者が欠けているとかいう意味ではない。そうではなくて、作品を読む者は、作品を書く者が作品の孤独の冒険に属しているように、作品の孤独のかかる断言のうちに入りこむのである。
このようにただ「存在」することが、作品の性質であり、実用性、目的論的性格、需要、因果、などの「要求の不在」が「作品は、何の証拠もなく存在し、また、何の用途もなく存在する」という存在論的孤独を明らかにするのだ。
時間の不在性
否定と肯定の二分法の外部にある、それゆえ弁証法の外部にある中性的な時間。そして決して起こらなかったことが回帰する時間。これは到達し得なかったなにかがイメージとして繰り返されるということだ。
時間の不在とは純粋に否定的な様態ではない。それは何ものも始まらぬ時間、そこでは自発性が不可能であるような時間、肯定の前に肯定の回帰が存在している時間だ。純粋に否定的な様態どころか、むしろ逆に、それは否定も決定もない時間であり、そこではここがどこでもないでもあり、あらゆるものがおのれのイメージのうちに身を潜め、われわれが現にそうである「私は」は姿なき「彼は」の中性的性質のうちに沈みつつ自己を再認するのだ。時間の不在という時間は現在もなく現前もなしに存在する。〜現在なきもの、かつてあったものとしてすらそこに存在していないもの、そういうものの取り返しのつかぬ性質とは、このように言うのだ。そんなことは決して起こりもしなかったし、決して初めて起こったということもなかった。そうではなく、それは再び、また再び無限に繰り返されるのだ、と。それは終わりも持たぬ、始まりも持たぬ。未来も持たぬ
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物語を、すでに起こり、そして今から人が伝えようと試みる例外的な事件の偽りのない報告と見るならば、物語の性質はけっして予感されるものではない。物語とは事件の報告ではなく、この事件そのもの、この事件への接近、事件がそこで発生するようにと呼ばれる場である。つまりそれは、まだ起こるべき事件なのであって、その牽引力によって物語もまた自己を実現することを望みうるのである。 そこにあるのはすこぶる微妙な関係であり、おそらく一種異様な事態である。けれどもそれが物語の密かな法則である。物語とはある地点に向かう運動である〜。物語の魅力はこの地点から引きだすほかはない。したがって、そこにゆき着く以前には「始まる」ことさえありえない。けれども、この地点が現実的で力強く魅力的になる空間を提供するのもまた物語であり、その予見できない運動だけである