ロック
1676 『Essays On The Law Of Nature』 | Oxford
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第一論文
キリスト教の基礎づけ
冒頭:神は自分がいかなるところにもそばにいることを私たちに示す
Deus se ubique praesentem nobis praestat
Deusとはキリスト教の神であり、神の遍在性を説く
scilicet numen aliquod mundo praesidere
(上記訳)ある神的な存在が世界を管理していることは明白である。天が不断の循環によって回転し、地球が不動であり、星が輝き、また荒れる海でさえ限度があり、またあらゆる植物が発芽と生長の様式と期間を持ち、あらゆる生物が彼ら自身の誕生と生存の法則を持つことは神の意志によるものである。
第四論文「〈理性は感覚経験を通じて、自然法の知識に到達しうるか〉という問いに肯定をもって答える」
ロック的道徳の基本原理
あるパーソン(人格)〔=人間〕が別のパーソン(位格)〔=神〕によって(神学的な意味において)創造されたとするならば、創造主が彼に対して設定した戒めに従う義務を当のパーソン(人格)〔=人間〕は負うことになる。
1689『統治二論』
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植民地主義への転用
ロックが所有において基礎づけとするのは第一に以下である。
神は世界を人類共有のものとして与えた。
このように自然状態において万人の共有だった世界の資源は如何にして所有に傾くのか。それこそが労働である。ロックは、自然状態では共有のままに留まっている土地に対して労働を投下することで、土地所有権が発生するとの議論を、「統治論」第2編第5章で行っている。
自然が供給し、自然が残しておいたものから彼が取り出すものは何であれ、彼はそれに自分の労働を混合し、それに彼自身のものである何ものかを加えたのであって、そのことにより、それを彼自身の所有物とする。(...)神と人間の理性とは、人間に、土地を征服すること、つまり、生活の便宜のために土地を改良し、そこに、彼自身のものである何ものか、すなわち労働を投下するように命じた。神のこの命令に従った者は、その土地のある部分を征服し、耕し、種をまいたのであって、それにより、その土地に彼の所有物である何ものかを、すなわち、他人が、それに対しては何の権原も持たず、権利侵害を犯すことなしに彼から奪うこともできない何ものかを付加したのである。
しかし、ここで疑問が生じる。人類に共有された世界を労働の投下によって所有することは神の意に反するのではないか、と。本来、世界とは共有されたものであって、たかが一人の人間が私的に行使してよいものではないのではないか、と。そこでロックが立ち返るのがその本来の目的である。
世界を人間に共有物として与えた。しかし、それを人間が利用し、できるだけ多くの生活の便宜をそこから受け取るようにとして与えたのであるから、神がそれをいつまでも共有で未耕作(commonand uncultivated) のままにしておくようにというつもりであったとは考えられない。神がそれを与えたのは、勤勉で理性的な人々の役に立たせるためであり(そして、労働はそれに対する彼の権限となるべきであったのであり)、喧嘩好きで争いやすい人々の気まぐれや食欲のためにではなかった。
だからこそ我々は理性をもった発展を、生来の自然状態から人々による社会関係を、構築しなければならないのだ。よって「統治の下では、法が所有の権利を規制し、土地の所有は実定的な基本法によって決定される」。すなわち、自然法と実定法が分別されるのだ。しかしそれは後者による前者の塗り替えではない。
所有権を決定する実定法を制定し、またそれを増加させてきた人々の間でも、以前には共有物であったものへの所有権を開始させるこの原初的な自然法は依然として生きている。それによって、人が、人類の偉大な共有物としてなお残っている大海からどんな魚を捕獲しても、また、そこでどんな龍香を採取しても、それらは、自然が残した共有状態からそれらを取り出した労働により、労苦を払った人間自身の所有物となる。
そして、我々の自由もまた変化する。また、それはあたかも新たな自由の抑制による正統性などとして、自らを振る舞うのだ。
人間の生来的な自由とは、地上におけるいかなる上位権力からも解放され、人間の意思または立法権の下に立つことなく、ただ自然法だけを自らの規則とすることに他ならない。社会における人間の自由とは、同意によって政治共同体の中に立された立法権力以外のいかなる立法権力の下にも立たないこと
そしてこの自然から社会への移行は聖書に記された必然だと論ずる。
世界の初めのころには、カインは耕せるだけの土地を取り、それを自分の所有地として良かったが、それでも、アベルの半に草を食べさせるのに十分な土地を残すことができた。(...)一般に、彼らが利用する土地には何ら固定的な所有権というものはなかったのである。それが生じたのは、彼らが一体となり集住して都市を建設してからのことであった。すなわち、彼らは、その頃になってから、同意によってそれぞれの領土の境界を定め、隣国との境界について合意し、また、彼ら内部の法によって、同じ社会に住む人間の所有権を定めたのである。
ここに植民地主義転用の道具は一式揃えられた。コモンズとしての大地、労働による所有とそれによる自然から社会への移行、自由と政治の正統性。自然状態から社会関係への移行を発展とし、さらに理性による必然と論じた上で、カインとアベルの秩序を未耕作と呼称する。そして、ロックはアメリカの土地が無主地(荒無地)であると結論づけるに当たって、耕作されていない土地が価値を生み出さないことを特に重視している。「全てのものに価値の相違を設けるのは、実は労働に他ならない」のであって、土地の価値を生むのは耕作である。土地が生み出す価値は100分の99の割合で労働に由来しているとされる。かかる労働価値説の証明として、ロックはインディアンの例を挙げる。すなわち、進歩主義的植民地主義の誕生である。いわば、アメリカン・インディアンとは我々に文明人に対し、未開人であり、彼らの土地は無価値であり、社会に対し自然であり、共有されており、ゆえに我々はかつて自然へ労働を投じ、己が所有対象に変えたようにアメリカの土地もまた、我々が労働を投じ、所有物へと変えてよい対象であると帰結されるのだ。そして我々が労働を投じ、所有の権利を獲得した時、すなわちその土地が一つの自然ではなく、社会の対象となったとき、彼らの自由もまた自然ではなく、社会のものとして、彼らを支配することの正統性が生まれるのだ。
このことを証明するものとして、豊かな土地を持ちながら、生活を快適にする物については全てにおいて貧しいアメリカの諸部族ほど明瞭な例を提供するものはない。(...)完全に自然のままに放置されていて、牧畜、耕作、栽培による改良を施されていない土地は荒無地(wast)と呼ばれているし、また、実際にそうなのであって、それがもたらす価値はほとんど無に等しい。(...)ヨセフス・アコスタの言葉をそのまま受け取るとすれば、アメリカの多くの地方では統治が全く存在しなかったという。彼が語るところによれば、「今日、フロリダの住民やチリグァナ族、ブラジル人その他の多くの民族が、特定の王を持たず、平時であれ戦時であれ、その時宜に応じて好むままに統率者を選ぶのと同様に、これらの人々(...)が、長い間、王も政治的共同体も持たないまま、集団をなして生活していたことについては、有力で明確な推測が成り立つ(...)今日のアメリカは、アジアやヨーロッパの初期の時代、すなわち、国土に比して人口が少なく、人間も貸幣も不足しているために、人々がその所有地を拡大したり、もっと広い土地を求めて争ったりしようという気持ちを起こさせなかった頃の見本のようなものである
彼らは留まることをせず、カインとアベルの如く溢れんばかりの地を共有しており、それがゆえに「未開のインディアンは、囲い込みを知らず、なお共有地の借地人である」。だからこそ労働を投下し、社会的対象へと変え、契約を与えることで、彼らの自由を縛る実定法の権限が我々の手中に下るのだ。すなわちロックとは、-共産主義と資本主義に驚くほどの対応関係にある-この共有から所有へを一つの文明化へ向けた進歩として提示し、その論理は時に植民地主義へと至るのだ。
1689『人間知性論』
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レトリック論
知識と言葉の関係
だが、われわれの観念〔ideas〕の起源と構成を論じおえ、われわれの知識の範囲と確実性を検討しはじめたとき、私は、知識が言葉ときわめて密接に結びついており、した がって、まず、言葉の力と意味作用のありかたを十分に観察しなければ、知識にかんして明晰かつ適切に述べることはほとんど不可能になるだろう〜実際、知識は最終的には事物に行き着くとはいえ、しかしそれは言葉の介在による部分がきわめて大きいため、言葉はわれわれの一般的知識とほとんど分かちがたく結びついているようにみえる。少なくとも、われわれの知性とそれが観照し把捉しようとする真理とのあいだに、言葉はおおいに介入している。いわば目に見える物体が何らかの媒体を通り抜けてゆく場合のように、言葉の曖昧さと無秩序さはしばしばわれわれの目を曇らせ、われわれの知性を騙すのである。
レトリック批判
才知と空想は無味乾燥な真理・真実の知識よりよういに世に迎えられる。それゆえ言語における比喩的な語りや引喩が言語の不完全さや誤用の一種と認められることは、まずないだろう。〜だが〜もしわれわれがあるがままの事物について語ろうとするならば、次のことは認めなければならない。すなわち、秩序や明晰さを除くあらゆるレトリックの技術、雄弁術が創出したあらゆる人工的で比喩的な言葉の応用は、虚偽の観念を仄めかし、情念を動かし、それによって判断を誤らせるものにほかならず、したがってまさしく完全な詐欺なのである。それゆえ、いかに見事な修辞や大熱弁や大衆演説のなかでレトリック技術や比喩的な応用を用いようとも、そうした技術や応用は啓発したり教化したりしようとするあらゆる言説にあっては、絶対に避けなければならない。真理と知識に関わるかぎり、そうした技術や応用は、言語かそれを利用する人物か、そのどちらかの大きな過誤と考えるよりほかならないのである。
続けて下記のように語る
ただ、こうした錯誤の技術が人間に授けられ好まれていることからすれば、真理と知識を保存し進歩させることがそれほど人類の配慮と関心を払うところではないことを、私は認めざるをえない。明らかに人間は、欺いたり欺かれたりするのが好きなのだ。というのもレトリック、すなわちあの誤謬と欺瞞の強力な道具は、その専門的な教師をもち、公然と教えられ、つねに大きな評判を得てきたからである。〜雄弁術は、麗しき性〔女性〕のように、圧倒的な美しさを内に秘めており、己に逆らって語ることなど決して許さない。それゆえ、人々が欺かれることに快楽を見出しているかぎり、こうした欺く技術を非難しようとしても無駄である。
次項で言語とは「事物それ自身に存する知識の源泉を台無しにする」かもしれない「道管」、それどころか「公共の利用のために知識を配分する管を壊したり詰まらせたりする」かもしれない「道管」だと述べる。
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単純観念概念
単純観念のレヴェルでは言葉によって指定される種の唯名的本質と実在的本質がぴったり一致しており、それゆえ意味論的ないし認識論的な問題は全く存在しない様。
つまりそれは言葉と存在物のあいだ、特性(プロパティ)と本質とのあいだに、原則的には隙間や動揺など存在しない、非分割的なもの。:単純観念から作られたエリクチュールのようなものはすごく滑らかな連続的性質を持つ的な?
単純観念の名前はまったく定義できないのである。
これはつまり定義には必ずしも区別が伴い、差異こそが定義であり単純なものにはなり得ないということ
人工言語はこれを仮想的に作ろうとしてたということ
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ロック的人格
理知と省察とをもち、自分自身を自分自身と考えることのできる、思考する知能ある存在者、違う時間と場所で同じな思考をする事物
1693『教育に関する考察』
善と悪、賞と罰は、理性的動物にとっての動機であり、これらのものはそれによってすべての人が働くようにされ、導かれてゆく拍車であり、手綱です。