ロック
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第一論文
キリスト教の基礎づけ
冒頭:神は自分がいかなるところにもそばにいることを私たちに示す
Deus se ubique praesentem nobis praestat
Deusとはキリスト教の神であり、神の遍在性を説く
scilicet numen aliquod mundo praesidere
(上記訳)ある神的な存在が世界を管理していることは明白である。天が不断の循環によって回転し、地球が不動であり、星が輝き、また荒れる海でさえ限度があり、またあらゆる植物が発芽と生長の様式と期間を持ち、あらゆる生物が彼ら自身の誕生と生存の法則を持つことは神の意志によるものである。
第四論文「〈理性は感覚経験を通じて、自然法の知識に到達しうるか〉という問いに肯定をもって答える」
あるパーソン(人格)〔=人間〕が別のパーソン(位格)〔=神〕によって(神学的な意味において)創造されたとするならば、創造主が彼に対して設定した戒めに従う義務を当のパーソン(人格)〔=人間〕は負うことになる。
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自然状態の人間たちに神が与えた自然権
自己保存権
他人の自己保存権を侵害しない範囲に限って、自分や他人そして人類を保存しなさい
この神の命令に従って大地のいかなる部分でも征服し、耕作し、播種した者は、それによって、彼の財産を大地に付け加えたのであり、それに対しては、他の者はいかなる権原もなかったし、侵害なしに彼からそれを奪うことはできない
つまり自己の労働によって生産されたものは己のもの
自由について
自由とはすべての人が勝手なことをする自由ではなく、法のないところに真の自由は存在しない。
自由とは他の人の拘束や暴力から自由であるということであり、また人が服している法が許す範囲で、その身体、行為、財産、その全所有権を、自らの好むように処理し、整理することであり、その場合自発的に自分の意志に従う自由のことである〜法の目的は、自由を廃止したり、制限したりすることではなく、自由を保存し、拡大することである
処罰権
自分や他人の生命や財産が侵害された際は、すべての人に、加害者に対する処罰権を与える
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レトリック論
知識と言葉の関係
だが、われわれの観念〔ideas〕の起源と構成を論じおえ、われわれの知識の範囲と確実性を検討しはじめたとき、私は、知識が言葉ときわめて密接に結びついており、した がって、まず、言葉の力と意味作用のありかたを十分に観察しなければ、知識にかんして明晰かつ適切に述べることはほとんど不可能になるだろう〜実際、知識は最終的には事物に行き着くとはいえ、しかしそれは言葉の介在による部分がきわめて大きいため、言葉はわれわれの一般的知識とほとんど分かちがたく結びついているようにみえる。少なくとも、われわれの知性とそれが観照し把捉しようとする真理とのあいだに、言葉はおおいに介入している。いわば目に見える物体が何らかの媒体を通り抜けてゆく場合のように、言葉の曖昧さと無秩序さはしばしばわれわれの目を曇らせ、われわれの知性を騙すのである。
レトリック批判
続けて下記のように語る
次項で言語とは「事物それ自身に存する知識の源泉を台無しにする」かもしれない「道管」、それどころか「公共の利用のために知識を配分する管を壊したり詰まらせたりする」かもしれない「道管」だと述べる。
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単純観念のレヴェルでは言葉によって指定される種の唯名的本質と実在的本質がぴったり一致しており、それゆえ意味論的ないし認識論的な問題は全く存在しない様。
つまりそれは言葉と存在物のあいだ、特性(プロパティ)と本質とのあいだに、原則的には隙間や動揺など存在しない、非分割的なもの。:単純観念から作られたエリクチュールのようなものはすごく滑らかな連続的性質を持つ的な?
単純観念の名前はまったく定義できないのである。
これはつまり定義には必ずしも区別が伴い、差異こそが定義であり単純なものにはなり得ないということ
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理知と省察とをもち、自分自身を自分自身と考えることのできる、思考する知能ある存在者、違う時間と場所で同じな思考をする事物
善と悪、賞と罰は、理性的動物にとっての動機であり、これらのものはそれによってすべての人が働くようにされ、導かれてゆく拍車であり、手綱です。