ラカン
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I講
精神分析は科学たりえるのか
探究の領域とは?
探究するためにはすでに発見していなければならない。
ある特定の知の枠組みを無根拠に前提として探究するということである
すべての科学は纏まった一つの体系、いわゆる大文字の世界という体系に依存している、というデュエムの要請を受け入れることはできません。 これは結局のところ観念的な前提にすぎず「実証主義に暗に含まれる超越的補足」なのであり、ある意味で神が発見されていることなのである。
発見の領域とは?
たとえ神が2足す2は5といったとしても、それは真ということになるでしょう。/このことは何を意味するのでしょうか。それは幾何学を解析学へと変える代数記号を用いた操作がやがてはじまるということであり、集合論の扉が開かれたということです。
則、集合論のように自らの体系の内部で真理自体(=神)を定義するものである。
そして更に、科学は対象をもち、その対象について探究しなければならないという。だがその対象はそれ自体の知の枠組みが更新されることで変化する。(相対性理論や量子力学以後の物理学はニュートン力学の対象とは異なるし、現代化学の対象もラヴォアジェが見ていた対象とは異なる) 上記を理由に「実践」が必要だと語る。それは自らが探究する領野自体を規定することであり、新たな知の枠組み自体を実践において発見することなのである。その意味で錬金術は実戦において「魂の純粋さ」という超越的−外的な規定が設けられているため発見の科学とは言えない。 II講
無意識はランガージュのように構造化されている
若くして亡くなったソシュールは、時間的な変化を捨象した言語の共時態な構造の分析にとどまっていた。その意味でランガージュとは、すでに成立してるラングが示すものではなく、時々の使用によって構造の変化を引き起こす言語使用全体を示すものである。そんなランガージュの在り方を無意識におけるシニフィアンの自律的な構造化に求めるのである。 "特殊な意思"をDivision(裂け目)とし、無意識を語る概念装置として定義付けている。 ex) 「物理的な作用・反作用」にはDivisionは存在しないが、「月の満ち欠けを潮の満ち欠けの原因として語ること」、「発熱の原因を瘴気とすること」には直接的な因果が存在しないことから裂け目があると言える
Ⅲ講
シニフィアン連鎖の構造
エドガー・アラン・ポーの『盗まれた手紙』の中で探偵デュパンが推理の好例として取り上げる、丁半遊びに勝ち続ける子どもは相手の出方を分析し、それに同調することで、次に相手がどちらに賭けるかを先読みする。 ラカンはこうした「先読み」を、シニフィアンの自律的な構造化によって与えられるものと見なしてて分析を加える。
丁/半という二項の対立は、その差異だけが問題になるシニフィアンであるため、「+/-」と簡略化できる。そして勝負を繰り返していくうちに、「相手の心理を読み取ることができる」記号の列が与えられる。
そして+-+-+-++--++…と繰り返される記号から次の一手を予測できるということは、ランダムに与えられるものではなく、何かを指し示すもの「何かを意味するもの」としてのシニフィアンが存在するということである。
だが、そこで「指し示されているはずのもの=シニフィエ」は、すなわち、「相手の心理」の構造は、いまだ全く明らかではない。そこには単に「シニフィアン連鎖」が与えられるだけである。
こうした何を指し示しているのか明らかではない「シニフィアンの連鎖」から内在的なある種の規則(=無意識の構造)を見出すことができる。
変化のない対称(+++,---)を(1)と記すことにします。また両端が対称になっているもの(+-+,-+-)を(3)と記します。さらに、同じ記号が先にきたいるか後にきているかどちらかで、対にならず、非対称になっているもの(+--,-++,++-)を(2)としましょう
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Ⅳ講
主体には、シニフィアンの網目それ自体を切断し、新たにシニフィアンの網目を形成し直す機能が想定されている。 https://scrapbox.io/files/6543a640d71431001cb06393.png
浮遊する空虚なシニフィアンとクッションの綴じ目
ラカンは初期のセミネールにおいて、確固たる意味を形成しないままに流れていくシニフィアンと、不確定な塊として流動する意味の交錯のただ中から、揺らぐことのない同一的な主体を立ち上げる機能をもつような、創設的なパロールについて論じていた。
主体は、その起源においてバラバラな欲望の集積(collection)であり、そこにおいてこそ、「寸断された身体」と表現されるものの真の意味があることになるのです。
つまり主体は、他と区別された同一的な主体として立ちあがる以前においては、様々な欲望の形象に自らの同一性を寸断されている。
人間の自己とは他者であり、主体は、もともと自らに固有の傾向が現れるよりも、ずっと他者の形に近いものであるのです。
上記のように言われるようにもはや、主体は自己という固有なものが立ちあがる以前においては、他なるものに浸透されており、他者性を含み込んでいるのである。経験の流れのただ中に自らの同一性を失ったものを、時間を通じて変転することのない「自己」へと離定する創設的なパロールとは、一体、どのようなものだと考えるべきなのであろうか。そのような創設的なパロールの機能する場面を浮かび上がらせるために、ラカンは、ラシーヌの描いた『アタリー』におけるアブネルとジョアドの対話を分析していた。 異端の神を信じダビデの王族を根絶やしにして王位についた女王アタリーに仕えながらも、それ以前の「永遠なる神」の「栄えある日々」を忘れがたく胸に残している将軍アブネルは、かねてからアタリーやその追従者たちによって企てられていた神殿の封鎖の時がいよいよ間近に近づいていることを、ヤハウェの神に奉じる大祭司ジョアドに伝えにくる。「何も隠さず申し上げるが、私が恐れている(Je tremble)のは、アタリーがあなたまでも祭壇から無理やり引き離し、つまり、あなたの命を奪う復讐を成し遂げて、強いられた尊敬をあまねくいきわたらせるのではないかということなのだ」。アブネルは、「恐れ」というある種の強度を含み持った言葉をもって、ジョアドに危機の到来を告げるのである。
ここでアブネルは、ヤハウェの祭壇が潰されバアル信仰がユダの国を覆い尽くしてしまうことに対して、二つの相容れない態度の間で揺れ動いている、とラカンはいう。「誰しもが祭壇の前に整然と進み、それぞれおのが畑から摘み取った初生の果物を捧げて、全世界を統し召す神に初ものを献上した」ような過去の栄光の日々に、今でも自己の拠り所を持ち続けているアブネルとって、異端の神が国教化されることは少なからざる喪失をもたらさざるを得まい。ゆえに、アブネルが恐れるのは、まずもって、そうした自己の根拠を失うことだと考えることができる。しかしながら他方、「証の櫃は黙して、もはや神託をもたらさない」時代にあって、アブネルは自己の無力を嘆きながらも、自分が将軍としての今の自分に止まらざるを得ないことを同時に強く感じている。彼は自らの身を、アタリーに与することでしか保つことができず、自らの拠り所をそうした地点に求めざるを得ない状態にあるのである。それゆえに、ここでのアブネルの「恐れ」とは、それを提示することによってジョアドに「恐れ」を喚起させ、彼にアタリー側への改宗を迫るような方便でもありうることになる。「恐れ」という言葉を軸として、このときのアプネルは二つの極を揺れ動き、いまだ定まらない状態にあることになるのである。
実際、ここでのアブネルの行為が、いかなる意味をもつものであるのか、彼自身、未だ知りかねる状態にあったともいわなければならないだろう。「この男は何をしに来たのだ」。その時、対話相手の老祭司は、やってきたアブネルの真意をいぶかしく思ったに違いない。そ の都度の彼の一挙一動が、どのような意味を持っているものなのか、そこに確たる指標を見出すことができないまま、ジョアドは対話を進めなければならなかったのである。だがしかし、それはアブネルにとってもまた同じことであったといわなければならない。対話にのぞむアブネル 自身が問いの答えを、まさにその対話のうちに見出そうとしていた。アブネルと名指されるものは一体何ものであるのか。その都度の彼の一挙一動は、深い決意をもった反抗者へと方向づけられることもなく、かといって女王アタリーの臣下として彼を立ち上がらせることもない。彼の挙動は、確固とした方向を指し示すことなく、反抗者と臣下という二つの形象を同時に含ませながら、定まることなく揺れ動いているのである。 このように確固とした自己が不在なままに流れていく対話は、必然的に、空虚に語られる言葉を伴うことになるだろう。対話は、自己を巡る揺れ動きすらも指し示すことなく、空虚なままに浮遊することになる。
将軍の言葉は続きます。「いかにも、私はこの神殿に参った、永遠なる神を崇めるために。古き昔より年毎に行なわれ る祭儀の習わしに従って栄えある日を、あなたとともに祝いに参った、シナイの山で掟が下さ れた忘れもせぬ栄えある日を」。 要するに何も言っていないようなものです
ラカンがいうように、アブネルとジョアドは多くの言葉を費やしながらも、対話を形式的なやりとりに終始させているように見える。アブネルとは一体何ものであるのか、アプネル自身もまたそれを未だ見出すことができないままに紡がれる対話は、空虚なままにシニフィアンを浮遊させることになるのである。
それでは、このように、揺れ動き定まることのないアブネルの挙動の「真意」と、空虚なままに浮遊するシニフィアンは、最後まで乖離したまま、単に過ぎ去っていくだけのものなのであろうか。確かに、差し迫る危機の前に臣下と反抗者という相容れない二つの形象の間に揺れ動くものと、その動揺すらも表明されることのないままに紡がれる空虚なシニフィアンは、ふたつながら定まるべき極を持たずに、互いに接点を持つことはないようにも思える。しかしながら、ラカンはここで、空虚なままに費やされていくシニフィアンの役割を見てとらなければならないという。 ラカンによれば、この二人の対話者たちは、空虚な言葉を重ねつつも、そのうちに鍵となるべきシニフィアンを探りあてながら、徐々にある極点を目指して対話を展開していくことになるのである。 ダビデの王統を根絶やしにして王位についたアタリーに対する反抗の切り札として、虐殺の際に奇跡的に救い出された子ジョアスを内に抱えているジョアドは、空虚に積み重ねられる対話のうちにも、自らに対してある絶対的な確信を持っていた。しかるに彼は、そうした動かざる点を礎にして、揺れ動くアブネルに対してある種の介入を試みることができることになる。「神への恐れ」という言葉を出しながら大祭司は、アブネルに対して、彼が揺れ動きながら問いつづけている当のものを、「餌」という隠れたあり方で、空虚な対話のうちに含ませることになるのである。
そなたは「神は恐れ多い。神の真理が我が心を動かす」と言われる。神に代わって私の口からお答えしよう。「我が掟に熱心らしくみせたところで何になろうか。無用な誓いを立てて神を崇めるつもりなのか。~断ち切るがよい、不敬な輩との契約をことごとく断ち切るのだ。わが民のなかより、罪咎を根絶やしにせよ。さすればその時こそ私に生贄を捧げに参るがよい
こうしたパロールは、まずもって儀式の中のお決まりの説教として捉え得る。初生を贄として捧げるものに対して、の身を純粋ならしめよと説くことは、祭司のジョアドにとっては、日常的なことであるわけだ。しかしながら、こうした言葉にジョアドは同時に、単なる「坊主の説教」ではない、「詩人か予言者」めいた含みを持たせることも忘れてはいなかった。ジョアドが発するこのパロールは、日常における空虚な言葉でありつづけながらも、同時に、アブネルにアタリーに対する反抗を促すように仕向ける、「餌」の役割を果たすことになるのである。
こうして与えられる餌を契機として、対話はある極点を目指して進行しはじめることになる。語られる対話はなお空虚でありつづけ、アブネルもまた表立って自らの立場を表明することはない。しかしラカンがいうように、餌として放たれたパロールを境にして、空虚に積み重ねられていく対話は、未だなお空虚なままに、ある確かな地点を指し示すに至ることになるのである。揺れ動き、確たる自己へと帰着されることのなかったアブネルのその都度の挙動と、空虚なままに浮遊していたシニフィアンは、空虚なままに進められる対話のうちに手繰り寄せられ、ある極点において、確固たる決意のもとに折り重ねられる。こうした極点のことを、ラカンは「クッションの綴じ目」という言葉で表現したのである。
クッションの綴じ目とは、シニフィアンと意味されるものが結びつく点、つまり二人の登場人物の間を現実に巡っているような、常に揺れ動く意味の塊と、このテクストとが結びつく点であることが解ると思います。~ここでのクッションの綴じ目は、横断的な意味を含み持った「〔神への〕恐れ」という語です。このシニフィアンを中心として、綴じ目によって布の表面にできた小さな皺のように、すべてが放射状に広がり、組織化されるのです。この収斂点によってこそ、 この対話に起きているすべてのことを遡及的にも予見的にも位置づけることができるのです 対話においてジョアドによって「神の恐れ」という言葉が持ち出されたことを契機として、徐々に対話はある極点へと移行しはじめる。「クッションの綴じ目」と呼ばれるその極点において、それまで空虚なままに戯れていたすべてのシニフィアンが遡及的に配置しなおされると同時に、それまではっきりと分化されず「塊」として積み重ねられるだけだったアブネルの挙動の「真意」が、構造化されたシニフィアンの背後に意味として綴じ込まれることになる。その点から振り返るならば、これまで空虚だと思われていたすべてのシニフィアンは、実はアブネルのその確信へと向って周到に配置されていたかのように思われ、様々に話された事柄の裏には常にアブネルの強い意志が垣間見られていたようにも思われることだろう。双方共に乖離したものだったはずの、揺れ動き定まることのなかったアブネルのその都度の挙動の連なりと、空虚なままに浮遊するだけであったシニフィアンは、「クッションの綴じ目」という極点へと対話がもたらされるや否や、その点を中心として構造化され、折り重なることになるのである。空虚だったシニフィアンは統一的な視点のもとにありうべき位置づけを獲得し、揺れ動き定まることのなかったアブネルの挙動の連なりは、神の僕という確間たる自己を中心として、綴じ込められる。シニフィアンの連鎖が自らの運動のうちにある極点に達するとき、それまで空虚だったシニフィアンが構造化され、同時に揺らぐことのない自己が立ちあがることになるのである。