ベンヤミン
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ベンヤミンの著書にまたがる主題
集団もまた身体的である。そして技術のなかで組織される集団の肉体が、その政治的で具体的な現実性のすべてを備えて産出されうるのは、世俗的啓示をつうじてわれわれが住みつくことのできるあのイメージ空間のなかでのみである。世俗的啓示において身体とイメージ空間が相互に深く浸透しあい、その結果、革命のあらゆる緊張が身体的で集団的な神経刺激となり、集団のあらゆる身体的な神経刺激が革命的な放電となるとき、そのときはじめて現実は『共産主義者宣言』が要求している程度にまで自己自身を乗り越えたことになる この「イメージ空間」とは、「全面的で統合されたアクチュアリティの世界」、つまり「政治的唯物論と肉体的被造物」とが、「内面的人間、魂、個人」を、「弁証法的な公正さにしたがって、どの部分も引き裂かれないままではいられないようにし、共有しあうような空間」なのだと。(アーレントの政治的判断的) 集団的記憶の多層性
ベンヤミンは、プルーストが詩作と現実の生とのあいだに、「個人的な過去」と「集団的な過去」とのあいだにある「不一致」を、「彼の内部にある絶望的な悲しみ」と言い換えているが、そうした「悲しみ」を、「追憶」を喚起する「嗅覚」と「野獣のような鋭い感覚」をつうじて克服しようと試みたのだと説明するのである。
現在という本質自体のなかにある癒すことのできない不完全さ
プルーストは詩作と現実の生とのあいだのこの 「不一致」の経験を、ひとつの生を体験したままに記述するのではなく想起するがままに記述する。ここで中心的な役割を担っているのは、「体験」された出来事そのものではなく、想起が織りなす行為、「追憶というペーネロペーの仕事」であり、プルーストの「無意志的記憶」、つまり「無意志的追憶」は、ふつう「想起」と呼ばれ るものよりも、「忘却」、「忘却というペーネロペーの業」に近いものなのだという。 われわれは毎朝、目覚めたとき、「忘却」のなかに織りなされた集団的な過去の記憶のいくらかをかろうじて手にしている。しかしたいていひとは毎日、「目的に結びついた行動」、さらに「目的に拘束された想起」によって「忘却」のなかに織りなされていた集団的な過去の記憶を見失ってしまう。ベンヤミンは、「目的に結びついた行為」、「目的に拘束された想起」をつうじて「体験」 された出来事が有限であり、限定された領域に制約されているのにたいして、「追憶」が「体験」されたひとつの領域にとどまらない集団的な過去の記憶を喚起すると論じるのである。
193? エッセイ
口から口へと伝えられてゆく経験が長編物語の源泉であるとし、この経験の価値が下落していると指摘した。その一つの典型として、彼は第一次世界大戦の帰還兵たちを描写する。
第一次世界大戦における技術の発展は、物理面だけでなく倫面を含む内面世界までをも急速に変容させた。共同体から引き離され、また戻された帰還兵たちは、もはや元の場所に留まった者たちと経験を共有できなくなってしまった。
主題と構成
カフカのテクストで語られる「猫羊」や「オドラデク」といった奇妙な存在に着目し、これらの「歪んだ」存在が、カフカ作品における日常への「太古」の侵入、忘却された「罪」への不安と関わる重要なモティーフであることを論じている。エッセイの草稿からは、こうした「怪物たちMonstra」にある種のメッセンジャーとしての役割を想定していたことがわかる。 こうした怪物把握は、古代から現代に至る怪物論の系譜においてみる時、怪物をも神の被造物として把握する議論と親和的なものであることがわかるのだが、創造者としての神との断絶を前提としているカフカ作品を対象とすることで、怪物形象もベンヤミン独自の歴史哲学的な意味を与えられることになる。
そしてそんな怪物のモティーフに着目する時、「イメージ」を何らかの対象を代理するものではなく、それ自体が意味作用の媒体としてあると見ていることを明らかにする。
最後に、ベンヤミンがカフカの怪物を忘却と罪の産物とすることの意味を検討し、ベンヤミンが怪物的なものとして導入する「せむしの小人」のモティーフの意義を論じる。
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カフカ・ワールド
万物の性質
ベンヤミンは、カフカ作品における象徴秩序の境界の揺らぎや歪みを踏まえて、その「被造物」の「世界」において下記と論じる。
どの被造物も、その確固たる場を、その確固たる取り替え不能の輪郭を持たない
アウグスティヌス=神学的怪物性において、各々に定まっていた場を持っていた被造物だが、ここでは「上昇や下降のうち」においてしか把握されない。「その敵や隣人と場を交換しない」被造物はここには存在しない。 自分の時代を完遂したのにまだ未熟~ひどい疲れのうちにあるのに、まだこれから長く続くことの端緒についたばかり
な性質をもつ。それゆえ下記である。
秩序やヒエラルキーについて語ることはここでは不可能である。ここで容易に思い浮かぶのは神話の世界だが、それはカフカの世界よりもはるかに新しい。
ベンヤミンは、カフカの世界を「太古の世界」、あるいは現代を描写する中にも「太古の世界」が入り込んでくるのがカフカの世界だと考えている。
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太古性をもつ作品の事例
掛けぶとんの重みを払いのける父は、それと同時に世界の重みを払いのける。原初の父-息子関係を生きた、影響力あるものとするために、父は世界の年代を動かす。しかし、なんと大きな影響であることか!彼は息子に溺死刑を判決する。
忘れていた父の権威は、子が親を超えるという物語を打ち砕きながら、強大な神話的な力とともに蘇ってきている。
社会の進歩を前提とするなら、子は父の時代の先を行くものとして、父の出来なかったことを成し遂げ、子供は父を乗り越えているはずである。だが、カフカにおいては、新たな時代に棹差して洋々たる子供は、原初の時代から蘇ってくる父の権威に首ねっこを摑まれて屈服する。
ベンヤミンがさらに強調するのは、カフカ世界は、父が支配する神話的秩序よりさらに、以前に想定される「雑婚制」段階にまで通じていることである。バッハオーフェンがギリシアの大地の女神デメテールの考察から考えていったヘレネー文明以前の「雑婚的」段階である。 こうした段階では、遊女的な女たちが、「夫」や「父」といった役割を男に期待もせずに、男と交わっていたと想定されている。この段階は、すでに父を中心とした秩序を形成していた神話的段階よりさらに以前の段階であり、その文化的な痕跡はわずかに残るばかりである。
ベンヤミンは、こうした忘却された世界段階がカフカ作品において立ち現れてくると見ている。例えば『城』において、Kはレニの手に水かきのようなものがあることに気づく。このレニは、半ば怪物的存在としても把握されている。こうしたカフカの女性形象は、「沼の生物」の特性を帯びているとベンヤミンは論じ、彼女らが、忘れられた雑婚性の段階の「無秩序な豊穣さ」を体現しているとみている。
カフカの長編小説は沼の世界で演じられる。被造物はカフカにおいては、バッハオーフェンが雑婚性と名付けた段階において現れる。この段階が忘れられているということは、この段階が現在へと突き出てくることがないということを意味しない。むしろこうである。雑婚性の段階は、この忘却によって、現に存在するものとなっているのである。平均的な市民の経験よりも深いところを進む経験はこの段階にぶち当たる。
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太古性の起源
「平均的な市民の経験」よりも深いところを進むカフカ作品の語り手は、一つの経験から無数の可能性を一挙に広げることで、「陸地での船酔い」を引き起こす力を持っている。「経験の揺れ動く性質」に没頭する彼らが語るとき、「どの経験も、何かを加え、どの経験も別の対立する経験と混ざり合う」。このように考えるベンヤミンは、カフカの遺稿 から『中庭の門をノックする』と題された断片の冒頭を引用する。 夏だった。暑い日だ。私は妹と家路に向かう途上、ある中庭の門を通り過ぎた。彼女が門を叩いたのが、気まぐれ からだったのか、気晴らしからだったのか、あるいは拳で脅かしただけで、全く叩いてなどいなかったのか、私は 知らない
妹は最初、門を叩いたのだという前提で語りが始まるが、その理由を考える中で、「全く叩いてなどいなかった」可能性が示唆される。カフカの語りは、一つの経験から、実際には起こらなかった可能性の領域にまで、一挙に展開を行う。 「中庭の門をノックする」の、語り手は、実際にどうだったのか定かではない妹のノックのために、城から出てきた男たちに連行され、罰されることになる。
カフカの「深い経験」は、潜在的な罪にまで語りの中でたどり着くことで、 罰を呼び寄せることになる。自分がやったのではないこと、実際に起こったのか知らないことでさえ、カフカ世界では罪となりうる。
「中庭の門をノックする」において、カフカ作品の語り手は、ノックした(と思われる)妹の罪を背負っていた。神話時代の血讐が一族郎党を巻き込んだのと同様、カフカの人物には、家族の行為がのしかかってくる。
こうした関係に ついて、ベンヤミンは「羞恥」の感情を取り上げて論じている。個人の内密な反応である「羞恥」は「他の人に対して」感じるものであると同時に「他の人に代わって」感じられるものでありうる。自分では責任を引き受けられないも の、自分が責任を持って振る舞えないものに対して人は羞恥を覚える、自分の預かり知らぬところでなされていく家族の振る舞いは、まさに羞恥の対象となる。カフカ自身が書いているように、「この家族の強制の元に暮らし、考えているかのような」人間は、「この見知らぬ家族のせいで、放免されることがあり得ない」状況に常に置かれている。そして、ベンヤミンの注釈に従うなら、この「見知らぬ家族」の範囲は、祖先を超えて、動物たちにまで広がりうるものである。
かくして「揺れ動くという経験の性質」と「見知らぬ家族」の力によって、カフカにおいては未知の罪でさえ、裁きと罰になりうる。「見知らぬ家族」は、文明以前の忘却された社会関係に通じている。 神的なものと考えられる「上方の世界」が恩寵をもたらすものとして機能せず、克服された過去として忘却されてい」 る「太古の世界」が、その暴力的関係とともに蘇ってくるのがカフカの世界である。
太古の世界の諸力は、恩寵のない市民の「家庭」においても頭をもたげてくる。フロイト的な見方をすれば、「家」は「父」の支配する領域であり、 供は母の庇護を受けつつも、抑圧の下に置かれる。ドゥルーズとガタリは、カフカのうちに、こうした圈域の力とそこ からの逃走と、「家」の脱領域化について論じていだ。ベンヤミンのみるカフカ世界では、オイディプス的三角形に全 ての問題が集約するのではなく、動物をも含んだ見知らぬ家族の太古にまで遡っていく。 ベンヤミンが強調するのは、カフカにおける「怪物」が「家族の懐」において現れることだが、「家族」は以上見て きたように、人に安心を与える社会の基本的単位といったものではなく、沼の世界にまで通じる不透明な場である。
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オドラデグの解釈問題
前提: カフカ作品において「家族の懐」で生み出された怪物として、ベンヤミンが最も注目するのは、小品『家父の心配』 に出てくる「オドラデク」である。 既存のカフカ研究の見地
この謎の存在に関しては、カフカ研究において、早くから―疎外状況の反映と見る見方、カフカ自身を指し示す「暗号」と見る見方など―多様な解釈がなされてきだ。ただしカフカのテクストはこの存在の「起源」 をたどる道筋を与えておらず、一義的な決定は不能であり続ける。
家父の見地
テクスト自体に内在的に解釈を徹底させていくと、オドラデクそのものよりも、「家父」のオドラデクへの態度に焦点が当たる事になる。そんな彼の見解は下記仮説である。
目的に適った何らかの形態を持っていて、現在壊れているだけだ
死すべき全てのものはある種の目標、ある種の活動を持っていた
ここから全ての現象を目標と、目的論的、合目的性との関連で捉える市民的思考が読み取れる。ただこれも一義的である。
ベンヤミンの見地
「どこに住んでいる」と尋ねられると決まって「住所不定」と答えるオドラデクがその後に見せる「肺なしに生み出せるような笑い」は、何を笑っているのかもわからない。だが何を指しているかはわからないにせよ、落ち葉の音があれば何かの存在が考えられるように、何かを指し示している「オドラデクの笑い」は、いわば謎の「しるし」としてある。
ベンヤミンのイメージ概念は、写像よりも広い、類似性全般を射程に入れたものであり、イメージは何かの代理にとどまらず、そこにおいて何かが発見され、読み取られる媒体として把握されうるものである。この点で精神分析の夢解釈で読み取られるイメージ文字とも近い。 ベンヤミンはカフカにおける「怪物」のイメージも、何かの代理・表象としてでなく、多様な指示作用を生み出す「しるし」として(即ちパフォーマティブ)、読解の対象あるいは、ひらめきの舞台として捉えている。 “しるし”の起源
ラテン語の「怪物 monstra 」は「しるし」の意味を持っており、語源をたどると「警告する monere」という語にたどり着く。
中世の年代記には「怪物=奇形」の誕生について熱心に記されているが、それは災厄や罪を警告する「しるし」 として受け止められていた。要人暗殺や伝染病の流行、飢饉や戦争などの災厄の前兆として理解されていたのである。 近世初頭においても奇形の誕生は、集団の罪への神の怒りがもたらす災厄の前兆として恐れられていた。それは一種の「啓示されるテクスト」として、奇形の誕生が示す罪を読み解き、それを悔いるための媒体として機能した。
1522年にザクセンの肉屋が牝牛の死体から発見した「怪物」の頭は、剃髪した人間(修道士)の頭のようで、手足は豚のようだっ た。カトリックの側は、こうした怪物の出現を、裏切り者の堕落した修道士ルターとそれを保護するザクセン候の許しがたい堕落のしるしとして解釈した。
他方、ルター側は、怪物の出現は、本来は聖なるものであるべき修道士生活がうわべだけのものとなっていることを示しているという論陣を張った。ここでは、牝牛の胎内に発見された同じ「しるし」 が全く別様に解釈されている。「しるし」は、それ自体として意味を提示するものではなく、その意味は読解のコンテクストによって生み出されている。
オドラデクの性質
オドラデクをはじめとした怪物は、神話的秩序が成立するより以前の太古の世界から続く、忘却された何かと関わる。
カフカにおいて太古の世界が罪と交わって生み出した、最も奇妙な雑種
なぜオドラデク=罪を要素とするのか。(下記引用にて『訴訟』が行われる「屋根裏」と関係付けることで罪との交わりを指摘する)
オドラデクは「屋根裏、階段、廊下や玄関ホールに交互に滞在する」。オドラデクは罪を追求する裁判所と同じような場所を好んでいるのである。屋根裏は古びて廃棄され、忘れられた家財の場所であり、裁判所への出頭義務は、長年閉じられていた屋根裏の大箱の整理に取り掛からなければならないのと同じよう感覚を呼び起こす。人は、生涯の終わりまでこうしたことは先延ばしにしたがるものだ。
つまり誤解を恐れずに意訳すると、忘却された前神話的秩序のものは、心理的負担を逃れるために人が「忘却の容器」に溜め込んだものであるということ。だから罪なのである。
オドラデクは当然長生きする
これらからベンヤミンが見出すのは、忘却の深淵から響く「落ち葉がカサカサいうよつな〜笑い」が「忘却の声を再現することに成功している」ということ。
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ティークの例
ひっそりと暮らす騎士のエックベルトは、たった一人の友人ヴァルターの前で、妻ベルタに過去の不思議な境遇を話させる。
貧しい両親のもとで育った彼女は、不器用で空想癖のある子で、父親から役立たずと罵られ、折檻される。
家出をして辿り着いた森で出会った老婆は、宝石を産む不思議な鳥と犬を飼って暮らしていた。四年間楽しく暮らしたベルタは、しかし、外の世界への好奇心を抑えきれず、宝石を産む鳥を手に家を出る。
その時に家の柱に縛って見捨てた犬の名前「シュトローミアン」を、話を聞いていた友人ヴァルターがつぶやいたことからベルタは罪の意識に苛まれたのか発狂する。
エックベルトもヴァルターを殺し、発狂していく。魔女である老婆が種明かしをするところでは、エックベルトの両親が農夫に預けていた妹がベルタであり、彼らは知らずに近親相姦の関係にあったことになる。忘れていた罪の名前が運命を明らかにし、破局をもたらす。
カフカでの身振り
ベンヤミンは、カフカの人物たちに見られる、「頭を深く胸へと沈める」身振りに着目し、下記と述べている。
ひょっとすると彼らは、その首で地球を担っていたアトラスたちの末裔ではないか
彼らが担うのは「地球」ではないが、「日常」でさえも「地球の重み」を持っているかのように彼らは疲れている。
彼の疲労は、闘いの後の剣闘士のそれである。彼の仕事といえば、役所の部屋の一角に喰を塗ることだったのではあ
彼らは中世の教会の柱頭に見られる、しかめっ面をした怪物たちともつながっている。彼らが担うのは、「忘却」の重荷である。
せむしの人とは
上記ふたつの例から導き出される、せむしの人とオドラデクの差異
オグラデク:生起する条件 /「しるし」の対象 / 発生の意図
前神話的秩序から生存する集合的無意識的な罪意識(即ち潜在的に連帯の対象でもある。) / 類する範囲を含む像 / 非目的論的で告発をするのみ(真実へのエントロピー的な作用) せむしの人:生起する条件 /「しるし」の対象 / 発生の意図
自己の内部の忘却に関するもの / 明確な対象 / 目的論的で解決を求める
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重要なのはベンヤミンがこの解決を不可能なものではないと考えていたこと。潜在的な領域に担保された、現実的には不可能な希望といったものをそこから語ろうとしたのではなく、うな垂れるカフカの人物たちが、忘却されていた「快活さ」を回復する可能性、あるいは重荷から解放されて愉快に進んでいく可能性を、ベンヤミンはカフカのテクストの内に見ていた。
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小林哲也による補題
人類学的見地に立つと、「怪物」は共同体や社会の「同一性を打ち立てる機能」に組み込まれているものと考えられる。一つの社会は、その他者を「怪物」化することで、「親しんだ領域を清浄に保ち、そうすることによってそれを初めてそれ自体として定義することを試みる」。「文明」の側に立つ人間は、不透明で力の及ばない領域に現れる他者を「怪物」として外部へと放逐することで、自らの秩序を安全な領域として画定してきた。
フーコーは、「異常者たち」の系譜を論じる講義において、近代に噴出する「自然そのものの領野にではなく、行動様式の領野、犯罪性の領野に姿を現す怪物性」について論じている。「怪物的人間」は、ルネサンス期までは、その存在が自然の秩序を侵犯するという理由で処罰されていたこと、しかし一七世紀以降、その「行動様式の怪物性」によって処罰されるようになったことを指摘している。具体的には、存在するだけで処罰されていた両性具有者が、「ソドミー」の行為を行なった場合に処罰されるようになったという。
つまり双方疎外によって均衡を保つ作用としての怪物性を定義する。
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「奇怪な民族」や「奇怪な人間」たちも神の被造物であることを強調している。「神は万物の創造主であり、どこで、いつ、何が創造されるべきか知っておられる」のだから、我々がわからないにせよ、奇怪な存在が何かの意味を持っているはずだというのである。「総体を見渡すことのできない者は、いわば部分の醜さとして見られるものによって感情を害されるのであって、それというのも、かれは、その部分が何に適合しているのか、またどのように関係づけられているのか無知だからである」。アウグスティヌスは、自然には、人間にはわからないにせよ神の意志が働いていると想定し、旧約聖書に現れる動物、植物、鉱物についての表面的にはあまり意味のない冗長な記述の背後に寓意的・霊的な意味を見いだせることを強調している。
つまり怪物の存在を肯定する
キリスト教の思考の中で、怪物は、しばしば被造物として肯定的に受け入れられた。被造物のヒエラルキーが、「存在の大いなる連鎖」をなしているならば、怪物たちもそこになにがしかの位置を占めることになる。創造者としての神の生産する力は、存在の間隙を満たそうという方向に働き、世界に豊穣な多様性を生み出す。「奇形」的存在も、そうした力に預かるものと理解できるからである。
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こうした事態と呼応して、小説などに現れる「怪物」も、文明や正常な秩序の外部から現れるというよりも、人間主体の内部から現れるもの、その過剰な逸脱行為が生み出すものへと変質していく。
サドに見られる「怪物性」は、理性にとっての他者ではなく、理性そのものの暴走が生み出すものであり、フランケンシュタイン博士の抑えきれない野心は人造の怪物を作り出す。ゴシック文学に現れるのは、止めることのできない情念―暴力衝動、承認欲求、生命力や美貌への固執―に取り憑かれている怪物たちである。彼らは外部からではなく、内部の裂け目から現れる近代の怪物であり、実験室や城、廃屋といった、生活とは異質な場所から現れてくる。 https://scrapbox.io/files/64d4f6774a8957001cb867f4.png
アウラ論
芸術作品は、時代と共に礼拝的価値から展示的価値へ価値が移行し、アウラが縮減する。それはラスコーの壁画のようなきわめて体験的なものから、建築物の装飾としてのモザイク画、更に持ち運び可能なタブロー画へと変遷する。 同時に複製技術は右記のように進歩した。写本(古代・中性)→木版画(14世紀末)→銅版画(15世紀)→石版画(19世紀)→写真...etc
そして複製技術によって、オリジナルから独立した万物からアウラが喪失する。
アウラは、人間が〈いま-ここ〉にいることに結びついている
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モンタージュ論
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政治的なものとの交点
ヘーゲルはこのように芸術を宗教的なものから完全に引き剥がすことを求めている。そしてベンヤミンは以上のヘーゲルの芸術理解を踏まえて、複製技術時代の芸術作品に、ヘーゲルが求めているような美からの解放の可能性を見ている。
しかしながら現代の政治は芸術の美からの解放を達成しておらず、むしろ美に最大の価値を認めている。それはすなわち近代以降の政治において、宗教的なものは消えるどころか、むしろ形を変えて世俗的なものとなって存続しているということである。
美→ファシズムへ
これがベンヤミンの問題意識であって、政治の美学化と彼が名指したものであり、世俗化された礼拝対象としての美を社会が受け入れている限り、その美の究極的な姿を戦争に見出すことになると論じる。
複製技術の発展は本来アウラを追放して、芸術を政治化し、芸術の批判的ポテンシャルを解き放つはずであるにもかかわらず、ファシズムはむしろ複製技術を駆使してアウラを再生産し、これを政治目的に利用することで「政治=芸術」の可能性を「政治=美学」の方向へ歪曲している。
所有関係を変革する権利のある大衆にたいして、ファシズムはそれを温存させたまま、彼らに表現の機会を与えようとする。したがって、ファシズムは政治生活の美学化に行きつく。
ベンヤミンによればファシズムは大衆に自己表現の機会を与えるが、その表現は彼らの権利を拡大するものではなく、あくまで彼らの目を欺く「美しい仮象」、つまりプロパガンダにすぎない。したがって「政治の美学化」は魅惑的な政治劇の演出という意味で、「政治のスペクタクル化」というべき事態に行きつく。実際ナチズムは大がかりな大衆演出によって多くの人々を惹きつけたのであり、ニュルンベルク党大会は壮大な規模で上演されたスペクタクル、メディアを総動員したアウラの祭典であった。
ベンヤミンが批判したのは、こうした美的な虚偽意識としてのアウラ体験が政治そのものにとってかわり、それによって支配の現実が不問のままに残されることだった。
大衆を征服して、彼らを指導者崇拝のなかでふみにじることと、機構を征服して、礼拝的価値をつくりだすためにそれを利用することは、表裏一体をなしている。
美→戦争へ
友敵理論的な二項対立によって圧倒的なアウラが生産される 政治を耽美主義化しようとするあらゆる努力は、ある一点において極まる。この一点とは戦争である。
二十七年前からわれわれ未来派は、戦争を美的でないとする意見に反対してきた。(...)したがってわれわれはここで確認する。(...)戦争は美しい。なぜなら戦争は、ガスマスクや威嚇用拡声器や火炎放射器や小型戦車によって、人間が機械を征服し支配する状態が樹立するからだ。戦争は美しい。なぜなら戦争は、人間の肉体を金属で被うという夢をはじめて実現するからだ。戦争は美しい。なぜなら戦争は花咲く野に、連発銃の炎の蘭を付けくわえるからだ。戦争は美しい。なぜなら戦争は、銃火、大砲の連射、その合間の静寂、芳香と腐臭を、ひとつの交響曲にまとめ上げるからだ。戦争は美しい。なぜなら戦争は新しい構成、たとえば大型戦車、幾何学模様を描く飛行編隊、燃え上がる村々かららせん状に立ちのぼる煙、その他たくさんのものを想像するからだ。(...)未来派の詩人と美術家たちよ、(...)これら戦争の美学の諸原理を思い出せ。新しいポエジーと新しい造形をもとめる君たちの奮闘が、(...)これらの原理によって照らし出されるために
マリネッティは、技術それ自体を信仰対象としている。そして技術が極端な高度化により、社会が使いこなすことができないほどに社会に対して超越性を示すときに、芸術それ自体の信仰対象化は可能となる。
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田野大輔:補論
プラトンにとって、政治は王者の芸術である。それは人心収境術とか、人間操縦術などという場合のような比喩的な意味での芸術ではなく、もっと文字どおりの意味での芸術である。それは音楽、絵画もしくは建築と同じように、作品の芸術である。プラトン的な政治家は、美のために都市国家を制作する。
芸術の歴史的位置に鑑みれば、「総合芸術作品」をめざす努力は本質的なものでありつづけている。この名称がすでに特徴をあらわしている。それが意味するのは第一に、諸芸術はもはや別々に実現されるのではなく、一つの作品のなかに結集されなければならないということである。しかし、こうしたどちらかといえば数量的な統合を超えて、芸術作品は民族共同体の祝祭、すなわち宗教そのものでなければならない。
彼らは運命のように、理由もなく、条理も斟酌も口実もなしにやってくる⋯⋯。彼らがなすところは、本能的に形式を創造すること、形式を刻みつけることである。彼らは、存在するかぎりでの最も天衣無縫な、無自覚な芸術家である。――要するに、彼らが姿をあらわすところ、そこにはある新しいものが、一個の生きた支配構造が成り立つ⋯⋯。彼らのうちには、あのおそるべき芸術家エゴイズムが支配していて、これが青銅のごとき輝きを放ち、あたかも母がその子のうちで正当化されるごとくに、みずからがその「作品」でに永遠に正当化されているのを知っているのだ。
基礎づけ
ベルクソンの記憶概念
経験とは、「集団的生」においても「私的生」においても「伝統=伝承」にかかわるのだが、ベルクソンは「記憶の構造」が「経験の哲学的構造」にとって決定的なものであると見なしている。
ディルタイやジンメル、クラーゲスなどの一連の「生の哲学」と同様に、ベルクソンもまた「不毛で眩惑的な大工業時代」における、「文明化された大衆の画一化され変性し退化した生活のうちに沈殿した経験」に対して「真なる経験」を対置させようとする。 ベルクソンが「行動的生」と「記憶から解明される特別な観照的生」とを対立させつつ、下記のように考える。
経験は想起において厳格に固定される個々の所与の事実からではなく、記憶のうちに合流し、集積する。しばしば意識されることのないデータから形成される。
ベンヤミンはベルクソンの純粋記憶という概念を、意識されることのないデータから形成され集積された記憶と理解する。 プルーストの記憶概念
即ちマドレーヌの味覚によって過去へと連れ戻されるまでは、プルーストは「意志的記憶、理知の記憶」のうちにとどまっていて、過去についてあたえられる情報は過去をなにも「保存する」ことはなく、過去は「理知の領域とそれが作用する領域のそとに」、「物質的対象」のなかに隠されている、と述べている。
ベンヤミンは、プルーストの「意志的記憶」を「意志的想起」と、「無意志的記憶」を「無意志的追憶」と言い換え、「意志的想起」は「注意力の呼びかけに従順な記憶」であり、それにたいしてプルーストがマドレーヌの味覚をつうじて呼び覚まされる過去は、ベルクソンが考えるような「自由な決断」によるのものではなく、「偶然」によってもたらされたものであって、経験とはそうした過去の記憶のなかにあると説明するのである。 (礼拝は)記憶のこの二つの要素のあいだの融合をいつも新たに遂行してきた
礼拝はある決まった日付とともに「追憶」を呼び醒し、そこでは意志的想起と無意志的追憶は互いに排除しあうものではなくなる。
無意志的記憶は個人的過去と集団的過去の内容が浸透し合い、それが様々な虚偽意識やイデオロギーを破壊し再構築する。
ライクの記憶概念
記憶の機能は、諸々の印象の保護にある想起はこの印象の分解を目指す。記憶はその本質からして保存的であり、想起は破壊的である。〜したがって想起はそのつど、無意識的な記憶全体の無力化を、意識化され始める分解プロセスを意味する
つまりプルーストに即すなら無意志的記憶=記憶、意志的記憶=想起として理解でき、ベルクソンに即すなら「記憶」は意識されることのないイメージの様々なデータを保存し、「想起」は自我の意識化の過程で意識されることなく保存されたイメージのさまざまなデータを無力化し破壊する。
基礎づけから導き出されるショック概念
生ある有機体にとって、刺激防御は、ほとんど刺激の受容以上に受容な課題なのである。生ある有機体は、固有のエネルギー量を備えていて、とりわけ体内で営まれるエネルギー転換の特殊な諸体系を、外界で作用する膨大なエネルギーの平準化する影響、つまり破壊的な影響から防御することに努めなければならない。
この外界で作用する膨大なエネルギーによる脅威をショックと呼び、俗にいうトラウマを引き起こす。
ショックにおける想起の作用
〈最初我々に欠けている〉刺激受容を〈組織化する時間をわれわれにあたえることを目的とする〉
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ボードレールのショック
ボードレールの読者対象と歴史的背景
ベンヤミンはまず抒情詩について「経験」の「伝達=共有可能性」という観点から問題にしている。すでに十九世紀の読者公衆は、「感覚的な楽しみ」を優先し、「利害関心や受容能力を殺してしまう憂鬱(スプリーン)」に慣れ親しみ、十八世紀中頃から市民社会が形成されていく過程で発展しきた抒情詩に、人々がもはやみずからを見いだせなくなっていく時期に、そうした人々にボードレールの詩は向けられているという。(引用) ボードレールとホフマンとポーのパリ
アドルノの批判
本稿の結論
補論
ベンヤミンのいう物語は出来事を経験として聞き手に伝えるために、報告者の生に沈潜させる。(情報の単なる伝達ではない)
そのようにして物語には、陶器の皿に陶工の手の痕跡が残るように、物語る者の痕跡が残るのである。
現代物語という形式は失われていっている。その要因はたとえば新聞によって、見聞談が情報に、情報がセンセーションにとって替わり、諸々の出来事が読者の経験に関与しうる領域から遮断されていくながれである。即ち下記
外的関心事が人間の経験に同化する機会が減少する。
これらが人間の内的な関心事における理知の私的性格にいたるとベンヤミンは主張する。
例えば死は「個人の生における公的な出来事」から私的なものになり、サナトリウムや病院のなかに閉じ込められることになった。
本来はその者にかかわるすべての者に権威を分かち合たえ、物語作者はそうした死から借り受けた権威のもとに、伝統の鎖をつくりだす物語を構築した。近代市民社会によってそれらは追憶のなかに閉じ込められることになった。