ジンメル
1907『ニーチェとショーペンハウアー』
第一章
キリスト教の地位
われわれが知っている世界歴史においては、ギリシア・ローマ世界の文化がわれわれの紀元の初めごろにはじめて、人間の魂をこのような状態に追いこんだと思われる。生の目的体系がひどく複雑になり、行為と思考の系列がはなはだしく多岐にわかれ、生の関心と動向が大いに膨張して非常に多くの条件に依存するものとなったために、いまや哲学的意識の自覚のなかにも、大衆の愚鈍な衝動のなかにも、生一般の目的と意義を求める不安な探究が呼び起こされるように見える。
歴史上の人類がかつておかれていた、内的におそらくもっとも貧困なこのような状況のなかで、キリスト教が救済と充足をもたらした。キリスト教は、生がその多様性と煩雑さのゆえにおびただしい手段や相対的なものの迷宮のなかへ迷いこんでしまってからというもの、生に、それが必要としていたあの絶対的な目的をあたえてやった。魂の救いと神の国がいまや大衆の前に、ある無制約の価値として、生のもつあらゆる個別的なもの、断片的なもの、無意味なものの彼岸にある決定的な目的として、姿を現わした。そして、このような究極目的によって彼らは生きてきたのである、ーキリスト教が最近の数世紀に、無数の魂に対してその威力を失うようになるまでは。しかし、生の究極目的に対する要求は、それとともに同時に失われてゆきはしなかった。それどころかむしろ、あらゆる要求は長期間にわたり