ウィトゲンシュタイン
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ウィトゲンシュタインにおける主体
思考し表象する主体なるものは存在しない。「私の見出した世界について」という表題のもとに、私が一冊の書物を著わしたとしよう。その書物は、私の肉体について報告するであろうし、さらに肉体のどの部分が自分の意志に従い、どの部分が従わないかなどについても語るであろう。すなわちこれは、主体を孤立化させる方法、というより、ある重要な意味においていかなる主体も存在せぬことを教える方法なのである。つまり、この書物の中で話題にすることができぬ唯一のもの、それが主体である。〜主体は世界に属さない。それは世界の限界なのだ。 本書での主体概念は「わたしの言語の限界がわたしの世界の限界である」というカント的な超越論的な意味をもって導かれる。それは、『論考』の骨格をなす可能な事態の総体としての世界概念である。
限界づけるものは論理の網の目である「構造」であり、それは語られず示されるものであるから、われわれは論理の限界を超えたものについては沈黙するしかない。ここから世界の内部には命題の対象となる自我は存在し得ないことになる。「思考し、表象する主体」は対象的に記述できないからである。世界が「わたし」の世界であるという独我論のテーゼが正しいならば逆に主体は主観的なものの一切とともに点にまで縮退して世界からは排除され、独我論と実在論は短絡する。このとき限界として直観されるのは形式の限界であり、内容は捨象されている。世界内の事実や経験は偶然的であるが、言語主体としてのわたしはこの限界そのものであるから、わたしの生と世界はひとつに一致していなければならない。このようにみると、死すべき「わたしの生」に支えられた世界の形式的限界そのものも偶然的ではないかという疑問が残るが、示されることによる限界の外部に語り得ないもの・神秘的なるものを要請することでのみ、わたしの生は有意味に把握される。それらは善悪の意志をもつことのできる形而上学的・倫理的主体としての「わたし」と神である。
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世界=事実(成立している事柄)の総体である
物の総体ではだめ??物と物の関係が意味をなさなくなる
諸物$ ⊂諸事実$ ⊂世界
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事態の総体(理解したいなら事柄と近似しよう≒)
世界$ ⊂論理空間
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名:要素命題の最小単位$ ⊂要素命題:極限まで細かくした命題$ ⊂複合命題: 要素命題を多変数足し合わせた命題 完璧に詳細を記述する言語
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真理関数一般を$ \lbrack \overline{p},\overline{ξ},N(\overline{ξ})\rbrackと記述する /icons/白.icon
$ \overline{ξ} 諸命題の∀部分集合(つまり命題なんでも○)
$ N(\overline{ξ}) 否定論理積 :構成する総ての命題の否定(補集合ぽ) 全ての命題(複合命題)は$ \overline{p}に否定論理積$ Nという操作を有限回反復したこと 読み方 ~真理操作$ N(p,q): ~p.~q(pではなくqでもない)
ex) 下記のように論理結合子にとっての$ N(\overline{ξ})はオルタナティブとなり得る https://scrapbox.io/files/6437831a3d847a001c4037d7.png
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(示すことはできる)
論理空間の外(形而上学)
経験のできない死など
論理形式
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生の意味、すなわち世界の意味を神と呼ぶことができるのである。祈りとは世界の意味についての思考である。 /icons/白.icon
問うことが不可能なところで疑おうとするのなら、懐疑論は論駁しえないのではなく、明らかに無意義なのである。何故なら、懐疑が存立しうるのは問が存立する限りであり、問が存立しうるのは解答が存立する限りであり、そして解答が存立しうるのは、何事かを語るのが可能な限りだからである。「事情はかくかくでなければならぬ、さもなくば我々は哲学できないであろう」とか「さもなくば我々は生きることが不可能であろう」等々と述べる全ての理論は、勿論消え去らなければならない。軟かいものから硬いものを分つのではなく、軟かいものの硬さを見てとるのが、私の方法である。哲学者の主要な秘訣は、自分に関係のない問には没頭しないことである。『哲学に於ける科学的方法』でのラッセルの方法は、まさに物理学の方法からの後退である。 我々の言語において描出にとって本質的なものは何であり、非本質的なものは何であるかの認識、又、我々の言語のどの部分が空回りする車輪であるかの認識は、現象学的言語の構成に通じるのである。 /icons/白.icon
言語を学ぶということは言語で思考することを学ぶと同義である
言語の外界について思考することはできない
1932 ウィトゲンシュタインとヴァイスマンの会話
私は『論考』においては、論理分析とこれが示す説明にかんして十分明確ではなかった。私は当時、「言語の実在との結合」というものが存在する、と考えていたのである。
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N・N氏が死ぬとき、その名の担い手が死ぬのであって、その名の意味が死ぬとは言わない。
さらに言語の複雑な構造を示す。
「命題」「言語」などと呼んでいるものが、私の思い描いていた形式上の統一体ではなく、多かれ少なかれ、互いに類似している諸構造の家族〔家族的類似〕であることをわれわれは認識する。〜透明な純粋さという先入見は、われわれの全考察を展開することによってのみ、取り除くことができるのである。
言語をその非常な多様さに応じて記述されなければならない、人間の社会生活における構成要素としてみなす。
哲学は、いかなる仕方にせよ、言語の実際の使用に抵触してはならない。それゆえ、哲学は、最終的には、言語の使用を記述できるだけである。なぜなら、哲学はそれを基礎づけることもできないのだから。それはすべてのものを、そのあるがままにしておく〜あらゆる説明が捨てられ、記述だけがその代わりになされるのではなくてはならない。
ア・プリオリな解は求めることができず、デ・カストロのいうように翻訳にすぎないのである。
単純な言語形態を見ることによって日常言語を覆い隠している心の霧を消失させることができ、さらにそのような原初的形態から、それらを組み合わせて複雑な諸形態をつくっていくことができる
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我々の言語を、一つの古都とみなすことができる。路地や広場、古い家や新しい家、様々な時代に増築された家々から成る一つの錯綜物であって、これがまっすぐで規則的な街路と同じ形の家々から成る多くの新開地によって取り囲まれているのである。
河床の比喩: 神話(伝統的歴史的に継承した背景としての確信体型)が再び流動的な状態に戻り思想の河床が移動するということもありうる。だが私は河床を流れる水の動きと、河床の動きを区別する。両者の間に明確な区切りはないのである。 上記基盤であるがゆえに疑うことは可能だが、無意味であるため哲学的言語観ではなく、言語の使用自体ダイレクトにアプローチする。
言語ゲームの定義
第一に基礎づけを拒む
自分は言語ゲームの本質が何であるかをどこにも述べなかった〜だからお前〔ウィトゲンシュタイン〕は、以前自分の頭をもっとも悩ました研究の部分、すなわち命題の一般形式と言語の一般形式に関する部分を、まさに断念しているのだ。
この背景は「論理はあらゆる経験に先行する」や「論理は世界のア・プリオリな秩序を構成する」という前提を排除するために明言した。
そして言語ゲームとは生活形式の部分集合或いは共通部分を持つ
言語ゲーム間は使用で区別する
言語の一つの特殊な使用の論理が、ほかの使用〔の論理〕からそれを区別する場合に、われわれは言語ゲームを有する。
だが上記は共通部分はあるだろうから完全に切断線が引かれているわけでもなく、重なり合っている。同時にエマヌエーレ・コッチャの言葉を借りるなら浸透している。 何らかの境界によって閉ざされてはいない。それならば、ゲームという概念はどのように限界づけられているのか。何がいまだゲームであり、何がもはやゲームでないのか。きみに境界が引けるか。引けはしない。
言語ゲームの機能の言明
命令すること、そして、命令にしたがって行動すること
ある出来事を報告すること
乞うこと、感謝すること、罵ること、挨拶すること、祈ること
こうした多様さは、固定したものでも一度に与えられるものでもない。新しいタイプの言語、新しい言語ゲームが、いわば発生し、他のものが廃れ、忘れられていく、と言えよう。
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生活形式の言及は本書において以下のみ
即ち文学は言語をつくりだし、生活形式をつくりだし、行き詰まりを打開するのだ。
言語を話すということが、ひとつの活動ないし生活形式の一部である
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正しかったり、謝ったりするのは、人間の言っていることだ。そして、言語において人間は一致するのだ。それは意見の一致ではなく、生活形式の一致なのである。
一つの生活形式の内部での個々の意見は、正しかったり謝っていたりするだろう。しかし、そのように述べることの基準をめぐる同意は、その生活形式のうちに与えられている。
これは存在論に依存して規定される多自然主義観に近しい。
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望むという現象は、この錯綜した生活形式の様態である。
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引き受けるべきもの、与えられているもの、これが生活形式である。−このように人は言えるだろう。
歴史偶有的に継承されているということ。