エマヌエーレ・コッチャ
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生きること、経験すること、世界に在ることは、あらゆる事物によって自分が貫かれることでもある。自己の外に出るとは、常になんらかの事物に入り込むこと、その事物のかたちやアウラの中に入ることなのだ。 /icons/白.icon
大気を通じた浸透
植物は、わたしたちの文化を定義づける、〜植物によって、また植物を通じて、わたしたちの地球は大気を産出するようになり、地表を覆う生物たちも呼吸ができるようになった。植物の生命とは現実世界のコスモゴニーであり、わたしたちのコスモスを恒久的に生成しているものなのだ。
大気は、呼吸を通じて、例えば植物と人間とが大気とともに互いに混ざりあう=「浸っている」のであるということ。
呼吸の原初的な属性、いっそう逆説的な属性はその非・実体性にこそある」のだ、とコッチャはいい、「呼吸は他から分離できるような対象ではなく、あくまで振動にすぎ」ず、「あらゆる事物が生命に開かれ、ほかの対象と混じり合うような揺れ動き、ほんの一瞬のあいだ、世界な原材料を活性化する振動」なのだという見方を提示してくれる。そして、その振動の起点をつくる役割にあるのが植物だというわけだ。
息をするとは世界を作ること、世界に溶け込むこと、そしてその永続的な営為の中で、自分のかたちを再び描き出すことをいう。世界を知り、世界に浸透し、世界とその精気によって浸透されることをいう。世界を横断し、つかの間、その同じ跳躍でもって、世界を個別に経験する場となること。この作用は決して終わりとなることはない。世界は生物と同様に、息吹の回帰、その可能性の回帰にほかならない。まさに精気である。
あらゆるものが内在すること
息を吸い込むとは、わたしたちの中に世界を到来させること、つまり世界がわたしたちの内にあるようにすること、息を吐くとは、わたしたち自身にほかならない世界に、自分自身を投げ出すことである。世界に在るとは、わたしたちが知覚し、生き、夢見ることのできるすべて、将来的にできるかもしれないすべてを含みもつ究極の地平の〈内部に〉、単純に身を置くことではない。わたしたちが、生き、考え、知覚し、夢想し、呼吸し始めるとにから、世界はその無限の細部にこいてわたしたちの内にあり、物質的・精神的にわたしたちの身体と魂に浸透して、わたしたちを成立させるかたち、内実、現実をもたらすのである。世界は場所ではない。それはすべてがすべての中にあるという浸りの状態、トポロジカルな内在性の関係など一瞬にして覆す混合の関係なのだ。
互いに自分の襞や壁を越えて、相手の境界を侵犯して、影響しあう状態
他者からの影響を受けつつ、そのアイデンティティに変化を伴いながらも、自分は自分である状態は保ち続ける
すべてがすべてのなかにあることというのは、世界においてはあらゆるものが循環でき、伝達でき、翻案できなくてはならないからだ。空間のパラダイムをなす形状としてときに人が想像する不可入性は、実は幻想にすぎない。伝達や相互浸透を妨げるものが存在するとされるその場所で、新たな局面が生まれ、それによって物体は、一方が他方に内在する関係を相互浸透の関係へと覆すことができるのだ。世界の中にあるすべては混合を産出し、その混合の内で自身を産出する。あらゆる場所ですべてが出入りするのである。 大地と天空
根は隠されていて秘教的な、潜在する第二の身体のようだ。いわば解剖学できない反・身体、反・物質であり、もう1つの身体がなすことを鏡のように1対1で反転させ、地表面でのあらゆる努力が向かう先とちょうど正反対の方向へと植物を押しやるのだ。想像してみてほしい。あなたの身体のそれぞれの運動に、逆方向に向かう別の運動があったとしたらどうだろう。あなたの腕、口、目に、それぞれ正反対の対応物があり、あなたの世界の組成を定まる物質の、まさに鏡のごとく正反対の物質の中に位置していたとしたらどうだろう。根をもつということがどういうことか、これであなたはたとえぼんやりとでも思い浮かべることができるのではないだろうか。
植物は大地と天空を繋ぐ。植物には天空に伸びる葉や枝や茎と同時に、大地に向かって同じように伸びる根茎がある。
すべてはすべてと接し、物質や液体がゆるやかに循環する。だからこそ、あらゆるものは自身の身体の限界を超えて生きることができる。すべてが「呼吸」するが、そのやり方は中空の世界とは異なっている。そもそもそうした身体の呼吸は、肺を通じてなされる必要がない。諸器官を経る必要もない。なぜならその身体はまるごと呼吸によって定義され、身体のすべてが物質の循環に開かれたポートであるからだ。自己の内部でも外部でも同様である。有機体とは世界と混合する新しいありよう、また内部での混合を可能にするやり方の発明にほかならない。
故に上記のように、内部でも外部でもあるのだ
地球中心主義は、いわば偽りの内在性という罠だ。つまり、自律した大地などというものはないのである。大地は太陽から切り離せない。土に向かい、その内部に突き進んでいくとは、逆説的にひたすら太陽に向かって上昇することを意味するのだ。〜地球は天体だが、地球においてはすべてが天空だ。人間世界も、非・人間的な宇宙における例外ではない。わたしたちの存在、身振り、文化、言語、外見など、わたしたちはどこを取ってみても〈天空的〉である。〜天空を流体と影響力の空間として理解することが重要なのだ。生物学、地質学、神学は天体学の一部門でしかなくなるが、そればかりではない。天体学は加えて、偶然性、不測の事態、不規則な出来事の学ともなるだろう。天空は同一的なものが回帰する場所ではない。
則、大地でもあり天空でもあり、内部でも外部でもあり、あらゆるものを内在するコスモス(宇宙)としているのだ。
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エコロジー概念の放棄をコッチャが推奨する理由は以下二つである。簡易的に表現するとエコロジーの起源における父性が「人間中心主義」と「排他性」を生み出す。
① 歴史的に人間中心主義的であること
「エコロジー」とは語源的に「家(oikos)」の「学(logos)」であり、経済学エコノミーを諸生物へと適用したものだ。クセノポンの著作名に端を発する経済(エコノミー)は、家(オイコス)をモデルとして財産の管理法を論じていた。それによれば、財産とは「有用なもの」すべてを指し、奴隷や家畜も含まれる。もとより家政=経済にとって家とは、主人としての人間にとって有用性を増す場であった。 首長の権力がもっぱら人間にのみ向かう都市での事情とは反対に、家において父性権力は同様に、そしてとりわけ事物に対してかかわる。自由があらゆる政治的経験の軸であるとしても、それとは反対に、有用性と秩序が家庭内構造の根源を規定している。それぞれが自分の場所を有し、それぞれの物がその有用性と役割を有している。
さらに、この考え方は「神があらゆるものの父である」キリスト教的文脈と結びつく。
神の世界に対する権力は家族の首長の統治である家政学エコノミー的権力だ。世界のすべては家の一部をなすものとして考えられる。というのも、この秩序の内部でのみ、あらゆるものは役割を獲得するからだ
エルンスト・ヘッケルは、1866年の論文において、商業のエコノミーとは異なる領域としての「自然のエコノミー」、つまり「有機体どうし、そしてそれらと環境との相互関係の生理学」を表す新しい語、「エコロジー」という語を生み出す。言い換えれば、エコロジーが生まれたのは、家を自然的な生存領域においてもとめることによって、「家庭内的な社会学的パラダイム」において思考することによってである ダーウィンは万物の万物に対する戦争状態を、すべてのノンヒューマンたちが共有する社会的労働の証拠であるとする。それによって局地的ローカルかつ大局的グローバルな有用性を生み出すことができる社会的労働である
この理論は、キリスト教的世界観の世俗化と自然科学の発展にともなう、「自然のエコノミーとその神学的前提の崩壊」と同時に勝利をおさめることになる。
一匹の犬や猫を自分の住処に迎え入れることは、日々わたしたちの生と隣りあっている別の生と、それが別の種に属する個体であることを忘れて親しくなる術を学ぶということです。数日、数ヶ月、数年もたてば、フィガロやゴッチョーラ〔という名前〕は、無名の生がもつ強度にすぎなくなるでしょう。それはもはや、イヌ科やネコ科、あるいはヒト科に属してはいないのです。なぜならそれは、互いに区別のつかない、愉快でコントロール不能な愛着および愛なのですから
人間が起点となって、犬を迎え入れることによって〈家〉を作り出す可能性が論じられている点は、家をもたずに生きることではなく、〈父〉をもたない家を考えることなのであるという示唆である。
② 排他的な空間性を前提とした学問領域
第一の点の生物種間での捉え直しが、第二の批判をなしている。つまり、エコロジーが対象とする生存領域とは、生物種の各々にとって固有のものであり、互いに排他的な関係だという点である。
家は外界から内部空間を切り取り、生活のために固定的な占有を生み出すものである。この意味で、種はみずからの生存領域において〈父〉もしくは家族として振る舞うという見方だ。 即ち、種は、その存続をめぐって他者を排除しようとするがゆえに、既存の種が生存する場所に、他の種が移動してくることを嫌う。種にとって生存領域は他と連続しながらも排他的な秩序を形成する。
しかしコッチャによれば、ある生命は、その場所に「産み落とされた」のが偶然的である以上、そこではない場所に存在しえた。そうだとすれば、ここでない場所に移動する可能性もまた残されている。土地、生存条件、地盤、プレートも長い目で見れば移動していることを考えれば、生物種(または個体)と土地は固定的な関係でもなければ、一対一に対応するわけでもない。生命は―生存闘争は絶えず起こっているにせよ―根本的には排他的ではなく、移動し、越境し、混合するのである。
惑星の視点で見れば、それぞれの生きものが足を踏みしめる大地が動かされるのだから、生は移住している。移民となるのは生きものの一部にすぎないと考えるのは不可能だ。土地は移住するものであり、絶えず移住している。祖国や植民地など存在せず、さまざまな船や筏のみが存在する。
この意味で、すべての生きものは「移民である」。にもかかわらずエコロジーは固定的で排他的な空間性を設定しており、現実と齟齬をきたす。コッチャはこの点について批判しているのである。
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メタモルフォーゼの地平
これに対し、彼が新たに提示しようとするのは、多様な生の諸様相を考慮に入れつつも、同一の生の名を分かちもつ相互関係を論じる、内在的生命論である。生きものは相互に関係しあい、重なりあう。このことを論じるのに適切なのは、〈父〉の家ではなく、重なりあいつつ開かれた、新しい家概念である。 それは「ラディカルかつ絶対的な内在性」、「すべてがすべてのなかにあること(pan en panti)」という地平である。 あらゆるシェアを包摂した自己
コッチャは個体、種、界を越えた生命の共有を論じる。彼によれば、それは一方で時間的な共有である。つまり、誕生は始まり、死は終わりではなく、別の個体から/への転身である。(下記例)
誕生は「遺伝」「性交」「懐胎」「出産」
わたしたちはみな先行する生の反復である
死は「食事」「分解」「腐食」
わたしたちが死ぬときにはかならずや他の生きもののご馳走となるであろう
即ち別の個体へと次々に移り変わっていく契機にすぎない。 他方、それは空間的な共有である。たとえば、皮膚は個体同士を区別する絶対的な壁ではない。「感染」「環境」「代謝」を通して、諸個体はつねに不断に浸透し合っている
また、個体はつねに単独で行為するわけではなく、別の個体の乗りものとなり、あるいは別の個体に乗っている。「寄生」「移住」「大陸移動」「自転・公転」によって、諸個体は一時的もしくは恒常的に重なりあっている
生きもののみならず、あらゆる物は自分が支えるものを他所へと運ぶ乗り物である
だからこそ、それらの関係を一つの同じ生のメタモルフォーゼとして捉えようとするのである。
デカルトの比喩
デカルトの我思うゆえに我ありという有名な格言を口にするたびに、わたしたちはデカルトの精神を一瞬わたしたちのなかに再受肉させ、わたしたちの声、身体、経験を彼に貸し与えている。デカルトこそが、わたしたちのなかで「わたし」と言い、そしてある意味で、自分が正しいと考えたことに逐一反駁するのである。 わたしたちは一人で思索を練り上げるのではなく、わたしたち以前の諸存在―たとえばデカルト―をみずからのなかに再受肉させることによって思考している。内在性のなかで思考することとは、内在性を対象化し、あらゆる他の存在から距離を取ること、形而上学を作り、そこに超越論的主体性を位置づけることではない。
生命を論じるためには、内在性のただなかで、諸存在のあいだで、みずから生命の営みのなかに沈み込み、生きものたちとの相互関係のなかにいなければならないのである。