たとえ社会的なものが社会という可知的で制度化された形式に自らを固定できないとしても、社会的なものはそうした不可能な対象を構成する努力として存在する。すべての言説は言説性の領域を支配し、差異の流動を規制し、中心を構成しようとする努力として自らを構成するのである。