フレドリック・ジェイムソン
個人の物語や個人の経験を語るためには、結局のところ、それが属している手段的なもの自体を全身全霊をあげて語らなければならなくなるのだ。
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第三世界のテクストは私的なもの、個人のリビドーの原動力を注ぎ込んで書かれたもの、に見えても、ナショナル・アレゴリーの形で政治的な側面を必然的に投影する。私的な個人の運命が、いつも、第三世界の文化と社会のパブリックな困難な状況のアレゴリーとなるのだ
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ポストモダニズムの重要契機
文化的転回
ジェイムソンによれば、ポストモダニズムはアートの一つの様式(スタイル)ではなく、後期資本主義社会が論理的必然として文化に転写した概念として理解することにあるという。
ポストモダニズムとは、ある特定の様式(スタイル)を記述するための新しい述語ではない。少なくとも私の用法では、ポストモダニズムとは時代を画する概念であり、その機能は、文化における新しい形式的特徴の出現を、近代化、脱工業化あるいは消費社会、メディア社会、スペクタクル社会または多国籍資本企業などと婉曲的に語られる新しいタイプの社会生活ならびに新たな経済秩序の登場と相互に関連させることにある
主体の死
通俗的に言えば個人主義の終焉である。〜偉大なるモダニズムは、指紋の如く間違えようがなく、身体の如く取り換えようのない個人の私的スタイルの発明に根拠をもっていた。しかし、その意味するところは、モダニズムの美学がユニークな自我と私的アイデンティティ、ユニークなパーソナリティと個体性にある程度までは有機的に統合していて、それ自身のユニークな世界像を操作し、それ自身のユニークで間違えようのないスタイルを構築しうる、ということである。
第一のものは〜かつての競争資本主義の古典的時代、要するに核家族と指導的社会階級としてのブルジョアジーが登場した全盛期には、個人主義あるいは個人的主体というものが存在していた。しかし、株式会社資本主義、いわゆる組織人、国家ならびにビジネスにおける官僚制、人口爆発といった時代には、古いブルジョア的な個人的主体はもはや存在しない
続いてもう一方はより「ラディカルなものでポスト構造主義者の立場」であるという。
第二の立場〜によれば、ブルジョア的な個人的主体は過去の事柄であり神話でもあるばかりか、もともと存在しなかったもので、そのような自律的主体はありえなかったのである。むしろ、このような考え方は、人間は個人的主体を「有し」、なんらかのユニークな個人的アイデンティティを所有していることを人々に対して説得するための哲学的・文化的神話化にすぎないことになる。
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革命、改良、社会民主主義の実質的崩壊
ここ数十年間で、新しいユートピアの生産はめっきり減少した(その一方で、ディストピアは圧倒的に増大し、あらゆる種類のものが構想されたが、そのほとんどは退屈なくらい似通っている)
本書は上記冒頭から始まる。そして「私があるプロジェクトを提案したいのはこういう状況」として、同時にそれは「政治的プログラムなのかユートピア的ヴィジョンなのかははっきりさせられない」としてその理由を、双方不可能だからとする。
なぜ不可能なのか。左翼にはかつて革命という政治的プログラムがあったが、今や誰もそんなものを信じているようには見えない。それは、革命をもたらすはずのエージェンシーが消滅したからであり、覆そうとしたシステムがあまりに偏在してしまってもはやそれを置き換えることが想像不能になったから〜また、革命と結びついた言語そのものが建国の父たちのそれと同じくらい古臭く時代遅れになったからでもある。誰かがかつて言ったように、資本主義の終わりを想像するより世界の終わりを想像する方が簡単だ。それとともに、資本主義を転覆する革命という観念は消滅したかのように見える。 上記のラディカルな革命思想との対概念としての「改良主義」或いは「革命的共産主義」と区別して「社会主義」」とも呼ばれたプラグラムも下記のように検討する。
改良主義あるいは社会民主主義党は完全に崩壊している。おそらく、本当に破局的な、あるいは修復不能な損害をもたらさないよう資本主義を規制することを除いて、いかなる価値あるプログラムも持ち合わせていない〜システムを改善する決定的介入すらできないくらい〜巨大で複雑なのだ。〜そういうわけでグラムシの〜機動戦と陣地戦の両方が現在の状況に対してももはや理論的にも実践的にも適切でない 第三の道
幸いなことに、資本主義から抜け出す第三の道がある。それは議論されることはもちろん認知されることもあまりないが、歴史的に「二重権力」と呼ばれたものである。実際、二重権力こそ私の政治的プログラムであり、私のユートピア的提案を導き出すものなのである。