ルカーチ
ヘーゲルの疎外概念についてのマルクス解釈
一八四四年の『国民経済学批判大綱』において、現代に近づけば近づくほど、経済学者がますます誠実さから遠ざかってゆくことをみている。したがって、かれによれば、リカードはスミスよりも罪が深いことになる。しかしながら、マルクスはこの点に関して、経済学の発展をば社会そのものの本質ならびに運動とより密接に結びつけることによって、その発展の歴史的な連関を正しく立てなおした。そしてまさにそうすることによって、かれは、経済学が歴史的に発展してゆくなかで、その認識が現実の矛盾をしだいに正しく映しだす過程をよみとることができたのである。「スミスからセーをへてリカードやミルなどへいたるにつれて、工業のもたらした諸結果が、かれらの眼前にしだいにいっそう発展し矛盾にみちたものとしてあらわれるかぎり、国民経済学はますます恥知らずとなり、のみならず、かれらはあとほど積極的に先行者より前進して、非人間的な疎外をいっそうはっきりと意識してくる。というのは他でもないが、古典経済学が発展して論理的により正しいものとなり、より真理を映しだすものとなってくるという、まさにそのことのためである。かれらが運動している私有財産を主体とし、そのことによって、人間を本質的存在とすると同時に、本質を失った人間をも本質的存在とするとき、現実の矛盾は、かれらが原理として認めた矛盾だらけの存在と完全に無応しているのである。工業がもたらすこの分裂せる現実は、かれらの自己分裂的な原理を否定するどころか、これを確証するものでさえある。じっさい、かれらの原理とは、こうした分裂性の原理なのである」 こうした国民経済学的視点の哲学的立法者としてヘーゲルをあげる。なぜならばヘーゲルはこの疎外概念を単なる思惟のレヴェルとして扱った。すなわち、マルクーゼが論じたように疎外とは、経済的事実が存在論的カテゴリーの問題を構成するという原理であり、その原因は紛れもなく経済的事実にあるのだ。しかし、ヘーゲルはこの問題の原因と止揚を哲学的レヴェルに閉じ込める。したがって、この「神秘化」とは、哲学と経済学を学問上隔て、それぞれの問題とすることで、精神現象学と国民経済学をそれぞれ肯定する術なのであり、ゆえにそれは国民経済学の立場と言って差し支えないだろう。 そしてそうした否定が可能だったのは、「資本主義的疎外を止場する見通しをもって資本主義経済を社会主義の立場から批判したからこそである」とする。つまり、新たな現実生活それ自体の止揚の手立てを見出したことにこそ、この批判の成立基盤があるのだ。
ヘーゲルにおけるこの誤った等置を、マルクスは唯物弁証法的に批判した。すなわち、事柄の本質にそくして論駁するとともに、さらにそのもっとも深い社会的根源ならびに動因から説明する、という二つのことがらを一挙にやってのけたのである。しかしそれができたのも、マルクスが、経済学の考察において現実生活の事実から出発して、労働そのものにおける対象化と、資本主義特有の形態の労働における人間の自己疎外とをはっきり区別したからであり、またそうしたのちのことなのである。したがって、マルクスが疎外の問題についてのへーゲル流の誤った観念論的な問題設定および解決を克服することができたのは、資本主義的疎外を止場する見通しをもって資本主義経済を社会主義の立場から批判したからこそである。いいかえれば、マルクスが最高の形態の観念弁証法をひっくり返して唯物論的批判を完成できたのは、新しい階級的立場すなわちプロレタリアの立場に立っていたからこそのことである。(...)ヘーゲルのこの神秘化とそこから生ずる荒唐無稽さにたいして、マルクスはすでに『経済学・哲学草稿』において、弁証法的・史的唯物論の歴史観を−もとよりさしあたり概略的なものではあるが−対置した。(...)なぜなら、他のすべてのたんなる思性のうえでの疎外は、それが宗教的であれ、哲学的などであれ、いずれにしても「ただ人間内部の意識の領域においてのみ進行するものであるのに、経済上の疎外は現実生活の疎外だ」からである。