マルクーゼ
『経済学・哲学草稿』でマルクスが立脚し、かつ批判するのは国民経済学の暴挙である。それは「疎外」概念で議論されるような、資本主義の非人間的作用の「是認」である。 批判の対象である国民経済学は、資本主義社会をあらわしている、人間的現実の全面的な「疎外」や「価値剥奪」の科学的弁護あるいは隠蔽にほかならず−また「労働、資本および土地の分離」によって、非人間的な分業によって、競争、私的所有等々によって自分の全実存を規定されている「非本質態」Unwe-sen としての人間をその対象とする科学にほかならない。この国民経済学は、歴史的゠社会的人間世界が敵対的力として人間に対立する無縁な貨幣=および商品世界に転倒することを、科学的に是認する。しかも、そのような貨幣=および商品世界では、人間の大部分は自己の労働の対象から分離され、自己の肉体的定在だけでもたもちうるためには、自分自身を商品として売却せざるをえず、かくて「抽象的な」(人間定在の全現実からひきはなされた)労働者として存在するにすぎない。労働者および労働のこの「外在化」 Entausserungから出発して、あらゆる人間の「存在諸力」の現実化 Ver-wirklichung から全面的な「現実性の喪失」 Entwirklich-ung がうまれた。(...)ブルジョア国民経済学は人間の存在やその歴史を視野にいれず、したがってもっとも深い意味では「人間についての科学」ではなく、非人間や非人間的な物と商品の世界についての科学なのであるから、まさにそれだからこそ、それは批判のなかで根底から転倒されねばならない。
そしてこのことは単なる経済学的問題ではない。なぜならば
われわれが外在化された労働の特質をさらにくわしく考察してみると、注目すべき事実があらわれてくる。すなわち、それによってえがきだされているものは、単に経済学的事態だけではなく、人間の疎外、生の価値奪、人間的現実の転倒と喪失だということである。(...)したがって問題となることは、人間といての(単に労働者、経済主体等々としてばかりでなく)人間に関する事態であり、また単なる経済史ばかりでなく、人間の存在とその現実の歴史のなかで生じた事象である。(...)資本主義社会においては、労働は商品(すなわち市場で自由に譲渡できる財)を生産するばかりではなく、「労働そのものと商品としての労働者」をも生産し、しかも労働者が「商品をより多くつくればつくるほど、かれはますます安い商品となる」。労働者は、かれ自身の労働生産物をうしない、したがって他人のために自分と無縁な対象をつくるばかりでなく、また分業や労働の技術化の進歩にともなって、「精神的および肉体的に機械に格下げされ、人間から抽象的な活動や胃袋となる」のみならず、さらに労働者は単に物的主体として生存できるために、「自分自身と自分の人間性を売却し」、みずから一個の商品とならなければならない。こうして、労働は全人間の発現ではなく、むしろその「外在化」となり、人間の完全かつ自由な現実化ではなく、むしろ全面的な「現実性をうしなった」のである。それは「労働者が現実性をうばわれて餓死においやられるほどの、はなはだしい非現実化としてあらわれる」。ここで確認されるように、外在化された労働という「国民経済学的事実」をこのようにえがくばあい、単なる国民経済学的記述はずっと中断されたままになる。つまり労働の経済的「状態」は労働する人間の「実存」に還元される。 労働の外在化と疎外は経済的諸関係の範囲をこえて、「人間としての」人間の本質や現実に関係し、また、それだからこそ労働の対象の喪失がごく中心的な意味をもつことができる。
したがって「疎外や物化という経済学的事実」をマルクスは「存在論的カテゴリー」として扱ったとマルクーゼは論じる。
疎外や物化という経済学的事実は、(労働者である)人間が(かれの労働の)対象に対して示す特定の服度のなかに基礎をもっている。こうなると、「外在化された労働」は、人間の対象に対するこのような態度の意味で理解されねばならず、もはや単なる経済的状態として理解されてはならない。(...)ここでは、現実的事態の意外な「観念論的」転倒が生じたかにみえる。すなわち、経済的事実が一般的概念のなかに、人間の対象に対する態度のなかに基礎をもつといわれている。(...)すなわち、経済的事実から人間的諸要因へ、また事実 Taty sache から行為 Taty handlung へ突きすすみ、(...)もしも外在化された労働の概念のなかで対象に対する(また、これからわれわれが考察するように、自分自身に対する)人間の態度が把握されているとすれば、労働そのものの概念のなかでも人間の態度が(経済的状態ではなく) 把握されていなければならない。またもし労働の外在化が人間の存在の全面的な現実性の喪失や疎外を意味するとすれば、労働そのものは人間の存在の本来的な発現および現実化としてつかまれねばならない。しかし、ここでもまたそのことは、労働が哲学的カテゴリーとして評価されているということにほかならない。一なぜなら、人間の存在と本質を把握する概念を立証し完成させることは哲学の仕事であって、個別科学の仕事ではないからである。哲学のなかでは、われわれは人間の存在と本質についての問題領域で、つまり「存在論的」問題領域で論議をすすめることになろうし、したがって「労働」とか、また労働と関連して登場する諸規定は存在論的カテゴリーということになろう。ところで、たとえ事態がこのように解明されているとしても、とかく悪用されがちな存在論 Ontologie という術語をマルクス理論に関連させて使用することについては、もしここでマルクス自身がはっきりとそれを使用していなかったならば、われわれはためらいを示したことであろう。マルクスは、「私的所有の媒介をとおして」はじめて、「人間の情感の存在論的本質がその人間性においても、またその総体性においても生じる」とのべており、さらにかれは、「人間の感覚、情感等々は人間学的諸規定にとどまらず、(...)真に存在論的な存在(自然)肯定である」とのべている(原版一四五、邦駅三八五)。こうして、マルクスは、人間の存在論がかれの国民経済学批判のなかにはいりこんでいることをみずから指摘したのであるから、われわれが批判の基盤をこの方向に求めたり、あるいは少なくともさしあたっては、このような存在論への方向のなかで労働の基本概念を理解してもさしつかえないであろう。 「このように、マルクスの労働概念のごく暫定的で一般的な特徴づけでさえも、経済学の範囲をはるかにこえて、総体性のなかでとらえられた人間の存在が研究テーマとされるような次元にみちびかれた」訳だが、では「マルクスのばあい、人間の存在と本質はなにをもとにして、またいかにいてさだめられているのかという疑問に答えねばならない」とする。なぜならば国民経済学のそれを否定的地位に置くならば、人間とは如何なる存在であり、それが如何にして阻害されているかということを論じない限り、当たり屋になってしまう。そして「この疑問に答えることこそ、疎外された労働の概念が本来的に意味するものを理解するとともに、革命理論の全体的基礎づけを理解するための前提である」とする。すなわち、存在論的カテゴリーとして疎外を扱うことは革命実践の基礎づけとなあるのだ。
経済学や政治学は、人間の存在 Das mensch-liche Wesen とその歴史的実現についてのごく明確な哲学的解釈をもとにして、革命理論の経済的=政治的基盤となったということである。(...)マルクスがヘーゲルの論究のなかでえがきだした人間の本質とその実現についての理念をもとにして、経済学的事実はまさに人間の存在の転倒として、人間の現実性の喪失としてあらわれる。−このことをもとにしてはじめて、経済学的事実は人間の存在とその世界を現実に変革する革命の現実的基盤になることができる。(...)資本主義社会をとおして問題になっているのは、単なる経済学的な事実や対象ばかりでなく、人間の全「実存」であり、「人間的現実」であるということこそ、マルクスにとって、プロレタリア革命の決定的な論拠である。というのも、それは単に部分的な変革や「進化」をすべて無条件に排除する全面的かつ根本的な革命にほかならないのであるから。(...)マルクスは疎外と物化を止揚する積極的共産主義を、数度にわたって「人間主義」Humanimusと呼んでいる。それは人間の存在の明確な現実化こそ積極的共産主義にとっての「基盤」であるという事実を、術語の上で指摘したものである。(...)まどうことなく人間の本質をみつめることこそ、根本的革命を打ちたてるさいの仮借ない推進力となる。資本主義の事実状況のなかでは、単に経済的あるいは政治的危機ばかりでなく、人間存在の破局こそが問題になっているのだということ!このような洞察によれば、単なる経済的あるいは政治的改良はすべて最初から失敗を宣言され、全面的革命によって事実上の状態を終局的に止場することがどうしても必要となる。経済的あるいは政治的論議によるだけではびくともしないほどしっかりした基盤の上に立ってはじめて、革命の歴史的諸条件や担い手の問題が、つまり階級闘争やプロレタリアート独裁の理論が生じるのである。 ヘーゲルは、精神の生命を、したがって理性の生命を、うちにみた。この否定の力とは結局、「現存するもの(positive)」が自由における進歩にとつて障害となるやいなや、それを拒否することによって、発展してゆく可能性に応じた、既成の事実を把握し、変革する力であった。〜最近の産業文明の進歩には、事実、否定の力の〜衰退が伴っていた。経済や政治や文化の統制が、ますます集中化されて力をましてゆくにつれ、これらの領域における対立は、鎮められて調整され、あるいは除去された。矛盾は、現存するものの肯定によって吸収されてしまったのである。 https://scrapbox.io/files/64ab754cc075cc001c960f62.png
モチーフは、晩年のフロイトの文化ペシミズム、つまり「文明は衝動の抑圧の上にのみ成り立つ」というテーゼを論駁ずることにある。文明の成立と発展は個々人の幸福を犠牲にすることによつてのみ可能となる、といったフロイトの考えを突き破ること、抑圧なき文明が可能であり、個々人の幸福とそれの両立可能性を論証することがマルクーゼの眼目だった。
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人間の生存にとって最低限必要な基本的な抑圧と、社会的な支配によって必要とされ強いられる過剰抑圧を区別。 アナンケによって余儀なくされる現実原則と、資本主義の利潤追求と競争原理によって確立される業績原則を区別。 /icons/白.icon
過剰抑圧/業績原則からの解放とアウトカム
解放によって性本能はより大きな生の統一を創造しようとする衝動としてのエロスへと拡大、成長する。つまり、疎外された労働に適合するように飼い慣らされた性本能のあり方、性器 性愛の優位と肉体の非性化を打ち破ることによって、パーソナリティー全体がエロス化され、さらには諸個人の間での永続的なエロス的関係が形づくられる。性が自己昇華を起こすことによって、衝動が本来の目標からそらされることのない非抑圧的な昇華のなかで新たな文化、新たな労働の形態を形づくる。
つまり生存競争に強いられた苦役としての労働、疎外された労働が廃棄され、 労働と遊びが一致する。
リビドー的なエネルギーの解放による本能と理性の変化
性からエロスへの変形につれて、性の諸本能はその感性的な秩序をくりひろげる。一方、理性は感性的になり、性の諸本能を守り豊かにするという意味で、必然性を理解し組織するようになる。
生存競争が、個人の欲求を自由に発達させ充足させるための協力に変わっていく程度に応じて、抑圧的な理性は、幸福と理性とが一致するような一つの新しい満足の合理に席をゆずる。
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マルクーゼはフロイトの抑圧概念の階級分析への導入を通して抑圧の政治というコンセプトを生み出した 抑圧の政治はこれまでのオールドレフトの搾取の政治と異なり、不正の源を社会的/制度的ではなく心理的に求める。したがって必要なのは制度でなく意識の変革であり伴う文化の変革である。つまり文化左翼の始まりである https://scrapbox.io/files/64ab9f8416d032001c2aef95.png
資本主義文化は、例えばビートニクやギャングスターといった「異なる生の方法の諸イメージ」を「一定のタイプの生を送る変人」へと転化させた。 /icons/白.icon
かつて対立・拮抗していた領域は、技術的、政治的地盤の上で混融していく―魔術と化学、生と死、喜びと悲惨。〜美学と現実の猥雑な融合は詩的想像力と科学的・経験的理性とを対立させる哲学を拒否する。テクノロジカルな進歩は合理化の進歩、さらに空想的なものの現実化を伴う。恐怖や歓喜、戦争や平和の原型はそのカタストローフ的性格を失っている。
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高度化した資本主義と、硬直し全体主義化した社会主義の対立のなかで、人間社会とその環境のもつ新しい可能性は、旧い社会とそこに内在する諸可能性の継続ではなく、そこからの断絶として考えられなくてはならない。