マルクーゼ
マ古代ギリシア哲学以来の理性哲学と快楽説との対立に言及し、理性と幸福との間、普遍的な利害と個別的な利害(個々人の個別的な欲求)との間にある対立を指摘している。このような対立が不可避であることの原因を、「敵対的な労働関係」つまり「疎外された労働」に見る。そのような労働が支配的な社会的条件のもとでは、個々人の欲求は不自由のなかで可能になる欲求であり、それ自体不自由な欲求、歪められた欲求なのである。このような対立を解消し、理性と幸福を宥和させるための処方箋として当時のマルクーゼは、後のマルクーゼとは違って制度的枠組の変更に訴える。 欲求の充足だけでなく、欲求そのもののうちにすでに不自由が浸透している以上、まずもって欲求自体が解放されねばならない。これをなしとげるのは、教育や人間の道徳的更新ではなく経済的政治的過程である。普遍的な生産手段の処理、全体の必要に基づく生産過程の改編、労働日の短縮、全体の管理への諸個人の参加がこの過程の内容をなす。現存する発展の主体的、客体的可能性があます所なく開示されるとともに、欲求そのものも変わるだろう。
ヘーゲルは、精神の生命を、したがって理性の生命を、うちにみた。この否定の力とは結局、「現存するもの(positive)」が自由における進歩にとつて障害となるやいなや、それを拒否することによって、発展してゆく可能性に応じた、既成の事実を把握し、変革する力であった。〜最近の産業文明の進歩には、事実、否定の力の〜衰退が伴っていた。経済や政治や文化の統制が、ますます集中化されて力をましてゆくにつれ、これらの領域における対立は、鎮められて調整され、あるいは除去された。矛盾は、現存するものの肯定によって吸収されてしまったのである。 https://scrapbox.io/files/64ab754cc075cc001c960f62.png
モチーフは、晩年のフロイトの文化ペシミズム、つまり「文明は衝動の抑圧の上にのみ成り立つ」というテーゼを論駁ずることにある。文明の成立と発展は個々人の幸福を犠牲にすることによつてのみ可能となる、といったフロイトの考えを突き破ること、抑圧なき文明が可能であり、個々人の幸福とそれの両立可能性を論証することがマルクーゼの眼目だった。
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人間の生存にとって最低限必要な基本的な抑圧と、社会的な支配によって必要とされ強いられる過剰抑圧を区別。 アナンケによって余儀なくされる現実原則と、資本主義の利潤追求と競争原理によって確立される業績原則を区別。 /icons/白.icon
過剰抑圧/業績原則からの解放とアウトカム
解放によって性本能はより大きな生の統一を創造しようとする衝動としてのエロスへと拡大、成長する。つまり、疎外された労働に適合するように飼い慣らされた性本能のあり方、性器 性愛の優位と肉体の非性化を打ち破ることによって、パーソナリティー全体がエロス化され、さらには諸個人の間での永続的なエロス的関係が形づくられる。性が自己昇華を起こすことによって、衝動が本来の目標からそらされることのない非抑圧的な昇華のなかで新たな文化、新たな労働の形態を形づくる。
つまり生存競争に強いられた苦役としての労働、疎外された労働が廃棄され、 労働と遊びが一致する。
リビドー的なエネルギーの解放による本能と理性の変化
性からエロスへの変形につれて、性の諸本能はその感性的な秩序をくりひろげる。一方、理性は感性的になり、性の諸本能を守り豊かにするという意味で、必然性を理解し組織するようになる。
生存競争が、個人の欲求を自由に発達させ充足させるための協力に変わっていく程度に応じて、抑圧的な理性は、幸福と理性とが一致するような一つの新しい満足の合理に席をゆずる。
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マルクーゼはフロイトの抑圧概念の階級分析への導入を通して抑圧の政治というコンセプトを生み出した 抑圧の政治はこれまでのオールドレフトの搾取の政治と異なり、不正の源を社会的/制度的ではなく心理的に求める。したがって必要なのは制度でなく意識の変革であり伴う文化の変革である。つまり文化左翼の始まりである https://scrapbox.io/files/64ab9f8416d032001c2aef95.png
資本主義文化は、例えばビートニクやギャングスターといった「異なる生の方法の諸イメージ」を「一定のタイプの生を送る変人」へと転化させた。 /icons/白.icon
かつて対立・拮抗していた領域は、技術的、政治的地盤の上で混融していく―魔術と化学、生と死、喜びと悲惨。〜美学と現実の猥雑な融合は詩的想像力と科学的・経験的理性とを対立させる哲学を拒否する。テクノロジカルな進歩は合理化の進歩、さらに空想的なものの現実化を伴う。恐怖や歓喜、戦争や平和の原型はそのカタストローフ的性格を失っている。
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高度化した資本主義と、硬直し全体主義化した社会主義の対立のなかで、人間社会とその環境のもつ新しい可能性は、旧い社会とそこに内在する諸可能性の継続ではなく、そこからの断絶として考えられなくてはならない。