エンゲルス
フーリエ評論
フーリエに見出されるのは、現存の社会状態に対する、生粋のフランス人風の才気に満ちた、それでいて洞察の深さを少しも失っていない批判である。フーリエは。ブルジョワジーの言質、革命前の彼らの熱狂的な予言者たちや、革命後の彼らの打算ずくのおべっか遣いたちの言質を捉えている。
唯物論的な見解によれば、歴史における究極の規定的要因は、直接的生命の生産と再生産とである。しかし、これ自体さらに二とおりにわかれる。一方では、生活資料の生産、すなわち衣食住の諸対象とそれに必要な道具の生産、他方では、人間そのものの生産、すなわち種の繁殖が、これである。ある特定の歴史的時代およびある特定の国土の人間の生活がいとなまれる社会的諸条件は、二種類の生産によって、すなわち、一方では労働の、他方では家族の発展段階によって、制約される。労働がなお未発達であればあるほど、またその生産物の量が、したがってまた社会の富が乏しければ乏しいほど、社会秩序はそれだけ圧倒的に血縁の紐帯に支配されるものとしてあらわれる。しかし、このような血縁の紐帯にもとづく社会の編成のもとで、労働の生産性はしだいに発展し、それにつれて、私有財産と交換、富の差別、他人の労働力を利用する可能性が、こうしてまた階級対立の基礎が、発展する。
つまり人間の歴史的発展を根源的に規定するもの一方が「労働の生産性」の発展なのであり、他方が「家族の発展段階」なのである。これがかの有名な唯物史観である。