キルケゴール
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この作品は、二部に分かれている。第一部は、美学的実存の立場に立つAというと匿名の
人物の作品七編と、ヨハンネスという主人公による『誘惑者の日記』一編とが集められ成り立っている。第二部は、B(判事ウィルヘルム)という人物の長い手紙が二通と、Bの友人の牧師の説教とから成り立っている。そしてBの手紙が、Aに倫理的実存の立場へ高まるように勧告する形式を取っていることにより、両部分の内的関連が保たれている。
しかし、これらをすべて寄せ集めて出版したのは、エレミタという仮名の人物であるとされる。すべてがキルケゴールの創作でありながら、彼自身が『あれか、これか』において一人称の形をとって登場することは、決してしていないのである。
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ドン・ファンとヨハンネス
一般に美学的という言葉は、芸術作品や芸術理論の領域を示すために用いられる。『あれか、これか』においても、そうした意味で美学的という言葉が使用されている。しかし、ここで注目したいのは、快楽の充足に人生の意義と目標を見出すあり方である。実はそれが、本書において、美学的実存の代表として論じられている。
自分の快楽を与えるものを追求する傾向が、人間本性に根強く巣食っているせいであろうか。快楽追求者は、時には非難の対象として、時には羨望の対象として常に話題になる。ローマ皇帝ネロや、中世スペインにおける伝説上の人物であるドン・ファンが、その典型的な例である。『あれか、これか』においても、特にドン・ファンは、本能的、衝動的に欲求の充足を求める生き方の理念の持ち主として登場してくる。以下において、典型としての本書のドン・ファンとヨハンネス、を取り上げてみよう。 まず、ドン・ファンは、『あれか、これか』第一部の第二章の「直接的・エロス的な諸段階あるいは音楽的=エロス的なもの」で取り上げられている。これは、美学的実存の中で、最も低い領域に位置づけられたものである。ドン・ファンは、自己の欲望にのみ突き動かされる、感性的なものの極点に位置している。そしてキルケゴールによれば、ドン・ファンのような人間の成立は、キリスト教の誕生以後のことである。
ドン・ファンの理念がいつ成立したのか、われわれは知らないが、それがキリスト教に所属し、さらにキリスト教により、中世に所属することだけは確実である
ドン・ファンは、感性的なものを霊的なものに従わせようとする、キリスト教の要求への徹底的な抵抗なのである。ドン・ファンは、次々と女性を誘惑するが、何人を誘惑しても満たされず、ひたすら量を追い求めている。キルケゴールは、肉体的かつ官能的なものの下でのみ生きようとするドン・ファンの姿を、まったく救いのない実存の典型として提示している。
しかし、ほぼ同じ立場に立ちながらも、『あれか、これか』の第一部の架空の著者であるAやヨハンネスは、多少異なった面も有している。彼らは単に本能的、衝動的に快楽を追求するのではない。もっと知性的であり、美学的にも洗練されている。古代ギリシアの悲劇を読み、近代ロマン派の文学やヘーゲルの哲学を、理解しうるほどの能力を具えている。美的実存の中で、最も低い段階で描くためには、極端な典型を挙げる必要がある。その典型をキルケゴールは、ドン・ファンの物語に見出したのである。 つぎに『あれか、これか』第一部の最終章の『誘惑者の日記』における主人公のヨハンネスを紹介する。ヨハンネスは、コーデリアという娘に恋をする。そこで、コーデリアに求婚しているエドヴァルドと友人になり、エドヴァルドの求婚を徐々に損なわせ、最後に自らがコーデリアと婚約することに成功する。
しかしヨハンネスは、コーデリアを巧みに操り、二人の愛が何ものにも縛られずに成長するために、婚約を破棄せねばならない、という確信に導いていく。
まもなく婚約のきずなが断たれてしまう。これを解消するのは彼女自身なのだが、それは、解けた髪の毛の方が、束ねられたそれよりも強くまといつくように、できればこの無拘束によって、ぼくをいっそう強く縛りつけるためなのだ。ぼくが婚約を破棄するとしたら、きわめて誘惑的に見えるし、彼女の魂の大胆さの確実な徴候でもある。このエロス的な離れ業を見損なってしまうだろう。この離れ業こそ、ぽくのお目当てなのだ。
ヨハンネスは、ドン・ファンと同じ美学的実存でありながら、ドン・ファンとは正反対の人物であり、絶望している誘惑者として描かれている。ヨハンネスが興味を持っているのは、ドン・ファンとは異なり、誘惑した人数ではなく、誘惑する方法それ自体である。つまりヨハンネスにおいては、コーデリアその人ではなく、コーデリアを誘惑すること自体が目的になっているのである。
ヨハンネスは、ドン・ファンのように、放将な感性的なものの量に囚われてはいない。しかし、誘惑の方法のみを重んじ、留まっている。自己の欲望に閉ざされた態度であるという点では、ドン・ファンと変わりはない。結局、束縛されたくないという観点から、相手を捨てている点から見ても、利己的であり自己にのみ囚われているといえる。キルケゴールは、ドン・ファンやヨハンネスを、感性的なものに自己満足し、満たされる典型として描いた。
美学的実存の原理
この美学的実存の原理または目的について、キルケゴールは、五つの段階をあげている。第一は、人格が精神的にではなく、肉体的に規定されている場合で、健康な美しさが目標となる。第二は、富、名誉、身分などが目標となる。第三は、目標が個人自身の方に向けられるが、才能とそれを伸ばすことが目標となる。第四は、さらに強烈に自己自身に向かい、享楽と自己の欲望の満足が目標となる。キルケゴールはその例として、皇帝ネロを挙げている。第五は、このネロの憂愁と倦怠から、カリグラ皇帝の不安を経て、最後の美学的段階は絶望そのものであるとする。
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ウィルヘルムの選択=絶望
キルケゴールは、『あれか、これか』第二部において、倫理的実存の特質を、美学者であるAの友人の判事ウィルヘルム、Bを通して語っている。その際キルケゴールは、美学的実存との対象関係を明確にするため、結婚を議論の中心とする。
B(判事ウィルヘルム)は、Aに結婚が如何に望ましいものであるかを訴え、そして美学的愛が倫理的愛の永続的な体験に比べ、如何に美しくないかを明らかにしようとする。ウィルヘルムによると、倫理的生は選択に位置づけられる。この選択においては、倫理的なものと美学的なものとの二者択一、「あれか、これか」を提起する。しかし美学的実存は、直接的・感性的なものに浸りきり、その中での選択の多様性に心悩ますことにより、結局は人生の選択を回避する。
そこでウィルヘルムは、『あれか、これか』第二部第二章の「人格形成における美的なものと倫理的なものとの均衡」において、下記と告げる。
そして、美学者Aをパトスで選択する地点まで導こうとする。それが倫理的実存に通じている、というのである。美学的生か倫理的生かという選択が、美学的実存にとって問題になるためには、美学的実存が実際に絶望に陥らなければならない。それゆえウィルヘルムは、美学者Aに「絶望せよ」と次のようにいっている。
しかし君が詩人でありたくないのなら、君にとっては、私が君に示した道、つまり絶望せよ!という道しかないのだ
しかし、美学的実存が絶望するためには、美学的生が絶望に終わることを認識するだけでは不十分であり、絶望〜と決断する必要がある。なぜなら、美学的生が絶望に終わることを認識しても、美学的生から脱却したことにはならず、脱却するためには強力な意志が必要になるからである。それゆえキルケゴールは、「絶望はそれ自体ひとつの選択なのだから」という。そして、絶望を選択した美学的実存は、倫理的実存への質的飛躍を遂げるのである。 選択について語ることは、絶望について語ることを含む。B(ウィルヘルム)は、Aに絶望を選択することを勧め、絶望によって変化した美学的愛について語る。絶望によって美学的実存は、倫理的実存にまで高まる。しかし、人が絶望を欲するとき、人は絶望を超えている。つまりヴィルヘルムによれば、真に絶望を選択したことは下記テーゼに至ることなのである。
自己の永遠の妥当性における自己自身を選ぶのである
倫理的実存の結婚
先述のように、倫理的実存の特質は選択にある。それゆえ、倫理的愛の典型は結婚である。結婚は、選択の弁証法そのものである。結婚を決意することは、直接的愛の美学性を断ち切り、意志の行為により、愛を美化されたものとして取り戻すことである。それゆえ倫理家の結婚は、「恋に酔いしれた、夢想的な夢遊病的透視に耽り、その中に身を隠す術を心得ている」美学者とは反対に、不変性と永遠の誓いとから始まる。
結婚する者は普遍的なものを実現するのだ
なぜなら倫理的なものは、誰と結婚すべきであるといわないが、結婚すべきであるとはいうからである。そして倫理的愛においては、「公明になることは、各人の義務である」。美学的実存における秘められた行動規範に対して、倫理的愛には隠し事がない。明白にし、経歴をありのままに示し、美学的愛を乱す障害物を解消することが、倫理的愛なのである。キルケゴールは、次のようにいう。
それゆえ倫理的な結婚観は、愛のどんな美学的な把握に比べても、多くの長所を持っているので。倫理的な結婚観は普遍的なものを解明して、偶然的なものを解明しない。倫理的な結婚観は、二人のまったく一回かぎりの人間がその非凡性において、どのように幸福になりうるかを示すのではなく、あらゆる夫婦がそれぞれにどのように幸福になりうるか、を示すのである。倫理的な結婚観は関係を絶対的なものと見なし、したがって、差別相を保証として把握せずに、課題として理解するのだ。倫理的な結婚観は関係を絶対的なものとみなし、かくて愛をその真の美にしたがって、すなわち、その自由にしたがってみまもり、歴史的な美しさを理解する
それゆえ、結婚それ自体が歴史的なのである。結婚はその始まりから、時間との関連において、また家族との繋がりにおいて生じる。それゆえ婚礼は、私的にはなく公的に、すなわち教会の公衆の面前で人類の歴史に関係して行われる。
結婚の幸福は、人生のすべてが重要性を持つことにある。美学的愛は、愛の対象にすべての注意を向けるが、それ以外のものには関心を払わない。しかし結婚においては、世間との具体的・現実的関係に対しても関心を持つ。そして、人生のすべての領域において、継続的な愛を持って愛することができる。B(ウィルヘルム)は、次のようにいっている。
私は判事として私の仕事を遂行し、私の天職に喜びを感じている。~私は妻を愛し、家庭にあって幸福である。私は妻の子守歌を聞く、すると私にはそれがほかのどの歌よりも美しいように思える。~私は赤ん坊の泣き叫ぶ声を聞くが、私には別に耳障りではない。私はこの子がすくすくと成長して行くのを見、喜びと信頼の心をもってその将来を見守り、少しもいらだたない。~私は祖国を愛しており、どこ他の国でもたいへん居心地よく感じるだろう、と想像することはできない。私は私の思想を分娩する母国語を愛し、私がこの世界で言いたいと思うことは何でも、母国語で立派に表現できることを知っている。
すなわち、自分の仕事や妻や家庭や子どもや祖国・母国語を愛している、という。また倫理的実存は、配偶者や子どもや仕事などへの愛と並んで、神をも愛している。これが、神に対する最も真なる愛なのである。美学的実存が、具体的な何かを選択しないことにより後悔するのに対して、倫理的実存は「あれか、これか」を具体的に選択することによって後悔する。この後悔が、自己の永遠の妥当性における自己自身を選ぶことなのである。人間の判断は、有限である。いくら倫理的に考えて選択しても、反省すれば必ず後悔が起こる。後悔は、倫理的実存の特質であり、また同時に倫理的実存の限界でもある。キルケゴールは、次のようにいっている。
さて、生きるための働くことがすべての人間の義務であるとする倫理的考察は、美学的考察に対して二つの長所を持っている。第一にそれは現実と一致していて、現実における普遍的なものを説明する。しかるに美学的考察は偶然的なものを持ち出して、何事も説明しない。次に前者は人間をその完全性にしたがって把握し、人間をその真の美しさにしたがって見る
それぞれの人間は、自己自身を選択することにおいて、普遍的なものに関係する。倫理的実存は、永遠的なものを普遍的なものとして選択しうるのであり、その最たる例が結婚なのだ。
アブラハムの背理
本書では、倫理的生と宗教的生との葛藤が問題とされている。その葛藤は、個人の内に宗教的な「おそれとおののき」を生じさせる。キルケゴールは、『旧約聖書』の創世記にあるイサクの燔祭のエピソードを例に挙げて、この葛藤を描出している。 アブラハムは、一人息子イサクを生贄として捧げるべし、という神の要求を受ける。アブラハムは、人間的・倫理的なものと神の要求に対する服従との間で、葛藤に陥る。この矛盾から「おそれ」の感情が生じる(つまりアブラハムは倫理的には殺人者であり、宗教的には聖なる行為をおこなったのだ)。神の要求へのアブラハムの服従は、無限の服従である。しかしアブラハムは、無限の服従をする一方で、神がイサクをアブラハムに返すであろうことを、信じている。キルケゴールは、次のように述べている。
アブラハムは信じた。彼は、いつかあの世において祝福されるだろうと信じたのではなく、ここ、この世において、幸福になれるだろうと信じたのであった。神は新しいイサクを彼に与えることができた。捧げられたイサクを蘇らせることができた。アブラハムは、背理なものの力によって信じたのであった。だって、一切の人間的な打算はすでにずっと前から停止していたはずだからである。
アブラハムは、有限なものを断念する。そして、背理なものの力によって信じ、それによって断念した有限なものを再び獲得する。
信仰なくして神を愛する者は、自己自身を反省し、信じて神を愛する者は、神を反省するのである。このような頂点にアブラハムは立っている。彼の視界から没する最後の段階は、無限の諦めである。彼は本当に一歩を進めて信仰に達するのだ。
信仰は、アブラハムがイサクを取り戻す、積極的な運動なのである。さらにキルケゴールは、現代の「信仰の騎士」についても述べる。信仰の騎士は、外見上は他の人々と同じである。なぜなら信仰と無限の諦めは、内面性の領域のものだからである。有限なものは、放棄されるのではない。信仰の騎士は、他の人間と同様に、有限なものに対して愛着を抱いている。それゆえ、この世のものとの断絶は、苦痛である。
キルケゴールによれば、信仰の騎士は、二つの運動をなしている。それは、無限の諦めと信仰の運動である。無限の諦めとは、「不可能なことを断念すること」である。"そして、「無限の諦めの中には平和と安息とがある」"。しかし、それ自体では信仰を構成しない。「無限の諦めは、信仰に先立つ最後の段階」なのである。したがって、次のようにいう。
この運動を行わなかった者は、すべて信仰も持っていない。なぜなら、無限の諦めにおいて初めて、私は私自身の永遠の価値を自覚するのだからである。そしてその時初めて、信仰によって人世をとらえることが問題となるからである。
この無限の諦めにある信仰の騎士について、キルケゴールは次のように述べている。
彼は彼の生活の内容であるところの恋を、無限の意味において断念する。彼は苦痛の内で和解している。しかし、ついで奇蹟がおこる。彼はなお一つの運動を、他の何ものよりも、不思議な運動を行う。つまり、彼はこういうのである。それでも、彼女が私のものになることを、私は信じます。それは、背理なものの力によってなのです。神にあっては、あらゆることが可能である、ということによってなのです。
それは、思いがけないことや意外なことと同一ではない。なぜなら信仰の騎士は、「不可能を知り、そして同じ瞬間に、彼は背理を信じる」からである。したがって信仰は、それに先立って、無限の諦めを持っているといえる。「信仰は心の直接的な衝動ではなく、人世の逆説である」といえる。それゆえ信仰と無限の諦めとは、区別せねばならない。無限の諦めとは、個人が有限性、すなわち現世に結びつけている一切の束縛を、断ち切ることである。この運動は、生への否定的関係である。
そして、信仰という第二の運動を通して、再び有限性に連れ戻される。こうして古人は、有限性の内に生きるのである。したがって信仰は、生への積極的な関係ということができる。
倫理的なものは、まさにそのようなものとして普遍的なものであり、また普遍的なものとしてすべての人に妥当するものである。これを他の面から言い換えると、いつ如何なる瞬間にも妥当するもの、ということである。
それゆえ、個人の倫理的課題は、普遍的なものを実現することである。個人が普遍的なものに対して自己の個別性を主張することは、罪を犯すことである。このことから、「倫理的なものの目的論的停止というものは存在するか?」という問が提出される。倫理的なものは、神の直接的な要求のために停止されうるのであろうか。アブラハムには、この停止がある。
アブラハムの行為全体は普遍的なものとは何ら関わりをもたず、純粋に私的な企てなのである。してみると、悲劇的英雄は、その人倫的な徳によって偉大であるのにアブラハムは、純粋に個人的な徳によって偉大なのである。
しかし、アブラハムの行為は、神の意志と関係している。そして倫理的なものが、その行為を止めようとする「試誘」となっている。この矛盾の中に、「宗教的畏怖」がある。
アブラハムのように、倫理的なものが停止されたとき個人は、如何に生きるのであろうか。アブラハムは、逆説の領域で行動した。すなわち、信じたのである。キルケゴールは、次のように述べている。
彼は信じたのである。これは逆説であり、この逆説によって彼は常に頂点に立っている。
アブラハムと神との関係は、個人的なものである。アブラハムは、神との絶対的関係のために、すなわち宗教的なもののために、倫理的なものを停止した。キルケゴールは、「彼は個別者として、普遍的なものよりも高いものになった」といっている。そして、ここに宗教的実存の一つの典型が見られるのである。
ある世代が他の世代から何を学ぼうと、どの世代も本質的に人間的なもの(essentialy human)を先の世代から学ぶことはない。〜本質的に人間的なものは感情であり、そこにおいてはある世代は完全に他の世代を理解し、おのれ自身を理解する。 本書の概略
『反復』において、青年はコンスタンティン・コンスタンティウスに対して、自分が一人の女性に恋しており、彼女も彼の愛情に応えてくれている、と打ち明けている。しかし、青年に憂愁の傾向が現われる。そして青年は、反復を発見しようと努める。「反復」とは、如何にして永遠的なものが瞬間に参入するか、また長くてうんざりする人生が如何にして克服されるかを、美学的に理解しようとする試みである。
美学的実存にとって反復は、現在において善なるものが、必然的に将来においても失われずに繰り返されることを意味する。青年は、自分は裏切り者と思われることにより婚約を破棄するため、コンスタンティンに手紙を送る。その手紙の中で、青年は自己の生のあり方を、ヨブ記についての討議を通して考察している。 ヨブは、主によって繁栄のもとにかえされ、すべてのものを二倍に増されます-これこそ、反復とよぶのです 青年は、ヨブが失ったものを二倍にして受け取ったこと、すなわち反復に注目し、自分が失ったものをヨブのように受け取れるであろう、と反復を期待する。しかし青年は、自分のかつての婚約者が結婚したことを知る。
かの女は、結婚しました。相手が誰であるか。ぼくは知りません。
反復は、精神的なものであり、この世のものではない。青年に戻されたものは、愛の対象ではなく彼自身だったのである。
人生はぼくにも、ぼくがより多く愛していたものを―つまり、ぼく自身を、あたえてくれました。
青年は、感性的なものの永遠化としての「反復」という救いを求めている。結果から見れば青年の態度は、自分のために婚約者を捨てているという点で、ヨハンネスとよく似ているといえる。しかしその根底には、自分から他者(婚約者)を解放してやることにより、自己も他者をも高めようとする利己心から、外に開かれた態度があるということは、大いに注目されるべきであろう。『反復』はヨハンネスとは異なる、婚約破棄の物語である。 不安は、たとえて言えば「目まい」(Svimmelhed)のようなものである。仮にある人がふと自分の眼で大口をひらいた深淵をのぞき込んだとすると、その人は目まいを覚えるであろう。ところで、その原因はいったいどこにあるのだろうか。それは深淵にあるとも言えるし、また当人の眼のうちにあるとも言える。というのも、彼が深淵を凝視することさえしなかったら、目まいを起こすことはなかったろうからである。これと同じようなわけで、不安は自由の目まいなのである。 二章
客観的態度の無関心さと狂気
本書を通じ、キルケゴールが論じることは真理における客観性の危うさ、そして主観性への転換である。一九世紀を生きるキルケゴールにとって、それは目下の問題であった。啓蒙の光と影、すなわち世俗化の加速によって成立した近代社会において、キルケゴールはその問題を次のように論ずる。曰く、「客観的な重点は「何が」語られるかに置かれ、主観的な重点は「どのように」語られるかに置かれる。この区別は美学の領域においても成り立ち、それ自体が真実であるものが、ある特定の人の口から語られると真実でなくなるという原則において、明確に表現されている。現代において、この区別は特に注目に値する。なぜなら、古代と現代の違いを一言で表そうとするならば、間違いなくこう言わざるを得ないだろう。「古代においては、真実を知っていたのはごく一部の個人に過ぎなかった。しかし現代では、誰もがそれを知っている。ただ、その真実を内面的に受け入れる深さは、その普及の度合いとは逆の関係にあるのである。」(The objective accent falls on WHAT is said, the subjective accent on HOW it is said. This distinction holds even in the aesthetic realm, and receives definite expression in the principle that what is in itself true may in the mouth of such and such a person become untrue. In these times this distinction is particularly worthy of notice, for if we wish to express in a single sentence the difference between ancient times and our own, we should doubtless have to say: "In ancient times only an individual here and there knew the truth; now all know it, except that the inwardness of its appropriation stands in an inverse relationship to the extent of its dissemination.")」。では如何様にして、キルケゴールは客観への反駁を開始するのか。それは第一に、主体における客観的真理への無関心さ、その没主体性である。
客観的省察の道は、主体を偶発的なものとし、それによって存在を無関心な、消え去るものへと変容させる。主体から離れて、客観的省察の道は客観的真理へと至るが、主体とその主観性が無関心なものとなるにつれて、真理もまた無関心なものとなり、この無関心さこそがまさにその客観的妥当性である。なぜなら、あらゆる関心は、あらゆる決定性と同様に、主観性に根ざしているからである。客観的省察の道は、抽象的思考、数学、そして様々な種類の歴史的知識へと至る。そして常に、それは主体から遠ざかる。主体の存在あるいは非存在は、客観的な観点からは、まさに当然のことながら、無限に無関心なものとなる。それは当然のことである。なぜなら、ハムレットが言うように、「存在と非存在は主観的な意義しか持たない」からである。この道は極限まで進むと矛盾に到達し、主体が自分自身に対して完全に無関心にならない限り、それは単に、その客観的追求が十分に客観的ではないという徴に過ぎない。この道は、その極限において、客観的なものだけが生成し、主観的なものは消滅したという矛盾に至る。すなわち、既存の主観性は、抽象的な意味において主観性と呼ばれるもの、つまり抽象的な客観性の単なる抽象的な形式になろうとしたがゆえに、消滅したのである。しかし、こうして生じた客観性は、主観的な観点からは、せいぜい仮説か近似に過ぎない。なぜなら、あらゆる永遠の決定性は主観性に根ざしているからである。(The way of objective reflection makes the subject accidental, and thereby transforms existence into something indifferent, something vanishing. Away from the subject the objective way of reflection leads to the objective truth, and while the subject and his subjectivity become indifferent, the truth also becomes indifferent, and this indif. ference is precisely its objective validity; for all interest, like all de-cisiveness, is rooted in subjectivity. The way of objective reflection leads to abstract thought, to mathematics, to historical knowledge of dif. ferent kinds: and always it leads away from the subject, whose existence or non-existence, and from the objective point of view quite rightly, becomes infinitely indifferent. Quite rightly, since as Hamlet says,' existence and non-existence have only subjective significance. At its maximum this way will arrive at a contradiction, and in so far as the subiect does not become wholly indifferent to himself, this merely constitutes a sign that his objective striving is not objective enough. At its maximum this way will lead to the contradiction that only the objcetive has come into being, while the subjective has gone out; that is to say, the existing subjectivity has vanished, in that it has made an attempt to become what in the abstract sense is called subjectivity, the mere abstract form of an abstract objectivity. And yet, the objectivity which has thus come into being is, from the subjective point of view at the most, either an hypothesis or an approximation, because all eternal decisiveness is rooted in subjectivity.) その典型とはまさに主観を放棄し、真理に仕える科学的中立性である。しかし、上記で論じられたようにそれもまた我々が人間存在である限り、主観を完全に超克することはできない。最終的な審級はすべてが主観的な物事の総和であり、それらを統合することで成立する間主観的地平を客観性と近似しているに過ぎない。そしてそのようにして残るは非人間的な所与である。なぜならば彼らにおいて、その究極的な地平は構造的な抽象性、没主体的な普遍性であり、真理の対価として我々が差し出すのは己が精神なのである。したがって、別箇所では次のようにいう。「数学的命題の場合、客観性は与えられているが、この理由ゆえに、そのような命題の真実はまた、無関心な真実でもある。(In the case of a mathematical proposition the objectivity is given, but for this reason the truth of such a proposition is also an indifferent truth.)」。確かに数学的命題に傾倒する者には、学問的な熱狂や実用性への期待を抱く者もいる。彼らにおいて、この無関心性は存在しないと言えるであるだろう。しかし、ここで主題とされているのは「客観的省察の道」、すなわち、真理へ仕える者の是非である。この意味において、彼らは究極的な無関心性を美徳とし、主観性の排除への修行に励む。なぜならばその道を歩むものの正しき姿勢こそが、無関心性なのであり、無関心性によってのみ客観的省察とは意味を成すのだ。しかし、キルケゴールはその危うさを指摘する。 しかし、客観的な道は、主観的な道にはない確固たる基盤を自らに有していると見なしている(そして、言うまでもなく、存在と実在は、客観的な確固たる基盤と結びつけて考えることはできない)。それは、主観的な道を脅かす危険から逃れられると考えているが、その危険とは、まさに極致にあるもの、すなわち狂気である。真実の単なる主観的な決定において、狂気と真実は、究極的には区別がつかなくなる。なぜなら、両者とも内面性を持つ可能性があるからである。* とはいえ、ここではあえて、客観的な時代において全く無意味とは言えないであろう、ささやかな一考察を提示させていただきたい。内面性の欠如もまた、狂気である!客観的真理そのものは、それを口にする者が正気であることを決定づけるには、決して十分ではない。それどころか、たとえその者の言うことが完全に真実であり、とりわけ客観的に真実であるとしても、その者が狂っているという事実を裏切ることさえあり得るのだ。ここで、私が何ら脚色を加えることなく、精神病院から直接伝えられたある話を紹介させてほしい。ある施設の患者が脱走を図り、実際に窓から飛び降りてその目的を達成し、自由への道を歩み出そうとしたその時、ある考えが彼の頭をよぎった(それは十分に正気と言えるだろうか、それとも十分に狂気と言えるだろうか?): 「町に着けば誰かに見つけられ、すぐにここへ連れ戻されてしまう。だから、自分の正気については何の問題もないと、自分の言葉の客観的な真実によって皆を納得させるよう、万全の準備をしておかなければならない。」そう考えながら歩いていると、地面にボールが転がっているのを見つけ、それを拾い上げ、コートの後ろポケットにしまった。一歩歩くたびに、そのボールは――丁寧に言えば――彼の臀部に当たり、当たるたびに彼はこう言う。「バン、地球は丸い」。彼は街に着くと、すぐに友人の一人を訪ねた。自分が狂っていないことを彼に納得させたいのだ。そこで彼は、絶えず「バン、地球は丸い!」と言いながら、部屋の中を歩き回った。だが、地球は丸くないだろうか?かつて誰もが地球はパンケーキのように平らだと信じていた時代のように、精神病院は今なお、この見解のためにさらなる犠牲者を求めているのだろうか? それとも、広く受け入れられ、広く尊重されている客観的真実を口にすることで、自分が正気であることを証明しようとする人間こそが、正気ではないのだろうか? それでもなお、医師には患者がまだ治癒していないことが明らかだった。もっとも、治療法が「地球は平らだ」という見解を受け入れさせることにあるとは考えられなかったが。しかし、すべての人が医師であるわけではない。そして、時代が何を求めるかという点が、「狂気とは何か」という問いに対して、かなりの影響を及ぼしているように思われる。そう、キリスト教を近代化した現代は、ポンティウス・ピラトの問いをも近代化し、その「見つけ出そうとする衝動」さえも近代化したのだと、時にはほとんど信じてしまいそうになる。しかし、これさえも実際には真実ではない。なぜなら、狂気には決して、無限の持つ特有の内的深みなどないからだ。その固定観念は、まさに一種の客観性であり、狂気の矛盾は、これを情熱をもって抱きしめることにある。したがって、そのような狂気の決定的な点は、やはり主観的なものではなく、固定観念となった小さな有限性であり、それは無限には決して起こり得ないものであり、無限が安住しうるものは、「狂気とは何か」という問いの中で自らを宣言している。(However, the objective way deems itself to have a security which the subiective way does not have (and, of course, existence and existing cannot be thought in combination with objective security); it thinks to escape a danger which threatens the subjective way, and this danger is at its maximum; madness. In a merely subjective determination of the truth, madness and truth become in the last analysis indistinguish-able, since they may both have inwardness.* Nevertheless, perhaps I may here venture to offer a little remark, one which would seem to be not wholly superfluous in an objective age. The absence of inwardness is also madness! The objective truth as such, is by no means adequate to determine that whoever utters it is sane; on the contrary, it may even betray the fact that he is mad, although what he says may be entirely true, and especially objectively true. I shall here permit myself to tell a story, which without any sort of adaptation on my part comes direct from an asylum. A patient in such an institution seeks to escape, and actually succeeds in effecting his purpose by leaping out of a window, and prepares to start on the road to freedom, when the thought strikes him (shall I say sancly enough or madly enough?): "When you come to town you will be recognized, and you will at once be brought back here again; hence you need to prepare yourself fully to convince everyone by the objective truth of what you say, that all is in order as far as your sanity is concerned." As he walks along and thinks about this, he sees a ball lying on the ground, picks it up, and puts it into the tail pocket of his coat. Every step he takes the ball strikes him, politely speaking, on his hinder parts, and every time it thus strikes him he says: "Bang, the earth is round." He comes to the city, and at once calls on one of his friends; he wants to convince him that he is not crazy, and therefore walks back and forth, saying con-tinually: "Bang, the carth is round!" But is not the earth round? Does the asylum still crave yet another sacrifice for this opinion, as in the time when all men believed it to be flat as a pancake? Or is a man who hopes to prove that he is sane, by uttering a generally accepted and generally respected objective truth, insane? And yet it was clear to the physician that the patient was not yet cured; thoush it is not to he thought that the cure would consist in getting him to accept the opinion that the carth is flat. But all men are not physicians, and what the age demands seems to have a considerable influence upon the question of what madness is. Aye, one could almost be tempted sometimes to believe that the modern age, which has modernized Christianity, has also modernized the question of Pontius Pilate, and that its urge to find. Even this is not really true, however, for madness never has the specific inwardness of the infinite. Its fixed idea is precisely ome sort of obicctivity. and th contradiction of madness consists in embracing this with passion. The critical point in such madness is thus again not the subsective, but the little finitude whuch has become a fixed idea, winch is something that can never happen to the infinite something in which it can rest proclaims itself in the question: What is madness?) これは次のようなテーゼに総括することができるだろう。それはいわば、主観の有す人間的狂気と客観の有す非人間的狂気である。勿論カルトに代表されるように、主観的な人間が狂気に陥ることはキルケゴールも了解しており、その典型としてドン・キホーテを挙げている。しかし、これと同様、ひいてはこれ以上に客観的な人間にも狂気が巣食うと論じるのだ。
ドン・キホーテは、内面性の情熱が特定の有限な固定観念を抱きしめる、主観的な狂気の原型である。しかし、内面性の欠如は、一方で、同様に滑稽な「おしゃべりな狂気」をもたらす。そして、ある実験心理学者が、そのような哲学者たちを数人選んで一堂に集め、それを描き出してくれるならば、それは非常に望ましいことかもしれない。異常な内面性として現れる狂気の類型において、悲劇的かつ滑稽なのは、不幸な個人にとってこれほど無限の関心事である「何か」が、実際には誰の関心事でもない特定の固着に過ぎないという点である。内面性の欠如から成る狂気の類型において、滑稽なのは、幸福な個人が知っている「何か」が確かに真実であり、すべての人に関わる真実であるにもかかわらず、それが、大いに尊敬されているおしゃべりな狂人にとっては、微塵も関心事ではないという点である。この種の狂気は、もう一方のそれよりも非人間的である。(Don Quixote is the prototype for a subjective madness, in which the passion of inwardness embraces a particular finite fixed idea. But the absence of inwardness gives us on the other hand the prating mad-ness, which is quite as comical; and it might be a very desirable thing if an experimental psychologist would delineate it by taking a handful of such philosophers and bringing them together. In the type of madness which manifests itself as an aberrant inwardness, the tragic and the comic is that the something which is of such infinite concern to the unfortunate individual is a particular fixation which does not really concern anybody. In the type of madness which consists in the absence of inwardness, the comic is that though the something which the happy individual knows really is the truth, the truth which concerns all men. it does not in the slightest degree concern the much respected prater. This type of madness is more inhuman than the other.) そしてこのような非人間的狂気を人工的な無機性ひいては工業性によって表現する。そしてここで論じられるような感情の欠落にある理性と論理とは、まさにカント倫理そのものであり、定言命法の有する倫理的な歪みとはこのような指摘に対応する問題であるのだ。 前者のタイプの狂人の目を見つめることを人は躊躇する。その狂気の深淵を覗き込まざるを得なくなるのを恐れてのことだ。しかし、後者のタイプの狂人については、そもそも見ることを敢えてしない。彼の目がガラスでできており、髪がカーペットの切れ端でできていること、つまり彼が要するに人工的な産物であることを発見してしまうのを恐れてのことである。もし、感情の乱れ―すなわち、感情そのものが欠如しているという乱れ―に苦しむ人物に出会ったなら、あなたは冷たく恐ろしい戦慄を覚えながらその言葉を聞くことになるだろう。話しているのは人間なのか、それとも、音声装置が隠された巧妙に作られた杖なのか、ほとんど見分けがつかないからだ。誇り高い人間にとって、知らず知らずのうちに公開処刑人と兄弟愛の乾杯を交わしていることに気づくのは、常に不快なものである。しかし、杖と理性的かつ哲学的な会話を交わしていることに気づくのは、人間を正気を失わせるのに十分に近い。(One shrinks from looking into the eyes of a madman of the former type lest one be compelled to plumb there the depths of his delirium; but one dares not look at a madman of the latter type at all, from fear of discovering that he has eyes of glass and hair made from carpet-rags; that he is, in short, an artificial product. If you meet someone who suffers from such a derangement of feeling, the derangement consisting in his not having any, you listen to what he says in a cold and awful dread, scarcely knowing whether it is a human being who speaks, or a cunningly contrived walking stick in which a talking machine has been concealed. It is always unpleasant for a proud man to find himself unwittingly drinking a toast of brotherhood with the public hangman; but to find oneself engaged in rational and philosophical conversation with a walking stick is almost enough to make a man lose his mind.)
客観的な不確実性
ここまで客観性という原理の不完全性、無関心さ、そしてその危うさを論じてきた。しかし、本章のタイトルにあるような主観性という真理はどのようにして論証されるのか。そこで第一に論じられるのは、主観と客観の非結合関係である。キルケゴール曰く、「既存の個体が同時に二つの場所に存在することもできない―すなわち、主体と客体の同一性となることはできない。(Nor can an existing individual be in two places at the same time-he cannot be an identity of subject and object)」。また「理性に反して信じることは別物であり、理性と共に信じることはそもそも不可能である(To believe against the understanding is something different, and to believe with the understanding cannot be done at all)」。このように主観と客観を一つの真理に対する分かれ道とした上で、主観性を真理と位置づけるとき、客観性とは「客観的な不確実性」として論じられる。
主観性が真実であるとき、真実の概念的規定には、客観性に対する対立項の表現、すなわち道が分岐する分かれ道の記念碑が含まれなければならない。この表現は同時に、主観的な内面性の緊張を示す指標としても機能する。ここに、真実のそのような定義がある。最も情熱的な内面性の受容過程において固く保持された客観的な不確実性こそが真実であり、存在する個人にとって到達し得る最高の真実である。道が分かれる地点(そして、これは主観性の問題であるため、客観的に特定することはできない)において、客観的知識は保留される。したがって、主体が客観的に持つのは不確実性のみであるが、まさにこれこそが、その内面性を構成する無限の情熱の緊張を高めていくのである。真理とは、まさに無限の情熱をもって客観的な不確実性を選択する冒険そのものである。私は神を見出すことを望んで自然の秩序を熟考し、全能と英知を認めるが、同時に、私の心を乱し不安を掻き立てる多くのものをも認めるのである。これらすべてを総括すれば、それは客観的な不確実性である。しかし、まさにこの理由によって、内面性はこれほどまでに強烈なものとなる。なぜなら、それは無限への情熱のすべてをもって、この客観的な不確実性を抱擁するからである。数学的命題の場合、客観性は与えられているが、この理由ゆえに、そのような命題の真実はまた、無関心な真実でもある。(When subjectivity is the truth, the conceptual determination of the truth must include an expression for the antithesis to objectivity, a memento of the fork in the road where the way swings off; this ex. pression will at the same time serve as an indication of the tension of the subjective inwardness. Here is such a definition of truth: An objec-tive uncertainty held fast in an appropriation-process of the most passionate inwardness is the truth, the highest truth attainable for an existing individual. At the point where the way swings off (and where this is cannot be specified objectively, since it is a matter of subjectiv-ity), there objective knowledge is placed in abeyance. Thus the subject merely has, objectively, the uncertainty; but it is this which preciscly increases the tension of that infinite passion which constitutes his in-wardness. The truth is precisely the venture which chooses an objective uncertainty with the passion of the infinite. I contemplate the order of nature in the hope of finding God, and I see omnipotence and wisdom; but I also see much else that disturbs my mind and excites anxiety. The sum of all this is an objective uncertainty. But it is for this very reason that the inwardness becomes as intense as it is, for it embraces this ,objective uncertainty with the entire passion of the infinite. In the case of a mathematical proposition the objectivity is given, but for this reason the truth of such a proposition is also an indifferent truth.)
客観的認識の態度は、対象となる真理の不確実性を排除し、確実性を要求する。それは検証された客観的な確実性を合理的に選択することで、不安定な実存を盤石にするが如くである。他方で主体的な真理に仕え、信仰を抱くとき、客観性に対し、それはむしろ不安定性の只中として存在している。しかし、そのような不確実性によって揺れ動きながらもなお、対象に対して主体的真理を抱き、幾度なく信仰を示すとき、すなわち、不確実性の只中で「その内面性を構成する無限の情熱の緊張を高めていく」ときにはじめて「内面性はこれほどまでに強烈なものとなる」のだ。ゆえにここでは「数学的命題」或いは「量的計算」が問題となる。
したがって、信者にとって「ありそうなこと」は好ましくないものであり、彼はそれを何よりも恐れる。なぜなら、彼が「ありそうなこと」にしがみつくのは、信仰を失い始めている証拠であることを、彼はよく知っているからだ。信仰には実際、二つの課題がある。一つは、あらゆる瞬間に、ありそうもないこと、逆説的なことを見出すよう注意を払うこと。そしてもう一つは、内面からの情熱をもってそれをしっかりと握りしめることである。一般的な考えでは、ありそうもないこと、逆説的なことは、信仰が受動的にしか関わらないものだとされている。信仰はひとまずこの関係に甘んじなければならないが、確かにありそうなこととして、物事は少しずつ良くなっていくはずだ。信仰について語る際の、なんと奇跡的な混乱の生み出し方であろうか!人は、物事がすぐに良くなるという「確率」を頼りにして、信じ始めようとする。こうして結局のところ「確率」がこっそりと持ち込まれ、人は信じることを阻まれてしまう。それゆえ、長い間信者であったことの「実り」が、想像されるような「信仰におけるより深い内面性」ではなく、もはや信じなくなってしまうことであるというのは、容易に理解できる。いや、信仰とは、あり得ないことや逆説的なものとの関係において自発的であり、発見において自発的であり、そして信じるためにそれをしっかりと握りしめるあらゆる瞬間において自発的なのである。単にあり得ないことを掴み取るだけでも、無限の情熱のすべてと、それ自体の内への集中を要する。なぜなら、あり得ないことや逆説的なことは、理解による「ますます困難になる」という量的計算では到達できないからである。(The probable is therefore so little to the taste of a believer that he fears it most of all, since he well knows that when he clings to probabilities it is because he is beginning to lose his faith. Faith has in fact two tasks: to take care in every moment to discover the improbable, the paradox; and then to hold it fast with the passion of inwardness. The common conception is that the improbable, the paradoxical, is something to which faith is related only passively; it must provisionally be content with this relationship, but little by little things will become better, as indeed seems probable. O miraculous creation of confusions in speaking about faith! One is to begin believing, in reliance upon the probability that things will soon become better. In this way probability is after all smuggled in, and one is prevented from believing; so that it is easy to understand that the fruit of having been for a long time a believer is, that one no longer believes, instead of, as one might think, that the fruit is a more intensive inwardness in faith. No, faith is self-active in its relation to the improbable and the para-doxical, self-active in the discovery, and self-active in every moment holding it fast—in order to believe. Merely to lay hold of the improbable requires all the passion of the infinite and its concentration in itself; for the improbable and the paradoxical are not to be reached by the un-derstanding's quantitative calculation of the more and more difficult.)
このことは以下のようにも表現される。すなわち、不安定で逆境のとき、不確実性に晒された時にこそ、信仰の是非が問われるのであり、その盤石さとはそうした試練によって検証し得る。客観的な不確実性による主体の信仰ひいては情熱との緊張感こそが、信仰の基礎であり、ゆえに「信仰とは(...)生成を指す。(faith (...) refers to becoming.)」とキルケゴールは論じるのだ。 天候が穏やかな時に船の中で静かに座っていることは、信仰の姿ではない。しかし、船に穴が開いた時、港を目指しながらも絶望せずに、熱意を持ってポンプを動かし船を浮かべ続けようとする―これこそが信仰の姿である。そして、その姿が長期的には不可能性を孕んでいるとしても、それはあくまでその姿の不完全さに過ぎない。信仰は持続する。理性が、絶望した乗客のように岸に向かって腕を伸ばしても無駄である一方で、信仰は魂の深みにおいて全精力を尽くして働く。喜びと勝利に満ちて、信仰は理性に対して魂を救うのである。(Sittine quietly in a ship while the weather is calm is not a picture of faith; but when the ship has sprung a leak, cothusiastically to keep the ship afloat by pumping while yet not secking the harbor: this is the picture. And if the picture involves an impossibility in the long run, that is but the imperfection of the picture; faith persists. While the understanding, like a despairing passenger, stretches out its arms toward the shore, but in vain, faith works with all its energy in the deoths of the soul: glad and victorious it saves the soul against the understanding. )(...)信仰は常に感謝し、常に命の危機にさらされている。有限と無限のこの衝突こそが、その両方の複合体である者にとってまさに死の危険なのである。(Faith always gives thanks, is always in peril of life, in this collision of finite and infinite which is precisely a mortal danger for him who is a composite of both.) よってこれは以下の引用のように総括することができる。客観的不確実性というリスクにおいてもなお持続する信仰こそ、内面性の深度の証明となるのだ。
なぜなら、リスクなくして信仰はなく、リスクが大きければ大きいほど信仰も大きくなるからである。客観的な確実性が高ければ高いほど内面性は薄れ(内面性とはまさに主観性である)、客観的な確実性が低ければ低いほど、内面性は深まる。パラドックスがそれ自体としてパラドックスであるとき、その不条理性によって個人を拒絶し、それに対応する内面性の情熱こそが信仰である。しかし、主観性、すなわち内面性こそが真実である。そうでなければ、我々はソクラテスの立場の価値を忘れてしまっていることになる。しかし、回想を通じて存在から永遠へと退避することが不可能な時、そして、真実がパラドックスとして個人に立ちはだかり、罪の苦悩と痛みに囚われ、客観的な不安定さという途方もないリスクに直面しながらも、個人が信じる時ほど、内面性を強く表現するものはない。(For without risk there is no faith, and the greater the risk the greater the faith; the more objective security the less inwardness (for inwardness is precisely subjectivity), and the less objective security the more pro-found the possible inwardness. When the paradox is paradoxical in itself, it repels the individual by virtue of its absurdity, and the cor-responding passion of inwardness is faith. But subjectivity, inwardness, is the truth; for otherwise we have forgotten what the merit of the Socratic position is. But there can be no stronger expression for in-wardness than when the retreat out of existence into the eternal by way of recollection is impossible; and when, with truth confronting the individual as a paradox, gripped in the anguish and pain of sin, facing the tremendous risk of the objective insecurity, the individual believes.) よって、リスクによって信仰は存立し、客観的な不確実性こそが主観的真理の条件であり、これを通じ、絶えず、不断喉力によって信仰を「固く握りしめること」にこそ、信仰の本懐があるのだ。
そしてキルケゴールは「理性に反して信じることは殉教である((...)to believe against the understanding is mar-tyrdom)」としたように、そうした信仰者の理想を死者の如き生者として定式化するのだ。
すべてが自分に敵対し、内面性を直接的に表現する手段が一つもなく、それでもなお自らの言葉に忠実であること―それこそが真の内面性である。なぜなら、内面性は、態度や表情、言葉や確約といった外的な表現が即座に手元にあるという度合いにおいて、まさに偽りとなるからである。表現そのものが虚偽だからというのではなく、内面性が単なる一過性のものに過ぎないという事実こそが、その偽りなのである。死者は時が過ぎゆく間、沈黙している。名高い戦士の墓にはその剣が置かれているが、傲慢な者たちがその周囲の柵を引き裂いてしまったとしても、戦士は自らと安息の地を守るために剣を掴み取るべく立ち上がることはない。彼は身振り手振りもせず、確約もせず、一時の内面性によって燃え上がることもない。しかし、墓のように沈黙し、死のように静かに、彼は自らの言葉に忠実である。その内面性に対して、外見上は死者のように振る舞い、まさにそれによってその内面性を守り抜く生者たちに、すべての栄誉あれ。そのような内面性は、一時の興奮や女の誘惑のようなものではなく、死を通じて勝ち取られた永遠そのものである。(To have everything against you, not to have a single direct expression for your inwardness, and yet to stand by your words: that is true inward-ness. For inwardness is false precisely in the degree that the outward expression in mien and visage, in words and assurances, is at once ready to hand; not precisely because the expression itself is untrue, but the falsity consists in the fact that the inwardness is merely a phase. The dead man is silent while time goes by; on the renowned warrior's grave they have laid his sword, and insolence has torn the paling about it to pieces, but the warrior does not rise to seize his sword to defend himself and his resting-place; he does not gesticulate, he gives no assurances, he does not flare up in momentary inwardness; but silent as the tomb, and still as death, he stands by his word. All honor to the living who out-wardly conduct themselves as a dead man in relation to his inwardness, and precisely thereby preserve it. Such inwardness is not as a moment's excitement, or as a woman's beguilement, but as the eternal which has been won through death.)
キリスト教について
客観的信仰とは、一体何を意味するのか?それは教義的命題の総和を意味する。(The objective faith, what does that mean? It means a sum of doctrinal propositions.)
それに対し、キリスト教は主観的である。信者における信仰の内面性が、真理の永遠の決断を構成する。そして客観的には真理など存在しない。なぜなら、キリスト教の真理、あるいはその諸真理に対する客観的認識は、まさに虚偽だからである。信仰告白を丸暗記することは異教である。なぜなら、キリスト教とは内面性だからだ。罪の赦しというパラドックスを例に取ろう。(...)現存する個人は、自らを罪人であると自覚しなければならない。それは客観的にではなく――それはナンセンスである――主観的にであり、それが最も深遠な苦しみなのである。その精神の全力をもって、最後の思考に至るまで(ある人間が他の人間より少し知性が高かったとしても、本質的な違いはない。自らの知性の偉大さを訴えることは、自らの内面性の欠陥を裏切ることになる。そうでなければ、理解力は間違いなくその限界を超えて試されることになるだろう)、彼は罪の赦しを理解しようと努め、そしてその理解に絶望しなければならない。(Christianity on the contrary is subjective; the inwardness of faith in the believer constitutes the truth's eternal decision. And objec-tively there is no truth; for an objective knowledge of the truth of Christianity, or of its truths, is precisely untruth. To know a confession of faith by rote is paganism, because Christianity is inwardness. Let us take the paradox of the forgiveness of sins. (...)The individual existing human being must feel himself a sinner; not objectively, which is nonsense, but subjectively, which is the most profound suffering. With all the strength of his mind, to the last thought (and if one human being has a little more intelligence than another it makes no essential difference; to appeal to the greatness of one's intelligence is to betray the defectiveness of one's inwardness, for otherwise the understanding will doubtless be tested beyond its strength), he must try to understand the forgiveness of sins, and then despair of the under-standing. )
もしピラトが「真理とは何か」と客観的に問わなかったならば、彼は決してキリストを十字架刑に処することはなかっただろう。もし彼が主観的に問うていたなら、目の前の決断において真に何をなすべきかという内面の情熱が、彼を過ちを犯すことから防いでいただろう。そうなれば、恐ろしい夢に不安を覚えたのは単に彼の妻だけではなく、ピラト自身も眠れぬ夜を過ごしていたはずである。(Had not Pilate asked objectively what truth is, he would never have condemned Christ to be crucified. Had he asked subjectively, the passion of his inwardness respecting what in the decision facing him he had in truth to do, would have prevented him from doing wrong. It would then not have been merely his wife who was made anxious by the dreadful dream, but Pilate himself would have become sleepless.)
「(...)かつて日々、忘却を防ぐために保たれていた厳粛さこそが、より真の厳粛さだからである。女々しい態度は常に危険を伴う。優しく握る手、情熱的な抱擁、目に浮かぶ涙――こうしたものは、決意を静かに捧げる行為とは、決して同じものではない。精神の内面性は、結局のところ、肉体の中では常に異邦人であり、よそ者なのだ((...) since the continuing solemnity with which onc, day by day, prevents the forgetfulness, is the truer solemnity. The womanish is always dangerous. A tender pressure of the hand, a passionate embrace, a tear in the eye: these things are not quite the same as the silent consecration of a resolve. The inwardness of the spirit is, after all, always a stranger and a foreigner in the body)」