キルケゴール
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この作品は、二部に分かれている。第一部は、美学的実存の立場に立つAというと匿名の
人物の作品七編と、ヨハンネスという主人公による『誘惑者の日記』一編とが集められ成り立っている。第二部は、B(判事ウィルヘルム)という人物の長い手紙が二通と、Bの友人の牧師の説教とから成り立っている。そしてBの手紙が、Aに倫理的実存の立場へ高まるように勧告する形式を取っていることにより、両部分の内的関連が保たれている。
しかし、これらをすべて寄せ集めて出版したのは、エレミタという仮名の人物であるとされる。すべてがキルケゴールの創作でありながら、彼自身が『あれか、これか』において一人称の形をとって登場することは、決してしていないのである。
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ドン・ファンとヨハンネス
一般に美学的という言葉は、芸術作品や芸術理論の領域を示すために用いられる。『あれか、これか』においても、そうした意味で美学的という言葉が使用されている。しかし、ここで注目したいのは、快楽の充足に人生の意義と目標を見出すあり方である。実はそれが、本書において、美学的実存の代表として論じられている。
自分の快楽を与えるものを追求する傾向が、人間本性に根強く巣食っているせいであろうか。快楽追求者は、時には非難の対象として、時には羨望の対象として常に話題になる。ローマ皇帝ネロや、中世スペインにおける伝説上の人物であるドン・ファンが、その典型的な例である。『あれか、これか』においても、特にドン・ファンは、本能的、衝動的に欲求の充足を求める生き方の理念の持ち主として登場してくる。以下において、典型としての本書のドン・ファンとヨハンネス、を取り上げてみよう。 まず、ドン・ファンは、『あれか、これか』第一部の第二章の「直接的・エロス的な諸段階あるいは音楽的=エロス的なもの」で取り上げられている。これは、美学的実存の中で、最も低い領域に位置づけられたものである。ドン・ファンは、自己の欲望にのみ突き動かされる、感性的なものの極点に位置している。そしてキルケゴールによれば、ドン・ファンのような人間の成立は、キリスト教の誕生以後のことである。
ドン・ファンの理念がいつ成立したのか、われわれは知らないが、それがキリスト教に所属し、さらにキリスト教により、中世に所属することだけは確実である
ドン・ファンは、感性的なものを霊的なものに従わせようとする、キリスト教の要求への徹底的な抵抗なのである。ドン・ファンは、次々と女性を誘惑するが、何人を誘惑しても満たされず、ひたすら量を追い求めている。キルケゴールは、肉体的かつ官能的なものの下でのみ生きようとするドン・ファンの姿を、まったく救いのない実存の典型として提示している。
しかし、ほぼ同じ立場に立ちながらも、『あれか、これか』の第一部の架空の著者であるAやヨハンネスは、多少異なった面も有している。彼らは単に本能的、衝動的に快楽を追求するのではない。もっと知性的であり、美学的にも洗練されている。古代ギリシアの悲劇を読み、近代ロマン派の文学やヘーゲルの哲学を、理解しうるほどの能力を具えている。美的実存の中で、最も低い段階で描くためには、極端な典型を挙げる必要がある。その典型をキルケゴールは、ドン・ファンの物語に見出したのである。 つぎに『あれか、これか』第一部の最終章の『誘惑者の日記』における主人公のヨハンネスを紹介する。ヨハンネスは、コーデリアという娘に恋をする。そこで、コーデリアに求婚しているエドヴァルドと友人になり、エドヴァルドの求婚を徐々に損なわせ、最後に自らがコーデリアと婚約することに成功する。
しかしヨハンネスは、コーデリアを巧みに操り、二人の愛が何ものにも縛られずに成長するために、婚約を破棄せねばならない、という確信に導いていく。
まもなく婚約のきずなが断たれてしまう。これを解消するのは彼女自身なのだが、それは、解けた髪の毛の方が、束ねられたそれよりも強くまといつくように、できればこの無拘束によって、ぼくをいっそう強く縛りつけるためなのだ。ぼくが婚約を破棄するとしたら、きわめて誘惑的に見えるし、彼女の魂の大胆さの確実な徴候でもある。このエロス的な離れ業を見損なってしまうだろう。この離れ業こそ、ぽくのお目当てなのだ。
ヨハンネスは、ドン・ファンと同じ美学的実存でありながら、ドン・ファンとは正反対の人物であり、絶望している誘惑者として描かれている。ヨハンネスが興味を持っているのは、ドン・ファンとは異なり、誘惑した人数ではなく、誘惑する方法それ自体である。つまりヨハンネスにおいては、コーデリアその人ではなく、コーデリアを誘惑すること自体が目的になっているのである。
ヨハンネスは、ドン・ファンのように、放将な感性的なものの量に囚われてはいない。しかし、誘惑の方法のみを重んじ、留まっている。自己の欲望に閉ざされた態度であるという点では、ドン・ファンと変わりはない。結局、束縛されたくないという観点から、相手を捨てている点から見ても、利己的であり自己にのみ囚われているといえる。キルケゴールは、ドン・ファンやヨハンネスを、感性的なものに自己満足し、満たされる典型として描いた。
美学的実存の原理
この美学的実存の原理または目的について、キルケゴールは、五つの段階をあげている。第一は、人格が精神的にではなく、肉体的に規定されている場合で、健康な美しさが目標となる。第二は、富、名誉、身分などが目標となる。第三は、目標が個人自身の方に向けられるが、才能とそれを伸ばすことが目標となる。第四は、さらに強烈に自己自身に向かい、享楽と自己の欲望の満足が目標となる。キルケゴールはその例として、皇帝ネロを挙げている。第五は、このネロの憂愁と倦怠から、カリグラ皇帝の不安を経て、最後の美学的段階は絶望そのものであるとする。
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ウィルヘルムの選択=絶望
キルケゴールは、『あれか、これか』第二部において、倫理的実存の特質を、美学者であるAの友人の判事ウィルヘルム、Bを通して語っている。その際キルケゴールは、美学的実存との対象関係を明確にするため、結婚を議論の中心とする。
B(判事ウィルヘルム)は、Aに結婚が如何に望ましいものであるかを訴え、そして美学的愛が倫理的愛の永続的な体験に比べ、如何に美しくないかを明らかにしようとする。ウィルヘルムによると、倫理的生は選択に位置づけられる。この選択においては、倫理的なものと美学的なものとの二者択一、「あれか、これか」を提起する。しかし美学的実存は、直接的・感性的なものに浸りきり、その中での選択の多様性に心悩ますことにより、結局は人生の選択を回避する。
そこでウィルヘルムは、『あれか、これか』第二部第二章の「人格形成における美的なものと倫理的なものとの均衡」において、下記と告げる。
そして、美学者Aをパトスで選択する地点まで導こうとする。それが倫理的実存に通じている、というのである。美学的生か倫理的生かという選択が、美学的実存にとって問題になるためには、美学的実存が実際に絶望に陥らなければならない。それゆえウィルヘルムは、美学者Aに「絶望せよ」と次のようにいっている。
しかし君が詩人でありたくないのなら、君にとっては、私が君に示した道、つまり絶望せよ!という道しかないのだ
しかし、美学的実存が絶望するためには、美学的生が絶望に終わることを認識するだけでは不十分であり、絶望〜と決断する必要がある。なぜなら、美学的生が絶望に終わることを認識しても、美学的生から脱却したことにはならず、脱却するためには強力な意志が必要になるからである。それゆえキルケゴールは、「絶望はそれ自体ひとつの選択なのだから」という。そして、絶望を選択した美学的実存は、倫理的実存への質的飛躍を遂げるのである。 選択について語ることは、絶望について語ることを含む。B(ウィルヘルム)は、Aに絶望を選択することを勧め、絶望によって変化した美学的愛について語る。絶望によって美学的実存は、倫理的実存にまで高まる。しかし、人が絶望を欲するとき、人は絶望を超えている。つまりヴィルヘルムによれば、真に絶望を選択したことは下記テーゼに至ることなのである。
自己の永遠の妥当性における自己自身を選ぶのである
倫理的実存の結婚
先述のように、倫理的実存の特質は選択にある。それゆえ、倫理的愛の典型は結婚である。結婚は、選択の弁証法そのものである。結婚を決意することは、直接的愛の美学性を断ち切り、意志の行為により、愛を美化されたものとして取り戻すことである。それゆえ倫理家の結婚は、「恋に酔いしれた、夢想的な夢遊病的透視に耽り、その中に身を隠す術を心得ている」美学者とは反対に、不変性と永遠の誓いとから始まる。
結婚する者は普遍的なものを実現するのだ
なぜなら倫理的なものは、誰と結婚すべきであるといわないが、結婚すべきであるとはいうからである。そして倫理的愛においては、「公明になることは、各人の義務である」。美学的実存における秘められた行動規範に対して、倫理的愛には隠し事がない。明白にし、経歴をありのままに示し、美学的愛を乱す障害物を解消することが、倫理的愛なのである。キルケゴールは、次のようにいう。
それゆえ倫理的な結婚観は、愛のどんな美学的な把握に比べても、多くの長所を持っているので。倫理的な結婚観は普遍的なものを解明して、偶然的なものを解明しない。倫理的な結婚観は、二人のまったく一回かぎりの人間がその非凡性において、どのように幸福になりうるかを示すのではなく、あらゆる夫婦がそれぞれにどのように幸福になりうるか、を示すのである。倫理的な結婚観は関係を絶対的なものと見なし、したがって、差別相を保証として把握せずに、課題として理解するのだ。倫理的な結婚観は関係を絶対的なものとみなし、かくて愛をその真の美にしたがって、すなわち、その自由にしたがってみまもり、歴史的な美しさを理解する
それゆえ、結婚それ自体が歴史的なのである。結婚はその始まりから、時間との関連において、また家族との繋がりにおいて生じる。それゆえ婚礼は、私的にはなく公的に、すなわち教会の公衆の面前で人類の歴史に関係して行われる。
結婚の幸福は、人生のすべてが重要性を持つことにある。美学的愛は、愛の対象にすべての注意を向けるが、それ以外のものには関心を払わない。しかし結婚においては、世間との具体的・現実的関係に対しても関心を持つ。そして、人生のすべての領域において、継続的な愛を持って愛することができる。B(ウィルヘルム)は、次のようにいっている。
私は判事として私の仕事を遂行し、私の天職に喜びを感じている。~私は妻を愛し、家庭にあって幸福である。私は妻の子守歌を聞く、すると私にはそれがほかのどの歌よりも美しいように思える。~私は赤ん坊の泣き叫ぶ声を聞くが、私には別に耳障りではない。私はこの子がすくすくと成長して行くのを見、喜びと信頼の心をもってその将来を見守り、少しもいらだたない。~私は祖国を愛しており、どこ他の国でもたいへん居心地よく感じるだろう、と想像することはできない。私は私の思想を分娩する母国語を愛し、私がこの世界で言いたいと思うことは何でも、母国語で立派に表現できることを知っている。
すなわち、自分の仕事や妻や家庭や子どもや祖国・母国語を愛している、という。また倫理的実存は、配偶者や子どもや仕事などへの愛と並んで、神をも愛している。これが、神に対する最も真なる愛なのである。美学的実存が、具体的な何かを選択しないことにより後悔するのに対して、倫理的実存は「あれか、これか」を具体的に選択することによって後悔する。この後悔が、自己の永遠の妥当性における自己自身を選ぶことなのである。人間の判断は、有限である。いくら倫理的に考えて選択しても、反省すれば必ず後悔が起こる。後悔は、倫理的実存の特質であり、また同時に倫理的実存の限界でもある。キルケゴールは、次のようにいっている。
さて、生きるための働くことがすべての人間の義務であるとする倫理的考察は、美学的考察に対して二つの長所を持っている。第一にそれは現実と一致していて、現実における普遍的なものを説明する。しかるに美学的考察は偶然的なものを持ち出して、何事も説明しない。次に前者は人間をその完全性にしたがって把握し、人間をその真の美しさにしたがって見る
それぞれの人間は、自己自身を選択することにおいて、普遍的なものに関係する。倫理的実存は、永遠的なものを普遍的なものとして選択しうるのであり、その最たる例が結婚なのだ。
アブラハムの背理
本書では、倫理的生と宗教的生との葛藤が問題とされている。その葛藤は、個人の内に宗教的な「おそれとおののき」を生じさせる。キルケゴールは、『旧約聖書』の創世記にあるイサクの燔祭のエピソードを例に挙げて、この葛藤を描出している。 アブラハムは、一人息子イサクを生贄として捧げるべし、という神の要求を受ける。アブラハムは、人間的・倫理的なものと神の要求に対する服従との間で、葛藤に陥る。この矛盾から「おそれ」の感情が生じる(つまりアブラハムは倫理的には殺人者であり、宗教的には聖なる行為をおこなったのだ)。神の要求へのアブラハムの服従は、無限の服従である。しかしアブラハムは、無限の服従をする一方で、神がイサクをアブラハムに返すであろうことを、信じている。キルケゴールは、次のように述べている。
アブラハムは信じた。彼は、いつかあの世において祝福されるだろうと信じたのではなく、ここ、この世において、幸福になれるだろうと信じたのであった。神は新しいイサクを彼に与えることができた。捧げられたイサクを蘇らせることができた。アブラハムは、背理なものの力によって信じたのであった。だって、一切の人間的な打算はすでにずっと前から停止していたはずだからである。
アブラハムは、有限なものを断念する。そして、背理なものの力によって信じ、それによって断念した有限なものを再び獲得する。
信仰なくして神を愛する者は、自己自身を反省し、信じて神を愛する者は、神を反省するのである。このような頂点にアブラハムは立っている。彼の視界から没する最後の段階は、無限の諦めである。彼は本当に一歩を進めて信仰に達するのだ。
信仰は、アブラハムがイサクを取り戻す、積極的な運動なのである。さらにキルケゴールは、現代の「信仰の騎士」についても述べる。信仰の騎士は、外見上は他の人々と同じである。なぜなら信仰と無限の諦めは、内面性の領域のものだからである。有限なものは、放棄されるのではない。信仰の騎士は、他の人間と同様に、有限なものに対して愛着を抱いている。それゆえ、この世のものとの断絶は、苦痛である。
キルケゴールによれば、信仰の騎士は、二つの運動をなしている。それは、無限の諦めと信仰の運動である。無限の諦めとは、「不可能なことを断念すること」である。"そして、「無限の諦めの中には平和と安息とがある」"。しかし、それ自体では信仰を構成しない。「無限の諦めは、信仰に先立つ最後の段階」なのである。したがって、次のようにいう。
この運動を行わなかった者は、すべて信仰も持っていない。なぜなら、無限の諦めにおいて初めて、私は私自身の永遠の価値を自覚するのだからである。そしてその時初めて、信仰によって人世をとらえることが問題となるからである。
この無限の諦めにある信仰の騎士について、キルケゴールは次のように述べている。
彼は彼の生活の内容であるところの恋を、無限の意味において断念する。彼は苦痛の内で和解している。しかし、ついで奇蹟がおこる。彼はなお一つの運動を、他の何ものよりも、不思議な運動を行う。つまり、彼はこういうのである。それでも、彼女が私のものになることを、私は信じます。それは、背理なものの力によってなのです。神にあっては、あらゆることが可能である、ということによってなのです。
それは、思いがけないことや意外なことと同一ではない。なぜなら信仰の騎士は、「不可能を知り、そして同じ瞬間に、彼は背理を信じる」からである。したがって信仰は、それに先立って、無限の諦めを持っているといえる。「信仰は心の直接的な衝動ではなく、人世の逆説である」といえる。それゆえ信仰と無限の諦めとは、区別せねばならない。無限の諦めとは、個人が有限性、すなわち現世に結びつけている一切の束縛を、断ち切ることである。この運動は、生への否定的関係である。
そして、信仰という第二の運動を通して、再び有限性に連れ戻される。こうして古人は、有限性の内に生きるのである。したがって信仰は、生への積極的な関係ということができる。
倫理的なものは、まさにそのようなものとして普遍的なものであり、また普遍的なものとしてすべての人に妥当するものである。これを他の面から言い換えると、いつ如何なる瞬間にも妥当するもの、ということである。
それゆえ、個人の倫理的課題は、普遍的なものを実現することである。個人が普遍的なものに対して自己の個別性を主張することは、罪を犯すことである。このことから、「倫理的なものの目的論的停止というものは存在するか?」という問が提出される。倫理的なものは、神の直接的な要求のために停止されうるのであろうか。アブラハムには、この停止がある。
アブラハムの行為全体は普遍的なものとは何ら関わりをもたず、純粋に私的な企てなのである。してみると、悲劇的英雄は、その人倫的な徳によって偉大であるのにアブラハムは、純粋に個人的な徳によって偉大なのである。
しかし、アブラハムの行為は、神の意志と関係している。そして倫理的なものが、その行為を止めようとする「試誘」となっている。この矛盾の中に、「宗教的畏怖」がある。
アブラハムのように、倫理的なものが停止されたとき個人は、如何に生きるのであろうか。アブラハムは、逆説の領域で行動した。すなわち、信じたのである。キルケゴールは、次のように述べている。
彼は信じたのである。これは逆説であり、この逆説によって彼は常に頂点に立っている。
アブラハムと神との関係は、個人的なものである。アブラハムは、神との絶対的関係のために、すなわち宗教的なもののために、倫理的なものを停止した。キルケゴールは、「彼は個別者として、普遍的なものよりも高いものになった」といっている。そして、ここに宗教的実存の一つの典型が見られるのである。
ある世代が他の世代から何を学ぼうと、どの世代も本質的に人間的なもの(essentialy human)を先の世代から学ぶことはない。〜本質的に人間的なものは感情であり、そこにおいてはある世代は完全に他の世代を理解し、おのれ自身を理解する。 本書の概略
『反復』において、青年はコンスタンティン・コンスタンティウスに対して、自分が一人の女性に恋しており、彼女も彼の愛情に応えてくれている、と打ち明けている。しかし、青年に憂愁の傾向が現われる。そして青年は、反復を発見しようと努める。「反復」とは、如何にして永遠的なものが瞬間に参入するか、また長くてうんざりする人生が如何にして克服されるかを、美学的に理解しようとする試みである。
美学的実存にとって反復は、現在において善なるものが、必然的に将来においても失われずに繰り返されることを意味する。青年は、自分は裏切り者と思われることにより婚約を破棄するため、コンスタンティンに手紙を送る。その手紙の中で、青年は自己の生のあり方を、ヨブ記についての討議を通して考察している。 ヨブは、主によって繁栄のもとにかえされ、すべてのものを二倍に増されます-これこそ、反復とよぶのです 青年は、ヨブが失ったものを二倍にして受け取ったこと、すなわち反復に注目し、自分が失ったものをヨブのように受け取れるであろう、と反復を期待する。しかし青年は、自分のかつての婚約者が結婚したことを知る。
かの女は、結婚しました。相手が誰であるか。ぼくは知りません。
反復は、精神的なものであり、この世のものではない。青年に戻されたものは、愛の対象ではなく彼自身だったのである。
人生はぼくにも、ぼくがより多く愛していたものを―つまり、ぼく自身を、あたえてくれました。
青年は、感性的なものの永遠化としての「反復」という救いを求めている。結果から見れば青年の態度は、自分のために婚約者を捨てているという点で、ヨハンネスとよく似ているといえる。しかしその根底には、自分から他者(婚約者)を解放してやることにより、自己も他者をも高めようとする利己心から、外に開かれた態度があるということは、大いに注目されるべきであろう。『反復』はヨハンネスとは異なる、婚約破棄の物語である。 不安は、たとえて言えば「目まい」(Svimmelhed)のようなものである。仮にある人がふと自分の眼で大口をひらいた深淵をのぞき込んだとすると、その人は目まいを覚えるであろう。ところで、その原因はいったいどこにあるのだろうか。それは深淵にあるとも言えるし、また当人の眼のうちにあるとも言える。というのも、彼が深淵を凝視することさえしなかったら、目まいを起こすことはなかったろうからである。これと同じようなわけで、不安は自由の目まいなのである。 人間は誰でも、人間であることに本質的に属しているものを本質的に所有していると仮定されなければならない。主観的思索者の仕事は、本質的に人間的(essentialy human)なものを、それがなんであれ、実存において明晰かつ明確に表明する道具へと自身を変えることである。