ポランニー
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伝統的諸社会
ポランニーは19世紀以前の伝統的諸社会を、人間にとって「自然で生来的な社会」として、文化人類学や古代社会研究などの成果を援用しながら、市場の存在しない「自然で生来的な伝統的諸社会」における経済を「互酬」「再分配」「家政」「交換」の四つに分類した(ただポランニーは後年の著書では、「家政」を除く三つを原理とした)。
自己調整的市場による進歩の荒地
『ミルトン』の序詩の第二節にある、"And was Jerusalem builded here / Among these dark Satanic Mills?"でウィリアム・ブレイクは、産業革命という技術の発展過程がもつ文化に対する破壊性を、ロゴスの力で生命を粉々にする「悪魔のひき臼」に例えている。それを引用し18世紀のコインの表裏を言い表す。 18世紀における産業革命の核心には、生産用具のほとんど奇跡的ともいうべき進歩があった。しかしそれは同時に、一般民衆の生活の破局的な混乱をともなっていた。この混乱は、今からおよそ一世紀前、イギリスにおいてその最悪のかたちをとって出現することになったが、われわれは以下の諸章で、この混乱のさまざまな様相を決定づけた要因の絡まりを解きほぐしてみようと思う。どのような「悪魔のひき臼」が、人間を浮浪する群集へとひき砕いたのか。どれほどのことが、この新しい物質的な条件によって引き起こされたのか。どれほどのことが、新しい条件のもとで現われた経済的依存関係によって生じたのか。そして、古くからの社会的な紐帯を破壊し、そのうえで人間と自然を新たなかたちで統合しようとしたにもかかわらず、結局みじめな失敗に終わったメカニズムとは、一体どのようなものであったのか。 伝統的諸社会と自己調整的市場社会の経済との決定的利害は、後者のように経済領域が政治や社会的諸関係から切り離されて自立的な領域になっているか、それとも前者のようにそれらが一体化しているかにある。なぜなら「経済的自由主義は産業革命の歴史を誤って解釈した。というのは、この思想は、社会的な事象を経済的観点から判断すべきであると主張しているからである」からであり、ポランニーは伝統的諸社会における「互酬」「再分配」「家政」の原理を「生産性の低い、野蛮で、時代遅れの非合理的な経済のもとに置かれた前近代的農業社会」であるとする通俗的な唯物論的進歩史観から脱却し、それら原理を自己調整的な市場「交換」原理とともに、人間社会の経済の土台を構成するものとして複眼的に検討したのである。まさにそれは「経済に埋め込まれた社会」といった誤認を解き「社会に埋め込まれた経済」に回帰させたのだ。それゆえドラッカーはこれを「真に総合的な経済理論」と評するのである。 https://scrapbox.io/files/656de15d3ad2de0023ca2069.jpeg
主題
いったん技術が市場システムを導くと、その制度的配置が経済についての人間の理想と価値観の中心にすわる。自由、正義、平等、合理性、法律の支配といった概念は、市場システムの中でもっとも隆盛を極めたように思われる。自由は自由企業を意味するようになり、正義は私有財産の保護、契約の擁護、市場における価格の自動的決定などの中心となった。個人の財産、財産収入および勤労所得、彼の持つ商品の価格は、まさにあたかも競争的市場において形成されているようにみえた。平等は、協力者として契約に参加するすべての人びとの無制限の権利を意味するようになった。合理性は、効率性と、最高度に発達した市場行為によって概括される。市場はいまや、そのルールが法律と同じような経済制度となり、すべての社会関係を財産と契約の基準の中に組みこんでしまった。近代的交換経済は、その範囲内に間接的であっても物質的諸手段に依拠する社会の全局面を含んでいる市場システムなのである。私たちの社会生活は、あれこれの物質的手段なしにはおくれないのだから、経済(または物の供給過程)を支配する原理が絶対者として考えられるようになってきた。
これらすべての誤謬の源は、交換を経済関係として位置づけたことであった。それはすなわち、物が手に入るところはどこでも〈供給〉という術語が有効であるとか、物が目的への手段として用いられるところではどこでも〈需要〉という市場用語が有効であるといった主張である。人間の世界はつねに市場制度に向かうシステムだと経済学者によって解釈されてきたが、そのことには薄弱な根拠しかない。実際には、交換以外の形態が、前近代世界の経済組織の中で行われていた。原始共同体においては、互酬性が経済の決定的特徴として現われるし、古代経済においては、中央からの再配分が広く行なわれている。