ウェーバー
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執筆背景
厳密に典拠として明記している訳ではないが以下の通有性がある
結論では宗教運動が本格的に経済的発展に影響を与えたのは「神の国を求める激情が次第に醒めた職業道徳へと解体しはじめた」ときであるとして、「バニヤンの巡礼者の内面的に孤独な奮闘に代わって、ロビンソン・クルーソー、つまり、同時に伝導もする孤立的経済人が姿をあらわしたときだった」という。
単純化して言えば、ヴェーバーはミルトンを「ピューリタンの神曲」として読んで、その現世生活に対する厳粛な態度を知り、バニヤンの描く「巡回者クリスチャン」を手掛かりにしてピューリタンの性格学的特徴を理解し、ピューリタンから資本主義の精神への途上にあるものとしてデフォーの『ロビンソン・クルーソー』を置いている。これらは全て同書に取り上げられ更に多様な情報源を得ている(詳細はエドワード・ダウデンのページに記載)。 /icons/白.icon
地上の生活のあらゆる利害関心よりも来世の方が重要であるばかりか、むしろさまざまな点で一層確実とさえ考えられていた時代において〜かならずや、信徒の一人びとりの胸には、私はいったい選ばれているのか、私はどうしたらこの選びの確信がえられるのか、というような疑問がすぐさま生じてきて、他の一才の利害関心を背後に押しやってしまったに違いない。
人々はこの救いの不安に駆られて「誰もが自分は選ばれているのだとあくまでも考えて、すべての疑惑を悪魔の誘惑として斥けること」、「日ごとの闘いによって、自己の選びと義認の主観的確信を獲得する」ことが勧められたという禁欲主義に繋がり、組織的自己審査を繰り返しつつ日常生活を作り上げる。 カルヴァン派の信徒は自分で自分の救いを「造り出す」のであり、しかもそれは、カトリックのように個々の功績を徐々に積み上げることによってではありえず、どんなときにも選ばれているか、捨てられているか、という二者択一の前に立つ組織的な自己審査によって造り出すのだ。
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内面的孤独化
この悲愴な非人間性をおびる教説が、その壮大な帰結に身を委ねた世代の心に与えずにはおかなかった結果は、何よりもまず、個々人のかつてみない内面的孤独化の感情だった。宗教改革時代の人々にとっては人生の決定的な事柄だった永遠の至福という問題について、人間は永遠の昔から定められた運命に向かって孤独の道を辿らねばならなくなったのだ。牧師も助けえない〜聖礼典も助けえない〜また教会も助けえない。〜最後に、神さえも助けえない、〜キリストが死に給うたのもただ選ばれたものだけのためであり、彼らのために神は永遠の昔からキリストの贖罪の死を定めてい給うたのだからだ。 内面的孤独化の感情に対する感覚文化の拒否
人間の内面的孤立化は、一切の被造物は神から完全に隔絶し無価値であるとの峻厳な教説に結びついて、一面で、文化と信仰における感覚的・感情的な要素へのピューリタニズムの絶対拒否的な立場の〜さらに、彼らのあらゆる感覚的文化への原理的な嫌悪の根拠を包含することになる
更にピューリタニズムにおいて神との「最も深い交わりは、制度や団体や教会の中にではなく、孤独な心の秘めごとの中にある」と指摘する。
特有な雰囲気がもたらす独自な影響を感得しようとするなら、ピューリタンの文献のうちでももっとも広く読まれたバニヤンの『天路歴程』の中でクリスチャン /icons/白.icon
脱魔術化と合理化
(近代的経済)秩序界は現在、圧倒的な力をもって、その機構の中に入りこんでくる一切の諸個人〜の生活のスタイルを決定しているし、おそらく将来も、化石化した燃料の最後の一片が燃えつきるまで決定しつづけるだろう。バックスターの見解によると、外物についての配慮は、ただ 「いつでも脱ぐことができる薄い外衣」のように聖徒の肩にかけられていなければならなかった。それなのに、運命は不幸にもこの外衣を鋼鉄のように堅い檻としてしまった。禁欲が世俗を改造し、世俗の内部で成果あげようと試みているうちに、世俗の外物はかつて歴史にその比を見ないほど強力になって、ついには逃れえない力を人間の上に振るうようになってしまったのだ。今日では、禁欲の精神は〜この鉄の檻から抜け出してしまった。ともかく勝利をとげた資本主義は、機械の基礎の上に立って以来、この支柱をもう必要としない そもそも鉄の檻が人間を閉じ込めてしまうのは、禁欲の精神が失われてしまったから。従って、自らの内面を支えていたエートスを希薄化させた人間が、この鉄の檻を支えているのである。 ここには人間がもたらした二重のパラドックスが存在している。合理化をすすめた人間は「禁欲の精神からの解放」をもたらしたが、逆にまた、この合理性によって、人間自身が拘束されてしまったのである。この両義性こそが近代という時代を特徴付けている。
宗教を徹底的に合理化して魂の救済のために最も合理的な行為をする
この段階での脱魔術化は上記である。そのため脱宗教化や世俗化ではない
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/icons/bard.icon 脱魔術化の見田宗介解釈(引用) 脱魔術化はEntzauberung(エントツァウベルング)という原語です。
Ent-というのは、これ自体微妙な接頭辞ですが、ここではふつうに「離れてゆく」「脱する」「遠ざかる」という意味。
Zauber(ツァウベル)という言葉が大切で、魔術、呪術という意味と同時に、英語のcharm(チャーム)に当たる意味、「魅力」とか「魅惑」という意味もある。
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この言葉を、シラーが用いたEntzauberungderel(世界の脱魔術化)から援用する。 シラーの詩で世界中で最もよく知られているのは、ベートーベンの第九交響曲の第四楽章の主題となっている、有名な混声四部合唱の部分。これは「歓喜に」というシラーの詩をベートーベンがこの最後の交響曲の主題として選んで作曲したもの 上記詩の内容が「時代の流れがきびしく分断したものが、再び結合する。すべての人間は兄弟になる。」という理念をうたったもの
この詩の中でZauber(ツァウベル)が、キーワードとして、要の位置に立っている。以下詩の訳
おまえの「歓喜」の魔術(Zauber)は、時の流れがきびしく分断したものを、もう一度結び合わせる。おまえのやわらかな翼が停まるところでは、すべての人間は兄弟になる。
シラーはZauberを、人間と人間とを結び合わせる、ふしぎな力としてうたっており、それがピューリタンの精神によって「脱(Ent-)」っしているという意味を込めたのではないか
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「鋼鉄のように硬い殻(stahlhartes Gehäuse)」を「鉄の檻(Iron Cage)」と英訳され、日本でもしばしば用いられてきた 1919以降 ミュンヘン大学にて教鞭
(以下は講義ノートを元にした著書の一部)
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学問の社会彫刻論
実際に学問上の仕事を完成したという誇りは、ひとり自己の専門に閉じこもることによってのみ得られる〜これはたんに外的条件としてそうであるばかりではない。心構えのうえからいってもそう〜隣接領域の縄張りを侵すような仕事には一種のあきらめが必要である。学問に生きるものは、ひとり自己の専門に閉じこもることによってのみ、自分はここにのちのちまで残るような仕事を達成したという、おそらく生涯に二度とは味われぬであろうような深い喜びを感じることができる。いわばみずから遮眼革を着けることのできない人や、また自己の全心を打ち込んで、たとえばある写本のある箇所の正しい解釈を得ることに夢中になるといったようなことのできない人は、まず学問には縁遠い人々である。
重要性はある種道具である
ある研究の成果が重要であるかどうかは、学問上の手段によっては論証しえない。それはただ、人々が各自その生活上の究極の立場からその研究の成果がもつ究極の意味を拒否するか、あるいは承認するかによって、解釈されうるだけである。
自然科学においては、学者はただ学問それ自体に奉仕するべきであり、そこから「世界のあるべき姿」を導こうとする試みは控えなければならない。社会科学においても、自然科学と同様の態度が求められ、とりわけ政策は教師が学生に対して自分の価値観を強要することがあってはならない
一方では事実の確定、つまりもろもろの文化財の数学的あるいは論理的な関係およびそれらの内部構造のいかんに関する事実の確定ということ、他方では文化一般および個々の文化的内容の価値いかんの問題および文化共同社会や政治的団体のなかでは人はいかに行為すべきかの問題に答えるということ、—このふたつのことが全然異質的な事柄であるということをよくわきまえているのが、それである。
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このことは世界の脱呪術化ということにほかならない。こんにち、われわれはもはやこうした神秘的な力を信じた未開人のように呪術に訴えて精霊を鎮めたり、祈ったりする必要はない。技術と予測がそのかわりをつとめるのである。そして、なによりもまずこのことが合理化の意味にほかならない。 /icons/白.icon
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(以下は、邦訳出版された部分訳での題名の一部)
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「社会・経済的なもの」とは
我々の肉体的な生存は、我々の最も精神的な欲望の充足を図る場合と同様に、生存に必要な外的な手段の量的な限界と質的な不足にいつも出会うということ、また、これらの手段を充足させるためには、前もって計画的な準備と、労働の必要、また自然への闘いや人々の結合さらには組織化が必要だということ、これらのことは、不正確さを厭わず表現すれば、我々が最も広い意味で「社会・経済的」と名づける現象のすべてに結びついている基礎的な事実なのである。 そしてその社会経済的なものの条件づけを下記のように述べる。
ある事実を「社会・経済的な」現象だとする、その性質は、〜次のことによって条件づけられるのである。つまり、我々が個人の具体的な場合に当該事象に特殊な文化意義を付与し、その結果、我々の認識関心は、その事象のうちの〔この付与した〕ある部分に照準を合わせて、この照準によりあの〔社会・経済的な〕性質は条件づけられるのである。
続けて社会科学のポジションをこう述べる。
人間生活の諸事象をそれらのもつ文化意義という観点から考察する、そのような学科を「文化科学」と呼ぼうというなら、我々の意味における社会科学は、この範疇の中に入るのである。 社会科学の描く限界
我々が研究しようとする社会科学は、一つの現実科学である。我々は、その中に、我々が組み入れられているところの、我々をとりまく生の現実を、その独自性において理解し、−つまり一方ではその現実が現にある姿で現れているその全体の中で個々の現象のもつ連関とその現象のもつ文化意義とを、他方では〔意義をもつ〕その現象が歴史事実としてかくなってそれ以外のものとはならなかったことの〔因果上の〕根拠を理解しようとするのである。
そしてそんな現実科学の現実である、部分的な描写という前提条件を述べる。
そんな絶え間なく流動的な編成をしている生から、生を享ける文化を下記であると示す。
そしてその文化を私たちが認識するプロセスにおいて「文化認識が価値理念によって制約されていること」を述べる
測りきれない出来事の流れは永遠に向かって果てしなく流転している。人間の心を動かす文化の諸問題は生ずるたびに常に新たに前とは異なる色彩をもって構成され、こうして、個別的なもののあの同様に無限な流れの中から、我々からみて意味と意義とを〔新たに〕獲得するもの、つまり「歴史的個体」となるものの範囲もまたいつまでも流動的であり続けるのである。〔人間にそのときどきに生ずる〕思想のまとまりの下で歴史的個体は考察され、科学的に把握される、そういうまとまりが変化するのである。〜それらの諸観点は、多数で特殊個別化され、互いにしばしば異質的でしかも一致しないものなのであって、以上のような諸観点の体系化を図ると、かかる観点の羅列が絶えず生じてくるだけであろうから。