ハイエク
https://scrapbox.io/files/65eecac108b3720025c8edcb.png
@立教大学にて
「計画」概念の合理主義的系譜
ここでハイエクは「計画」について論じるわけだが、それは決して「人生を思慮深く秩序づけるためには行動しはじめる前に目的にかんするはっきりとした構想をもつべき」などといった話ではあるまいし、「あらゆる競合する目的に対して資源の利用計画を行う」という「経済活動」の意味ではない。
一九二〇年代から一九三〇年代に、この良い言葉が、より狭くより特殊な意味で広くつかわれるようにな った。この言葉は、一人一人が自らの経済活動を聡明に計画するというのではなく、われわれの経済活動すべてが中央当局によって決定された単一の計画に従って集中的に管理されるべきだと要求する際の、定着した宣伝文句となってしまったのである。その結果「計画」は、集産主義による中央計画を意味することとなり、計画するか計画しないかの議論はもっぱらこの問題に関係したのである。
そしてこうした「現代の社会主義、計画、全体主義などはすべて、この種の社会的合理主義または設計主義から派生する」とする。では「社会的合理主義または設計主義」とはどういった系譜なのか。ハイエクは「16世紀から17世紀になって初めて、とくにフランスの哲学者ルネ・デカルトがその主要な主張を系統的に定式化したことからはじまる」とする。ハイエクによると、それ以前の「中世の思想家」は「文明の制度の多くが、理性によって発明されたものではなく、いっさいのつくりだされたものとは明確に区別して彼らが「自然の」と呼ぶもの、つまり自生的に発生してきたものだ、ということを十分に承知していた」とする。一方デカルトらは異なると下記のように論ずる。
文明の制度の多くが、人間の意図的な設計の産物ではないのだということを実際に認識していた、このより古い自然法の理論に対抗して、フランシス・ベーコン、トマス・ホッブズ、とくルネ・デカルトらの新しい合理主義は、 人間の有益な諸制度すべては意識的な理性の意図的な創造物であり、またそうであらねばならないと主張したのだった。この理性は、デカルト主義者たちにとって、幾何学的精神(esprit geometrique)つまり、明らかで疑問の余地のない数少ない前提から演繹的な方法によって真理に到達する知性の能力と考えられていた。この種の素朴な合理主義にたいするもっともふさわしい用語は合理主義的設計主義(rationalist constructivism)であるように思う。それ以後、技術的領域における成果がいかに偉大であったとしても、社会的領域において数えきれない害をもたらしたのはこの考えなのである。 こうした合理主義的設計主義は「自分がなにをしているかを完全に知ったうえで人間は、自らの理性のプロセスによって設計が可能になる文明と社会秩序を意図して創造すべき」とか「可能な帰結群のなかで他のどれよりも自分が好む結果群が実現されるように制度を形成する力が、われわれにはある」とか「すべての要素について意識的な考慮を働かすなら自生的プロセスの帰結とは異なる帰結を好ましいものにできるとき、理性は決して自動的または機械的な方策に頼ってはならない」などといった仮定を教義として社会に相対するのだ。
デカルト的合理主義の典型的な見解は、どこまでも〜先に存在している理性が制度を設計する、と主張する〜「社会契約」論から法は国家のつくりだしたものであるという見方、つまり人間が制度をつくったのだから思いのままに変えることができるのだという見方にいたるまで、近代的考え方にはすべて、この伝統から生まれた発想が広く浸透している。
デカルトではなくヒューム
こうしたデカルト的合理主義の姿勢ではなく、ハイエクは「子どものとき、明示的に知るわけではないルールに従って言語をつかうことを学ぶように、言語とともにわれわれは、言語のルールに従って行為することだけでなく、世界を解釈したり適切に行為したりするための他の多くのルール―明示的に定式化したことはないのにわれわれを導くルール―に従って行為することを学ぶのである。この暗黙の学習という現象は明らかに文化伝達のもっとも重要な部分である」というヒューム的立脚点にたつ。
私がここで言及した事実はおそらく、われわれの思考すべてにおいて、われわれは自覚しないさまざまなルールによって導かれている(あるいは操られてさえいる)ので、意識的理性はつねに、行為を決定する状況の一部しか考慮できない、ということを意味している。理性的な思考はわれわれを導くもののなかの単なる一要素に過ぎないということはもちろん長いあいだ理解されてきたことである。そのことはスコラ学の「理性は裁判官ではなく道具である(ratio non est judex, sed instrumentum)」という格言のなかに表現されていた。ただし明確な自覚は、デイヴィド・ヒュームによる(彼の時代の設計主義的合理主義にたいして向けられた)「道徳のルールは理性の結論ではない」ことの論証によって初めて登場した。もちろんこのことはすべての価値に当てはまる。価値は目的であって、理性は価値に仕えるがそれを決めることはできないのである。〜理性は、われわれの前にある選択肢がなんであるのか、対立している諸価値はなんであるのか、そのなかでどれが真に究極的な価値でありどれが、よくあるように、他の価値に仕えることによってその重要性がでてくるような単なる中間的価値であるのか、を分かるようにするだけなのである。しかしながら、一度この作業が終わってしまうと、理性はそれ以上助けとはならない。理性は、自分がそれに仕えることになっている諸価値を、所与のものとして受けいれるしかないのである。 ヒュームは、道徳ルールをつくることについて「理性それ自体はまったく無能なのだ」とあれほど強調したのだが、同時に、だれもこの目的のために発明したわけでも設計したわけでもない道徳や法のルールに服従することは、社会において人びとがさまざまな目的を成功裏に追求するために必要不可欠なのだ、とも主張した。〜この点にかんしてなによりもヒュームが強調したのは、個々の行為が便益上の根拠で―つまり、ある特定の行為がもつすべての具体的帰結を明示的に考慮することによって―決定される状況と比較して、たとえそのルールの重要性を理解しないままであっても各メンバーが同じ抽象的ルールに従う場合に結果として生じる秩序の方が優越する、という点であった。ヒュームは、具体的な行為の認識可能な功利性には関心を向けず、そのルールに従うことによって生じると分かっている直接の結果が望ましいものでない特殊な場合も含めて、一定の抽象的ルールを普遍的に適用する際の功利性だけに関心をもつ。その理由として彼は次の点を挙げる。まず、人間の知性は複雑な人間社会の細部をすべて理解するにはまったく力不足だという点。次に、そのような秩序を細部にわたり整えるについて理性がもつこの欠陥ゆえに、われわれは抽象的な諸ルールで満足せざるをえないのだという点。さらに、社会が成長する過程で発展してきたそのようなルールは、どの個人の精神が獲得できるよりも多くの試行錯誤の経験を内包しているので、最適の抽象的ルールを発明することができるような能力はどんな一人の人間知性にもないのだという点、である。エルヴェシウスやベッカリーアといったデカルト的伝統を受け継ぐ著者、あるいはベンサム、オースティンからムーアにいたるイギリスの後継者たちは、代々続く世代によって進化発展してきた抽象的ルールに埋めこまれている功利性を探求する「一般主義的功利主義(generic utilitarianism)」を、あらゆる行為はすべての予見可能な結果にたいする完全な自覚の下で判定されるべきだということを究極的な帰結としては要求することになる個別主義的功利主義(particularist utilitarianism)に変更した。これはつまり、遂にはすべての抽象的ルールなしで済ますこと向かい、すべての関連する事実を完璧に知ったうえですべての部分部分を具体的に整えることによって人間は望ましい社会秩序を手にすることができるのだという主張へと導く考えである。したがって、ヒュームの一般主義的功利主義が、理性の限界にたいする認識に依拠しており、抽象的ルールへの厳密な服従から理性の最大限の利用が得られることを期待するのにたいして、設計主義的な個別主義的功利主義は、理性に複雑な社会の細部をすべて直接操る能力があるのだという信念に依拠しているのである。 ギリシア的誤謬
人は人類の文明とその制度を「創造した」といういまや広く流通しているフレーズは、どちらかといえば無害であり当たり前のようにも一見見えるかもしれない。しかし、よくあることだが、人は理性を授けられているがゆえにこれが可能であった、という意味にその言い回しが拡張されるやいないや、それが暗示するものは疑わしいものとなる。人は、文明以前には理性を有していなかったのである。文明と理性、この二つは共に進化した。
こうした文明と理性の「恒常的な共通の相互作用」による共進化の最たる例として「言語」を挙げる。
つまり言語も道徳も法も技術も自生的な側面が存在するのだ。こうした問題は「ギリシア人が導入した「自然的」形成と「人為的」形成の二分法こそが、2000年ものあいだその議論を支配してきた」のである。そして、この二分法は「単に曖昧なだけでなく、明確に誤っている」。
社会的形成物の大部分は、人間による行為の結果ではあっても設計の結果ではない。このことの帰結として、それらの形成物は、伝統的なこの二語の解釈に従えば、「自然的」とも「人為的」とも記述できることになるのである。
設計主義者たちがそうした遠大な帰結と要求を導きだす、事実として誤っている主張とは、次のものであるように見える。すなわち、近代社会の複雑な秩序は、人びとが行為において先見の明―原因と結果との関連の洞察―によって導かれるという事情にもっぱら依拠している、あるいは少なくとも、 その秩序は設計を通じて生じえたのだ、というものである。私が示したいのは以下の点である。人びとは行為において、知っている具体的手段と欲求している目的との因果的繋がりについての理解のみによって導かれるなどということは決してなく、ほとんど意識せずまったく意図的に発明したわけでもない行為ルールによっても同様に導かれているのだが、そのルールの機能と意義の識別は科学的努力によっても非常に困難で部分的にしか成しとげられない仕事なのである。違ったかたちで表現すればこのことは、理性的な努力(マックス・ウェーバーの目的合理的行為)の成功は、諸価値を守ることに大いに依存しており、諸価値が社会で果たす役割は計画的に追求される目的の役割と注意深く区別されるべきだ、ということを意味する。 規則-遵守的動物
ここでハイエクはルールの淘汰という新たな社会秩序の次元を論ずる。
目下論じているルールは、遵守する個々人にとって有益であるというより、(もし一般的に遵守されれば)その集団の全メンバーをより効果的にするようなルールである。そうなるのはこうしたルールが、社会秩序のなかで行為する機会をそれらメンバーに与えるからである。こうしたルールはたいてい、さまざまな特定の目的のためにさまざまな手段を意図的に選択した結果ではなく、淘汰の過程の結果なのである。この過程においては、自らの優越性がなにを原因としているかを往々にして知らないまま、より効率的な秩序に達した集団が他集団にとって代わる(もしくはそうした集団が他集団に模倣される)。こうした社会的なルールには、法、道徳、慣習など―実際、社会を統制してい るすべての価値―のルールが含まれている。〜この意味で、人間は目的-追求的であるだけでなく、規則-遵守的な動物でもある、ということは最近の文献においても繰り返し強調されている。
そしてそうしたルールを三つに区分する。
①
単に事実として守られているだけで、これまで言語化されたことがないようなルール。たとえば「正義感覚」や「言語をつかうときの感じ方」について語るとすれば、われわれは適用できるが明示的に知っているわけではないルールを問題にしている。
②
すでに言語化されているのだが、それでも、ずっと以前から行為において一般的に守られてきたものをおおよそ表現しているに過ぎないようなルール。
③
意図的に導入され、したがって必然的に、文になった言葉として存在しているようなルール。
設計主義者はどうやら③のルールのみを「妥当なものとして受けいれたがるのである」。
世代から世代へと引き継がれるこの種の「世界の知識」の大部分は原因と結果の知識ではなく、行為ルールから成りたっている。それらのルールは環境に適応しており、その環境にかんしてなにかをいうわけでないのに、それにかんする情報のように働くのである。それらは、科学の理論と同じく、自らの有益さを証明することによって保持されているのであるが、科学の理論と対照的に、だれも知る必要がない証拠によって保持されている。というのもその証拠は、それが可能にする社会秩序の弾力性と進歩的発展において自らを顕現するからである。これは、受け継がれた制度に体現されている「先人の知恵」という、ときにひどく嘲笑されがちな観念が真に意味することである。それは保守思想において重要な役割を演じるが、設計主義者には意味のない空疎なフレーズに見えるのである。
これはまさに経済の市場システムが代表であり、それをサイバネティクスと紐付けて論じる。 市場の秩序は、奇蹟の結果でもなければ諸利益のなにか自然的な調和というものでもない。さまざまな個人による別個の自発的活動をそのような秩序の形成へと導く複数の行為ルールを、何千年ものあいだに人びとが発達させることによって、市場の秩序は自ずと出来上がるのである。これについての興味深い点は、人びとが、実際にはこうしたルールの機能を理解することなしにそれらを発達させた、ということにある。〜サイバネティックスより200年前に自己制御システムの本質を理解したことは、経済理論の偉大な成果であった。そのようなシステムにおいては、諸要素の行動がもつ一定の規則性(というより「制約」という方がよいかもしれない) が、はじめは別個の要素にだけ影響しながら、包括的秩序が多様な個別的事実に恒常的に適応してゆくことへと導くのである。そうした秩序は、だれか一人がもっているよりずっと多量な情報の利用へと導くのであって、「発明される」ことなどありえなかった。それは、その結果が予見可能ではなかったという事実から論理的に導けることである。 われわれの祖先のだれも、所有と契約の保護が広範な分業、専門化、市場の確立へと導くものであることを知りえなかったし、同部族のメンバーにたいしてのみ当初は適用されたルールをよそ者へと拡張することが、世界経済の形成に導くであろうことも知りえなかったのである。
こうした自生的秩序論を持って人間の当為を明らかにする。
第二章 コスモスとタクシス
外生的秩序と内生的秩序の違い
まず理論を整備するために本章で用いられる概念を整理する。
各種の秩序を叙述するのに利用できる用語がいくつかある。外生的秩序ないし配置として先に言及したつくられた秩序は、構築物、人工的秩序、あるいは指令的社会秩序を処理しなければならないときにはとくに、組織と叙述されよう。一方、先に自己増殖的あるいは内生的と述べた成長した秩序は、英語では都合よく自生的秩序と叙述される。古代ギリシャ人はこれら二種類の秩序を表現するのに明確な単独の単語をもっていたという点でいっそう幸福であった。すなわち、戦場の秩序のようなつくられた秩序を表わすタクシス(taxis)と、もともと「ある国家や社会における正しい秩序」を意味する、成長した秩序に対応するコスモス(cosmos)がそれである。 第一に、タクシスとコスモスの違いとして「複雑性」を挙げる。タクシスはその性質上「比較的単純であるか、少なくとも作り手が見ればわかるくらいの中程度の複雑性に必ず限定されている」。が、コスモスは異なる
自生的秩序はつねに複雑とはかぎらないが、人間的配置と違って、どのような程度の複雑さにでも到達できる。われわれの主な主張の一つは、人間の頭脳が確かめたり操作できる以上に数の多い特定事実から構成される非常に複雑な秩序が、自生的秩序の形成を誘う諸能力を通じてのみもたらされうる
次に「実用性」である。タクシスは「作り手の目的に必ず役立つのである(一度は役立ったのである)」が、コスモスはそうとは言えない。
つくられたものでないがゆえに、それは当然特定の目的をもつとはいえない。ただし、われわれがその存在に気づくことは異なる多様な目的を首尾よく追求するためにはきわめて重要である。〜その秩序は外部の主体によってつくられたのでないから、なんの目的ももつことはできない。もっとも、その存在はその秩序内で行動する個人には非常に役立つかもしれない。
デカルト的な合理主義的設計主義の祖たるアリストテレス、アダム・スミスに還れ!
意図をもって考えぬかれたデザインと計画が社会の自生的な力よりも優れているという信念がヨーロッパ思想に流れこんだのは、はっきりとした形ではもっぱらデカルトの合理主義的設計主義をつうじてである。しかしその源泉は 古代ギリシャから受けつがれた古くからの誤った二分法にあり、今なお社会理論と社会政策がもつ固有の課題を適切 に理解することにたいして最大の障害となっている。これはあらゆる現象を、「自然的」なものと「人為的」なものに誤って区分する。すでに紀元前五世紀のソフィストたちがそうした問題に取りくんで、制度や慣習を「自然によるもの」(physei) あるいは「取りきめによるの」(theseiもしくはnomō)の一方に帰すのは誤った二者択一であると述べていた。にもかかわらず、アリストテレスがこの区分を採用したことで、それはヨーロッパ思想の不可欠な一部となったのであった。 ただここでハイエクはもう三つ目の区分の必要性を問う。
一つは人間行為から完全に独立しているという意味で「自然による」現象、二つ目は人間の設計の産物という意味で「人為的」もしくは「取りきめによる」現象、三つ目は、そのあらゆる意図せざるパターンや規則性を含む独自の中間的カテゴリーである。
「神の見えざる手」によって「人は自分のまったく意図していなかった目的を促すように導かれる」というスミスの表現には、理解力のない後の世代からの嘲笑が浴びせかけられたが、しかしその背景には、あらゆる社会理論の対象となるこうした深い洞察を隠しもっていた。〜スミスによる定式化への反発にたいしては、それなりに理解できる面もある。というのも、彼が自生的に形成した秩序が考えうるかぎりの最良の秩序でもあることをあまりにも自明なものとしたうえで、その定式化を取りあつかった嫌いがあるからである。けれども、われわれ全員が利益を得ている複雑な社会における大規模な分業の進展は、計画ではなく自生的な秩序化を進める力によってのみもたらされうるという彼の暗黙の想定はおおむね正しかった。 法学で根を張る合理主義的設計主義観
こうしたパースペクティヴはハイエクによると「理論的社会科学においては、こうした洞察が確立した」とするが、一方で「法学」、特に「法実証主義」者の誤謬は未だ健在であるとする。
法実証主義という、この分野において哲学的な優位を占める考え方は、正義のあらゆるルールを意図的な発明もしくは設計の産物とみなす、本質的に擬人主義的な見解に依然としてしがみついている。〜法は立法者が意図したものにすぎず、法の存在は立法者の意思が前もって表明されていることを前提としているという考え方は双方とも現実には誤りであり、さらに実現することも不可能である。法は立法行為どころか、組織体としての国家よりも古くから存在する。