丸山眞男
日本でこうした社会環境に対する危機意識を鋭敏に受け取っていたのが日本社会の「歴史意識の古層」を「つぎつぎとなりゆくいきほい」と表現した丸山員男であった。かれは、次のように指摘している。(引用) 経験的な人間行動・社会関係を律する見えざる「道理の感覚」が拘束力を著しく喪失したとき、もともと歴史的相対主義の繁茂に有利なわれわれの土壌は、「なりゆき」の流動性と「つぎつぎ」の推移との底知れない泥沼に化するかもしれない。現に、 「いま」の感覚はあらゆる「理念」への錨づけからとき放たれて
こうした基礎的な時間感覚を前提とする限り、人生の意味も歴史の意昧も徐々に失われていくことになるだろうとして下記のように評する。
「いま」の肯定が、生の積極的価値の肯定ではなく、不断に移ろいゆくものとしての現在の肯定である限り、肯定される現在はまさに「無常」であり、逆に無常としての「現在世」は無数の「いま」に細分化されながら享受される。「なりゆく」ものとしての現在は、次の「いま」の到来によって刻々過去にくり入れられるので、 「いま」の肯定なり享受なり、たえず次の瞬間―遠い未来でなく―を迎え入れようとする一種不安な心構えとして現われざるをえない。~こうして、「来世」が次の瞬間として、つまり「今の世」の線的な延長のうえに観念されるならば、きわめて淡白に、また突然に死を選ぶ行動も生まれるであろう