リオタール
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序
科学と物語とは、元来、絶えざる葛藤にある。科学の側の判断基準に照らせば、物語の大部分は単なる寓話に過ぎないことになる。ところが、科学が単に有用な規則性を言表することにとどまらず、真なるものを探求するものでもある限りは、科学はみずからのゲーム規則を正当化しなければならない。すなわち、科学はみずからのステータスを正当化する言説を必要とし、その言説は哲学という名で呼ばれてきた。このメタ言説がはっきりとした仕方でなんらかの大きな物語―《精神》の弁証法、意味の解釈学、理性的人間あるいは労働者としての主体の解放、富の発展―に依拠しているとすれば、みずからの正当化のためにそうした物語に準拠する科学を、われわれは《モダン》と呼ぶことにする。(...) 正義もまた、真理と全く同じ資格で、大きな物語に依拠するようになる。 つまりはヘーゲルの絶対知或いはマルクスの共産主義革命などといった大きな物語に依拠した上で科学を正当化する、そうした科学の在り方を《モダン》というのだ。そして、これは「高度に発展した先進社会における知の現在の状況である」、「《ポスト・モダン》」とは異なる。それはなぜか 極度の単純化を懼れずに言えば《ポスト・モダン》とは、まずなによりも、こうしたメタ物語に対する不信感だと言えるだろう。この不信感は、おそらく、科学の進歩の結果である。だが、同時に、科学の進歩もまたそうした不信感を前提としているのである。このような正当化のメタ物語機構の衰退には、とりわけ形而上学としての哲学の危機、そしてそれに依存していた大学制度の危機が対応している。(...) こうして到来しつつある社会は(構造主義あるいはシステム理論が示すような)ニュートン的人類学に属するよりは、むしろ一層、分子論的な言語行為論に属しているのだ。多くの異なった言語ゲームがあり、すなわち言語要素の異質性がある。これらの言語要素が制度を生み出すとしても、それはそれぞれの個別面に応じてでしかない。それはローカルな決定論である。 これに対し訳者が良い補論をしてくれている。―リオタールが言うように、それがドイツ観念論において完成される《精神の生》のタイプの物語であれ、またフランス大革命の《啓蒙》の思想を直接に受け継ぐ《解放》のタイプの物語であれ―、《大きな物語》(マクロ・ミュトス)による正当化を失い、資本のシステムを支える《技術としての知》となり、《効率》の判断基準に決定的に従属することになるのである。