スピヴァク
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フーコーとドゥルーズの批判
スピヴァクの矛先は、まずはフーコーの主張する「異種混合生」をのべるだけでは解決しえない第三世界を搾取したうえになりたつヨーロッパ的な言説的位置どりに向けられるが、理論的には、représentationというフランス語が、表象と代理という「二重性」をもつことが看過され、いわば政治性を脱色した「表象」という論脈でしかもちいられていないことが焦点化される。 それは、サバルタンの声を「誰が代理して」語る権利があるのかが、「語ることができるか」というサバルタンの問いにつきまとうがゆえに、重要な語義の二重性をなす。同様の二重性については「パリンプセスト」[下の文字を消して、上書きをする羊皮紙](Spivak 1994:76)への言及もあげられる。また「序文」では、同様の機能をもつフロイトの「マジック・メモ」にも論及されている(Spivak 1976:lxvi)。これらは、記憶の「書き換え」が最後でおおきな論点になることからみても重要である。 そうした二重性を論じる際に、スピヴァクはデリダの『散種』に所収された「二重の会」を参照し(Spivak 1994:74)、そうした読みを補強する。この側面についてはのちに詳しくみていくことにする。 さらに『サバルタン』の最後の部分、サティ=寡婦殉死という、夫を失った女性が、夫の火葬の火に飛びこみ自殺する儀礼を分析する場面で、これをイギリス植民地政府が「野蛮な行為」であるとして禁止することを検討する際に、こうした二重性は、錯綜しつつも効果的に提示される。 すなわちスピヴァクはイギリス植民地政府によるこの禁止を、まずは「白人の男性たちが茶色い女性たちを茶色い男性たちから救いだしている」と定式化し、さらに同時にその裏にヒンディ側の「女性は望んで死んでいった」スピヴァクにおける読解の「二重性」という戦略について:檜垣立哉 31 という言説の構築をみる(二重である)。そしてこの事態に、フロイトの「子供が叩かれている」という論考をあえてかさねて読む(二重に読む)のである。 「白人の男性たちが茶色い女性たちを茶色い男性たちから救いだしている」という言明自体が、相当に複雑な論脈をもつことはいうまでもない。サティの儀礼は女性に対する虐待でもあり、スピヴァクはフェミニストとして、これに賛成するわけではない。そして多くの場合、財産を相続する女性たちが親族によってこの風習で殺される(財産はほかの親族の男性たちに分配される)事実に言及し、サティが殺人行為でありうることを指摘する。しかし同時に、そこで「茶色い女性」を救いだす「白人の男性」たち、すなわちイギリス帝国主義の植民地的「暴力」を裏に秘めた「善き社会」を目指す者たちの行為を、スピヴァクは肯定するわけでもない。こうした点は、一面ではヒンドゥ的な「家父長制」社会の代表者(したがって、西欧フェミニストにとって批判の対象である)マハトマ・ガンジーの、ヨーロッパ植民地主義に対する彼の「無抵抗主義」(断食)に対し、スピヴァクが両義的な姿勢をとることにもかかわる。こうした場面では、一義的には何もいえないのである。 アメリカで学び、同時期の欧米のフェミニズム理論も自らのものとし、ジュディス・バトラーや、のちにニュー・マテリアル・フェミニズムを展開するエリザベス・グロスともかかわりのあった(7)スピヴァクにとって、もちろん欧米のフェミニズムは、インドの女性たちを救うものでもありうる。ただし同時に、そうした思想そのものが「植民地主義のもと」になりたち、インド社会を「野蛮」とする視点に貫かれていることは、インド出身(国籍もインド)のスピヴァクにとって看過できることではない。ポスト・コロニアルの議論の根幹に触れるこの問いを、欧米のフェミニズムやフランス現代思想に通暁し、インド出自でもあるスピヴァクが、いわばもっとも剥きだしのかたちで提示したことが、『サバルタン』を現代思想の必読文献たらしめた理由でもある。ここでこの問い自体が、欧米のフェニミズムと植民地主義という「二重性」のさなかにたち現れていることを、まずは確認しておくべきだろう。
/icons/wikipedia.icon アナーキストとの差異
「サバルタン」というのは、単に被抑圧者たちや、大文字の他者や、パイの分け前にあずかれない誰かを指す上等な言葉ではない。〜ポストコロニアル理論の術語としては、誰であれ何であれ、文化帝国主義への接近が限られている、あるいは拒まれているものはサバルタンであり、そこには異なる空間が存在する。それ(サバルタン)は単に抑圧されている者のことだ、というような人はいるのだろうか? 労働者階級は抑圧されている。しかし、彼らはサバルタンではない。〜いろいろな人々が、自らのサバルタンとしての位置づけを主張する。そうした人々は、ほとんど関心を引くような存在ではないし、最も危険なのだ。つまり、大学のキャンパスでマイノリティとして差別されている、というだけでは「サバルタン」という言葉は必要ない。〜そうした人々は先ず、差別の仕組みがどのようなものなのかを理解しなければならない。彼らはパイの分け前をめぐるヘゲモニーの言説の内にあって、分け前にあずかっていないということであり、自ら声を上げてヘゲモニー言説を述べればよいのだ。そうした人々は、自らをサバルタンと称すべきではないのだ。 https://scrapbox.io/files/6538c09d72de7d001be713a6.png
ヨーロッパ諸国民の言語に基礎を置いた比較文学の植民地主義と、地域研究の冷戦フォーマットを、わたしたちは内部からこじあけるべく、努めねばならず、フィールドの経験を欧米モデルのアカデミックなコードへと変換するのではなく、そうしたヨーロッパ的な知の枠組みから解き放つことが大事であると考える。
デリダは、彼の本で幾度となく、テレオポイエーシス−逆転を正当化するのではなくて、むしろ、遠く隔たったところからつくり出す−という示唆に富んだ概念を持ち出している。
そして、そのためには、とりわけ比較文学は、文学に本来的な能力である想像的創作の能力を発揮してデリダのいうテレイオポイエーシスを試み、「ヨーロッパの他者」たちの視線のもとでみずからを「他者化」せねばならないという。
集合体とみなされているさまざまな存在が地域研究によって補完された比較文学の援助のもとで境界を横断しようとする時、それらの集合体は、大陸的、地球的、あるいは世界的なものというよりはむしろ、惑星的なものとして、みずからを形象化する−みずからを想像する−のではないか
新しい比較文学はそれらの集合体が境界を横断しようと試みるなかで紡ぎ出す「惑星思考(planet-thought)」についての比較文学となるだろう、と。スピヴァクは述べる。
わたしは惑星(planet)という言葉を地球(globe)という言葉への重ね書きとして提案する。グローバリゼーション〔地球全域化〕とは、同一の為替システムを地球上のいたるところに押しつけることを意味している。わたしたちは現在、電子化された資本の格子状配列のうちに、緯度線と経度線で覆われた抽象的な球体をつくりあげている。そこには〜地理情報システム〜にしたがって引きなおされた仮装上の線が刻みこまれ〜いまだ十分に検証されていない環境主義によって、差異化された政治的空間よりはむしろ分割されていない「自然の」空間なるものに言及しつつ、惑星の話(planet-talk)をすることは、抽象性それ自体という様態をとったこのグローバリゼーションの利益のために仕事をすることになりかねない。〜地球は、わたしたちのコンピューター上に存在している。そこには、だれも暮らしていない。それは、わたしたちがそれをコントロールすることをもくろむことができるかのように、わたしたちに想わせる。これにたいして、惑星は種々の他なるもの(alterity)のなかに存在しており、別のシステムに属している。にもかかわらず、わたしたちはそこに住んでいる。それを借り受けて。〜人間らしくあるということは、他者へと関心をさしむけているということである。私たちは、この生来の心的志向性の起源であるとわたしたちが考えるものについて、さまざまな超越的な形象をわたしたち自身のために配備する。母、国民、神、自然など。これらはいずれも、その根源性の度合いには差があるにしても、他なるもの(alterity)を指す名前なのだ。惑星思考(planet-thought)はそのような名前の汲み尽くすことのできない分類図を包み込む可能性を開いてくれる。その分類図には、原住民のアニミズムから、もはや合理性に信を置くことのできなくなった科学の時代の亡霊めいた白けた神話にいたるまで、人間的普遍の全範囲が含まれるのだが、その範囲そのものに一体化することはついにない。もしもわたしたちがわたしたち自身を地球上にあっての行為者というよりはむしろ惑星に住まう主体であると想像するならば、地球上の実体というよりはむしろ惑星上の生物であると想像するならば、他なるものはわたしたちに由来するのではない根源的なものでありつづけることになる。それはわたしたちによってなされる弁証法的な操作のもとにあっての否定態ではない。それはわたしたちを放擲するとともに内包してもいる。このようなわけであるから、他なるものについて考えるということは、すでにして、境界を逸脱/侵犯している(trangress)ということなのだ。 則、グローバリゼーションとは世界中に単一の経済的社会的システムを押し付けることであり、具体的にはヨーロッパやアメリカのシステムの地球規模の拡大であることから、地球はきわめて西洋中心主義的地球像である。世界を抽象化し均一化した地球像は、文化的多様性を無視したものである。比較文学研究の立場からこうした世界の認識を組み替えるために、スピヴァクは「惑星」という新たな視座を必要とした。 インターネット空間に存在するような抽象的な概念として示される地球に対し、スピヴァクは惑星をわたしたちが住まう実質的な世界として定義している。スピヴァクの提起する惑星とは、他者に満ちた世界であり、他者に対する理解不可能性への想像力を要するものである。スピヴァクの惑星思考は、惑星と地球の不可分な関係を認めながらも、グローバリゼーションに掻き消されたこうした文化的多様性や少数派を尊重する世界像として、アメリカ中心主義的世界観に抵抗するかたちで導入された。(引用)