ドゥルーズ
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序論
この書物が現前させるべきはずであったこと、それは神のものあるいは世界のものでもなければ、わたしたちのもの、すなわち人間のものでもないような或る一貫性へのアプローチである。
冒頭で示すこのアプローチとは「同一性を排除し差異のみが反復する」ことであり、これこそが主題である。
概念と差異
表象=再現前化:林檎という「物体」「文字」「記号」を見て林檎を想起するということは、表現されるものを見て概念が眼の前にやってくること。
概念的差異:表象=再現前化されたとき、それが林檎だったとき、蜜柑とは異なると認知できる。それが概念的差異
概念的差異があるのなら概念なき差異も存在する。
想起した複数の林檎は、どの林檎も林檎の概念を有しているが、その林檎の間には非言語的な差異が存在することがある。
反復
反復するものは同一概念の反復であり、反復される前と後で同じ概念に差異を見出しているので、その差異とは概念なき差異のことである。
が、しかし反復される前のものと後のもの同じ概念を有さないケースが存在する。例えばある図柄を複数コピーして複雑な図柄をつくるとき、同じ図柄をコピーしているのだから反復であるが、後のものは前のものと異なることがわかるだろう。同時に、反復の前と後で表象=再現前化も生起しない〔=同一概念が見出されない〕(つまりこれは概念なき差異の反復により概念的差異に至るということ?)
反復は同一概念の反復に限らないため、概念なき差異に還元出来ない。
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第一章
差異と暗い背景
ひとつの事物が他の事物から区別されるス・ディスタンゲという事態のかわりに、何らかのものが際立つ〔一方的に区別される〕という事態を想像してみよう-ところが、際立つ事物が別の事物から際立つ場合、その別の事物は、それにもかかわらず前者の際立つ事物から際立たないのである。たとえば稲妻が走るとき、あたかも、おのれから際立たないものに対しておのれの方が際立つように、稲妻は暗黒の天空から際立つが、しかしその天空をおのれと共に引きずってゆかざるをえない。背景フオン〔地、基底〕は背景であるがままに表面に出てくる、とでも言えそうである。このような、捕えがたい敵に対する闘いには、双方の側に、何か残酷なもの、そして奇怪なものすら存在する。というのも、そのような闘いにおいては、際立つものは、おのれから際立ちえない何ものかと対立し、この際立たないものは、それと縁を絶つ際立つものと縁を結び続けるからである。差異とは、一方的な区別ディスタンクシオン〔際立ち〕としての規定作用の以上のような状態なのである。それゆえ、よく「差異をつくる〔差をつける)」という言い方がされるように、差異について、差異をつくる〔差をつける〕、差異ができる〔差ができる〕と言わなければならない。このような差異、つまり規定作用ソノモノはまた、残酷でもある。プラトン主義者たちば、《非-一》は、《一》から際立つが、その逆はなりたたない、なぜなら、《一》の方は、その《一》から逃れてゆく《非-一》から逃れることがないからだ、と語っていたし、また別の視点から、形、(形式、形相〕は、素材〔質料)あるいは背景から際立つが、素材や背景は形から際立つことはない、なぜなら、際立ち自体がひとつの形式であるからだ、と語っていた。 無差異の定義
① 一切が溶け込んでいる未異化=未分化の深淵
つながりのないいくつかの規定が、まるでバラバラになった肢体のように(...)頸から落ちた頭蓋、肩から抜けた魂、顔面から飛び出た眼球のように漂ってること
② 全くの無差異
浮遊する諸規定も未規定も劣らず互いに無差異的
差異の定義
差異とは〜規定作用そのものを語ることが可能になる当の状態
上記二つの極にのあいだに介在するのではなく、差異こそが唯一極であり、現前と明確さの唯一の契機。
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世界にキアロスクーロの線を引いて存在者を取り出そうとしても、その線は、線の内側を浮かび上がらせるとともに、線の外側も浮かび上がらせてしまう(それが下記引用ということ?)
これがつまり背景を浮き出させ、形を崩潰させるという罪
これはプラトン主義者の非一は一から際立つが、その逆は成り立たないという論とも近しい /icons/白.icon
差異こそが現前と明確さの唯一の契機である
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第一章
機械−フロイトとドゥルーズ=ガタリの方法論的相違
本節では第一に「機械」というタームより始まる。
〈それエス〉はいたるところで機能している。中断することなく、あるいは断続的に。〈それ〉は呼吸し、過熱し、食べる。〈それ〉は排便し、愛撫する。〈それ〉と呼んでしまったことは、何という誤謬だろう。いたるところに機械があるのだ。決して隠喩的な意味でいうのではない。連結や接続をともなう様々な機械の機械がある。〈器官機械〉が〈源泉機械〉につながれる。ある機械は流れを発生させ、別の機械は流れを切断する。乳房はミルクを生産する機械であり、口はこの機械に連結される機械である。拒食症の口は、食べる機械、肛門機械、話す機械、呼吸する機械(喘息の発作)の間でためらっている。こんなふうにひとはみんなちょっとした大工仕事をしては、それぞれに自分の小さな機械を組み立てているのだ。〈エネルギー機械〉に対して、〈器官機械〉があり、常に流れと切断がある まだ産まれたばかりの子どもの口は、母の乳房に食いつき、そこからミルクを摂取している。子どもの口や母の乳房は、器官であり、いわゆる「部分対象」(objet partiel)である。ドゥルーズ=ガタリは、このような器官のことを欲望する機械と呼んでいる。口が乳房につながるように、ある器官は、別の器官とつながる。器官は、常に複数である。したがってドゥルーズ=ガタリも言うように、欲望する機械は、単数としては存在できない。欲望する機械は、常に「欲望する諸機械」(machines desirantes)という複数形で存在しているのである。欲望する諸機械は、乳房と口のように、「これとあれ」(et,et puis)という接続的な形態をもった二項機械である。このような欲望する諸機械の別の例を挙げれば、口と胃、胃と腸、腸と肛門である。さらに欲望する諸機械は、身体の諸器官ばかりではない。ドゥルーズ=ガタリは、次のように身体や物ばかりでなく,石や金属や水や草木などもそれぞれ,単数の欲望する機械であると論じるのだ。
ここでは自然−人間の区別も存在しない。すなわち、生産としてのあるいは産業としての自然においては、類としての人間の生における場合と同じで、自然の人間的本質と人間の自然的本質とは一致している。このとき、産業はもはや有用性という外面的な関係から把握されるのではなく、自然と根本的に一致しているという観点から把握される。自然は、人間を生産するとともに、人間によって生産されるものである。人間は万物の王者ではなく、むしろ、あらゆる形態あらゆる種類の深い生と接触し、星々や動物さえ引き受け、〈器官機械〉を〈エネルギー機械〉に接続することをやめず、彼の身体の中には木があり、口の中には乳房、尻の中には太陽があり、人間は宇宙の様々な機械を永遠に担っている。(…)因果や包合や表現などといった関係(原因-結果、主観ー客観)において捉えられるとしても、自然と人間は、相互に対面する二項のようなものではなく、むしろ唯一の同じ本質的な実在であり、生産するものと生産されるものは一体をなしているのだ。
冒頭にて「いたるところに機械があるのだ」としたように、いわば「宇宙」論的な次元におけるエレメントのすべてをドゥルーズ=ガタリは機械として扱うのであり、その複雑化した相互的な結合、浸透、混淆を彼らは論じているのだ。そして、冒頭に引用した文章は「〈エネルギー機械〉に対して、〈器官機械〉があり、常に流れと切断がある」と続く。上記にて「自然−人間」「〈器官機械〉を〈エネルギー機械〉に接続すること」と論じたように、乳房と口がつながるのと同じ資格で、太陽と尻、木と身体、がつながる。人間の身体の器官としての単数の機械は、自然の要素としての単数の機械とかくしてつながっているのである。その典型として論じられるのはダニエル・パウル・シュレーバー(1842-1911)。彼の回顧録を分析したフロイトによって発表された1911年の論文「シュレーバー症例」によって有名になった実在の裁判官である。妄想性障害を発症したシュレーバーは、神に選ばれ「女性化」させられ、宇宙線・神経光線が身体を貫通し、世界の終わりと再創造に自分が関与するといった自らの体験を『ある神経病者の回想録』(1903)として出版した。そして、この症例に対して、ドゥルーズ=ガタリはその独自の機械論的パースペクティヴを照応させ、フロイトに反する次のような帰結を見出す。 シュレーバー控訴院長は、尻の中に太陽光線をきらめかせる。これは太場肛門である。〈それ〉が機能することは確言していい。シュレーバー控訴院長は何かを感じ、何かを生産し、そしてこれについて理論を作ることができる。何かが生産される。この何かは機械のもたらす結果であって、単なる隠喩ではない。
フロイトはシュレーバーの妄想を、太陽=父の象徴、肛門=性的退行などと「これは抑圧された同性愛の隠喩だ」と解釈することで、問題を「家族・オイディプスの三角形(父・母・子)」に還元した。しかし、ドゥルーズ=ガタリは云う。「これは機械のもたらす結果であって、単なる隠喩ではない」。シュレーバーは実際に何かを感じ、何かを生産している。したがって、ドゥルーズ=ガタリにしてみれば、それは象徴でも隠喩でも意味でも表象でもなく、身体と宇宙エネルギーが接続された欲望機械の実際の作動そのものであるのだ。そしてこれこそがアンチ・オイディプスの核心である。ここで宇宙線・神経光線による身体の貫通は、バタイユの太場肛門へとパラフレーズされた。このことはイタリック体で"Anus solaire"と記されていることに明示的である。バタイユは、「有用性の経済」への批判を通じ、太場肛門を提唱した。彼によれば、人間社会は—生産、交換、蓄積—など、そのすべてを「役に立つか」で測る。しかし太陽は何の見返りもなく一方的にエネルギーを放出する。そして、肛門も同様にただ見返りもなく排泄するだけである。バタイユはこの無償の蕩尽を有用性の論理の外部として称揚した。しかし、ここでドゥルーズ=ガタリがバタイユを参照するのは、倫理的な含意のためではなく、「有用性・目的・意味を持たない純粋な流れと切断」という機械的作動の典型例として太陽肛門を位置づけるためである。言い換えるなら太陽肛門は有用性の外部というよりも、意味・目的を持たない純粋な流れと切断の例として機能しているのであり、その意味で「蕩尽の倫理」ではなく「機械的作動の記述」としての援用であるのだ。すなわち、反直感的で一見無関係なこの無差別的で、未分化なる連なりをドゥルーズ=ガタリは深化させ、〈器官機械〉と〈エネルギー機械〉の典型として扱ったのだ。そしてこうした無差別的で、未分化なる機械的連合のさらなる典型としてドゥルーズ=ガタリは、ゲオルク・ビュヒナーが書いた短篇、実在の詩人ヤコブ・ミヒャエル・ラインホルト・レンツ(1751-1792)が精神を病んでアルザスの山中をさまよった実話を引用する(ただしここでの未分化とは、機械的差異以上が未分化である地平、或いは機械的差異のみが有効な地平であって、完全なる未分化という概念は以降、器官なき身体として扱われる)。 分裂症者の散歩。それは、精神分析家のソファに横たわる神経症患者よりも、ずっとよいモデルである。ここには一陣の外気が通い、外部とのかかわりがある。例えば、ビュヒナーによって再構成されたレンツの散歩。散歩するレンツは、善良な牧師の家を訪れるときのレンツとはちがう。牧師に強いられたレンツは、宗教上の神との関係、あるいは父母との関係にしたがって、自分を社会的に位置づけようとする。散歩のときは反対で、レンツは山の中、雪の中で、別の神々とともに、あるいはまったく神もなく、家族もなく、父母もなく、ただ自然とともにある。「私の父は何をのぞんでいるのか。彼は私に、もっと何かを与えることができるのか。できるわけがない。私をそっとしておいてくれ。」すべては機械をなしている。天上の機械、星々または虹、山岳の機械。これらが、レンツの身体のもろもろの機械と連結する。諸機械のたえまないざわめき。「あらゆる形態の深い生命に触れられること、石や金属や水や植物と交流する魂をもつこと、花々が月の満ち知けに応じて大気を吸いこむように、夢うつつのまま自然のあらゆる要素を自分の中に迎えいれること。こうしたことはすべて限りない至福であるにちがいない、と彼は考えていた。」葉緑素機械あるいは光合成機械であること、少なくとも、このような機械の中に自分の身体をひとつの部品として滑りこませること。レンツは、人間と自然が区別される以前に、あるいはこの区別を条件とするあらゆる指標以前に身をおいたのだ。彼は自然を自然としてではなく、生産のプロセスとして生きる。もはや、ここには人間もなければ、自然もなく、ただ一方を他方の中で生産し、もろもろの機械を連結するプロセスだけがある。いたるところに、生産する機械、あるいは欲望機械が、分裂症的機械が、つまり類的生命そのものが存在する。私と私でないもの、外なるものと内なるものとの区別は、もう何も意味しないのだ。
ここではレンツは二つの像を有している。「牧師に強いられたレンツ」は「宗教上の神との関係、あるいは父母との関係」、すなわち、オイディプス的な構図へ「位置付けよう」とされ、他方で「散歩するレンツ」は、「天上の機械、星々または虹、山岳の機械。これらが、レンツの身体のもろもろの機械と連結する」ことで、未文化の地平を獲得している。この両者はまさに、フロイト的精神分析と、ドゥルーズ=ガタリ的精神分析の対応関係にあり、ドゥルーズ=ガタリは自らの分析がどのようなパースペクティヴをもって人々を理解していくか、そのフレームワークを対比的に論じているのだ。すなわち、フロイトが各エレメントを象徴、暗喩、意味として扱い、それらを同一の起源たるオイディプスの三角形に還元するのに対し、ドゥルーズ=ガタリはそれらをすべて機械として扱い、機械間の流れと切断という「実際の作動」を通して、複雑多様的に連動する地平として分析を行うのだ。
この対比構造は本書の続編である『千のプラトー』で論じられるツリーとリゾームの議論にも照応すると言えるだろう。ツリーとは中心があり、起源があり、そして同一の幹から枝分かれしている。したがって、その最終的な末端としての枝や葉、花といったものは同一の共有された起源に始まるのであり、これこそがフロイト的な見方そのものに他ならない。だからこそ、彼は幼少期という幹を、或いはその木が根を張る大地の下を、いわば大地によって潜在化された無意識を分析しようと試みるのだ。しかし、リゾームとは中心がなく、いたるところから始まり、途切れ、乱雑に絡み合う総体によってその複雑的な構造を完成させる。ドゥルーズ=ガタリが機械というタームを持ち出して分析するのは、まさにこのような精神構造であるのだ。 分裂者の散歩の続き。ベケットの作品の人物たちが決心して外に出るときである。まず、いかに彼らの様々な振る舞いが、それ自身において綿密な機械をなしているか注目すべきである。そして次には自転車。〈自転車−警笛〉機械は、〈母−肛門〉機械と、どんな関係をもっているのか。「自転車と警笛について話すのは、何という安らぎだろう。不幸なことに、私が語らなければならないのは、このことではなくて、あの女についてなのだ。私の記憶が正しければ、あの女は自分の尻の穴から私をこの世に送りだした。」しばしば、オイディプスは簡単なものであり、ただそこにあると思われている。しかし、ほんとうはそうではない。オイディプスは、欲望機械のとてつもない抑圧を前提として成立しているのだ。 これはフロイト的な分析に基づくならば、強迫的な母の肛門とは、まさに膣出産の否認という倒錯であり、そこからの「自転車と警笛」への逃避とは母への歪んだ関係、あるいは抑圧された性的欲望の症状、象徴、表象であると扱われる。しかし、ドゥルーズ=ガタリにしてみればこれは文字通りの機械的記述に他ならない。そこで重要なのは「記憶が正しければ」という留保である。母の肛門による出産は、子どもの身体機械と接合され、身体的出来事の記憶として現に「私」を生産しているのだ。このようにして、ドゥルーズ=ガタリがこれを機械的接続の実際の作動として読むのに対して、フロイトはこれらを母への欲望・退行の表象として読む。すなわち、精神分析の解釈とはクライアントのすべてを、象徴、暗喩、意味として理解するのであり、それは抑圧された欲望が深層に潜むことを前提視しなければ成立し得ない。この時点にてオイディプスの三角形とは、すべてのエレメントを抑圧された欲望の表出対象に還元する機構と化しており、それは抑圧された欲望をアプリオリな解釈原理として先験的に固定してしまっている。フロイトは「抑圧を発見して解放する」と主張するが、ドゥルーズ=ガタリにしてみればその「発見」の行為自体が抑圧を生産している。よってオイディプスは鍵ではなく、檻そのものであるのだ。したがって、ドゥルーズ=ガタリは上記のように「しばしば、オイディプスは簡単なものであり、ただそこにあると思われている。しかし、ほんとうはそうではない。オイディプスは、欲望機械のとてつもない抑圧を前提として成立しているのだ」と論じるのである。
そしてさらにビュヒナーに続き、ここでは再び「母について話さなければならない」という義務・強制と、「自転車と警笛について話すのは、何という安らぎだろう」という解放・逃走に二重化されている。レンツが神や父母、社会から逃れ、星・虹・山岳・植物と繋がるように、モロウは母から逃れ、自転車・警笛と繋がることに安らぎを抱く。両者の内容は異なる——一方は自然であり他方は日常的な物である——が、その構造は同一である。レンツの散歩とモロイの語りとは、オイディプス化を逃れ、別の機械的接続を生産するプロセスとして、同一の地点へと位置づけられるのだ。したがってドゥルーズ=ガタリは以下のように問う。
これらの欲望機械は、なぜ、どのような日的で抑圧されるのか。こうした抑圧に屈することは、ほんとうに必要なのか、望ましいことなのか。また何を用いるのか。オイディプスの三角形の中に、何をもちこむべきなのか。何によって、この三角形を形成すればよいのか。(...)精神分析は、今度はどのようにして神経症患者を、ひたすら永遠に〈パパ-ママ〉だけを消費するあわれな存在に還元しようとしているのか(...)。いかにして、「だから、これはあれであった」「だから、これは私である」という〈連接的総合〉が、オイディプスの永遠に陰鬱な発見に、「だから、これは私の父だ。だから、これは私の母だ…」に還元されてしまったのか。(...)フロイトでさえ、自我に関して、狭い観点からぬけ出してはいない。彼がぬけ出るのをさまたげていたのは、彼自身の三位一体の定式なのだ。──あのオイディプス的、神経症的定式、つまりパパ-ママ-私である。フロイトは、分裂症に適用される自閉症という厄介な概念を再発見して、この概念を自分の権威の重さによって保証したのであるが、フロイトをうながしたのは、オイディプス・コンプレックスという分析上の帝国主義ではなかったかと問わなければならない。 だがしかし、勿論彼らはフロイトのすべてを否定しているわけではない。曰く、「遊んでいる子供を、あるいは這い這いして家の中の部屋を探険する子供を考えてみよう。彼は電気のコンセントを眺め、自分の体を機械と化し、一本の足を櫓のように使い、台所や書斎に入り、小さい自動車を操縦する。子供にとって両親はいつでも現存しており、両親がいなければ、子供には何もないことは明らかである。しかし、問題はそれではない。問題は、子供の触れるものがすべて、両親を表象するものとして体験されるのかどうか、である」。「子供にとって生死にかかわり情愛にかかわる両親の重要性を否定することが問題なのではない」。よって、上記引用にあるように、問題はそのすべてを三位一体へと還元するオイディプス帝国主義であるのだ。
分裂的全体主義
我々は前節で、これまでフロイト的なパースペクティヴに対するドゥルーズ=ガタリ的なパースペクティヴを対置することで、本書の立脚する立場とその方法論的革新性とを見てきた。しかし、そのような対置は序章に過ぎない。機械とは何か、欲望とは何か。この場合、主体はどのように扱われるのか。歴史はどのように観察されるのか。それらを見ていかなければ、それこそ単なる陰湿で破壊的なアンチ・オイディプスで終わってしまう。そして本書の革新性とはその先にある。フロイトの反駁によって基礎づけられる彼らのパースペクティヴがどのようにして新たな地平を切り拓くのか、そこに現代思想の起源をなす本書の重要性が現れる。したがって、以下ではドゥルーズ=ガタリのパースペクティヴをより具に理解し、その一つ一つの道具立てと環世界を理解していきたい。そこで第一に生じる問題はフロイトの考えるツリーの如く時間論的一元性に対して、ドゥルーズ=ガタリの考えるリゾーム構造はある種のスピノザ的な空間論的一元性を基礎に置いているかという問いである。
ドゥルーズがスピノザから影響を受けていることは周知であるように、彼らのテーゼは素朴な一元主義の響きを持っている。ビュヒナーの詩で紹介された内容においては、いわば我々は、いや我々以外もが、世界のすべてのエレメントすべてと接続され、調和し、一つの有機的な全体性として連関している、と。しかし、ドゥルーズ=ガタリはこの図式を拒む。彼らが提唱するは、部分からなる全体、それも決して「ひとつの全体に統合することがない」諸部分からなる全体であり、その総和である。
欲望機械においては、すべてが同時に作動する。しかし、それは、亀裂や断絶、故障や不調、中断や短絡、くいちがいや分断が同時多発する只中において、それぞれの部分を決してひとつの全体に統合することがない総和の中において作動するのである。
このアンビバレンな構造の例として彼らが挙げるはブランショとプルーストである。ここで第一にさしている書籍とは、『終わりなき対話』L'Entretien infini (1969)であり、そこで展開される文学論をまさにそうした一元的には統合し得ない分裂的全体性として論じる。 文学機械の水準において、最も厳密な仕方で、次のような問題を提起しえたのは、モーリス・ブランショである。つまり、あるがままの差異の関係をたがいの間にもつ諸断片、それら自体の差異が相互関係にほかならないような諸断片、たとえ失われたものであっても起源的な全体性に依拠することがなく、また結果として生じてくる全体にも依拠することがない諸断片をいかにして生産し、いかに考えるべきなのか、といった問題である。
そしてまたプルーストはバルザックにおいて、そうした分裂的全体性、諸部分からなる断片の総和を見出す。そして、ここでドゥルーズ=ガタリが彼らの拒む典型的な全体主義として語るのはグリザイユである。ドゥルーズは『差異と反復』でもゴヤやルドンのアクアチントやエッチング、キアロスクーロを参照しながら存在を語るように、アクロマティックな作品やその技法とは存在論的レヴェルの道具立てに相応しい性質を有している。例えばアクアチントは原子論的であり、エッチングは切断的で、統合し得ぬ諸部分と全体性の共存に示唆的である。その意味で、グリザイユは穏やかで融和的なグラデーションによって、一つの有機的全体性を我々に想起させる。ドゥルーズが言うように「こうした画法は、輪郭を丸めて、もろもろの破片を調和的にまとめようとするのである」。しかし、ドゥルーズからすればこのような存在論的地平は欺瞞である。 私たちはもはや、偽りの断片を信じない。こうした断片は、古代の彫像の破片に似て、もともとの統一性にほかならない統一性を構成するために補修や修理を待っているにすぎない。私たちは、もはや起源にあった統一性も、これから先の目標としての全体性も信じない。私たちは、もはや鈍重な進化する弁証法の灰色画法グリザイユを信じない。こうした画法は、輪郭を丸めて、もろもろの破片を調和的にまとめようとするのである。私たちは、傍にある全体性しか信じないのだ。そして私たちが、諸部分の傍にあるこうした全体性に遭遇するとすれば、それはたしかにこれらの諸部分の一全体ではあるが、この全体は諸部分を全体化しない全体であり、これらの諸部分すべての統一性であるが、これは諸部分を統一しないし、むしろ傍で構成された新しい部分のようにして、これらの諸部分に付け加わるのである。「統一性が現われる。しかし、この場合それは、霊感から生まれ、傍で構成された何らかの断片のように集合に付着するのである。」プルーストはバルザックの作品の統一性について、また同じく自分自身の作品の統一性について、こう語っているのだ。 かつて私は、とある友人の個展に寄稿文を出した(〈距離〉を奪いとられた現実)。彼の作品はエマヌエーレ・コッチャ的で、非ドゥルーズ的な意味でスピノザ的、いわゆるグリザイユ的な主題であり、技法であった。有機的な全体性は一が全であり、全が一を示すことを意味する。したがって、このことは眼前を愛し、尊ぶことが世界を肯定する術となると帰結される。ここにて支配的なものは、統合、全体、有機性、そして調和であり、これらが手を結び溶け合っていた。このことをコッチャはメタモルフォーゼと表し、「すべてがすべてのなかにあること」と称した。確かに、このことは科学的に説明可能であり、合理的に、理論的に理解できる。しかし、私はどうもその直感を抱くことができないままであった。世界はすべてが連続している。それは至極当然の論理であるように思える。しかし、そう直感では確信できないでいた。だが、同時に私の直感はデカルトやカントほどに独我論的でもないし、水槽の中の脳に怯える生活は青年期に幕を閉じた。その意味で、全体はある。がしかし、それは統合的で有機的な完全性としてではない。また部分は確かに有機的に連関する。しかし、それはどこまでいっても諸部分としてでしかなかった。だからこそ最終的な統一を欠いた諸部分の総合としての全体があるといった存在論は私の直感に最も適合したのだ。私が誰かと肌を重ねあわせ、草木や花を愛撫するとき、そこに有機性は現れるが、それはなにも壮大で崇高な宇宙的連関としてではなく、一つのか細く、脆弱で、瞬間的な有機性としてそこに現れる。そして、だからこそ、我々人類はそのようなものを固定したいと、所有を試み、独占を画策し、契約や愛に他を閉じこめようとする、と。私が思うに、私が感じたこのような哲学的感動こそが、もしかするとドゥルーズ=ガタリが論述したかった理論的革新なのかもしれない。曰く、 一般的にいえば、〈全体と部分〉の関係という問題は、古典的な機械論によっても生気論によっても同様に、正しく提起されてはいない。全体が、諸部分から派生した全体性として、あるいは諸部分がそこから由来するような根源的全体性として、あるいはまた弁証法的な全体化作用として考えられているかぎり、こういうほかはない。機械論も生気論も、欲望機械の本質を把握してはいなかった。欲望の中に生産を導入すると同時に、機械機構の中に欲望を導入するという二重の必然性を把握してはいなかったのである。
また『失われた時を求めて』という文学機械において、あらゆる部分が、対称的でない側面、中断された方向、閉じられた箱、底の通じていない器、仕切り壁のようなものとして生みだされているのは、驚くほどである。ここでは隣接さえも距離であり、距離とは肯定であり、パズルの断片は同じものから由来するのではなく、それぞれ異なるパズルに属し、たがいの中に荒々しく挿入され、常に局地的であって、決して特殊的でなく、これらの断片の不ぞろいな輪郭は、いつも互いに押さえつけられ、毀損され、交錯しあい、残余をともなっている。これはまさに分裂気質的作品である。(...)法の厳格さが〈一なるもの〉の断乎とした主張を表現しているように見えても、それは見かけ上のことにすぎず、逆にその厳格さの真の目的は、断片化されたもろもろの宇宙を無罪放免にすることだからである。ここで法は何も〈全体〉の中に統合するのではなく、逆に、狂気から無垢をくみとるものの間隔、分散、破裂などを計測し配分する。──したがってプルーストにおいては、罪悪感という見かけのテーマには、このテーマを否定するまったく別のテーマが絡みあっている。つまりそれは雌雄両性の仕切り壁における、またシャルリュスの出会いやアルベルチーヌのまどろみにおける植物的な無邪気さであり、ここでは、花々が君臨し、狂気が無垢なものとして示されている。シャルルスの明白な狂気であれ、アルベルチーヌの推定される狂気であれ。だから、プルーストはこういっていたのだ。全体は生みだされる。全体そのものは、諸部分の傍にあるひとつの部分として生みだされる。この全体は、統一化することも、全体化することもしないで、これらの諸部分に適用され、相互に通じていない容器の間に異様な通路を設け、それぞれが自分に固有な次元において、あらゆる差異を保持しようとする要素相互の間に、もろもろの横断的な統一性を作りあげるのだ。だから、『失われた時を求めて』の鉄道の旅においては、決して全体が見えるわけではなく、眺める観点にも統一性はない。むしろ全体や統一性は、ただ横断線の中にあって、旅行者は夢中になって窓から窓へと移動し「途切れたり対立したりするもろもろの断片を近づけ、あるいは移しかえようとして」、このような横断線を描くのである。 遊んでいる子供を、あるいは這い這いして家の中の部屋を探険する子供を考えてみよう。彼は電気のコンセントを眺め、自分の体を機械と化し、一本の足を櫓のように使い、台所や書斎に入り、小さい自動車を操縦する。子供にとって両親はいつでも現存しており、両親がいなければ、子供には何もないことは明らかである。しかし、問題はそれではない。問題は、子供の触れるものがすべて、両親を表象するものとして体験されるのかどうか、である。誕生して以来、ゆりかご、乳房、おしゃぶり、排泄物は、子供の身体のもろもろの部分と接続された欲望機械なのである。一方で、子供はもろもろの部分対象の間で生きていると語り、同時に他方で、この子供自身が部分対象において捉えるものは、まさに断片となった両親という人物そのものだと言うことは、私たちには矛盾と思われる。乳房が母の身体から採取されるということは、厳密にいうと正しくない。というのも乳房は欲望機械の部品として存在し、赤ん坊の口と接続され、濃かったり薄かったりする非人称的なミルクの流れから採取されるからである。欲望機械や部分対象は、何も表象しない。つまり部分対象は表象的ではないのだ。(...)小さい子供は、いつも家族の中にいるが、この子供は家族の中で始めから、直接的に恐るべき非家族的な経験をする。精神分析は、こうした経験をみのがすのだ。(...)子供にとって生死にかかわり情愛にかかわる両親の重要性を否定することが問題なのではない。欲望的生産における両親の位置や機能が何であるのかを知ることが、問題なのである。逆のことをして、欲望機械のあらゆる働きをオイディプスの制限されたコードに切り詰めてしまってはならない。(...)子供は、幼いころからすぐに、まさに欲望する生命をもち、つまり欲望の諸対象や諸機械との間に結んだ家族的でない関係の総体をもっている。(...)子供が自分の生命を体験し、生きるとはどんなことなのかを問うのは、もろもろの部分対象の間でであり、欲望的生産の非家族的な諸関係の中においてである。たとえ、この問いが両親に「関係づけ」られなければならず、家庭的諸関係の中でのみ暫定的な解答をうるものだとしても、このことに変わりはないのだ。「私は八つのときから、いやもっと前からさえ、いつも、私が誰であるのか、何であるのか、そしてなぜ生きているのか疑問に思っていたことを憶えている。私は、六つのとき、マルセイユのブランカルド大通りの家(正確には、五九番地)でのことを憶えている。母といわれていたある婦人が私にくれたチョコレート・パンをおやつに食べていたときのことだ。私は疑問に思ったのだ。存在するということ、そして生きるということはいかなることなのか、自分が呼吸しているのを見るとはいかなることなのか。さらに、生きているという事実を実感するために、またこの事実が私にふさわしいかどうか、またいかなる点でふさわしいのか知るために、みずからを呼吸しようとしたことも。」これはまさに本質的なことだ。ひとつの問題が子供に提起されている。この問題は、おそらくママと呼ばれる女性に「関係づけられる」ことになるが、しかし、彼女との関係で生みだされるものではなく、欲望機械の作用の中で生みだされるのだ。たとえば、〈口-空気〉機械あるいは味覚機械の次元で、次のような問題が生みだされる。──生きるとは何か、呼吸するとは何か、私とは何か、私の器官なき身体の上にあって呼吸する機械とは何か、といった問題である。子供は形而上学的存在なのだ。デカルトのコギトの場合におけるように、両親はこういった問いの中には入ってこない。だから、問いが(両親に対して語られ表現されるという意味で)両親に関係づけられているという事実と、この問いが(両親と本性的に関係をもっているという意味で)両親に関係するという観念とを混同することは誤りである。子供の生命をオイディプス・コンプレックスの中に閉じこめ、家族的諸関係を幼年期における普遍的媒介とみなすことによって、ひとは、無意識そのものの生産と、じかにこの無意識に働きかける集団のメカニズムを見失ってしまわざるをえない。とりわけ根源的な抑圧、欲望機械、そして器官なき身体のあらゆる作用を見失うことを。なぜなら無意識とは孤児であり、無意識自身は自然と人間とが一体であるところに生産されるからである。無意識の自動生産は、まさにデカルトのコギトの主体が両親と無関係に自分を見いだすところで、また社会主義の思想家が人間と自然との統一性を生産作用の中に見いだすところで、さらに循環サイクルが、両親への果てしない退行から、みずからの独立を発見するところで生起するのである。あたいは〈パパ-ママ〉のものじゃない この論説、そして諸部分の連関という発想は何もドゥルーズ=ガタリが始祖ではない。いわば、その徹底化として彼らが位置づけられる。それではその基礎を築くは誰か。その者こそ、アンナ・フロイトとも論争を繰り広げた精神分析の大家メラニー・クラインである。曰く、ごく幼い乳児期において赤子は自分の欲求を満たされると満足し、機嫌をよくするが、少しでもそれが損なわれるとギャーギャーと泣き叫び、不満と怒りをぶちまける。この時、ミルクがよく出る乳房は「良い乳房」、出ない乳房は「悪い乳房」でしかない。それが同じ母親同じオッパイであるということなどは関係ないのだ。すなわち、lその場その場の欲求を満たしてくれるかどうかが「良い」「悪い」の基準になる。いわば乳房を母親と無関係な存在として捉え、その場の快不快だけに関係するその場限りの対象として捉えるに留まるものである。こうした部分部分で、また、その瞬間瞬間の満足、不満足で対象と結びつく関係を、クラインは「部分対象関係」と呼んだ。まさにこの構図を踏襲し、ドゥルーズ=ガタリは全体性を欠き、オイディプスを拒む諸部分の連関を語るのだ。この時に存在するのは純粋な乳房、口、ミルクの関係であり、まさに「欲望的生産の非家族的な諸関係」が成立しているのである。しかし、メラニー・クラインはこのような分裂は未熟或いは幼児期に特有なものでしかなく、やがて全体性へと還元されるとした。なぜなら、やがてそのような掴みどころのない認識は、曰く「部分」ではなく母としての「全体」を対象として関係づけられるようになって、乳児は対象と対象を統合していき、自我と世界を構成できるようになっていく。この意味でドゥルーズ=ガタリはまさにその徹底化として分裂的全体主義なるアンチ・オイディプスを完成させるのだ。 メラニー・クラインは、部分対象という、あの爆発、回転、振動の世界の驚くべき発見をなしとげた。ところが、彼女は部分対象の論理を把握することに失敗している。(...)彼女が次のような考え、分裂-パラノイア的気質のもろもろの部分対象は、ある全体に帰するという考えを免れていないということである。つまり、始原的段階における根源的な全体であるにしろ、あるいは後発的な抑鬱性態勢の中に到来する全体であるにしろ、ひとつの全体というものに部分対象が帰するというのである。だから、これらの部分対象は、彼女においては、包括的性格をもつ人物たちから採取されているように見える。〈私〉であれ、対象であれ、もろもろの欲動であれ、これらに関する統合的な全体性の中にまで部分対象が入り込んでくるだけではない。さらに部分対象自身が、〈私〉や母や父の間の対象的関係の原型をもすでに構成することになるのだ。ところが、まさにこの点で結局事態はすべて決定されることになる。確かに、これらの部分対象は、それら自体においては十分な力を蓄え、オイディプスをふきとばし、オイディプスから、あの馬鹿げた野望を、無意識を表象し三角形化して、あらゆる欲望的生産を手に入れるという馬鹿げた野望を取りあげることができる。だが、ここで問題になっているのは、オイディプスとの関係において前オイディプス的といわれるものが相対的にどれだけの重要性をもつかといったことではまったくない(なぜなら、「前オイディプス的」ということは、やはり発生的あるいは構造論的にオイディプスを参照しているからである)。問題は、欲望的生産が絶対的に非オイディプス的な性格をもっているということである。ところが、メラニー・クラインは、全体の見地を、つまり包括的性格をもつ人物や完全な諸対象を認める観点を保存しているので、しかもおそらく、彼女は、「オイディプスを認めないものは、なんぴともここには入れない」と扉に書きつけた〈国際精神分析協会〉とのいざこざを避けようとするので──、彼女はオイディプスの首枷をはねのけるために、部分対象を役立てようとはしない。それどころかオイディプスをうすめ、ミニアチュア化し、数をふやして、低年層にまで拡げるために、それを役立て、あるいは役立てるふりをしているのだ。 ここで、私たちが精神分析家の中で最もオイディプス化を避けている学者であるメラニー・クラインの例を取りあげるのは、まさにオイディプスを欲望的生産の尺度とするためには、どれほど無理しなければならないかを示すためである。
その定義、歴史的位置づけと対比、理論的源泉、最も傑出した象徴。これらを通して我々はドゥルーズ=ガタリが採用する存在論的輪郭を獲得したことだろう。したがって、以降ではより具体の道具立てを理解していきたい。
唯物論的精神医学の欲望論−欠如から生産へ
ここで我々は細かな道具立てを整理するまえに、欲望という概念からとりかからなければならない。冒頭であるように、本書が基礎とするのは単なる機械ではなく、欲望機械であるのだ。さらにこの素朴な機械の定義においても、欲望というものを避けて通ることはできない。なぜならばドゥルーズ=ガタリによれば、「欲望とは機械であり」だとか「機械は欲望であり続け」とさえ論ずるのだ。この循環的な構造を理解しなければ、本パースペクティヴの第一の門さえもが開かれない。したがって、以下では彼らの論じる欲望論について論じていく。
そこで最初に対峙する問題とは、欠如の欲望という古典的伝統から逸脱することにある。ラカンに師事した精神分析家であるガタリは、五〇年代のラカンから離反しつつ、六〇年代のラカンと併走もしながら、独自の体系を樹立した。したがって、ここではラカンの欲望論について概略しておこう。まずラカンにおいて欲望のミニマムな定義は、「欠如」を埋めようとすることである。$におけるSとは主体(Sujet)のことであり、これに斜線が引かれているのは、主体が欠如を刻まれていることを表している。かくして斜線を引かれた主体は、そうした欠如を埋めようとして欲望する。しかし欠如が、完璧に埋まることはない。欲望する私たちは、欠如のアドホックな覆いとしての、何らかの対象にこだわる。この役割にある対象を、ラカンは「対象a」と名付けている。「◇a」のなかの◇は、埋められない距離を意味している。これは、欠如した主体が、対象aを捉えようと欲望し、何度もくりかえし失敗する、という主体と対象のあいだの引き裂かれである。彼らの欲望論とはこうしたラカン的な欠如としての欲望を拒絶することより始まるのだ。それはガタリによる『アンチ・オイディプス草稿』(ステファン・ナドー編)に明確に記されている。ガタリ曰く「対象aをめぐる我々の機械状の解釈では、見方が変わる」「治療の究極点としての、欲望の不可能な現実としてのȺ(よすがのない他者)はもはやなく、横断移動性の「n」方向だけがある」。では、彼らが欲望と呼ぶ時それは何を指すのか。 ある意味では、欲望の論理は、第一歩からその対象を捉えそこねている。第一歩とは、プラトンの区分のことでそれは、生産と獲得との間で選択させるのである。欲望を獲得の側におくなら、たちまち私たちは欲望について観念論的(弁証法的、ニヒリズム的)な考え方を形成してしまう。これは、何よりもまず、欲望を欠如として、対象の欠如として、現実的対象の欠如として規定するものである。 確かに、他方の側面すなわち「生産」という側面が無視されているわけではない。欲望とは、「それ自身の表象を介して、これらの表象の対象を実在させる原因となる能力」であると定義して、欲望の理論に批判的革命をもたらしたのは、まさにカントなのだ。しかし、カントは、この定義を説明しようとして、迷信にみちた信仰や幻覚や幻想を引きあいに出しているが、これは偶然ではない。私たちは、現実的対象が外的な因果関係と外的なメカニズムとによってしか生産されえないことをよく知っているが、この知識も、次のように考えることを妨げはしない。たとえ、非現実的な幻覚あるいは幻想の形においてであっても、欲望の内的な力は、欲望自身の対象を生みだし、このような因果関係を欲望自身のうちで表象する(21)。欲望によって生産されるものとしての対象の現実は、それゆえ心理的現実なのである。それなら、カントの批判的革命は、本質的には何も変えていないということができる。生産性をこのように把握する仕方は、欲望を欠如と考える古典的な発想を問い直すものではなく、むしろ古典的な発想に依存し、それに支えられたまま、それを深めることで満足しているだけなのだ。じじつ、もし欲望が現実的対象の欠如にすぎないなら、欲望の現実そのものは、幻想化された対象を生産する「欠如という本質」の中にあることになる。こうして欲望は生産として把握されても、ただ幻想の生産として把握されているにすぎず、精神分析はまさにこうした欲望を完璧に展開してきたのである。 『判断力批判』を念頭にここで論じられるは次のようにまとめることができる。確かにカントは欠如としての欲望から、生産としての欲望という革命を成した。ゆえにカントの欲望は生産的ではある、がしかしその生産性は主観的或いは心理的、観念的な領域、上記にて「幻想の生産」と呼ばれるものに限定されている。それゆえにドゥルーズ=ガタリは「カントは、この定義を説明しようとして、迷信にみちた信仰や幻覚や幻想を引きあいに出しているが、これは偶然ではない」と論じた。いわばこの「引きあい」とは、現実的対象と心理的対象を分離し、後者にのみ生産を限定したことの表れだとするのだ。よって彼らはカントにおいて「こうして欲望は生産として把握されても、ただ幻想の生産として把握されているにすぎ」ないと不平を溢す。現実的対象と心理的対象に世界を二分化し、それぞれの因果性に区分することはいわば、現実における欲望は欠如、すなわち獲得であり、精神においては生産であることに他ならない。よってカントは古典的欠如論を温存しているに過ぎないのであって、その理論は見かけ上の革命に過ぎないのだ。曰く、「一方に現実の社会的生産、他方に幻想の欲望的生産があるわけではない」。彼らはこのカント的、近代的区別を統合しようと、ある種の欲望一元論を展開するのだ。心理的領野だけでなく「社会的領野は直接的に欲望に横断され」る。よって「社会的生産(...)もっぱら欲望的生産そのものなのである」。 ここで本書の主題をもう一度思いだしてほしい。それは資本主義と精神分析の総合、マルクスとフロイトの総合である。すなわち、現実と幻想、唯物論と観念論を欲望という同一平面に再配置し、分析すること。近代的、カント的区別を乗り越え、それらを総合すること。ここにのみ、近代の超克が現れるのだ。しかしこのことがなぜ、近代の超克とまで言わしめるか。時は一九世紀中葉に遡る。1848年、マルクスの『共産党宣言』刊行に呼応するように、フランスでは二月革命がおき、ヨーロッパ各地へと革命の波が波及し、諸国民の春と呼ばれ、ウィーン、ブタペスト、ミュンヘンでも三月革命、さらにデンマークでは無血革命によって立憲君主制、いまで云う民主主義が成立し、ハンガリーは独立宣言を掲げ、そしてその末、かのナポレオンが初代大統領に即位した。そしてその翌年に書かれたのがキルケゴールの『死にいたる病』である。この奇跡のような同時代性、これもまた偶然ではない。マルクスか、キルケゴールか。これこそが近代の本質的な問いなのだ。確かにモダニズムといって想起するは、どちらかといえばマルクス、ニーチェ、フロイトであるだろう。しかし、ニーチェとフロイトとは1844年と1856年、その渦中に生まれた存在に他ならず、彼らの個人主義的で内面的、そして心理学的な論述とはキルケゴールの系譜であるとする方がよっぽど正確である。したがって、現実的で社会的で物質的なマルクスの処方箋か、或いは心理的で個人的で観念的なキルケゴールの処方箋か、これこそが根幹であり、この二元的な問いとはまさにカント的なものであるのだ。だからこそ、マルクスとフロイトの総合とは、近代を超える人類への第三の処方箋そのものなのだ。だからこそ「唯物論的」な「精神医学」なのであり、ゆえにそのようなパースペクティヴに基づく分析としてドゥルーズ=ガタリが紹介する言説とは、フランクフルト学派に先駆けて精神分析とマルクス主義を調和させようと試みた第二世代の精神分析家ヴィルヘルム・ライヒである。そしてここで紹介されるは彼の主著『ファシズムの大衆心理』である。 たとえば、貨幣=糞という、あの名高い等式のように。本当は、社会的生産は規定された諸条件においては、もっぱら欲望的生産そのものなのである。社会的領野は直接的に欲望に横断され、それは歴史的に規定された欲望の産物であり、リビドーは、生産力と生産関係を備給するために、いかなる媒介も、いかなる昇華も、いかなる心理的操作も、いかなる変形も必要としない、と私たちは主張する。ほかのなにものでもなく、ただ欲望と社会的なものが存在する。社会的再生産の最も抑圧的、屈辱的な形態も欲望によって生産され、欲望から出現する組織において生産される。まさに私たちは、この組織がどのような条件において出現するかを分析しなければならないだろう。だからこそ政治哲学の根本的問題とは、スピノザがかつて提起したものと同じなのだ(それをライヒは再発見したのである)。すなわち「何ゆえに人間は隷属するために戦うのか。まるでそれが救いであるかのように」。どうして人は「もっと税金を! もっとパンを減らして!」などと叫ぶことになるのか。ライヒがいうように、驚くべきことは、ある人びとが盗みをし、また別の人びとがストライキをするということではない。そうではなくて、むしろ飢えた人びとが必ずしも盗みをしないということ、搾取される人びとが必ずしもストライキをしないということである。なぜ人々は何世紀も前から、搾取や屈辱や奴隷状態に耐え、他人のためだけでなく、自分たち自身のためにさえも、これらを欲するようなことになるのか。ライヒは、ファシズムの成功を説明しようとして、大衆の誤解や錯覚をその原因として引き合いに出すことを拒否し、欲望の観点から、欲望の言葉で説明することを要求しているが、ライヒがこのときほど偉大な思想家であったことはない。彼はこう語っている。いや、大衆はだまされていたのではない。大衆は、一定のとき、一定の情況において、ファシズムを欲望していたのであり、まさにこのこと、群集心理的欲望のこの倒錯を説明しなければならない、と。ところが、ライヒはこれに対して十分な解答を与えるまでには至っていない。なぜなら、彼は、社会的生産プロセスの中に存在している、あるいは存在しなければならない合理性と、欲望の中の非合理的なものを区別し、この非合理的なものだけを精神分析の主題とすることによって、彼自身が打ち倒そうとしていた当のものを復活させているからである。ここでライヒが精神分析の使命としているのは、ただ社会的領野における「否定的なもの」「主観的なもの」「禁じられているもの」を説明することだけである。こうして必然的に彼は、合理的に生産される現実的対象と、非合理的な幻想的生産との間の二元論に帰ることになる(27)。彼は、社会野と欲望の共通の基準あるいは共外延を発見することを放棄するのだ。つまり唯物論的精神医学を真にうちたてるためには、彼には欲望的生産というカテゴリーが欠けていた。いわゆる非合理的な形態であれ、合理的な形態であれ、現実的なものはこのカテゴリーにしたがうべきであった。 スピノザ=ライヒに共通する問い、それは民はなぜ隷属を、大衆はなぜファシズムを欲望するかである。この問いに答えるには、それらを従来のマルクス主義的分析のように「大衆は支配者に欺かれている」「イデオロギーに騙されている」したがって正しい情報を与えるべきだ、と片付けることはできないし、単なる欲望の欠如、抑圧だけでは不十分である。なぜなら前者は社会的なものに問題を還元しており、後者は心理的なものに問題を還元しているからだ。そして、ここでスピノザ=ライヒはそれを欲望一元論によって解決する。すなわち、彼ら自身が隷属を、ファシズムを欲望していたのだ、と。このことから「ライヒがこのときほど偉大な思想家であったことはない」とドゥルーズ=ガタリは論じる。したがってドゥルーズ=ガタリの使命とは、厳密にいえば精神分析を普遍化することであり、いうなればそのための精神分析の政治化こそが、本書の主題なのである。しかし、にも関わらずライヒはカント的区別へと再び回帰してしまった。「社会的領域の「否定的なもの」「主観的なもの」「禁じられているもの」」のみの非合理な領域を精神分析の仕事とすることは、マルクスとフロイトの分裂を再定位することに他ならない。このことをドゥルーズ=ガタリは「こうして必然的に彼は、合理的に生産される現実的対象と、非合理的な幻想的生産との間の二元論に帰ることになる」とし、「合理性と、欲望の中の非合理的なものを区別し、この非合理的なものだけを精神分析の主題とすることによって、彼自身が打ち倒そうとしていた当のものを復活させている」と批判するのだ。彼らからすれば、社会的生産も集団の欲望も「欲望機械」によって駆動するメカニズムであって、分けて論ずべきものではなく、両者の絡み合う錯綜したエネルギーの流れの接続と切断の戯れこそ説明の対象となる。ドゥルーズ=ガタリは、ライヒをある意味で唯物論的精神医学の創立者として認めているが、ライヒが社会野と欲望の共通の基準を発見する視点に立たず、欲望的生産というカテゴリーを欠いていたことは批判されている。マルクス主義のように上下に構造を分割して経済的な要素を重視するのではなく、かといって精神分析のように個人の抑圧された無意識の表象を重視するのでもなく、個と集団を横断しながらさまざまに分岐してゆく欲望の流れを捉えるには、ドゥルーズ=ガタリが構築したような欲望の存在論、欲望の資本論を書かねばなるまい。 欲望が何かを生産するとすれば、それは現実を生産するのだ。欲望が生産者であるとすれば、欲望はただ現実において生産者であり、現実の生産者なのだ。
ここまで欲望は観念論的な欠如に基づく獲得ではなく、或いは観念論的次元に制約された生産でもなく、現実の生産であるといった歴史をプラトンからカント、ライヒ、そしてラカンを論ずることで一望してきた。これによって確かにその系譜というものは理解できたことだろう。ただ欲望が現実を生産する、といった類の主張はどうも直感的に了解し難いことだろう。歴史は理解した。しかし、そのパースペクティヴの本懐がわからなければ細かな分析へと進むことはできない。だが同時にその説明は難しい。なぜなら彼らの文章自身が分裂症的であるからだ。したがって、私はこのような分析を脱構築的に記述することを以下にて試みる。彼が統一性を拒むならば、私もまた統一性を拒むことで本書の理解へと前進できるのではなかろうか。ここで自明なことではあるが、一つ再確認しなければならないことがある。なぜ、彼らは新たな唯物論的分析ではなく、唯物論的精神医学と呼んだのか。ここまで読んだ者からしてみれば、これは精神医学というよりは世界の構造を理解するためのパースペクティヴのように思えるし、精神の分析というよりは世界に存在する様々なエレメント或いはオブジェクトがどのように相互作用しているかといったアクター・ネットワークやオブジェクト指向存在論のようなニュアンスを抱くことだろう。ではなぜ彼らはそれを精神医学と呼称するのか。それは文字通り、唯物論的に精神医学を行う是非をフロイト・ラカンから観取したからに他ならない。欲望や主体、精神症状などを正しく分析するには、フロイトやラカンのようにあらゆる行為や事件を、表象や意味、象徴などの観念的対象として扱い、オイディプスの三位一体へと、個人的な人生というツリー的な構造へと還元するのではなく、また、カントやライヒのように物質的で実在的な社会関係を分析の対象外として括弧に置くのでもなく、身体的配置や家族構造、経済的配置や権力的配置、文化や社会的効果、自然や物質的環境など広範な実在的・唯物論的関係の錯綜によって、リゾーム的に決定されるものだとしなければならない。彼らはこのように考えた。そしてこのことは本書以降、こうしたパースペクティヴに見切りをつけたドゥルーズではなく、むしろその深化を試みたガタリの言明に明らかである。曰く、「私は主観性はつねに集合的動的編成の結果であるという考えから出発するのです。集合的動的編成は個人の多数多様性だけでなく、テクノロジー的・経済的・機械的なファクターの多数多様性、前個人的といってもよい感覚的ファクターの多数多様性といったものをもたらします。個人というのは、私にとって、ある型の文化や社会的実践と結びついた動的編成の一特殊ケースにすぎないものです」。しかし、そのように考えると、我々は人間主体に対して世界がどう関係し合っているのかを分析しなければならない。そしてこの地点にて我々は必然的にクラインと合流する。すなわち、我々人間主体は世界の全体性のうちに存するが、そのすべてと関係づけられているわけではなく、−生後まもない赤子における家族を欠いた乳に象徴されるように−諸部分との有機性しかもたない。前節で論じた分裂的な全体性、統一を拒む諸部分の総和からなる全体性とは、その中心に主観性を導入すれば理解は鮮明となる。確かに、科学的な意味で世界はすべて有機的に連関し、その統一的な総合として存在するかもしれない。しかし、精神医学的な意味、主観の次元においてはどうだろうか。我々は確かに全体性のなかに位置しているが、有限な我々人間存在の手元にあるのは精々限定された諸部分との有機性であるだろう。このようにして関係づけられた諸部分の総和としての世界、それも身体的配置や家族構造、経済的配置や権力的配置、文化や社会的効果、自然や物質的環境など広範な実在的・唯物論的関係が錯綜した世界に、一つの人間主体を導入したとき、このパースペクティヴが紛れもない精神分析であること、そしてそのためには世界が人間主体とどう関連づけられているか、そして世界に存するエレメント、すなわち機械がどのように変容し、影響し合い、人間主体へと部分的に関係づけられるかを分析する是非が理解できるだろう。すなわち、唯物論的精神医学とは、人間主体とそれを取り巻く世界の分析であり、であるからして唯物論的に精神医学を、世界との複雑多様に交錯した実在的関係から人間主体を、分析しなければならないのだ。そしてそのとき、世界が人間主体を変容させるように、人間主体もまた世界を変容させる。その相互性によって自己が移り変わるのであり、他者もまたその影響を受ける。このとき、人々は何かの欠如を精神的領域において補うのではなく、人々は世界そのものへ何らかを生産している。すなわち、我々はたった今も世界を書き換えている。したがって、主体は精神的、観念論的な欠乏から認識されるのではなく、世界の実在的で唯物論的な関係を変容させる何らかの生産をおこなう存在として再定義されるのだ。そしてこのことは非人間機械においても同様のことが言える。冒頭の引用にもあったように「人間は万物の王者ではなく、むしろ、あらゆる形態あらゆる種類の深い生と接触し、星々や動物さえ引き受け、〈器官機械〉を〈エネルギー機械〉に接続することをやめず、彼の身体の中には木があり、口の中には乳房、尻の中には太陽があり、人間は宇宙の様々な機械を永遠に担っている」。すなわち、草木や乳房、太陽、そして勿論こうした自然以外も含めたあらゆる機械もまた、人間存在を取り巻く身体的配置や家族構造、経済的配置や権力的配置、文化や社会的効果、自然や物質的環境など広範な実在的・唯物論的関係を生産するのであり、それゆえに「ここでは自然−人間の区別も存在しない。すなわち、生産としてのあるいは産業としての自然においては、類としての人間の生における場合と同じで、自然の人間的本質と人間の自然的本質とは一致している。(...)自然は、人間を生産するとともに、人間によって生産されるものである」と論じるのだ。人間が機械として世界に対して生産を行うように、他のあらゆる機械もまた世界に対しての生産を行うのだ。 ここまで唯物論的精神医学と生産の論述を試みたわけだが、一つ未だ解決していない問題がある。それはすなわち生産としての「欲望」とは何か、「欲望」機械とは何か、欠如や獲得にない「欲望」とは何か、である。我々は先ほど主観性を導入し、それを解体することで生産という人間的語彙の機械的な意味を理解できた。ここにあるのは生産という人間的語彙の汎化であり、ゆえに欲望もまたこのように脱構築的な論述を試みるとしたい。まず一般的な意味において欲望とは何かを望むことである。それは例えば乳を欲望する赤子、権力を欲望する宰相などである。ではこれは如何にして汎化可能か。それは第一に志向性と呼べるかもしれない。乳を出す胸部や、太陽に向かって伸びゆくひまわり。これらは乳を欲望する赤子、権力を欲望する宰相と同様に、世界に対する何らかの生産へと至るある種のベクトルを有しており、機械とは必然的に何らかの志向性のようなものを有していると云えるだろう。しかし、岩や山のような静的な機械はどうだろうか。それらは前傾した例のように、どこかへと向かうような能動性があるのだろうか。また別の角度で言えば「志向」とは intentionality を連想させる。つまりその語は「意図」を含みうるのだ。しかしひまわりが太陽に向かうこと、胸部が乳を出すことに「意図」はない。その意味で、志向性という語は不適切と言える。とすれば、はたまたそれはコナトゥスと呼べるかもしれない。ドゥルーズがたぶんに影響を受けたスピノザ曰く「すべての事物は、その力の及ぶ限りにおいて、自らの存在を保持するために試行する(Each thing, as far as it can by its own power, strives to persevere in its being.)」(『倫理学』)。スピノザにおいてコナトゥスとは、すべての存在物に内在する「自らを保持・増強しようとする力」であり、その意味で言えばひまわりが太陽に向かって伸びるのは、自らを光に向けて増強しようとするひまわりのコナトゥスであり、胸部が乳を出すのは、子を育てることで自らの種族継続性を増強しようとするコナトゥスであり、岩や山が形を保ち、その場に留まろうとするのは自らを保持しようとするコナトゥスであるのだ。ここでは意識や意図を必ずしも必要とせず、しかしそれらには全て内在的な方向性があると言える。そしてここにドゥルーズ=ガタリは「無意識」という概念の重要性を見出す。 じじつ私たちがオイディプスの中に閉じこめられ、オイディプスを基準に測られるとたちまち一杯食わされ、生産という本来の唯一の関係は排除されてしまうからである。精神分析の偉大な発見は、欲望的生産の、無意識のもろもろの生産の発見なのだ。しかし、オイディプスの出現とともに、この発見はたちまち新たな観念論によって蔽い隠された。つまり工場としての無意識のかわりに古代劇場が、無意識の生産の諸単位のかわりに表象が、生産的無意識のかわりに、もはや自己を表現することしかできない無意識(神話、悲劇、夢…)がいすわったのだ。
一般的な説明でいえば、ひまわりは太陽を望むわけではなく、それは光化学反応に基づいた屈光性(phototropism)を示す。しかし、この屈光性は、ひまわりの内在的な方向性であり、これは無意識の「欲望」、無意識の「生産」以外の何ものでもない。そしてこうした人間を含むあらゆる機械の内在的な方向性が、絶えず実在世界へ新たなる生産を成立させ、諸関係を、諸機械を再配置するのだ。かくして、欲望という人間化された概念の汎化が完了した。それはいわば機械の有する意図なき志向性であり、コナトゥスであり、無意識のうちの内在的な方向性。こうしたものをドゥルーズ=ガタリは欲望と称するのだ。そして欲望なき機械とは存在しない。世界に存在する実在的な機械はすべてこうした内在的な方向性や力を有しており、もしそのような存在があるとすれば、誰も触知し得ず、考慮も不可能であり、触れることも、見ることもできない真の意味での無である。だからこそ冒頭のテーゼへと帰結される。すなわち、「欲望とは機械であり」、「機械は欲望であり続け」、そして、それらは絶えず不可分なる性質として結びつきあい、現実を生産し続ける。このようにして唯物論的精神医学の見地に基づく、生産としての欲望、或いは欲望機械を整理できることであろう。
接続と切断、
接続と切断
切断の三分類(採取的切断、離脱的切断、残滓的切断)
生産の三分類(生産の消費において器官なき身体の前提が必要)
パラノイア機械、技術機械、社会的機械
主体と分裂症
接続、切断、採取、欲望、生産
欲望機械、流れ、切断
欲望機械は二項機械であり、二項的規則、あるいは連合的体制をそなえた機械である。ひとつの機械は常に他の機械と連結している。生産的総合すなわち、生産の生産は、「そして」et「そして次に」et puis...という接続的な形態をもっている。つまり、ここには常に流れを生産する機械と、この機械に接続されてこの流れを切断し採取する働きをするもうひとつの機械が存在する(母乳-口といった関係がそうである)。そしてまた、今度は第一の機械が別の機械に接続され、これに対して第一の機械が切断あるいは採取の行動をする。したがって、二項系列はあらゆる方向に線型状にのびてゆく。連続する流れと本質的に断片的な、また断片化された部分対象との間に、欲望はたえず連結を実現する。欲望は流れさせ、みずから流れ、そして切断するのだ。「私はあらゆる流れるものを愛する。あの月経の流れさえも。受精しなかった卵を運ぶあの月経の流れさえも.......。」ミラーは彼の欲望の讃歌においてこう言っている。羊水の袋(羊膜囊)と腎臓の結石。毛髪の流れ、涎の流れ、精液、糞、尿の流れ。これらの流れはもろもろの部分対象によって生産され、またたえず他の部分対象によって切断され、これらがまた他の流れを生産し、生産された流れはまた別の部分対象によって再び切断される。(...) それゆえ、〈流れ-部分対象〉という接続的総合による連結は、また〈生産物-生産する働き〉という別の形態をもつことになる。生産する働きは、常に生産されるものに接木される。だからこそ、あらゆる機械が機械の機械であるように、欲望的生産は生産の生産なのだ。
「私はあらゆる流れるものを愛する。あの月経の流れさえも。受精しなかった卵を運ぶあの月経の流れさえも……。」ミラーは彼の欲望の讃歌においてこう言っている(6)。羊水の袋(羊膜囊)と腎臓の結石。毛髪の流れ、涎の流れ、精液、糞、尿の流れ。これらの流れはもろもろの部分対象によって生産され、またたえず他の部分対象によって切断され、これらがまた他の流れを生産し、生産された流れはまた別の部分対象によって再び切断される。あらゆる「対象」は流れの連続を前提とし、あらゆる流れは対象の断片化を前提としている。
何かに電気を引いてきたり、また水路のむきをかえたりするとき、こういう器用仕事をするひとが感ずる満足は、パパ-ママごっこや、タブーを犯す楽しみなどによっては、決して十分に説明されないだろう。たえず生産の働きを生産し、この生産の働きを生産物に接木してゆくという規則こそが、欲望機械、あるいは根源的な生産の特性なのである。
欲望機械が、あらゆる隠喩とは無関係に、真に機械であるといえるのは、いかなる点においてなのか。ひとつの機械は、ひとつの切断のシステムとして定義される。決して現実との分離として考えられた切断が問題なのではない。切断は変化する様々な次元において、考察される性格に従って実現される。まず第一に、およそ機械はすべて連続した物質的流れ(つまり質料)とかかわり、機械はこの流れを切りとるのである。機械はハムを切断する機械として作動する。切断は、連合する流れから何かを採取する働きをする。たとえば肛門とこの肛門が切断する糞の流れとの関係。口とミルクの流れとの関係、さらに口と空気や音の流れとの関係。ペニスと尿の流れ、そしてまた精子の流れとの関係。連合する流れは、それぞれ、理念的なものとして、豚の大きな腿の果てしない流れとして考慮されなければならない。じじつ質料は、物質が理念上所有している純粋な連続性を示している。ジョランが通過儀礼の際に吸引される団子状や粉末状のものを説明するとき、これらのものは、「理論的には唯ひとつの起源しかもたない果てしない連続体」から、つまり宇宙の果てまで拡がるただひとつの塊から採取される一集合として生じてくることを、彼は示している(30)。切断は連続に対立するどころか、むしろ連続の条件をなし、切断されるものを理念的な連続性として含んでいる、あるいは切断されるものをそのようなものとして定義するのである。すでにふれたように、あらゆる機械は、機械の機械である。機械が流れの切断を生産するのは、ただこの機械が、流れを生産するとみなされる別の機械に接続される限りにおいてのみである。そしておそらく、今度はこの別の機械がまた現実に切断を行うのである。しかし、この機械が切断を行うのは、さらに第三の機械との関係においてのみであって、この第三の機械は、理念的に、すなわち相対的に、無限に連続した流れを生産するのである。こうして肛門-機械と腸-機械、腸-機械と胃-機械、胃-機械と口-機械、口-機械と家畜の群れの流れ(「そしてまた、そしてまた、そしてまた……」)といった関係が生ずる。要するに、あらゆる機械は、その機械が接続されている他の機械との関係においては流れの切断であるが、その機械も、それに接続されている別の機械との関係においては、流れそのものであり、流れの生産である。まさにこれが、生産の生産という法則である。したがって、横断的あるいは超限的接続の極限においては、部分対象と連続的流れ、切断と接続が一体となっているのである。──いたるところに流れ-切断が生起し、欲望はそこから発生し、それこそが欲望の生産性そのものであって、たえず生産の働きを生産物に接木してゆくことになる(たいへん奇妙なことに、メラニー・クラインは部分対象という根本的な発見をしたにもかかわらず、この点に関して、流れの研究をなおざりにし、流れをとるにたりないものと言明している。メラニー・クラインは、こうして、あらゆる接続を短絡させてしまう(31))
欠如ではなく、生産としての欲望
もろもろの欲求は、欲望が生産する現実の中に生みだされる逆生産物である。欠如は欲望の逆効果であり、自然的社会的な現実の中に託され、備えられ、空胞になったものでしかない。欲望はいつも客体的実在の諸条件のすぐ近くにあり、こうした条件に結びつき、あるいは同伴し、これを越えて生き延びるようなことはなく、これとともに移動するのだ。
たとえ、私たちは草ではない、ずっと前に、ひとは葉緑素合成をしなくなった、ひとはだから食べなくてはならないのだ…、などと語ろうと、欲望はこのとき、おぞましいことに欠如の恐怖となる。ところがまさに、こう語ったりするのは、貧しい人びとや無一物のひとたちなのではない。それどころか逆に、彼らこそ自分が草と同類であり、欲望とはほんの僅かのものを「欲求」するにすぎないことをよく知っているひとたちなのだ。彼らに残されたものを欲求するのではなく、彼らからたえず剝奪されるあれらのもの自体を欲求するのであり、これらのものは主体の中心に欠如を構成していたのではなく、むしろ人間の客体性を、または人間の客体的存在を構成していたのだ。このような人間にとっては、欲望することはすなわち生産すること、現実に生産することなのである。現実的なものとは、不可能ではなく、反対に、現実的なものにおいては、すべてが可能であり、すべてが可能になる。
革命家たち、芸術家たち、そして見者たちは、単に客体的であることでみちたりている。つまり彼らは、欲望が生産的な力能によって生を抱擁していること、欲望が欲求をほとんど必要としていないからこそ、より強度なしかたで生を再生産するということを知っている。それを言うだけなら簡単だ、それは本の中のアイディアにすぎない、と思っている人びとにとっては心外だろうけれど。「私がしてきたわずかな読書から、私はこういう結論をひきだしたのである。生の中に最も深くもぐりこみ、生に形を与えた人びと、生そのものである人びとは、わずかしか食べず、わずかしか眠らず、たとえ物を持っているとしても、わずかしか所有しない。彼らは義務や生殖に関して、家族を永続させ国家を防衛するという限られた目的に関して、少しも幻想を抱いてはいなかった……幻想の世界とは、われわれが征服しえなかった世界である。それは過去の世界であり、未来の世界ではない。過去にしがみついたまま前進すること、それは囚人の足枷を引きずって歩くことである(24)。」生きた見者、それはナポリの革命家の衣装を着たスピノザである。私たちは欠如がどこから来るのか-そしてその主体的相関物として、幻想がどこから来るのか分っている。欠如は社会的生産において整備され、組織される。欠如は反生産の審級による逆生産物であり、この審級はもろもろの生産力に折り重なって、それらを独占してしまう。それは決して最初に来るのではない。生産は決してそれ以前の欠如とのかかわりにおいて、組織されるわけではない。むしろ欠如が先行する生産の組織にしたがって居座り、空胞化し、増殖するのである(25)。このような市場経済としての空虚の実践は、支配階級の技術に属する。それはつまり、ありあまる生産において欠如を組織すること、欲望のすべてを欠如への深刻な恐れのなかに投げ込むこと、欲望の外部にあるとみなされる現実的生産に対象を依存させることである(合理性の要求)。かたや欲望の生産は幻想のなかに入ってしまうのだ(ほかの何者でもなく幻想に)。
唯物論と観念論、唯物論的精神医学
欲望的生産は唯物論的精神医学の現実的カテゴリーであり、この精神医学は分裂者を〈自然人〉Homo natura として定義し、あつかう。
解釈の最も基礎的な次元では、このことは次のことを意味している。すなわち欲望にとって欠如している現実的対象は、それ自身としては、外的な自然的あるいは社会的生産にかかわるが、一方欲望の方は想像的なものを内的に生産し、これを現実のかわりにする、ということを意味しているのである。あたかも「それぞれの現実的対象の背後には夢見られた対象」が存在するかのように、あるいは現実的生産の背後には心的生産が存在するかのように。だからといって、精神分析は、対象の精神分析という最も悲惨な形態において、アイディア商品や市場の研究に行き着くと決まっているわけではない(麵類のパックや自動車や「何やかや」の精神分析)。しかし、幻想をそのあらゆる広がりにおいて解釈し、これを単にひとつの対象としてではなく、欲望を演出する特殊な一機械として解釈する場合でさえ、この機械は単に演劇的なものにすぎず、この機械は、これから分離されてはいるが、この機械を補足するものを存続させているのだ。まさにここで欲求は、相対的な欠如として定義され、それ自身の対象によって規定されている。ところが他方、欲望は、幻想を生産するものとして出現し、自己を対象から分離することによって自己を生産し、しかもまた欠如を倍加し、それを絶対的にしていき、この欠如を「存在の癒し難い欠陥」、あるいは「生そのものにほかならない存在欠如」にするのである。こうして欲望は、もろもろの欲求に支えられたものとして現われてくるほかない。欲望の生産性は、欲求という基礎のうえに、欲求が対象を欠いているという関係のうえに成立し続けることになる(支えの理論)。要するに、ひとが欲望的生産を幻想の生産に還元するとき、彼は観念論的原理からあらゆる帰結を引きだすことで満足していることになる。この原理は、欲望を欠如として定義するだけで、生産として、「産業的な」生産として定義しない。クレマン・ロセは、的確にこう語っている。欲望がその対象を明確にしようとして、欲望にまさに欠けている欠如を強調するたびに、「世界は、何であれこの世界とは別の世界と二重写しになって現れ、次のような道をたどることになる。欲望には対象が欠けている。したがって世界は、あらゆる対象を含んでいるのではなく、少なくともひとつの対象を欠いている。それがつまり欲望の対象なのである。したがって、欲望の鍵を所蔵する別の場所が存在する(この世界には、欲望の鍵が欠如している(22))」。 欲望が何かを生産するとすれば、それは現実を生産するのだ。欲望が生産者であるとすれば、欲望はただ現実において生産者であり、現実の生産者なのだ。欲望は、こうしたもろもろの受動的総合の総体であり、これが部分対象を、またもろもろの流れと身体を、機械として組織し、みずから生産の単位として作動する。現実的なものは欲望から生ずるのであって、それは無意識の自己生産にほかならない欲望の受動的総合の結果である。欲望には何も欠けていないし、対象も欠けてはいない。欲望に欠けているのはむしろ主体であり、欲望は固定した主体を欠いているのだ。
もし唯物論的精神医学が、欲望の中に生産の概念を導入するということによって定義されるとすれば、それは分析機械、革命機械、そして欲望機械の間の最終的な関係という問題を、終末論的なことばで提起せざるをえない。
主体論
欲望が何かを生産するとすれば、それは現実を生産するのだ。欲望が生産者であるとすれば、欲望はただ現実において生産者であり、現実の生産者なのだ。欲望は、こうしたもろもろの受動的総合の総体であり、これが部分対象を、またもろもろの流れと身体を、機械として組織し、みずから生産の単位として作動する。現実的なものは欲望から生ずるのであって、それは無意識の自己生産にほかならない欲望の受動的総合の結果である。欲望には何も欠けていないし、対象も欠けてはいない。欲望に欠けているのはむしろ主体であり、欲望は固定した主体を欠いているのだ。
この主体は、いたるところで、ある生成、ある転身から報償を受け取り、みずからが消費する状態から生まれ、それぞれの状態において生まれ変わる。だから、新たに消費を終えるたびごとに、主体はその時点において生まれ変わって現われる。「だから、これは私なのである。だから、これは私のものなのだ……。」マルクスがいっているように、苦しむことさえ、自己を享受することである。。おそらく、欲望的生産はすべて、すでに直接的に消費であり消尽であり、したがって「享楽」なのである。
クロソウスキーは、ニーチェを註釈して、このことをみごとに指摘したのである。物質的感動としての気分 Stimmung は、最も高度の思考と最も尖鋭な知覚を構成するものとして現前するというのである(19)。「遠心力は、永遠に中心を逃れるわけではなく、再び中心から遠ざかろうとして、新たに中心に近づく力なのである。個人が自分自身の中心だけを求めて、自分がその一部をなしている円環全体を見ない限り、このような激しい振動は個人を圧倒することになる。この振動が個人を圧倒するのは、自分が見いだしえない中心に立つならば、振動のひとつひとつが、自分自身だと思いこんでいるのとは別の個人に対応しているからである。したがって自己同一性は本質的に偶然的で、あれやこれやの自己同一性の偶然性が、様々な個人性を必要とするためには、それぞれの同一性が一連の個人性を遍歴しなければならないことになる。」
文献学の教授であるあのニーチェという自我などは、もともと存在してはいないのだ。この自我は突然理性を失うと同時に、もろもろの奇妙な人物に同一化することになる、などということではないのだ。一連の諸状態を通過してゆくニーチェ的主体があり、この主体が、歴史上の様々な名をこれらの諸状態と同一化するのである。歴史上のすべての名前、それは私である…。自我は円環の中心を放棄したが、いまや主体がこの円環の円周上に拡がっている。中心にあるのは、欲望の機械であり、永劫回帰の独身機械である。この機械の残滓的主体として、ニーチェ的主体は、この機械が回転させるあらゆるものから、読者がニーチェの断片的著作にすぎないと思っていたあらゆるものから、幸福感に満ちた報償(ヴォルプタス)を引きだしてくる。「ニーチェがこれ以降追求しようとするのは、ひとつの体系の実現ではなくて、ひとつのプログラムの適用なのである……。これはニーチェ的言説の残滓という形で現われるが、いわば彼の歴史主義の全レパートリーを形成することになる。」人物に同一化することではなく、歴史上の名前を器官なき身体の上のもろもろの強度的地帯に一体化すること。だから、そのたびに、主体は叫ぶのだ、「これは私だ、だから、これは私だ」。これまでに分裂者ほど歴史を作り、歴史の方法を作り出したものはいない。彼は、いっきょに世界史を消費するのである。私たちは、分裂者を〈自然人〉Homo natura として規定することから出発したが、彼は最後には〈歴史人〉Homo historia なのである。
欲望とは機械であり、欲望の対象もやはりこれに接続されたもうひとつの機械である。したがって、生産物は生産する働きから採取される。そして生産する働きから生産物に移行するプロセスで、何かが離脱し、これは遊牧し放浪する主体に残余を与える。
生産の生産、消費、登録
すなわち、生産はそのまま消費であり、登録なのである。登録と消費は直接に生産を規定しているが、しかも生産そのものの真っ只中で生産を規定している。だから、すべては生産なのだ。ここに存在するのは、生産の生産、つまり能動と受動の生産であり、登録の生産、つまり分配と指標の生産でり、消費の生産、享楽と不安と苦痛の生産なのである。すべてはまさに生産であるから、登録はただちに消費され消尽され、この消費は直接に再生産される(3)。これがプロセスという言葉の第一の意味である。すなわち、登録と消費を生産そのものの中に組み込むこと、登録と消費を、同じひとつの過程の中の生産とみなすことである。
プロセスは、目標や目的と考えられてはならないし、プロセス自身を無限に継続することと混同されてもならない。プロセスの目的化、あるいはプロセスの無限の継続は、厳密にいえば、そのプロセスの早すぎる無謀な停止と同じことであり、それは病院で見られるような、人工的な分裂症者、自閉症化して廃人になり、臨床実体として生みだされる存在をつくりだす操作にほかならない。ロレンスは愛についてこう語っている。「私たちは、ひとつのプロセスを目標としてしまった。あらゆるプロセスの目的は、そのプロセスの無限の継続ではなくて、プロセスそのものの完成である…。プロセスはそれ自身の完成をめざすべきであって、何かしら恐ろしく増大する強度とか、何かしら恐ろしい極限、ついには心も体も破壊される極限などといったものではない。」
「プロセス」ということばの意味にしたがうなら、生産の上に登録が折り重なるといっても、この登録の生産そのものは、生産の生産によって生みだされてくる。同様に、この登録に消費が続くのであるが、消費の生産は登録の生産によって、また登録の生産の中で生みだされるのだ。
シュレーバー控訴院長はといえば、彼はこうしたことをじつに生き生きと意識している。宇宙的な享受の比率は定まっているのだから、シュレーバーが女性に変容するのと引きかえに、神はシュレーバーから享楽をうることを要求する。ところが、この神の享楽のうち、シュレーバー控訴院長が体験しうるのは、その残滓の一部だけであり、それは自分の苦しみの報酬であり、あるいは自分が女性になることの報償である。「神にこの享受を提供するのは、私の義務である。そして、このことによって、もしわずかの官能的な快楽が私に与えられるならば、私はそれを受けとることは正当であると感じる。それは長い間、私の運命であった過大な苦悩と窮乏とを少し埋め合せるものにほかならない。生産のエネルギーとしてのリビドーの一部が登録のエネルギー(ヌーメン)に変容したのと同様に、登録のエネルギーの一部は消費のエネルギー(ヴォルプタス)に変容するのである。まさにこの残滓のエネルギーが無意識の第三の総合、「だから、これは……である」《c'est donc...》という連接的総合、すなわち消費の生産を推進する。
ここでもまたマルクスの次の警告を思い起そう。小麦の味から、誰がそれをつくったのかを見ぬくことはできない。生産物から、生産体制や生産関係を見ぬくことはできない。生産物が、生産物が依存する現実の生産過程にではなく、原因結果、了解、表現といった理念的な諸形式に結びつけられるなら、生産物はそれだけ特殊なもの、語りがたいほど特殊なものに見えてくるのだ。
分裂症
いったい分裂者を、現実から分離され、生から切断された自閉的なあの廃人として思い描くことが、どうして可能になったのか。
もっと悪いことに、精神医学は、どうして分裂者を実際にあの廃人に変え、あのような死人になった器官なき身体の状態に還元しえたのか。
贋の唯物論と観念論の典型的形態の間に、根本的なちがいはない。分裂症の理論を特徴づけるのは次の三つの概念であり、これらはこの理論の三位一体の定式を構成する。観念解離(クレペリン)、自閉症(ブロイラー)、時間-空間あるいは世界内存在(ビンスヴァンガー)の三つである。第一のものは説明的な概念であり、これは分裂症に特有の障害や根本的な欠損を指摘しようとするのである。第二のものは了解的な概念であり、錯乱そのもの、あるいは切断という効果の特殊性を指摘する。それは「現実からの離脱であって、この離脱は内的生活の相対的あるいは絶対的な優位をともなう。」第三のそれは表現的な概念であり、この概念は錯乱する人間を彼自身の特有な世界の中に発見し、または再発見しようとする。これら三つの概念に共通しているのは、分裂症の問題を、「身体のイメージ」を介して自我に関係づけていることである(これは魂の最終的な化身にすぎず、そこには唯心論と実証主義が混交している)。ところが、自我とはパパ-ママと同じで、ずっと前から、分裂者はもはやそんなものを信じてはいない。分裂者は、こうした問題の彼岸に、あるいは背後に、その下に、あるいは別のところにいるのであって、とにかくこうした問題の中にはいないのだ。
結局フロイトは分裂症者が好きではないのだ。彼は、オイディプス化に対する彼らの抵抗をきらい、むしろ彼らを獣のように扱う傾向をもっている。フロイトはこういっている。彼らは言葉を物そのものと取り違え、無感動でナルシシストで、現実から切断されていて、転移をうけつけず、哲学者に似ている。「これは望ましくない類似である」と。
分裂症の問題が自我の次元にひきもどされるたびに、もはや分裂者のものとして前提された本質や特徴を「味わう」ことしかできはしない。愛情や憐憫をもって対するとしても、あるいは嫌悪をもって再び吐き出すことになるにしても、同じことだ。分裂者は、あるときは解離した自我であり、またあるときには切断された自我であり、また一番気のきいた別の場合には、存在をやめたことのない自我、独自に現存在している自我、しかも世界内にある自我であり、これは狡猾な精神医学者、理解力にたけて卓越した観察者、つまり現象学者によって見出されたのである。
パラノイア
精神医学者クレランボーの有名な命題は確かな根拠をもっているように思える。包括的で体系的な性格をもつ錯乱〔妄想〕は、細分化した局所的な自動性の現象に対して二次的なものであるという命題である。じじつ錯乱は、欲望機械の生産過程を収集する登録を特徴づけるものである。パラノイアにおいて、また分裂症のパラノイア気質的形態においてさえ認められるように、錯乱は、それ自身に固有の総合や情感をそなえてはいるが、自律的な領域を構成するものではなく、欲望機械の作動や不調に対しては二次的なのである。ところが、クレランボーが「(精神的)自動症」の用語を用いたのは、反響、有声化、閉鎖音の破裂、無意味音というふうに、語幹を形成しない音声現象を示すためにすぎなかった。クレランボーは、ここに、感染あるいは中毒の機械的な効果を見ていたのである。彼は、ここから大部分の錯乱を自動症の結果として説明した。錯乱のその他の部分、すなわち「個人的な」部分に対しては、この部分は、反応的性質のもので「性格」に帰するとされ、この性格の現われは自動症に先行するものとされた(たとえば、パラノイア的性格はそのようなものである(20))。だから自動症の中に、クレランボーは、語の最も一般的な意味での神経学的メカニズムを見るだけで、欲望機械を作動させる経済的生産の過程を見なかったのだ。生活史に関しては、彼は先天的あるいは後天的な性格を援用することで満足していた。マルクスが次のように語った意味で、クレランボーは精神医学のフォイエルバッハなのである。「フォイエルバッハが唯物論者であるかぎりにおいて、彼には歴史は現われてこない。彼が歴史を考察しているかぎりにおいて、彼は唯物論者ではない。」真に唯物論的な精神医学は、これとは逆に、次のような二重の操作によって定義される。すなわち、メカニズムの中に欲望を導入すること、欲望の中に生産を導入することである。
機械は欲望であり続け、欲望の配置であり続け、欲望は、根源的な抑圧と抑圧されたものの回帰を通じて、パラノイア機械、奇蹟を行う機械、独身機械を次々と遍歴して、自分の歴史を歩み続けるのである。
技術、社会的機械
欲望機械は、まったく自分自身で反生産というものを生みだすのであるが、これに対して、技術機械に固有の反生産は、もっぱら過程の再生産にとって外的な諸条件の中において生みだされる(これらの諸条件は「事後に」到来してくるものではないけれども)。したがって技術的機械は経済的カテゴリーではなく、たえずひとつの社会体すなわち社会的機械を指示している。この社会的機械は、技術的機械とは別のものであり、こうした再生産を条件づけているのである。それゆえ技術的機械は社会的生産の一般的形態の原因ではなく、ただ単にその指標であるにすぎない。こうしてもろもろの手動機械と原始社会、水力機械とアジア的社会形態、産業機械と資本主義といった組み合せが現われてくる。だから、私たちが社会体を器官なき充実身体の類比物として措定したとき、そこにはやはり重要な相異が存在していたのだ。というのも、欲望機械は欲望の経済学の基本的カテゴリーであり、まったく自分自身だけで器官なき身体を生みだすものであり、もろもろの代行者と機械自身の部品が区別されず、生産関係とこの諸機械自身の間の関係も、社会性と技術性も区別されないからである。欲望機械は、技術的であると同時に社会的なのである。
アルマンの燃やされたヴァイオリンや、セザールの圧縮された車体が、その例である。もっと一般的には、ダリの批判的パラノイアの方法は、社会的生産の一対象における欲望機械の爆発を可能にしている。ところが、すでにラヴェルは、磨滅よりも乱調を好んでいた。ゆるやかな減速や消滅に代えて、彼は急激な休止、逡巡、急テンポ、不調な音、破裂音といったものを用いていた(28)。芸術家はもろもろの対象を操る達人なのだ。彼は、壊され、焼かれ、調子の狂ったもろもろの対象を自分の芸術の中に組み込み、これらを欲望機械の体制の中へ連れ戻すのだ。欲望機械の乱調は、欲望機械の作動そのものの部分をなしている。芸術家は、パラノイア機械、奇蹟を行う機械、独身機械といった諸機械を、それらに対応する技術的機械として提示するが、それは技術的機械に欲望機械を注入することでもある。それだけではない、芸術作品は欲望機械そのものである。芸術家は、自分の宝を蓄積して、やがて起きる爆発にそなえている。だから彼は、破壊がどんなに早くきても、早すぎることはないと思っている。
欲望的生産にねらいを定める社会的抑圧が巨大な規模で存在するという事実は、少しも私たちの原理を損なうものではない。欲望は現実的なものを生産する、つまり欲望的生産は社会的生産と別のものではない、これが私たちの原理なのである。欲望に対して、特有な存在形態を認め、社会的生産の物質的現実に対立する精神的あるいは心理的現実という存在形態を認めることなど問題外である。欲望機械は、こうした幻想的あるいは夢幻的機械ではないのだが、幻想的、夢幻的機械は、技術的かつ社会的機械と区別され、むしろこれらの機械を裏打ちするものとみなされている。もろもろの幻想は、むしろ二次的な表現であり、こうした表現は、与えられた環境における欲望機械と社会的機械の同一性から派生してくるのである。だから、幻想は決して個人的なものではない。それは制度論的精神分析がいみじくも指摘した通り、あくまで集団幻想なのである。そして次の二種類の集団幻想があるとすれば、この同一性が二つの方向で解釈されうるからである。ひとつは欲望機械が、これを形成する巨大な群集的なマッスにおいて捉えられる場合であり、いまひとつは、社会諸機械が、これを形成する欲望の基本的な諸力に関係づけられる場合である。だから集団幻想においては、リビドーが、現存の社会野を、その最も抑制的な形態も含めて備給することがありうるし、あるいはまったく逆に、リビドーが逆備給を発生させ、この現存の社会野に革命的欲望を接続することもありうる(たとえば、十九世紀の偉大な社会主義的ユートピアは、理想的モデルとしてではなく、集団幻想として、すなわち欲望を現実に生産する代行者として作用し、現状の社会野の脱備給、「脱機構」を可能にして、欲望それ自身の革命的機構に味方するものにほかならない)。しかし二つの機械の間には、欲望機械と技術的社会的機械の間には、何ら本性上のちがいは存在しない。区別はたしかに存在するが、それは単に機械の大きさの比に対応する体制の区別にすぎない。これらは、体制のちがいを除けば、同一の機械なのである。もろもろの集団幻想はまさにこのことを示している。
技術的機械が作動するには、調子が狂わないという条件がいることは明らかである。技術的機械自身の固有の限界は、その磨滅であって、その乱調ではない。マルクスはこの単純な原理を根拠として、次のことを明らかにしている。技術的機械の体制とは、生産手段と生産物とを厳密に区別するものであり、この区別のお蔭で、この機械は生産物に価値を与え、この機械自身が磨滅するにしたがって、機械は価値を失うというのである。これとは逆に、欲望機械は作動しながら、たえず調子を狂わせ、ただ調子を狂わせることによって作動する。つまり生産する働きは、たえず生産物に接木されるのであり、機械の部品はまた燃料でもある。芸術は、しばしば欲望機械の特性を利用して、まさに集団幻想を創造するが、集団幻想は社会的生産と欲望的生産を短絡させ、技術的機械の再生産過程に、乱調の機能を導入するのだ。
農耕社会、専制君主、資本主義
私たちに言えるのは、あらゆる社会的生産が一定の条件のもとで、欲望的生産から生ずるということである。すなわち、まず〈自然人〉がいる。しかし、さらに正確につけ加えるべきことは、欲望的生産とは何よりもまず社会的であり、それが自身の解放に向かうことになるのは最後でしかないということである(まず〈歴史人〉がいる)。つまり器官なき身体そのものが起源において与えられ、次にそれが異なる種類の社会体の中に投影されたわけではないのである。もしそうならば、あたかも原始の遊牧民の首長たる偉大なるパラノイア人が、社会的組織の根底に存在していたかのようであろうが、そうではないのだ。社会的機械すなわち社会体は、〈大地〉の身体、〈専制君主〉の身体、〈貨幣〉の身体などでありうるが、これは、決して器官なき身体の投影ではない。むしろ、器官なき身体のほうが、脱領土化した社会体の最後の残滓なのである。社会体の課題は、いつでもこういうものだった。つまり欲望の流れをコード化し登記し登録して、どんな流れも、せきとめられ、整流され、管理されることなしには、流れないようにすること。原始的な大地機械がもはや十分なものでなくなったとき、専制機械が一種の超コード化を設立した。ところが資本機械は、専制〈国家〉の多少とも古びた廃墟の上に打ちたてられたものであるかぎり、まったく新しい状況の中にある。つまり、もろもろの流れの脱コード化と脱領土化という状況である。この状況に資本主義は外から対決するのではない。なぜなら資本主義はこの状況を糧として生き、この状況の中に自分を支える条件と自分の内容をなす素材を同時に見いだし、この状況をあらゆる暴力をもって強制するからである。その徹底した生産も抑制も、これと引き換えにしか、実現されないのだ。じじつ資本主義は、二種類の流れが出会うところに発生するのであって、そこでは貨幣-資本の形態をとる脱コード化した生産の流れと、「自由な労働者」という形態をとる脱コード化した労働の流れが出会うのだ。だから、それ以前の社会的機械とは異なって、資本機械は、社会野の全体をおおいつくすコードを生みだすことはできない。資本機械は、コードという観念そのものにかえて抽象量の公理系を、貨幣としてもたらし、この公理系は、たえず社会体の脱領土化運動をより遠くにおしすすめる。資本主義は脱コード化の境界に向かい、それは社会体を破壊して器官なき身体に向かい、この身体の上で、脱領土化した領野において、欲望の流れを解放する。この意味では、ちょうど、躁鬱病とパラノイアが専制機械の産物であり、ヒステリーが大地機械の産物であるように、分裂症は資本主義の産物である、と語ることは正確なことであろうか。
流れの脱コード化と社会体の脱領土化は、こうして資本主義の最も本質的な傾向をなすことになる。資本主義はこの自分の極限にたえず接近するのであり、これはまさに分裂症的なものである。資本主義は、器官なき身体の上で、脱コード化した流れの主体として、全力をあげて分「裂者を生みだそうとするのだ。彼は資本家より資本家的であり、プロレタリアよりプロレタリア的である。この傾向をさらに遠くまで、資本主義がついに、自分自身のあらゆる流れとともに月世界に送られてしまうまで、続けること。実際には、まだ私たちは何もわかっていないのだ。分裂症とは私たちの病気であり、私たちの時代の病気であるといわれるとき、単に現代の生活が狂気を生むということを意味しているはずはない。問題は生活の様式ではなくて、生産の過程なのだ。問題はまた単なる平行関係でもない。確かに、コードの破綻という観点から見れば、たとえば、分裂症者における意味の横滑りという現象と、産業社会のすべての段階で不調和が増大するメカニズムとの間には、平行関係が存在していることは確かであっても。じつは私たちが言いたいのは、資本主義は、その生産のプロセスにおいて恐るべき分裂症的負荷を生みだすものであり、そのため資本主義は、抑制の全力をこれに向けるが、この負荷は資本主義的過程の極限としてたえず再生産される、ということである。なぜなら、資本主義は、自分自身の傾向においてつき進むと同時に、みずからこの傾向に逆らい、これを抑止することをやめないからである。それはみずからの極限に向かうと同時に、この極限を拒絶することをやめない。資本主義は、想像的であれ、象徴的であれ、あらゆる種類の残滓的、人工的領土性を設立し、あるいは復興し、この領土性の上に、よかれあしかれ、抽象量から派生した人物たちを再コード化し、刻印するのだ。国家も、故郷も、家庭も、すべてが再来し、復活することになる。まさにこれによって、イデオロギーの上からいえば、資本主義は「これまで信じられてきたあらゆるものをよせ集めた雑色の絵」といわれる。現実的なものは、不可能ではない。それはただ、ますます人工的なるものとなる。利潤率の低下傾向と、剰余価値の絶対量の増大という二重の運動を、マルクスは相反傾向の法則と呼んだ。流れの脱コード化または脱領土化と、流れの暴力的かつ人工的再領土化という二重の運動が存在するということは、右の法則の帰結として考えられる。資本機械が、もろもろの流れから剰余価値を引きだすために、流れを脱領土化し脱コード化して、これらを公理系化すればするほど、官僚や警察のような資本主義の付属装置は、剰余価値の増大する部分を吸収しながら、ますます力ずくで再領土化をすすめることになる。
十分な定義は、現代の様々な領土性の概念との関係によって可能となる。神経症患者とは、私たちの社会の残滓的、人為的な領土性にいすわったままで、これらをすべて究極の領土性としてのオイディプスの上に折り重ねているひとのことである。オイディプスは、分析家の診察室の中で、精神分析家の充実身体の上に再構成されるのである(その通り、経営者とは父である。国家の首長もそう。それに、先生、あなたもまた……)。倒錯者とは、策略を文字通りに信用するひとのことである。あなたはそれを欲し、あなたはそれを手にいれるだろう。社会が私たちに提案するのよりも、もっと無限に人工的な領土性を。つまり、無限に人工的な新しい家族を、ひそかな空想的社会を。分裂者については、たえず移動し、さまよい、よろめく不安定な歩みで、彼は脱領土化をどこまでも遠くへとつき進め、自分自身の器官なき身体の上で社会体を果てしなく解体させるのであって、おそらくこれは、みずから大地、分裂者の散歩を再発見するための独自のやり方なのである。分裂症者は、資本主義の極限に位置する。彼は、資本主義の発展の傾向であり、その剰余生産物であり、そのプロレタリアであり、皆殺しの天使である。
コード
およそあらゆる機械は、一種のコードをそなえ、このコードは機械自身の中に組み込まれ、その中にストックされている。このコードは、身体の様々な領域に登録され伝達されるということと不可分であるのみならず、それぞれの領域が、他の領域との関係において登録されるということとも不可分である。
シニフィアンの連鎖あるいは諸連鎖を巻き込む無意識のコードという、あの豊かな領域を発見し、これによって分析の仕方を変容した功績は、ラカンのものである(これに関する基本的なテクストは、『盗まれた手紙』である)。この領域は、その多様性のために、じつに奇妙なものとなり、ひとつの連鎖として、あるいはひとつの欲望的コードとして語ることさえも、容易ではなくなる。こうした連鎖はもろもろの記号によってできているからシニフィアンといわれているが、これらの記号そのものはシニフィアンではない。コードは一般の言語活動よりも、隠語に似て、開かれた多義的な形成体である。そこで記号は任意の性質をもち、その支持体とは無関係なるものである(あるいはむしろ、この支持体の方が記号に無関係なものではないのか。支持体とは、器官なき身体である)。記号は、きまった平面をもたず、あらゆる段階において、あらゆる接続において、作用している。それぞれの記号は自分自身の言語を語り、他の記号とともに、もろもろに総合を実現するが、これらの総合はその構成要素の次元においては間接的であり続けるので、それだけますます横断的な仕方で直接的な総合を打ちたてる。これらの連鎖に固有の離接の働きは、まだ排他的でなく、排他作用が生起するのは、抑止するものや抑圧するものの働きによるのである。抑止し抑圧するものは、支持体を規定し、特定の人称的な主体を固定しようとする(33)。いかなる連鎖も等質的ではない。むしろ、それは異なるアルファベットの文字が行列をなすのに似て、この行列には、突如として表意文字や絵文字があらわれてくる。通っていく象や昇る朝日のちょっとしたイメージなどである。もろもろの音素や形態素などを(構成することなく)混合している連鎖の中に、突如として、パパのひげやママの高くあげた腕、リボン、小さい女の子、お巡り、短靴などといったものが現われる。それぞれの連鎖は、他のもろもろの連鎖の断片を捉え、そこから剰余価値を引きだすのであるが、それはちょうど蘭のコードがすずめ蜂からその形を「抽出する」ようなものだ。これがコードの剰余価値の現象である。それは転轍機やくじ引きのシステムの全体のようなもので、部分的に相互依存する確率的な諸現象を形成し、マルコフの連鎖に類似している。内部のコードや外部の環境から由来して、組織体のひとつの領域から他の領域へと登録や伝達が行われ、大きな離接的総合の道がたえず分岐してゆくのに従って、こうした登録や伝達は互に交錯し合ってゆくことになる。ここにひとつのエクリチュールがあるとすれば、それは現実的なものにじかに書かれるエクリチュールである。それは、奇妙にも多義的で、決して記号と意味とが一対一の対応関係をもたず、線型的でなく、決して推論的でない、横断記述的エクリチュールである。このエクリチュールは、もろもろの受動的総合の「現実的未組織状態」の全領域であり、この領域に〈シニフィアン〉と呼びうるようなものを求めても無駄であろう。この領域はもろもろの連鎖をたえず様々な記号として構成し分解しているが、これらの諸記号は、何らシニフィアンであることを使命としないのである。欲望を生産すること、これこそは記号の唯一の使命である。〈それ〉が自分を機械として作動させるあらゆる方向において。
切断の三形態
これらの諸連鎖は、たえずあらゆる方向に離脱するための基地であり、ここにはいたるところにそれ自身で価値をもつ分裂があり、とりわけこれは補塡してはならないものである。したがって、まさにこれは機械の第二の性格をなすのである。それは〈離脱-切断〉であって、先にふれた〈採取-切断〉と混同されてはならない。〈採取-切断〉はもろもろの連続的な流れを対象とし、もろもろの部分対象にかかわっている。〈離脱-切断〉は異質なもろもろの連鎖に関連し、宙を舞うブロックや煉瓦のように、離脱可能な線分や可動的なストックとして実現されるのだ。それぞれの煉瓦が遠くに放たれ、煉瓦自体が異質な諸要素から構成されているものとみなさなければならない。それぞれの煉瓦は、異なるアルファベット記号による登記ばかりではなくて、もろもろの形象、さらには一本のわらや多数のわら、またおそらくは死体をも内に含んでいる。流れからの採取は、連鎖からの離脱を前提する。そして生産における部分対象は、あらゆる総合の共存と相互作用における登録のストックあるいは煉瓦を前提している。流れを形成するコードの中に断片的な離脱が起きないかぎり、どうして流れに対する部分的な採取が存在しえようか。少し前に私たちが、分裂者は欲望の脱コード化した流れの極限に存在すると語ったとき、このことは社会的コードに関して理解されるべきであった。社会的コードにおいては、〈専制君主のシニフィアン〉があらゆる連鎖を粉砕し、これらを線型状にして、記号と意味とを一対一に対応させ、それぞれの煉瓦を不動の要素として用い、秦帝国の長城を築きあげている。しかし分裂者は、これらの煉瓦を常に離脱させ、抜きとり、あらゆる方向に運び去って、欲望のコードにほかならない新しい多義性を取り戻す。あらゆる構成も分解も、可動的な煉瓦によって行われるわけである。機能解離 diaschisis と本能解離 diaspasis について、モナコウは語っていた。それは、ひとつの障害が、この障害を他の領域に伝えてゆく神経線維に従って拡がり、純粋にメカニカルな観点(機械的な観点ではない)からすると理解しえない諸現象を、遠隔的に引き起すことであり、あるいはまた体液の異常が神経エネルギーの偏移をもたらし、もろもろの本能領域に分断され断片化される動向を生み出すことである。登録の手続きという観点からみれば、煉瓦は、欲望機械の本質的な部品である。つまり〈構成的部分〉であると同時に〈分解の産物〉でもあって、それはただ一定の瞬間に、ただ神経組織という大きな時間生成機械との関係において、空間的に配置される(「オルゴール」のようなタイプの、非空間的な配置をそなえたメロディ生産機械を思い起してもいい(34))。モナコウとムルグの書物を唯一無二のものとしているもの、つまりこの書物自身に着想を与えたジャクソン主義を全面的にこの書物がのり超えている理由とは、煉瓦の理論であり、その離脱、その断片化の理論である。いや、とりわけ、こうした理論が前提としていること、つまり神経学の中に欲望を導入したことである。
欲望機械の第三の切断は、〈残余または残滓-切断〉であり、機械の傍にひとつの主体を、機械の隣接部品として生みだす切断である。ところで、この主体が、特定の人称的な自己同一性をもたず、またこの主体が、器官なき身体の未分化状態を破壊することなくこの身体を横断するとすれば、この主体が単に機械の傍のひとつの部分であるからだけではなくて、それ自体分割されたひとつの部分であるからだ。機械によって操作される、流れからの採取と連鎖からの離脱に対応する諸部分が、この部分にそれぞれ帰属している。こうして主体は、自分が通過する諸状態を消費して、これらの諸状態から誕生してくるのだ。つまり、もろもろの部分からなる一部分として、これらの諸状態のひとつひとつから絶えず現われてくるのだ。これらの部分のそれぞれは、一瞬間における器官なき身体の内容をなすのである。だからこそラカンは、語源的というより機械的な作用を次のように展開する。parere は procurer〔与える〕であり、separare は separer〔分ける〕であり、se parere は s'engendrer soi-même〔自分自身を生みだす〕である。ラカンはこの作用の強度的性格を強調しているのだ。すなわち、部分は全体と無縁であり、「部分は、ただ自分一個で部分という役割を演じているにすぎない。患者〔主体〕は、自分自身が部分となること partition から、自分自身の出産 parturition にとりかかるのだ……。したがって患者〔主体〕は、ここで自分自身にかかわるものを、私たちが市民の身分〔社会の一部分〕と呼んでいる状態をみずからに与える procurer ことができる。いかなるひとの人生においても、こうした状態に至ること以上に執念をかりたてるものは何もない。部分 pars であるためには、患者〔主体〕はまさしく自分の利益の大部分さえ犠牲にするであろう(35)」…。他の二つの切断〔〈採取・切断〉と〈離脱・切断〉〕と同じく、主体を生ずる切断があらわにしているものは欠如ではない。そうではなくて、逆に、取り分として主体に帰属する部分であり、残余として主体に帰属する収入である(ここでもまた、去勢というオイディプス的モデルはなんと悪しきモデルであることか)。じじつ、これらの三つの切断は分析の行為ではなくして、それら自身が総合の働きそのものなのである。もろもろの区分〔分割〕が生みだされるのは、これらの総合働きによってである。子供のげっぷでミルクが戻ってくる例を考えてみよう。このミルクは、連合的な流れから採取したものの復元であるとともに、シニフィアンの連鎖からの離脱の再生産であり、同時にまた主体自身の取り分として主体に帰属する残滓でもある。欲望機械は隠喩ではない。それは、三つの様式にしたがって、切断し切断される。第一の様式は接続的総合にかかわり、リビドーを採取のエネルギーとして動員する。第二の様式は、離接的総合にかかわり、〈ヌーメン〉を離脱のエネルギーとして動員する。第三の様式は、連接的総合にかかわり、〈ヴォルプタス〉を残滓エネルギーとして動員する。まさにこうした三つの様相において欲望的生産の過程は同時に生産の生産であり、登録の生産であり、また消費の生産である。採取すること、離脱すること、「残滓になること」は、生産することであり、また欲望の実際の操作を現実に実現することである。
ここでは、切断が生産的であり、この切断自身が統合であるからである。離接の働きは、まさしく離接でありながら、包含的である。消費の働きそのものさえ、移行であり生成であり回帰なのである。
あぶれ
名詞として用いられた多様性というカテゴリーは、〈一〉だけでなく多をも超え、〈一〉と多の述語的関係を超えていて、これだけが欲望的生産を説明しうる。欲望的生産は純粋な多様性であり、つまり統一体に還元されえないものを端的に肯定する。
いまや、私たちは、もろもろの部分対象、煉瓦、そして残余の時代に生きているのだ。
器官なき身体はひとつの全体のように生みだされるが、それはまさにそれ自身の場所において、生産のプロセスの中で、この全体によって統一化も全体化もされないもろもろの諸部分の傍に生みだされる。そしてそれがこれらの諸部分に適用され、これらの諸部分の上に折り重なるとき、その表面の上に、もろもろの横断的交通や、超限的総和化や、多義的にして横断記述的登記をもたらす。この表面上では、もろもろの部分対象の機能的切断は、シニフィアン連鎖の切断と、そこに割り出される主体の切断によって、たえず切断し直されてゆくのである。
この全体は、単に諸部分と共存するだけではない。むしろ諸部分に隣接し、それ自身は諸部分と離れて生みだされ、同時に諸部分に適用される。
意識は、人物の存在を知らない。部分対象は、両親という人物の表象〔代理〕でもなければ、家族関係の支えでもない。部分対象は、欲望機械の中のもろもろの部品であり、何ものにも還元されない生産過程や生産関係にかかわるのであって、これらこそ、オイディプスの形象の中に登録されるものと比べて根本的なのだ。
多様な機械
機械とは...
道具とはプラグマティックな有用性を問われるが、機械はこれと関係なく循環する。
自動的及び自律的に、ただ運動の反復の間に差異が生じるような運動体。
〈それ〉はいたるところで機能している。中断することなく、あるいは断続的に。 〈それ〉は呼吸し、過熱し食べる。 〈それ〉排便し、愛撫する。
〈それ〉はエスの表現であり、後々誤謬と言いなおしているように、機械である。 〈それ〉と呼んでしまったことは、なんという誤謬だろう。いたるところに機会があるのだ。決して隠喩的な意味でいうのではない。
社会的機械と技術的機械の差異
後者は人間をエンハンスメントするものであり、前者は人間を部品として扱いながら、自らの過程を再生産する。個人の身体レベルの機械と同じように、流れを切断し、新たなサイクルを作り、コード化するということ。 構造と機械の差異
構造と機械の違いは、社会体に関する交換主義的な構造論的な発想を内々に促進する公準のうちに現れ、構造が適切に作動するように、これにもろもろの矯正措置が導入される。
構造はモノとヒトの関係性をめぐるシステムに対応し、静的で、かつ、自然とは関係ないという意味で論理的で、等価交換の原理に支配されている。
一方機械は、血統と関係し、自然システムにおける内包的な―外延化していない―性格を残しているし、必ず不当性を含む
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欲望機械
欲望機械は二項機械であり、二項規則、あるいは連合的体制をそなえた機械である。ひとつの機械は常に他の機械と連結している。生産的総合すなわち、生産の生産は「そして」et「そして次に」et puis...という接続的な形態をもっている。つまり、ここには常に流れを生産する機械と、この機会に接続されてこの流れを切断し採用する働きをするもうひとつの機械が存在する(母乳―口といった関係がそうである)。そしてまた、今度は第一の機械が別の機械に接続され、これに対して第一の機械が切断あるいは採取の行動をする。したがって二項系列はあらゆる方向に線型状にのびてゆく。 論理学的にはそれぞれ⇒,∨,∧だが、論理的に厳密ではない緩やかや複雑な順序系列のようなものも含んでいるのではないか。
欲望機械においては、すべてが同時に作動する。〜だから、プルーストはこういっていたのだ。全体は生みだされる。全体そのものは、諸部分の傍にある一つの部分として生みだされる。この全体は統一化することも、全体化することもしないで、これらの諸部分に適用され、相互に通じていない容器の間に異様な通路を設け、それぞれが自分に固有な次元において、あらゆる差異を保持しようとする他所相互の間に、諸々の横断的な統一性を作り上げるのだ。 /icons/白.icon
器官なき身体
ある意味では、何も動かず、何も作動しない方がいいのかもしれない。生まれないこと、生誕の運命の外に出ること、母乳を吸う口も、糞をする肛門ももつことなく。しかし機械自身が無に帰するまでに、私たちを無に帰するまでに、機械が調子を狂わせ、機械の部品がばらばらになるような事態は起きるのだろうか。エネルギーの諸々の流れはまだ緊密に結びつき、様々な部分対象も依然として過度に有機的である、といわれるかもしれない。ところが、ある純粋な流体が、自由状態で、途切れることなく、ひとつの充実身体の上を滑走しているのだ。欲望機械は、私たちに有機体を与える。ところが、この生産真っ只中で、この生産そのものにおいて、身体は組織される〔有機化される〕ことに苦しみ、つまり別の組織を持たないことを苦しんでいる。いっそ、まったく組織などないほうがいいのだ。 エロスとタナトスが鬩ぎ合うことにより均衡が取れているのではなく、元々ばらばらの運動をしていたであろう諸機械が、人間などの統一体の各器官に割り振られている。が再度ばらばらに、つまり分散化しようという運動であり傾向が身体を構成する機械たちにあるという見方 充実身体の意味は必ずしも、多様な器官が犇めき合い充足しているというポジティブではなく、詰まりすぎて各機械の自由な運動が抑止されているというニュアンスもある。
「何も動かず、何も作動しない方がいいかもしれない」はフロイトのタナトスのパロディを援用している。 こうして過程の最中に第三の契機として「不可解な、直立状態の停止」がやってくる。そこには「口もない。舌もない。歯もない。喉もない。食道もない。胃もない。腹もない。肛門もない」。もろもろの自動機械装置は停止して、それらが分節していた非有機体的な塊を出現させる。この器官なき充実身体は、非生産的なもの、不毛なものであり、発生してきたものではなくて始めからあったもの、消費しえないものである〜アルトーは、いかなる形式も、いかなる形象もなしに存在していたとき、これを発見したのだ。死の本能、これがこの身体の名前である。 /icons/白.icon
器官なき身体の側からの欲望機械に対する反発がパラノイア機械として現れる。欲望機械は緊張を高めるため、行き過ぎると分裂の傾向を帯び、器官なき身体を破壊する方向に向かう。それを抑止するべく器官なき身体が働きかける時、欲望機械を一つの場に留めるパラノイア的な傾向が生じ、それはそれで一つの機械となる。
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1.外挿法
2.ダブルバインド
3.隔離的一対一対応的使用法
自由連想は、多義的な接続に対して開かれる代わりに、一義性の袋小路の中に再び閉じ込められる。あらゆる無意識の連鎖は、一対一に対応させられ、線型化されて、専制君主シニフィアンの下に吊り下げられることになる。 自由と言いつつ、被分析者が思い浮かべるシーンを全てオイディプス三角形に還元しようとする。
構成要因となるものを絶えず組み換え、アイデンティティを変容させる多義的かつ遊牧的な使用法として遊牧的多義的使用法を実践しよう! 4.抑圧されたものの置換∨歪曲
5.アプリオリなものが事後的に構成される逆説
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未開社会論
大地機械
欲望と生産の未開の原始的統一体とは大地である。なぜなら〜自然的或いは神的な前提として〜生産諸力を自分のものとして所有する充実身体なのだから。土地は生産の要素であり、所有の結果として存在するが、大地は、生み出されることなく、初めから存在する この大地は社会体の最初の形態であり、社会的機械として大地機械及び原始的大地機械と呼ぶ。 原始的大地機械は不動の動力である大地とともに、すでに社会的機械或いはメガマシンであり、生産の流れ、生産手段の流れ、生産者と消費者の流れをコード化する。〈大地〉の女神の充実身体は、その上で、耕作可能な種、農業用具そして人間の諸器官を結合するのだ。 私たちの現代社会は、逆に、もろもろの器官の大々的な私有化から始まったのであるが〜私有化されて社会野の外に置かれることになる最初の器官は肛門であった。
縁組を通して人とのやりとりも資本の流れの原初体系として見る。原初的台地機械においても、女、消費財、儀式の道具、権利が絶えずやり取りされ、各家系に属する資本の構成が絶えず変化する。つまり閉鎖されていた原初的台地機械が開放・拡大するにつれて、流動化する訳でなく初期からそういった構造を持っているということ。
こうした発想は原始的な冷たい経済と矛盾する。これは明確な投資も、貨幣も、市場も、交換取引関係ももたないのだ。このような冷たい経済を動かす原動力とは、反対にほんとうのコードの剰余価値なのだ。 生産の流れの一方の側には超過や蓄積の現象を、他方の側には欠如や不足の現象を生み出すが、こうした不均衡の現象は、威信が獲得されるか、消費が分配されるというようなタイプの交換不可能な要素によって保証される。
つまり現にどこかに存在する物理的な量の問題ではなく、「借りを返す―貸しにしよう」というヴァーチャルな負債の連鎖によって、原始的大地機械の充実身体の上に流れが生じ、その流れが潜在的に不均衡であるが故に開かれた経済システムを形成している。
モースによれば、それは贈与されたものに備わる霊或いは、諸々の事物の力であり、これによって贈与は、高い利子がつくような仕方で返さなければならない。贈与は欲望と力能の記号であり、財の豊富さや成果の原理であるからである。不均衡の状態は、病理学的な結果であるどころか、機能的であり、原理的である。システムが開くということは、始めは閉じていたシステムが拡張されることではなく、根源的な事態であって、諸要素の異質性によって生じ、諸要素は諸々の給付を構成し、不均衡を置き換えることによって、この不均衡を償うのである。
現代人類学の偉大なる著書は、モースの『贈与論』であるよりは、むしろニーチェの『道徳の系譜』である。少なくとも、そうでなければならないであろう。何故なら、「道徳の系譜』の第二論文は、比類なく成功した試みだからである。つまり、「英国式の」交換や利益の考察をすべて消去して、原始経済を債権者債務者の関係における負債のことばで解釈することに比類なく成功した試みであるからである。 /icons/白.icon
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専制社会論
原始機械のコード化されたあらゆる流れは、いまや河口にまで導かれて、ここで専制君主によって超コード化される。超コード化、これこそが国家の本質をなす操作であり、国家が古い組織体と連続すると同時に断絶する事態を評価する操作なのである。 あらゆるコードに対する超越的な次元としての専制君主及び『リヴァイアサン』という超コード化を立脚し、タナトスのもとに外在的なものを取り込んでいく。 帝国組織体において、近親相姦は、欲望の置き換えられた表象内容であることをやめ、抑圧する表象作用そのものとなる。というのも、疑いなく、近親相姦を犯しそれを可能にする専制君主の仕方は、抑制―抑圧の装置を廃棄するものではないからだ。それどころか、専制君主の仕方はこの装置の一部をなし、ただ装置の部品を変えているにすぎない。そしてあいかわらず、置き換えられた表象内容として近親相姦は今や抑圧する表象作用の位置を占めることになる。
これは神と介する専制君主のみが許される特殊な行為的特権として、寧ろ行為が神聖化し抑圧する表象作用になるということ
社会的機械の根底的変化
大地機械の代わりに、国家という巨大機械が、つまり機能的なピラミッドが登場し、その頂点には不動の動者である専制君主をもち、側方的表面と伝達器官としての官僚装置を、底辺の労働する部品として村びとたちをもっている。 大地機械のもとでヒトやモノが水平的な運動をしていた。が、国会という専制君主機械は、君主―官僚―村びとというピラミッドを形成する。
ストックは蓄積の対象となり、負債のブロックは年貢の形をとって無限の関係となる。コードのあらゆる剰余価値は所有の対象となる。〜国家を、住居にしたがって、人びとを登記する領土化の原理とみなすのではなく、むしろ住居の原理を、脱領土化の運動の結果とみなすべきなのである。この運動は、対象としての大地を分割して、人びとを新しい帝国的な登記に、新しい充実身体に、新しい社会体に従属させる。 この脱領土化とは、ヒトと土地との固有の繋がりを解体して、単にモノやヒトが物理的に貯蔵される空間にしてしまうということ。
線型的コード...原始的大地的記号と異なりアルファベットに近い一義的で記録された内容を忠実に再現するもの 線型というのは一つの方向に物語を展開していく様であり、絵に近い原始的大地的記号のようなグラフィックでは一方向的に筋をつけるのは難しく多義的だと言える
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現代社会論
文明資本主義機械
超コード化によって潜在状態に押し戻されたシステムは反動し、脱コード化が起きる。 そうして脱コード化した流れは、専制君主から逃れたため私有財産を所有し商品を生産。別の生産者との取引へ繋がり貨幣を介することとなり、複数の脱コード化した流れのあいだに商品流通と貨幣流通が発現する。
こうした複数の脱コード化した流れが、かつて抑圧していた専制君主を打倒し、顕在状態から潜在状態へと抑圧する。そして下記ステップにて国家を再建する。
❶ モデルとして潜在状態の専制君主に基づいて国家を形成
国家をモデルをベースとして構築しているため、モデルは抽象であり起源であるため、それを原国家と呼ぶ ❷ 次に複数の脱コード化した流れに国家が従属し、みずからの上にそれらの流れを登録する(=作り直された超コード) /icons/白.icon
上記プロセス、則、複数の脱コード化した流れによる専制君主の打倒と、内在する原国家を具体化する一連を進化した国家と呼ぶ。 ここでの「内在する原国家を具体化する」というのはモデルとして活用しているから内在的であり、そこから新たな国家を再構築することを具体化と呼んでいる。
再コード化された、脱コード化した流れとしての複数の再コード化された流れが、脱コード化し脱領土化することを契機に資本主義が誕生する。
こうした体制においては、脱コード化と、公理系化とを、つまり、消滅したコードに代って到来してくる公理系化とを区別することは、たとえ二つの時期に区別することでしかないとしても不可能なことである。種々の流れが資本主義によって脱コード化され、そして公理系化されるのは、同時なのである。 公理系とは...資本市場のシステムを基礎付けるもの。例えば、剰余価値、内在的制限を拡大する恐慌の現象、剰余価値の吸収する国家を始めとするシステムなどである。 最も中心な公理は貨幣であり、二元性を持つ。
1.貨幣は抽象された量としての交換価値を表象している。等価値のものを決めることは、種々の流れを脱コード化し、社会体に対する登記様式の崩壊をもたらすと述べている。
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還元できないということ
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動物的脱領土化の象徴
ある種の形而上学的共進化
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マイナー文学とは
マイナー文学とは、マイナー言語の文学のことではなく、むしろメジャー言語のなかにマイノリティが生み出す文学のことである。 /icons/白.icon
ドイツ語でしか書けないという不可能性は、プラハのユダヤ人にとって、チェコ本来の領土性に対する消しがたい距離感からくる。そしてドイツ語で書くことの不可能性は、ドイツの人口そのものが脱領土化していることからくるのである。〜要するに、プラハのドイツ語は脱領土化された言語であり、マイナーな例外的使用にふさわしい(別の現代的コンテクストでは、黒人がアメリカ英語にもたらしうる変化がこれに対応する。)
あらゆることが集団的価値を帯びている〜マイノリティ文学においては才能がみちあふれているわけではないので、巨匠に属する個人的言表行為が生まれる状況がないのだ。〜つまり作家がたったひとりで述べることが、すでに共同的行為となり、〜他者たちが賛成しないとしても〜必然的に政治的となる。〜文学こそが、たとえ懐疑的態度を含んでいても、能動的な連帯を生み出すのだ。〜こうして文字機械は来るべき革命機械のための仲立になるのだが、それはイデオロギーが理由で〜なく、ただ文字機械だけがその世界のどこでも欠如している集団的言表行為の条件を決然としてみたすからである。つまり文学は、民衆の問題となるのである。 Kについての考察
Kという文字はもはや語り手でも登場人物でもなく、まったく機械上のアレンジメントを、まったく集団的な動員を指示する
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カフカの文学機械
I.手紙
II.短編小説
動物的力学的本質
あらゆる短編小説に動物が登場するわけではないにしても、短編小説は本質的に動物的である。〜カフカによれば、出口を見つけ、逃走線を引こうという短編小説の特権的目的に、動物は一致するのである。〜短編小説を、カフカは、フェリーチェと文通を始めるのと同時に書くのだが〜手紙はおそらく原動力であり、それがもたらす血液によって、機械の全体が動作し始めるのである。しかし手紙とは別のものを書くこと、創造することが重要なのだ。この別のものは手紙を通じて予感されるのだが(犠牲者つまりフェリーチェの動物的な本性、手紙そのものの吸血鬼的使用法)〜カフカが自分の部屋の中で実践することは、動物になることであり、これは短編小説の本質的目的なのだ。最初の創造とは変身にほかならない。妻の目や、父や母の目さえも、決してその現場を見てはならないのだ。カフカにとって動物的本質とは、たとえその場や檻のなかに閉じ込められているとしても、出口であり、逃走線でであると私たちは言いたい。出口であって自由ではない。生ける逃走線であって、攻撃ではない。〜
詳細要素
バシュラールはフランツ・カフカをロートレアモンと比べるとき〜カフカに対してまったく不当である。なぜなら〜動物的力学的本質とは自由であり攻撃であると主張しているからだ。〜カフカについてこれはあてはまらない。まったく反対なのだ。〜動物を扱った短編のいくつかの要素を思い起こしてみよう。(1)ある動物がそれ自体として考察されている場合と、変身が起きる場合とを区別する余地はない。動物においてすべては変身であり、変身は動物が人間になることと同時に人間が動物になることの回路のなかにある。(2)つまり変身は二つの脱領土化の連接のようなものであり、第一の脱領土化は人が動物に強制するもので、動物は逃走せざるをえなくなり、あるいは服従するのであるが、第二の脱領土化は動物が人間に提示するもので、人間だけでは思いつかない出口または逃走手段を示唆するのだ(分裂的逃走)。二つの脱領土化は、それぞれがもう一方に内在し、もう一方を加速し、閾を越えさせるのである。(3)〜重要なことは決して〈動物になること〉の相対的な緩やかさではない。なぜならどんなに緩やかでも、緩やかなだけ、それはやはり人間の絶対的脱領土化を構成するのであって、これは人が移動しながら〜自分自身に生起させる相対的脱領土化に対立するものだ。動物になることは不動の、その場にとどまる旅であり、ただ強度において生きられ理解されるしかないのである 結論
とにかく短編において動物であり、動物になるものとして、動物はこの二者択一に直面する。袋小路に陥り、閉じ込められ、短編が終わってしまうか、あるいは自己を開き、増殖させ、いたるところに出口を穿ち、もはや動物ではなく、それを自体としては長編小説でしか扱えない分子的多数多様性に、そして機械状アレンジメントに場所を譲るかである。 III.長編小説
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アレンジメントとは
アレンジメントは、〜二つの面を持っている。それは言表行為の集団的アレンジメントであり、欲望の機械状アレンジメントなのである。カフカは最初にこの二つの側面を分解したばかりではなく、彼が二つを結合した結果はひとつの署名のようなものであって、それを通じて読者は彼を必然的に認知するようになるのだ。〜 https://scrapbox.io/files/64b789e086606e001b5474d7.png
蘭は雀蜂を模倣し、有意的な仕方(ミメーシス・擬態・擬似など)によって雀蜂のイメージの再生産を行っていると言うことができるかもしれない、しかし、それは地層の次元、つまり一方における植物の有機体が他方における動物の有機体を模倣するといったような二つの地層間の平行論においてしか、正しないのである。これと同時にまったく別なことが問題になる。すなわち。もはやまったく模倣行為などではなく、コードの捕獲、コードの剰余価値、誘発性の向上、真の生成変化、蘭の雀蜂への生成変化、雀蜂の蘭への生成変化が問題となるのであり、これらの生成変化の各々が、二項のうちの一方の脱領土化と他方の再領土化を保証するのであり、二つの生成変化が絡み合い。互いに交替するのは、脱領土化をつねによりいっそう推し進める諸強度の循環に従っているからである。そこには模倣や類似ではなく、意味するものにはどんなものにも帰属せず、従属もしないひとつの共通のリゾームからなる逃走線における二つの異質なセリーの突発的な現れがあるのである
政治問題について
まずネグリはドゥルーズの一貫した政治問題への関心を指摘し、それらの疑問をなげかける。
一方ではさまざまな運動に参加しておられるし(監獄問題、ホモセクシャル、 イタリアのアウトノミア、パレスチナ難民の問題など)、もう一方ではさまざまな制度をめぐる間題提起をしておられる点で一貫性があります。しかもこの両者が、ヒューム論からフーコー論にいたる著作に相前後してあらわれ、たがいにからみあっているのです。政治の問題にたいする、この 一貫した取り組みはどこから生まれたのでしょうか。そして著作活動に歩調を合わせ、常に政治の問題があらわれてくるのはどうしてなのでしょうか。運動と制度の関係は常に問題をはらんでいるようですが、どうしてそうなるのでしょうか。 私にとって興味深かったのは、代理=表象よりも、むしろ集団による創造のほうでした。そして「制度」には、法律とも契約とも異なる独自の運動があるのです。私がヒュームに見出したのは、制度と法をめぐるきわめて創造的な考え方でした。はじめのうちは、私も政治より法に興味をよせていたのです。マゾッホやサドの場合でも、マゾッホでは契約についての、サドでは制度についての、ともに性愛に結びついた、 じつに屈折した考え方があり、私にはこれが面白かったわけです。そうした私の好みはいまでも変わりません。たとえば法哲学の復興をめざすフランソワ・エヴァルドの仕事はとても重要だと思っているのです。しかし、私にとって興味深いのは法律一般でも、 個々の具体的な法律でもないし(前者は空疎な観念だし、後者は日和見主義的な観念です)、法一般でもなければ具体的な法でもなくて、法解釈なのです。実際に法をつくりだすのは法解釈なのですから、これをひとり判事の手にゆだねておくわけにはいきません。~いま必要なのは、 道徳をふりかざし、専門能力をいつわった有識者の委員会ではなく、利用者の集団なのです。実際に利用する人がいればこそ、法が政治に変容するわけですからね。要するに政治への移行ということなのですが、私個人としては六八年五月を機に、フェリックス・ガタリの、そしてフーコーのおかげで、さらにエリアス・サンバールのおかげで、具体的な問題にふれながら少しずつ政治への移行をはたしたのです。『アンチ・オイディプス』が一貫した政治哲学の本になりえたのは、そうした事情があったからにほかなりません。 管理社会論について
―フーコー論で、それから1NA(国立視聴覚研究センター)のテレビ・インタビューでも、あなたは権力の行便が示す三つの形態に徹底した分析を加えることを提案しておられます。三つの形 、まず「君主型」、それから「規律型」、そして特に重要なのが「コミュニケーション」をあやつる「管理型」の権力であるわけですが、この最後の形態が、いま、ヘゲモニーを獲得しようとしています。一方からすると、管理型権力の筋書きにしたがって、言論や想像力にも影響する支配の最終進化形が想定されているのはたしかですが、しかしもう一方では、いま、かつてないほどの勢いで、すべての人間、すべてのマイノリティ、そしてすべての特異性が発言し、また発言することによって、さらに自由の度合いを高めるという潜在能力をもつようになってきました。『グルントリッセ』のマルクス的ユートピアでは、コミュニズムが自由な個人による横断的な組織の形状を呈し、その条件を保証するものとして技術的な基盤が位置づけられていました。いまでもコミュニ ズムの可能性を考えることはできるのでしょうか。コミュニケーション社会が到来したいま、コミ ュニズムは以前ほどユートピア的ではなくなったといえるかもしれません。いかがでしょうか。 私たちが「管理社会」の時代にさしかかったことはたしかで、いまの社会は厳密な意味で規律型とは呼べないものになりました。フーコーはふつう、規律社会 と、その中心的な技術である監禁(病院と監獄だけでなく、学校、工場、兵舎も含まれるにいどんだ思想家だと思われています。しかし、じつをいうとフーコーは、規律社会とは私たちにとって過去のものとなりつつある社会であり、もはや私たちの姿を映していないということを明らかにした先駆者のひとりなのです。私たちが管理社会の時代にさしかかると、社会はもはや監禁によって機能するのではなく、恒常的な管理と、瞬時に成り立つコミュニケーションが幅をきかすようになる。管理社会について、分析の口火を切ったのはバロウズでした。~ そして「社会のタイプが違えば、当然ながらそれぞ れの社会に、ひとつひとつタイブの異なる機械を対応させることができます」として下記のように論じる。
君主制の社会には単純な力学的機械を、規律型にはエネルギー論的機械を、そして管理社会にはサイバネティクスとコンピューターをそれぞれ対応させることができるのです。しかし 機械だけでは何の説明にもなりません。機械をあくまでも部分として取り込んだ集合的アレンジメントを分析しなければならないのです。近い将来、開放環境に不断の管理という新たな管理の形態が生まれることは確実ですが、これに〜新しい形態の犯罪や抵抗(このふたつはきちんと区別されるべき事例です)があらわれることもあります。たとえばハッキングやコンピューター・ウイルスがそうで、これらがストライキや、十九世紀には「サボタージュ(怠業)」と呼ばれていた(機械に投げ込まれた靴を意味する)行為の代わりになることもあるでしょう。〜そこで重要になってくるのは、非=コミュニケーションの空洞や、断続器をつくりあげ、管理からの逃走をこころみることだろうと思います。
規律社会と管理=制御社会
本書で管理コントロールとされているものは、『プロトコル』を訳した北野の、管理=制御のほうが適した表現な気がする。が、下記では翻訳者へのリスペクトとして、書籍通り「管理」と表記する。 フーコーは規律社会を十八世紀と十九世紀に位置づけた。規律社会は二十世紀初頭にその頂点に達する。規律社会は大々的に監禁の環境を組織する。個人は閉じられた環境から別の閉じられた環境へと移行をくりかえすわけだが、そうした環境にはそれぞれ独自の法則がある。まず家族があって、つぎに学校がある(「ここはもう自分の家ではないぞ」)。そのつぎが兵舎(「ここはもう学校ではないぞ」)、それから工場。ときどき病院に入ることもあるし、場合によっては監獄に入る。〜しかしフーコーは、規律社会のモデルが短命だということも、やはり知りつくしていた。規律社会のモデルは、目的と機能がまったく違った(つまり生産を組織化するというよりも生産の一部を徴収し、生を管理するというよりも死の決定をくだす)
こうした規律型社会を改革しようと試みる政治家は「改革の名のもとに」、新たな様相が「根をおろす」、とドゥルーズは述べる。
こうして規律社会にとってかわろうとしているのが管理社会にほかならないのである。「管理」とは、新たな怪物を名ざすためにバロウズが提案した呼称であり、フーコーが近い将来、私たちにのしかかってくると考えていたのも、この「管理」なのだ。ポール・ヴィリリオもまた、いわば戸外で行使される超高速の管理形態を分析し、これが、閉じられたシステムの持続において作用した旧来の規律にとってかわるだろうと述べている。〜冷酷な体制でも、我慢できる体制でも、その内部では解放と隷属がせめぎあっているからだ。たとえば、監禁環境そのものともいえる病院の危機においては、部門の細分化や、デイケアや在宅介護などが、はじめのうちは新しい自由をもたらしたとはいえ、結局はもっとも冷酷な監禁にも比肩しうる管理のメカニズムに関与してしまったことを忘れてはならない。恐れたり、期待をもったりしてはならず、闘争のための新しい武器を探しもとめなければならないのである。 そこで以下にて、従来の規律型社会からの変化或いは対比をもって、どのような差異が生じるか明らかにする。
個人が体験するさまざまな内部滞在の機構、すなわち監禁の環境は独立変数である。そこでは環境が変わるごとにゼロからやりなおすのが当然のこととされ、すべての環境に共通する言語が存在したとしても、それは類比にもとづく言語なのである。これにたいして、さまざまな管理機構のほうは分離不可能な変移であり、そこで使われる言語は、計数型で(「計数型」とはかならずしも「二項的」を意味するのではない)可変的な幾何学をそなえたシステムを形成する。監禁は鋳型であり、個別的な鋳造作業であるわけが、管理のほうは転調であり、刻一刻と変貌をくりかえす自己=変形型の鋳造作業に、あるいはその表面上のどの点をとるかによって網の目が変わる館に似ている。
また規律社会における「権力は、群れの形成と個人の形成をどうじに行っていたのだった。要するに権力は、権力行使の対象となる人びとを組織体にまとめあげ、組織体に所属する各成員の個別性を型にはめるのである」。このように規律社会には「個人と群れのあいだに両立不可能性などありはしなかった」のだ。それ故に規律社会では「個人を表示する署名」と「群れにおける個人の位置を表示する数や登録番号」が重要視されていたという。一方、管理社会は異なる。
逆に、管理社会で重要になるのは、もはや署名でも数でもなく、数字である。規律社会が指令の言葉によって調整されていたのにたいし、管理社会の数字は合い言葉として機能する(これは同化の見地からも、抵抗の見地からも成り立つことだ)。管理の計数型言語は数字でできており、その数字があらわしているのは情報へのアクセスか、アクセスの拒絶である。いま目の前にあるのは、もはや群れと個人の対ではない。分割不可能だった個人(individus)によってその性質を変化させる「可分性」(dividuels)となり、群れのほうもサンプルかデータ、あるいはマーケットか「データバンク」に化けてしまう。
そこで規律社会を「モグラ」、「てこ」、「滑車」、「時計仕掛」、管理社会を「ヘビ」、「サーフィン」、「情報処理機」、「コンピューター」とする。
そしてドゥルーズは最後に「管理社会」に生きるだろう若者にリゾームの更なる複雑化を指示するようにメッセージを投げかける。 自分たちが何に奉仕させられているのか、それを発見するつとめを負っているのは、若者たち自身だ。彼らの先輩が苦労して規律の目的性をあばいたのと同じように。とぐろを巻くへビの輪はモグラの巣穴よりもはるかに複雑にできているのである。
概念の複合性と歴史性
単純な概念というものは存在しない。あらゆる概念は、いくつかの合成要素をもち、それらによって定義される。(...) 多様体がみな概念であるというわけではないが、ともかく概念はひとつの多様体である。ただひとつの合成要素しかもたない概念というものは存在しないのである。
そこでデカルト、ヘーゲル、フォイエルバッハをあげて「ひとつの哲学がそれから「開始する」その最初の概念ですら、複数の要素をもつ」と批判するのだ。また以下のようにもいう。 あらゆる概念は少なくとも二重のものであり、あるいは三重、四重等々である。一切の合成要素をそなえた概念というものもまた存在しない。なぜなら、〔もしそんな概念があるということにでもなれば〕それはひとつの純然たるカオスになってしまうからだ。(...) 概念は、その諸合成要素の総和であるのだから、たしかに一個の全体であるのだが、ただし一個の断片的な全体なのである。
そこで「他者は、〈可能世界〉、〈存在する顔〉、〈リアルな言語活動あるいはパロール〉という三つの分離不可能な合成要素からなるひとつの概念」と例をあげ、概念の歴史性について下記のように論ずる。 もちろん、どの概念もひとつの歴史をもっている。わたしたちは、いま述べた他者概念によって、ライプニッツ、ライプニッツにおける可能世界、そして世界の表現としてのモナド、この三つにまで遡ることができる。(...) 要するに、あらゆる概念についてわたしたちが言わんとしているのは、概念にはつねに歴史があるということだ。もちろん、この歴史がジグザグである場合もあるし、この歴史が、必要に応じて、他の諸問題を通過したりいろいろな平面のうえを通ったりする場合もある。(...) 概念はどれも新たな裁断をおこない、いくつもの新しい輪郭を身につけるものであるからだし、復活されるべきもの、あるいは裁ち直されるべきものであるからだ。