ドゥルーズ
https://scrapbox.io/files/64d9ff306b25da001c8bd73f.png
https://scrapbox.io/files/64d9fe417bb35b001b87892b.png
https://scrapbox.io/files/64a7d1ecac695c001bc0d1e0.png
序論
この書物が現前させるべきはずであったこと、それは神のものあるいは世界のものでもなければ、わたしたちのもの、すなわち人間のものでもないような或る一貫性へのアプローチである。
冒頭で示すこのアプローチとは「同一性を排除し差異のみが反復する」ことであり、これこそが主題である。
概念と差異
表象=再現前化:林檎という「物体」「文字」「記号」を見て林檎を想起するということは、表現されるものを見て概念が眼の前にやってくること。
概念的差異:表象=再現前化されたとき、それが林檎だったとき、蜜柑とは異なると認知できる。それが概念的差異
概念的差異があるのなら概念なき差異も存在する。
想起した複数の林檎は、どの林檎も林檎の概念を有しているが、その林檎の間には非言語的な差異が存在することがある。
反復
反復するものは同一概念の反復であり、反復される前と後で同じ概念に差異を見出しているので、その差異とは概念なき差異のことである。
が、しかし反復される前のものと後のもの同じ概念を有さないケースが存在する。例えばある図柄を複数コピーして複雑な図柄をつくるとき、同じ図柄をコピーしているのだから反復であるが、後のものは前のものと異なることがわかるだろう。同時に、反復の前と後で表象=再現前化も生起しない〔=同一概念が見出されない〕(つまりこれは概念なき差異の反復により概念的差異に至るということ?)
反復は同一概念の反復に限らないため、概念なき差異に還元出来ない。
/icons/白.icon
第一章
無差異の定義
① 一切が溶け込んでいる未異化=未分化の深淵
つながりのないいくつかの規定が、まるでバラバラになった肢体のように〜頸から落ちた頭蓋、肩から抜けた魂、顔面から飛び出た眼球のように漂ってること
② 全くの無差異
浮遊する諸規定も未規定も劣らず互いに無差異的
差異の定義
差異とは〜規定作用そのものを語ることが可能になる当の状態
上記二つの極にのあいだに介在するのではなく、差異こそが唯一極であり、現前と明確さの唯一の契機。
/icons/白.icon
https://scrapbox.io/files/64a927883930ee001b4ef429.pnghttps://scrapbox.io/files/64a927584b78b0001c6fa64e.png
世界にキアロスクーロの線を引いて存在者を取り出そうとしても、その線は、線の内側を浮かび上がらせるとともに、線の外側も浮かび上がらせてしまう(それが下記引用ということ?)
これがつまり背景を浮き出させ、形を崩潰させるという罪
これはプラトン主義者の非一は一から際立つが、その逆は成り立たないという論とも近しい /icons/白.icon
差異こそが現前と明確さの唯一の契機である
https://scrapbox.io/files/64ace095d91d31001c6a5075.png
多様な機械
機械とは...
道具とはプラグマティックな有用性を問われるが、機械はこれと関係なく循環する。
自動的及び自律的に、ただ運動の反復の間に差異が生じるような運動体。
〈それ〉はいたるところで機能している。中断することなく、あるいは断続的に。 〈それ〉は呼吸し、過熱し食べる。 〈それ〉排便し、愛撫する。
〈それ〉はエスの表現であり、後々誤謬と言いなおしているように、機械である。 〈それ〉と呼んでしまったことは、なんという誤謬だろう。いたるところに機会があるのだ。決して隠喩的な意味でいうのではない。
社会的機械と技術的機械の差異
後者は人間をエンハンスメントするものであり、前者は人間を部品として扱いながら、自らの過程を再生産する。個人の身体レベルの機械と同じように、流れを切断し、新たなサイクルを作り、コード化するということ。 構造と機械の差異
構造と機械の違いは、社会体に関する交換主義的な構造論的な発想を内々に促進する公準のうちに現れ、構造が適切に作動するように、これにもろもろの矯正措置が導入される。
構造はモノとヒトの関係性をめぐるシステムに対応し、静的で、かつ、自然とは関係ないという意味で論理的で、等価交換の原理に支配されている。
一方機械は、血統と関係し、自然システムにおける内包的な―外延化していない―性格を残しているし、必ず不当性を含む
/icons/白.icon
欲望機械
欲望機械は二項機械であり、二項規則、あるいは連合的体制をそなえた機械である。ひとつの機械は常に他の機械と連結している。生産的総合すなわち、生産の生産は「そして」et「そして次に」et puis...という接続的な形態をもっている。つまり、ここには常に流れを生産する機械と、この機会に接続されてこの流れを切断し採用する働きをするもうひとつの機械が存在する(母乳―口といった関係がそうである)。そしてまた、今度は第一の機械が別の機械に接続され、これに対して第一の機械が切断あるいは採取の行動をする。したがって二項系列はあらゆる方向に線型状にのびてゆく。 論理学的にはそれぞれ⇒,∨,∧だが、論理的に厳密ではない緩やかや複雑な順序系列のようなものも含んでいるのではないか。
欲望機械においては、すべてが同時に作動する。〜だから、プルーストはこういっていたのだ。全体は生みだされる。全体そのものは、諸部分の傍にある一つの部分として生みだされる。この全体は統一化することも、全体化することもしないで、これらの諸部分に適用され、相互に通じていない容器の間に異様な通路を設け、それぞれが自分に固有な次元において、あらゆる差異を保持しようとする他所相互の間に、諸々の横断的な統一性を作り上げるのだ。 /icons/白.icon
器官なき身体
ある意味では、何も動かず、何も作動しない方がいいのかもしれない。生まれないこと、生誕の運命の外に出ること、母乳を吸う口も、糞をする肛門ももつことなく。しかし機械自身が無に帰するまでに、私たちを無に帰するまでに、機械が調子を狂わせ、機械の部品がばらばらになるような事態は起きるのだろうか。エネルギーの諸々の流れはまだ緊密に結びつき、様々な部分対象も依然として過度に有機的である、といわれるかもしれない。ところが、ある純粋な流体が、自由状態で、途切れることなく、ひとつの充実身体の上を滑走しているのだ。欲望機械は、私たちに有機体を与える。ところが、この生産真っ只中で、この生産そのものにおいて、身体は組織される〔有機化される〕ことに苦しみ、つまり別の組織を持たないことを苦しんでいる。いっそ、まったく組織などないほうがいいのだ。 エロスとタナトスが鬩ぎ合うことにより均衡が取れているのではなく、元々ばらばらの運動をしていたであろう諸機械が、人間などの統一体の各器官に割り振られている。が再度ばらばらに、つまり分散化しようという運動であり傾向が身体を構成する機械たちにあるという見方 充実身体の意味は必ずしも、多様な器官が犇めき合い充足しているというポジティブではなく、詰まりすぎて各機械の自由な運動が抑止されているというニュアンスもある。
「何も動かず、何も作動しない方がいいかもしれない」はフロイトのタナトスのパロディを援用している。 こうして過程の最中に第三の契機として「不可解な、直立状態の停止」がやってくる。そこには「口もない。舌もない。歯もない。喉もない。食道もない。胃もない。腹もない。肛門もない」。もろもろの自動機械装置は停止して、それらが分節していた非有機体的な塊を出現させる。この器官なき充実身体は、非生産的なもの、不毛なものであり、発生してきたものではなくて始めからあったもの、消費しえないものである〜アルトーは、いかなる形式も、いかなる形象もなしに存在していたとき、これを発見したのだ。死の本能、これがこの身体の名前である。 /icons/白.icon
器官なき身体の側からの欲望機械に対する反発がパラノイア機械として現れる。欲望機械は緊張を高めるため、行き過ぎると分裂の傾向を帯び、器官なき身体を破壊する方向に向かう。それを抑止するべく器官なき身体が働きかける時、欲望機械を一つの場に留めるパラノイア的な傾向が生じ、それはそれで一つの機械となる。
/icons/白.icon
1.外挿法
2.ダブルバインド
3.隔離的一対一対応的使用法
自由連想は、多義的な接続に対して開かれる代わりに、一義性の袋小路の中に再び閉じ込められる。あらゆる無意識の連鎖は、一対一に対応させられ、線型化されて、専制君主シニフィアンの下に吊り下げられることになる。 自由と言いつつ、被分析者が思い浮かべるシーンを全てオイディプス三角形に還元しようとする。
構成要因となるものを絶えず組み換え、アイデンティティを変容させる多義的かつ遊牧的な使用法として遊牧的多義的使用法を実践しよう! 4.抑圧されたものの置換∨歪曲
5.アプリオリなものが事後的に構成される逆説
/icons/白.icon
/icons/白.icon
未開社会論
大地機械
欲望と生産の未開の原始的統一体とは大地である。なぜなら〜自然的或いは神的な前提として〜生産諸力を自分のものとして所有する充実身体なのだから。土地は生産の要素であり、所有の結果として存在するが、大地は、生み出されることなく、初めから存在する この大地は社会体の最初の形態であり、社会的機械として大地機械及び原始的大地機械と呼ぶ。 原始的大地機械は不動の動力である大地とともに、すでに社会的機械或いはメガマシンであり、生産の流れ、生産手段の流れ、生産者と消費者の流れをコード化する。〈大地〉の女神の充実身体は、その上で、耕作可能な種、農業用具そして人間の諸器官を結合するのだ。 私たちの現代社会は、逆に、もろもろの器官の大々的な私有化から始まったのであるが〜私有化されて社会野の外に置かれることになる最初の器官は肛門であった。
縁組を通して人とのやりとりも資本の流れの原初体系として見る。原初的台地機械においても、女、消費財、儀式の道具、権利が絶えずやり取りされ、各家系に属する資本の構成が絶えず変化する。つまり閉鎖されていた原初的台地機械が開放・拡大するにつれて、流動化する訳でなく初期からそういった構造を持っているということ。
こうした発想は原始的な冷たい経済と矛盾する。これは明確な投資も、貨幣も、市場も、交換取引関係ももたないのだ。このような冷たい経済を動かす原動力とは、反対にほんとうのコードの剰余価値なのだ。 生産の流れの一方の側には超過や蓄積の現象を、他方の側には欠如や不足の現象を生み出すが、こうした不均衡の現象は、威信が獲得されるか、消費が分配されるというようなタイプの交換不可能な要素によって保証される。
つまり現にどこかに存在する物理的な量の問題ではなく、「借りを返す―貸しにしよう」というヴァーチャルな負債の連鎖によって、原始的大地機械の充実身体の上に流れが生じ、その流れが潜在的に不均衡であるが故に開かれた経済システムを形成している。
モースによれば、それは贈与されたものに備わる霊或いは、諸々の事物の力であり、これによって贈与は、高い利子がつくような仕方で返さなければならない。贈与は欲望と力能の記号であり、財の豊富さや成果の原理であるからである。不均衡の状態は、病理学的な結果であるどころか、機能的であり、原理的である。システムが開くということは、始めは閉じていたシステムが拡張されることではなく、根源的な事態であって、諸要素の異質性によって生じ、諸要素は諸々の給付を構成し、不均衡を置き換えることによって、この不均衡を償うのである。
現代人類学の偉大なる著書は、モースの『贈与論』であるよりは、むしろニーチェの『道徳の系譜』である。少なくとも、そうでなければならないであろう。何故なら、「道徳の系譜』の第二論文は、比類なく成功した試みだからである。つまり、「英国式の」交換や利益の考察をすべて消去して、原始経済を債権者債務者の関係における負債のことばで解釈することに比類なく成功した試みであるからである。 /icons/白.icon
/icons/白.icon
専制社会論
原始機械のコード化されたあらゆる流れは、いまや河口にまで導かれて、ここで専制君主によって超コード化される。超コード化、これこそが国家の本質をなす操作であり、国家が古い組織体と連続すると同時に断絶する事態を評価する操作なのである。 あらゆるコードに対する超越的な次元としての専制君主及び『リヴァイアサン』という超コード化を立脚し、タナトスのもとに外在的なものを取り込んでいく。 帝国組織体において、近親相姦は、欲望の置き換えられた表象内容であることをやめ、抑圧する表象作用そのものとなる。というのも、疑いなく、近親相姦を犯しそれを可能にする専制君主の仕方は、抑制―抑圧の装置を廃棄するものではないからだ。それどころか、専制君主の仕方はこの装置の一部をなし、ただ装置の部品を変えているにすぎない。そしてあいかわらず、置き換えられた表象内容として近親相姦は今や抑圧する表象作用の位置を占めることになる。
これは神と介する専制君主のみが許される特殊な行為的特権として、寧ろ行為が神聖化し抑圧する表象作用になるということ
社会的機械の根底的変化
大地機械の代わりに、国家という巨大機械が、つまり機能的なピラミッドが登場し、その頂点には不動の動者である専制君主をもち、側方的表面と伝達器官としての官僚装置を、底辺の労働する部品として村びとたちをもっている。 大地機械のもとでヒトやモノが水平的な運動をしていた。が、国会という専制君主機械は、君主―官僚―村びとというピラミッドを形成する。
ストックは蓄積の対象となり、負債のブロックは年貢の形をとって無限の関係となる。コードのあらゆる剰余価値は所有の対象となる。〜国家を、住居にしたがって、人びとを登記する領土化の原理とみなすのではなく、むしろ住居の原理を、脱領土化の運動の結果とみなすべきなのである。この運動は、対象としての大地を分割して、人びとを新しい帝国的な登記に、新しい充実身体に、新しい社会体に従属させる。 この脱領土化とは、ヒトと土地との固有の繋がりを解体して、単にモノやヒトが物理的に貯蔵される空間にしてしまうということ。
線型的コード...原始的大地的記号と異なりアルファベットに近い一義的で記録された内容を忠実に再現するもの 線型というのは一つの方向に物語を展開していく様であり、絵に近い原始的大地的記号のようなグラフィックでは一方向的に筋をつけるのは難しく多義的だと言える
/icons/白.icon
/icons/白.icon
現代社会論
文明資本主義機械
超コード化によって潜在状態に押し戻されたシステムは反動し、脱コード化が起きる。 そうして脱コード化した流れは、専制君主から逃れたため私有財産を所有し商品を生産。別の生産者との取引へ繋がり貨幣を介することとなり、複数の脱コード化した流れのあいだに商品流通と貨幣流通が発現する。
こうした複数の脱コード化した流れが、かつて抑圧していた専制君主を打倒し、顕在状態から潜在状態へと抑圧する。そして下記ステップにて国家を再建する。
❶ モデルとして潜在状態の専制君主に基づいて国家を形成
国家をモデルをベースとして構築しているため、モデルは抽象であり起源であるため、それを原国家と呼ぶ ❷ 次に複数の脱コード化した流れに国家が従属し、みずからの上にそれらの流れを登録する(=作り直された超コード) /icons/白.icon
上記プロセス、則、複数の脱コード化した流れによる専制君主の打倒と、内在する原国家を具体化する一連を進化した国家と呼ぶ。 ここでの「内在する原国家を具体化する」というのはモデルとして活用しているから内在的であり、そこから新たな国家を再構築することを具体化と呼んでいる。
再コード化された、脱コード化した流れとしての複数の再コード化された流れが、脱コード化し脱領土化することを契機に資本主義が誕生する。
こうした体制においては、脱コード化と、公理系化とを、つまり、消滅したコードに代って到来してくる公理系化とを区別することは、たとえ二つの時期に区別することでしかないとしても不可能なことである。種々の流れが資本主義によって脱コード化され、そして公理系化されるのは、同時なのである。 公理系とは...資本市場のシステムを基礎付けるもの。例えば、剰余価値、内在的制限を拡大する恐慌の現象、剰余価値の吸収する国家を始めとするシステムなどである。 最も中心な公理は貨幣であり、二元性を持つ。
1.貨幣は抽象された量としての交換価値を表象している。等価値のものを決めることは、種々の流れを脱コード化し、社会体に対する登記様式の崩壊をもたらすと述べている。
/icons/白.icon
https://scrapbox.io/files/64b789fb1bb5ca001bba9e59.png
還元できないということ
/icons/白.icon
動物的脱領土化の象徴
ある種の形而上学的共進化
/icons/白.icon
/icons/白.icon
マイナー文学とは
マイナー文学とは、マイナー言語の文学のことではなく、むしろメジャー言語のなかにマイノリティが生み出す文学のことである。 /icons/白.icon
ドイツ語でしか書けないという不可能性は、プラハのユダヤ人にとって、チェコ本来の領土性に対する消しがたい距離感からくる。そしてドイツ語で書くことの不可能性は、ドイツの人口そのものが脱領土化していることからくるのである。〜要するに、プラハのドイツ語は脱領土化された言語であり、マイナーな例外的使用にふさわしい(別の現代的コンテクストでは、黒人がアメリカ英語にもたらしうる変化がこれに対応する。)
あらゆることが集団的価値を帯びている〜マイノリティ文学においては才能がみちあふれているわけではないので、巨匠に属する個人的言表行為が生まれる状況がないのだ。〜つまり作家がたったひとりで述べることが、すでに共同的行為となり、〜他者たちが賛成しないとしても〜必然的に政治的となる。〜文学こそが、たとえ懐疑的態度を含んでいても、能動的な連帯を生み出すのだ。〜こうして文字機械は来るべき革命機械のための仲立になるのだが、それはイデオロギーが理由で〜なく、ただ文字機械だけがその世界のどこでも欠如している集団的言表行為の条件を決然としてみたすからである。つまり文学は、民衆の問題となるのである。 Kについての考察
Kという文字はもはや語り手でも登場人物でもなく、まったく機械上のアレンジメントを、まったく集団的な動員を指示する
/icons/白.icon
/icons/白.icon
カフカの文学機械
I.手紙
II.短編小説
動物的力学的本質
あらゆる短編小説に動物が登場するわけではないにしても、短編小説は本質的に動物的である。〜カフカによれば、出口を見つけ、逃走線を引こうという短編小説の特権的目的に、動物は一致するのである。〜短編小説を、カフカは、フェリーチェと文通を始めるのと同時に書くのだが〜手紙はおそらく原動力であり、それがもたらす血液によって、機械の全体が動作し始めるのである。しかし手紙とは別のものを書くこと、創造することが重要なのだ。この別のものは手紙を通じて予感されるのだが(犠牲者つまりフェリーチェの動物的な本性、手紙そのものの吸血鬼的使用法)〜カフカが自分の部屋の中で実践することは、動物になることであり、これは短編小説の本質的目的なのだ。最初の創造とは変身にほかならない。妻の目や、父や母の目さえも、決してその現場を見てはならないのだ。カフカにとって動物的本質とは、たとえその場や檻のなかに閉じ込められているとしても、出口であり、逃走線でであると私たちは言いたい。出口であって自由ではない。生ける逃走線であって、攻撃ではない。〜
詳細要素
バシュラールはフランツ・カフカをロートレアモンと比べるとき〜カフカに対してまったく不当である。なぜなら〜動物的力学的本質とは自由であり攻撃であると主張しているからだ。〜カフカについてこれはあてはまらない。まったく反対なのだ。〜動物を扱った短編のいくつかの要素を思い起こしてみよう。(1)ある動物がそれ自体として考察されている場合と、変身が起きる場合とを区別する余地はない。動物においてすべては変身であり、変身は動物が人間になることと同時に人間が動物になることの回路のなかにある。(2)つまり変身は二つの脱領土化の連接のようなものであり、第一の脱領土化は人が動物に強制するもので、動物は逃走せざるをえなくなり、あるいは服従するのであるが、第二の脱領土化は動物が人間に提示するもので、人間だけでは思いつかない出口または逃走手段を示唆するのだ(分裂的逃走)。二つの脱領土化は、それぞれがもう一方に内在し、もう一方を加速し、閾を越えさせるのである。(3)〜重要なことは決して〈動物になること〉の相対的な緩やかさではない。なぜならどんなに緩やかでも、緩やかなだけ、それはやはり人間の絶対的脱領土化を構成するのであって、これは人が移動しながら〜自分自身に生起させる相対的脱領土化に対立するものだ。動物になることは不動の、その場にとどまる旅であり、ただ強度において生きられ理解されるしかないのである 結論
とにかく短編において動物であり、動物になるものとして、動物はこの二者択一に直面する。袋小路に陥り、閉じ込められ、短編が終わってしまうか、あるいは自己を開き、増殖させ、いたるところに出口を穿ち、もはや動物ではなく、それを自体としては長編小説でしか扱えない分子的多数多様性に、そして機械状アレンジメントに場所を譲るかである。 III.長編小説
/icons/白.icon
/icons/白.icon
アレンジメントとは
アレンジメントは、〜二つの面を持っている。それは言表行為の集団的アレンジメントであり、欲望の機械状アレンジメントなのである。カフカは最初にこの二つの側面を分解したばかりではなく、彼が二つを結合した結果はひとつの署名のようなものであって、それを通じて読者は彼を必然的に認知するようになるのだ。〜 https://scrapbox.io/files/64b789e086606e001b5474d7.png
蘭は雀蜂を模倣し、有意的な仕方(ミメーシス・擬態・擬似など)によって雀蜂のイメージの再生産を行っていると言うことができるかもしれない、しかし、それは地層の次元、つまり一方における植物の有機体が他方における動物の有機体を模倣するといったような二つの地層間の平行論においてしか、正しないのである。これと同時にまったく別なことが問題になる。すなわち。もはやまったく模倣行為などではなく、コードの捕獲、コードの剰余価値、誘発性の向上、真の生成変化、蘭の雀蜂への生成変化、雀蜂の蘭への生成変化が問題となるのであり、これらの生成変化の各々が、二項のうちの一方の脱領土化と他方の再領土化を保証するのであり、二つの生成変化が絡み合い。互いに交替するのは、脱領土化をつねによりいっそう推し進める諸強度の循環に従っているからである。そこには模倣や類似ではなく、意味するものにはどんなものにも帰属せず、従属もしないひとつの共通のリゾームからなる逃走線における二つの異質なセリーの突発的な現れがあるのである
政治問題について
まずネグリはドゥルーズの一貫した政治問題への関心を指摘し、それらの疑問をなげかける。
一方ではさまざまな運動に参加しておられるし(監獄問題、ホモセクシャル、 イタリアのアウトノミア、パレスチナ難民の問題など)、もう一方ではさまざまな制度をめぐる間題提起をしておられる点で一貫性があります。しかもこの両者が、ヒューム論からフーコー論にいたる著作に相前後してあらわれ、たがいにからみあっているのです。政治の問題にたいする、この 一貫した取り組みはどこから生まれたのでしょうか。そして著作活動に歩調を合わせ、常に政治の問題があらわれてくるのはどうしてなのでしょうか。運動と制度の関係は常に問題をはらんでいるようですが、どうしてそうなるのでしょうか。 私にとって興味深かったのは、代理=表象よりも、むしろ集団による創造のほうでした。そして「制度」には、法律とも契約とも異なる独自の運動があるのです。私がヒュームに見出したのは、制度と法をめぐるきわめて創造的な考え方でした。はじめのうちは、私も政治より法に興味をよせていたのです。マゾッホやサドの場合でも、マゾッホでは契約についての、サドでは制度についての、ともに性愛に結びついた、 じつに屈折した考え方があり、私にはこれが面白かったわけです。そうした私の好みはいまでも変わりません。たとえば法哲学の復興をめざすフランソワ・エヴァルドの仕事はとても重要だと思っているのです。しかし、私にとって興味深いのは法律一般でも、 個々の具体的な法律でもないし(前者は空疎な観念だし、後者は日和見主義的な観念です)、法一般でもなければ具体的な法でもなくて、法解釈なのです。実際に法をつくりだすのは法解釈なのですから、これをひとり判事の手にゆだねておくわけにはいきません。~いま必要なのは、 道徳をふりかざし、専門能力をいつわった有識者の委員会ではなく、利用者の集団なのです。実際に利用する人がいればこそ、法が政治に変容するわけですからね。要するに政治への移行ということなのですが、私個人としては六八年五月を機に、フェリックス・ガタリの、そしてフーコーのおかげで、さらにエリアス・サンバールのおかげで、具体的な問題にふれながら少しずつ政治への移行をはたしたのです。『アンチ・オイディプス』が一貫した政治哲学の本になりえたのは、そうした事情があったからにほかなりません。 管理社会論について
―フーコー論で、それから1NA(国立視聴覚研究センター)のテレビ・インタビューでも、あなたは権力の行便が示す三つの形態に徹底した分析を加えることを提案しておられます。三つの形 、まず「君主型」、それから「規律型」、そして特に重要なのが「コミュニケーション」をあやつる「管理型」の権力であるわけですが、この最後の形態が、いま、ヘゲモニーを獲得しようとしています。一方からすると、管理型権力の筋書きにしたがって、言論や想像力にも影響する支配の最終進化形が想定されているのはたしかですが、しかしもう一方では、いま、かつてないほどの勢いで、すべての人間、すべてのマイノリティ、そしてすべての特異性が発言し、また発言することによって、さらに自由の度合いを高めるという潜在能力をもつようになってきました。『グルントリッセ』のマルクス的ユートピアでは、コミュニズムが自由な個人による横断的な組織の形状を呈し、その条件を保証するものとして技術的な基盤が位置づけられていました。いまでもコミュニ ズムの可能性を考えることはできるのでしょうか。コミュニケーション社会が到来したいま、コミ ュニズムは以前ほどユートピア的ではなくなったといえるかもしれません。いかがでしょうか。 私たちが「管理社会」の時代にさしかかったことはたしかで、いまの社会は厳密な意味で規律型とは呼べないものになりました。フーコーはふつう、規律社会 と、その中心的な技術である監禁(病院と監獄だけでなく、学校、工場、兵舎も含まれるにいどんだ思想家だと思われています。しかし、じつをいうとフーコーは、規律社会とは私たちにとって過去のものとなりつつある社会であり、もはや私たちの姿を映していないということを明らかにした先駆者のひとりなのです。私たちが管理社会の時代にさしかかると、社会はもはや監禁によって機能するのではなく、恒常的な管理と、瞬時に成り立つコミュニケーションが幅をきかすようになる。管理社会について、分析の口火を切ったのはバロウズでした。~ そして「社会のタイプが違えば、当然ながらそれぞ れの社会に、ひとつひとつタイブの異なる機械を対応させることができます」として下記のように論じる。
君主制の社会には単純な力学的機械を、規律型にはエネルギー論的機械を、そして管理社会にはサイバネティクスとコンピューターをそれぞれ対応させることができるのです。しかし 機械だけでは何の説明にもなりません。機械をあくまでも部分として取り込んだ集合的アレンジメントを分析しなければならないのです。近い将来、開放環境に不断の管理という新たな管理の形態が生まれることは確実ですが、これに〜新しい形態の犯罪や抵抗(このふたつはきちんと区別されるべき事例です)があらわれることもあります。たとえばハッキングやコンピューター・ウイルスがそうで、これらがストライキや、十九世紀には「サボタージュ(怠 業)」と呼ばれていた(機械に投げ込まれた靴を意味する)行為の代わりになることもあるでしょう。〜そこで重要になってくるのは、非=コミュニケーションの空洞や、断続器をつくりあげ、管理からの逃走をこころみることだろうと思います。
規律社会と管理=制御社会
本書で管理コントロールとされているものは、『プロトコル』を訳した北野の、管理=制御のほうが適した表現な気がする。が、下記では翻訳者へのリスペクトとして、書籍通り「管理」と表記する。 フーコーは規律社会を十八世紀と十九世紀に位置づけた。規律社会は二十世紀初頭にその頂点に達する。規律社会は大々的に監禁の環境を組織する。個人は閉じられた環境から別の閉じられた環境へと移行をくりかえすわけだが、そうした環境にはそれぞれ独自の法則がある。まず家族があって、つぎに学校がある(「ここはもう自分の家ではないぞ」)。そのつぎが兵舎(「ここはもう学校ではないぞ」)、それから工場。ときどき病院に入ることもあるし、場合によっては監獄に入る。〜しかしフーコーは、規律社会のモデルが短命だということも、やはり知りつくしていた。規律社会のモデルは、目的と機能がまったく違った(つまり生産を組織化するというよりも生産の一部を徴収し、生を管理するというよりも死の決定をくだす)
こうした規律型社会を改革しようと試みる政治家は「改革の名のもとに」、新たな様相が「根をおろす」、とドゥルーズは述べる。
こうして規律社会にとってかわろうとしているのが管理社会にほかならないのである。「管理」とは、新たな怪物を名ざすためにバロウズが提案した呼称であり、フーコーが近い将来、私たちにのしかかってくると考えていたのも、この「管理」なのだ。ポール・ヴィリリオもまた、いわば戸外で行使される超高速の管理形態を分析し、これが、閉じられたシステムの持続において作用した旧来の規律にとってかわるだろうと述べている。〜冷酷な体制でも、我慢できる体制でも、その内部では解放と隷属がせめぎあっているからだ。たとえば、監禁環境そのものともいえる病院の危機においては、部門の細分化や、デイケアや在宅介護などが、はじめのうちは新しい自由をもたらしたとはいえ、結局はもっとも冷酷な監禁にも比肩しうる管理のメカニズムに関与してしまったことを忘れてはならない。恐れたり、期待をもったりしてはならず、闘争のための新しい武器を探しもとめなければならないのである。 そこで以下にて、従来の規律型社会からの変化或いは対比をもって、どのような差異が生じるか明らかにする。
個人が体験するさまざまな内部滞在の機構、すなわち監禁の環境は独立変数である。そこでは環境が変わるごとにゼロからやりなおすのが当然のこととされ、すべての環境に共通する言語が存在したとしても、それは類比にもとづく言語なのである。これにたいして、さまざまな管理機構のほうは分離不可能な変移であり、そこで使われる言語は、計数型で(「計数型」とはかならずしも「二項的」を意味するのではない)可変的な幾何学をそなえたシステムを形成する。監禁は鋳型であり、個別的な鋳造作業であるわけが、管理のほうは転調であり、刻一刻と変貌をくりかえす自己=変形型の鋳造作業に、あるいはその表面上のどの点をとるかによって網の目が変わる館に似ている。
また規律社会における「権力は、群れの形成と個人の形成をどうじに行っていたのだった。要するに権力は、権力行使の対象となる人びとを組織体にまとめあげ、組織体に所属する各成員の個別性を型にはめるのである」。このように規律社会には「個人と群れのあいだに両立不可能性などありはしなかった」のだ。それ故に規律社会では「個人を表示する署名」と「群れにおける個人の位置を表示する数や登録番号」が重要視されていたという。一方、管理社会は異なる。
逆に、管理社会で重要になるのは、もはや署名でも数でもなく、数字である。規律社会が指令の言葉によって調整されていたのにたいし、管理社会の数字は合い言葉として機能する(これは同化の見地からも、抵抗の見地からも成り立つことだ)。管理の計数型言語は数字でできており、その数字があらわしているのは情報へのアクセスか、アクセスの拒絶である。いま目の前にあるのは、もはや群れと個人の対ではない。分割不可能だった個人(individus)によってその性質を変化させる「可分性」(dividuels)となり、群れのほうもサンプルかデータ、あるいはマーケットか「データバンク」に化けてしまう。
そこで規律社会を「モグラ」、「てこ」、「滑車」、「時計仕掛」、管理社会を「ヘビ」、「サーフィン」、「情報処理機」、「コンピューター」とする。
そしてドゥルーズは最後に「管理社会」に生きるだろう若者にリゾームの更なる複雑化を指示するようにメッセージを投げかける。 自分たちが何に奉仕させられているのか、それを発見するつとめを負っているのは、若者たち自身だ。彼らの先輩が苦労して規律の目的性をあばいたのと同じように。とぐろを巻くへビの輪はモグラの巣穴よりもはるかに複雑にできているのである。
概念の複合性と歴史性
単純な概念というものは存在しない。あらゆる概念は、いくつかの合成要素をもち、それらによって定義される。(...) 多様体がみな概念であるというわけではないが、ともかく概念はひとつの多様体である。ただひとつの合成要素しかもたない概念というものは存在しないのである。
そこでデカルト、ヘーゲル、フォイエルバッハをあげて「ひとつの哲学がそれから「開始する」その最初の概念ですら、複数の要素をもつ」と批判するのだ。また以下のようにもいう。 あらゆる概念は少なくとも二重のものであり、あるいは三重、四重等々である。一切の合成要素をそなえた概念というものもまた存在しない。なぜなら、〔もしそんな概念があるということにでもなれば〕それはひとつの純然たるカオスになってしまうからだ。(...) 概念は、その諸合成要素の総和であるのだから、たしかに一個の全体であるのだが、ただし一個の断片的な全体なのである。
そこで「他者は、〈可能世界〉、〈存在する顔〉、〈リアルな言語活動あるいはパロール〉という三つの分離不可能な合成要素からなるひとつの概念」と例をあげ、概念の歴史性について下記のように論ずる。 もちろん、どの概念もひとつの歴史をもっている。わたしたちは、いま述べた他者概念によって、ライプニッツ、ライプニッツにおける可能世界、そして世界の表現としてのモナド、この三つにまで遡ることができる。(...) 要するに、あらゆる概念についてわたしたちが言わんとしているのは、概念にはつねに歴史があるということだ。もちろん、この歴史がジグザグである場合もあるし、この歴史が、必要に応じて、他の諸問題を通過したりいろいろな平面のうえを通ったりする場合もある。(...) 概念はどれも新たな裁断をおこない、いくつもの新しい輪郭を身につけるものであるからだし、復活されるべきもの、あるいは裁ち直されるべきものであるからだ。