『アンチ・オイディプス』
分裂的全体主義
欲望機械においては、すべてが同時に作動する。しかし、それは、亀裂や断絶、故障や不調、中断や短絡、くいちがいや分断が同時多発する只中において、それぞれの部分を決してひとつの全体に統合することがない総和の中において作動するのである。
文学機械の水準において、最も厳密な仕方で、次のような問題を提起しえたのは、モーリス・ブランショである。つまり、あるがままの差異の関係をたがいの間にもつ諸断片、それら自体の差異が相互関係にほかならないような諸断片、たとえ失われたものであっても起源的な全体性に依拠することがなく、また結果として生じてくる全体にも依拠することがない諸断片をいかにして生産し、いかに考えるべきなのか、といった問題である(36)。
名詞として用いられた多様性というカテゴリーは、〈一〉だけでなく多をも超え、〈一〉と多の述語的関係を超えていて、これだけが欲望的生産を説明しうる。欲望的生産は純粋な多様性であり、つまり統一体に還元されえないものを端的に肯定する。
いまや、私たちは、もろもろの部分対象、煉瓦、そして残余の時代に生きているのだ。
私たちはもはや、偽りの断片を信じない。こうした断片は、古代の彫像の破片に似て、もともとの統一性にほかならない統一性を構成するために補修や修理を待っているにすぎない。私たちは、もはや起源にあった統一性も、これから先の目標としての全体性も信じない。私たちは、もはや鈍重な進化する弁証法の灰色画法グリザイユを信じない。こうした画法は、輪郭を丸めて、もろもろの破片を調和的にまとめようとするのである。私たちは、傍にある全体性しか信じないのだ。そして私たちが、諸部分の傍にあるこうした全体性に遭遇するとすれば、それはたしかにこれらの諸部分の一全体ではあるが、この全体は諸部分を全体化しない全体であり、これらの諸部分すべての統一性であるが、これは諸部分を統一しないし、むしろ傍で構成された新しい部分のようにして、これらの諸部分に付け加わるのである。「統一性が現われる。しかし、この場合それは、霊感から生まれ、傍で構成された何らかの断片のように集合に付着するのである。」プルーストはバルザックの作品の統一性について、また同じく自分自身の作品の統一性について、こう語っているのだ。
また『失われた時を求めて』という文学機械において、あらゆる部分が、対称的でない側面、中断された方向、閉じられた箱、底の通じていない器、仕切り壁のようなものとして生みだされているのは、驚くほどである。ここでは隣接さえも距離であり、距離とは肯定であり、パズルの断片は同じものから由来するのではなく、それぞれ異なるパズルに属し、たがいの中に荒々しく挿入され、常に局地的であって、決して特殊的でなく、これらの断片の不ぞろいな輪郭は、いつも互いに押さえつけられ、毀損され、交錯しあい、残余をともなっている。これはまさに分裂気質的作品である。
法の厳格さが〈一なるもの〉の断乎とした主張を表現しているように見えても、それは見かけ上のことにすぎず、逆にその厳格さの真の目的は、断片化されたもろもろの宇宙を無罪放免にすることだからである。ここで法は何も〈全体〉の中に統合するのではなく、逆に、狂気から無垢をくみとるものの間隔、分散、破裂などを計測し配分する。──したがってプルーストにおいては、罪悪感という見かけのテーマには、このテーマを否定するまったく別のテーマが絡みあっている。つまりそれは雌雄両性の仕切り壁における、またシャルリュスの出会いやアルベルチーヌのまどろみにおける植物的な無邪気さであり、ここでは、花々が君臨し、狂気が無垢なものとして示されている。シャルルスの明白な狂気であれ、アルベルチーヌの推定される狂気であれ。
だから、プルーストはこういっていたのだ。全体は生みだされる。全体そのものは、諸部分の傍にあるひとつの部分として生みだされる。この全体は、統一化することも、全体化することもしないで、これらの諸部分に適用され、相互に通じていない容器の間に異様な通路を設け、それぞれが自分に固有な次元において、あらゆる差異を保持しようとする要素相互の間に、もろもろの横断的な統一性を作りあげるのだ。だから、『失われた時を求めて』の鉄道の旅においては、決して全体が見えるわけではなく、眺める観点にも統一性はない。むしろ全体や統一性は、ただ横断線の中にあって、旅行者は夢中になって窓から窓へと移動し「途切れたり対立したりするもろもろの断片を近づけ、あるいは移しかえようとして」、このような横断線を描くのである。
近づけ、あるいは移しかえるということ、これをまさにジョイスは「あらためて形態を与えること」reembody と呼んでいた。
器官なき身体はひとつの全体のように生みだされるが、それはまさにそれ自身の場所において、生産のプロセスの中で、この全体によって統一化も全体化もされないもろもろの諸部分の傍に生みだされる。そしてそれがこれらの諸部分に適用され、これらの諸部分の上に折り重なるとき、その表面の上に、もろもろの横断的交通や、超限的総和化や、多義的にして横断記述的登記をもたらす。この表面上では、もろもろの部分対象の機能的切断は、シニフィアン連鎖の切断と、そこに割り出される主体の切断によって、たえず切断し直されてゆくのである。
この全体は、単に諸部分と共存するだけではない。むしろ諸部分に隣接し、それ自身は諸部分と離れて生みだされ、同時に諸部分に適用される。
一般的にいえば、〈全体と部分〉の関係という問題は、古典的な機械論によっても生気論によっても同様に、正しく提起されてはいない。全体が、諸部分から派生した全体性として、あるいは諸部分がそこから由来するような根源的全体性として、あるいはまた弁証法的な全体化作用として考えられているかぎり、こういうほかはない。機械論も生気論も、欲望機械の本質を把握してはいなかった。欲望の中に生産を導入すると同時に、機械機構の中に欲望を導入するという二重の必然性を把握してはいなかったのである。
あらゆる欲動をその対象とともにひとつの統合的全体に向かわせる欲動の進化といったものは存在しないし、またこれらの欲動の源泉である始原的全体性といったものも存在しない。
メラニー・クラインは、部分対象という、あの爆発、回転、振動の世界の驚くべき発見をなしとげた。ところが、彼女は部分対象の論理を把握することに失敗している。(...)彼女が次のような考え、分裂-パラノイア的気質のもろもろの部分対象は、ある全体に帰するという考えを免れていないということである。つまり、始原的段階における根源的な全体であるにしろ、あるいは後発的な抑鬱性態勢の中に到来する全体であるにしろ、ひとつの全体というものに部分対象が帰するというのである。
これらの部分対象は、彼女においては、包括的性格をもつ人物たちから採取されているように見える。〈私〉であれ、対象であれ、もろもろの欲動であれ、これらに関する統合的な全体性の中にまで部分対象が入り込んでくるだけではない。さらに部分対象自身が、〈私〉や母や父の間の対象的関係の原型をもすでに構成することになるのだ。ところが、まさにこの点で結局事態はすべて決定されることになる。確かに、これらの部分対象は、それら自体においては十分な力を蓄え、オイディプスをふきとばし、オイディプスから、あの馬鹿げた野望を、無意識を表象し三角形化して、あらゆる欲望的生産を手に入れるという馬鹿げた野望を取りあげることができる。だが、ここで問題になっているのは、オイディプスとの関係において前オイディプス的といわれるものが相対的にどれだけの重要性をもつかといったことではまったくない(なぜなら、「前オイディプス的」ということは、やはり発生的あるいは構造論的にオイディプスを参照しているからである)。問題は、欲望的生産が絶対的に非オイディプス的な性格をもっているということである。ところが、メラニー・クラインは、全体の見地を、つまり包括的性格をもつ人物や完全な諸対象を認める観点を保存しているので、しかもおそらく、彼女は、「オイディプスを認めないものは、なんぴともここには入れない」と扉に書きつけた〈国際精神分析協会〉とのいざこざを避けようとするので──、彼女はオイディプスの首枷をはねのけるために、部分対象を役立てようとはしない。それどころかオイディプスをうすめ、ミニアチュア化し、数をふやして、低年層にまで拡げるために、それを役立て、あるいは役立てるふりをしているのだ。 ここで、私たちが精神分析家の中で最もオイディプス化を避けている学者であるメラニー・クラインの例を取りあげるのは、まさにオイディプスを欲望的生産の尺度とするためには、どれほど無理しなければならないかを示すためである。
意識は、人物の存在を知らない。部分対象は、両親という人物の表象〔代理〕でもなければ、家族関係の支えでもない。部分対象は、欲望機械の中のもろもろの部品であり、何ものにも還元されない生産過程や生産関係にかかわるのであって、これらこそ、オイディプスの形象の中に登録されるものと比べて根本的なのだ。
遊んでいる子供を、あるいは這い這いして家の中の部屋を探険する子供を考えてみよう。彼は電気のコンセントを眺め、自分の体を機械と化し、一本の足を櫓のように使い、台所や書斎に入り、小さい自動車を操縦する。子供にとって両親はいつでも現存しており、両親がいなければ、子供には何もないことは明らかである。しかし、問題はそれではない。問題は、子供の触れるものがすべて、両親を表象するものとして体験されるのかどうか、である。誕生して以来、ゆりかご、乳房、おしゃぶり、排泄物は、子供の身体のもろもろの部分と接続された欲望機械なのである。一方で、子供はもろもろの部分対象の間で生きていると語り、同時に他方で、この子供自身が部分対象において捉えるものは、まさに断片となった両親という人物そのものだと言うことは、私たちには矛盾と思われる。乳房が母の身体から採取されるということは、厳密にいうと正しくない。というのも乳房は欲望機械の部品として存在し、赤ん坊の口と接続され、濃かったり薄かったりする非人称的なミルクの流れから採取されるからである。欲望機械や部分対象は、何も表象しない。つまり部分対象は表象的ではないのだ。(...)小さい子供は、いつも家族の中にいるが、この子供は家族の中で始めから、直接的に恐るべき非家族的な経験をする。精神分析は、こうした経験をみのがすのだ。(...)子供にとって生死にかかわり情愛にかかわる両親の重要性を否定することが問題なのではない。欲望的生産における両親の位置や機能が何であるのかを知ることが、問題なのである。逆のことをして、欲望機械のあらゆる働きをオイディプスの制限されたコードに切り詰めてしまってはならない。
子供は、幼いころからすぐに、まさに欲望する生命をもち、つまり欲望の諸対象や諸機械との間に結んだ家族的でない関係の総体をもっている。(...)子供が自分の生命を体験し、生きるとはどんなことなのかを問うのは、もろもろの部分対象の間でであり、欲望的生産の非家族的な諸関係の中においてである。たとえ、この問いが両親に「関係づけ」られなければならず、家庭的諸関係の中でのみ暫定的な解答をうるものだとしても、このことに変わりはないのだ。「私は八つのときから、いやもっと前からさえ、いつも、私が誰であるのか、何であるのか、そしてなぜ生きているのか疑問に思っていたことを憶えている。私は、六つのとき、マルセイユのブランカルド大通りの家(正確には、五九番地)でのことを憶えている。母といわれていたある婦人が私にくれたチョコレート・パンをおやつに食べていたときのことだ。私は疑問に思ったのだ。存在するということ、そして生きるということはいかなることなのか、自分が呼吸しているのを見るとはいかなることなのか。さらに、生きているという事実を実感するために、またこの事実が私にふさわしいかどうか、またいかなる点でふさわしいのか知るために、みずからを呼吸しようとしたことも(40)。」これはまさに本質的なことだ。ひとつの問題が子供に提起されている。この問題は、おそらくママと呼ばれる女性に「関係づけられる」ことになるが、しかし、彼女との関係で生みだされるものではなく、欲望機械の作用の中で生みだされるのだ。たとえば、〈口-空気〉機械あるいは味覚機械の次元で、次のような問題が生みだされる。──生きるとは何か、呼吸するとは何か、私とは何か、私の器官なき身体の上にあって呼吸する機械とは何か、といった問題である。子供は形而上学的存在なのだ。デカルトのコギトの場合におけるように、両親はこういった問いの中には入ってこない。だから、問いが(両親に対して語られ表現されるという意味で)両親に関係づけられているという事実と、この問いが(両親と本性的に関係をもっているという意味で)両親に関係するという観念とを混同することは誤りである。子供の生命をオイディプス・コンプレックスの中に閉じこめ、家族的諸関係を幼年期における普遍的媒介とみなすことによって、ひとは、無意識そのものの生産と、じかにこの無意識に働きかける集団のメカニズムを見失ってしまわざるをえない。とりわけ根源的な抑圧、欲望機械、そして器官なき身体のあらゆる作用を見失うことを。なぜなら無意識とは孤児であり、無意識自身は自然と人間とが一体であるところに生産されるからである。無意識の自動生産は、まさにデカルトのコギトの主体が両親と無関係に自分を見いだすところで、また社会主義の思想家が人間と自然との統一性を生産作用の中に見いだすところで、さらに循環サイクルが、両親への果てしない退行から、みずからの独立を発見するところで生起するのである。あたいは〈パパ-ママ〉のものじゃない
欲望機械、流れ、切断
欲望機械は二項機械であり、二項的規則、あるいは連合的体制をそなえた機械である。ひとつの機械は常に他の機械と連結している。生産的総合すなわち、生産の生産は、「そして」et「そして次に」et puis...という接続的な形態をもっている。つまり、ここには常に流れを生産する機械と、この機械に接続されてこの流れを切断し採取する働きをするもうひとつの機械が存在する(母乳-口といった関係がそうである)。そしてまた、今度は第一の機械が別の機械に接続され、これに対して第一の機械が切断あるいは採取の行動をする。したがって、二項系列はあらゆる方向に線型状にのびてゆく。連続する流れと本質的に断片的な、また断片化された部分対象との間に、欲望はたえず連結を実現する。欲望は流れさせ、みずから流れ、そして切断するのだ。「私はあらゆる流れるものを愛する。あの月経の流れさえも。受精しなかった卵を運ぶあの月経の流れさえも.......。」ミラーは彼の欲望の讃歌においてこう言っている。羊水の袋(羊膜囊)と腎臓の結石。毛髪の流れ、涎の流れ、精液、糞、尿の流れ。これらの流れはもろもろの部分対象によって生産され、またたえず他の部分対象によって切断され、これらがまた他の流れを生産し、生産された流れはまた別の部分対象によって再び切断される。(...) それゆえ、〈流れ-部分対象〉という接続的総合による連結は、また〈生産物-生産する働き〉という別の形態をもつことになる。生産する働きは、常に生産されるものに接木される。だからこそ、あらゆる機械が機械の機械であるように、欲望的生産は生産の生産なのだ。
「私はあらゆる流れるものを愛する。あの月経の流れさえも。受精しなかった卵を運ぶあの月経の流れさえも……。」ミラーは彼の欲望の讃歌においてこう言っている(6)。羊水の袋(羊膜囊)と腎臓の結石。毛髪の流れ、涎の流れ、精液、糞、尿の流れ。これらの流れはもろもろの部分対象によって生産され、またたえず他の部分対象によって切断され、これらがまた他の流れを生産し、生産された流れはまた別の部分対象によって再び切断される。あらゆる「対象」は流れの連続を前提とし、あらゆる流れは対象の断片化を前提としている。
何かに電気を引いてきたり、また水路のむきをかえたりするとき、こういう器用仕事をするひとが感ずる満足は、パパ-ママごっこや、タブーを犯す楽しみなどによっては、決して十分に説明されないだろう。たえず生産の働きを生産し、この生産の働きを生産物に接木してゆくという規則こそが、欲望機械、あるいは根源的な生産の特性なのである。
欲望機械が、あらゆる隠喩とは無関係に、真に機械であるといえるのは、いかなる点においてなのか。ひとつの機械は、ひとつの切断のシステムとして定義される。決して現実との分離として考えられた切断が問題なのではない。切断は変化する様々な次元において、考察される性格に従って実現される。まず第一に、およそ機械はすべて連続した物質的流れ(つまり質料)とかかわり、機械はこの流れを切りとるのである。機械はハムを切断する機械として作動する。切断は、連合する流れから何かを採取する働きをする。たとえば肛門とこの肛門が切断する糞の流れとの関係。口とミルクの流れとの関係、さらに口と空気や音の流れとの関係。ペニスと尿の流れ、そしてまた精子の流れとの関係。連合する流れは、それぞれ、理念的なものとして、豚の大きな腿の果てしない流れとして考慮されなければならない。じじつ質料は、物質が理念上所有している純粋な連続性を示している。ジョランが通過儀礼の際に吸引される団子状や粉末状のものを説明するとき、これらのものは、「理論的には唯ひとつの起源しかもたない果てしない連続体」から、つまり宇宙の果てまで拡がるただひとつの塊から採取される一集合として生じてくることを、彼は示している(30)。切断は連続に対立するどころか、むしろ連続の条件をなし、切断されるものを理念的な連続性として含んでいる、あるいは切断されるものをそのようなものとして定義するのである。すでにふれたように、あらゆる機械は、機械の機械である。機械が流れの切断を生産するのは、ただこの機械が、流れを生産するとみなされる別の機械に接続される限りにおいてのみである。そしておそらく、今度はこの別の機械がまた現実に切断を行うのである。しかし、この機械が切断を行うのは、さらに第三の機械との関係においてのみであって、この第三の機械は、理念的に、すなわち相対的に、無限に連続した流れを生産するのである。こうして肛門-機械と腸-機械、腸-機械と胃-機械、胃-機械と口-機械、口-機械と家畜の群れの流れ(「そしてまた、そしてまた、そしてまた……」)といった関係が生ずる。要するに、あらゆる機械は、その機械が接続されている他の機械との関係においては流れの切断であるが、その機械も、それに接続されている別の機械との関係においては、流れそのものであり、流れの生産である。まさにこれが、生産の生産という法則である。したがって、横断的あるいは超限的接続の極限においては、部分対象と連続的流れ、切断と接続が一体となっているのである。──いたるところに流れ-切断が生起し、欲望はそこから発生し、それこそが欲望の生産性そのものであって、たえず生産の働きを生産物に接木してゆくことになる(たいへん奇妙なことに、メラニー・クラインは部分対象という根本的な発見をしたにもかかわらず、この点に関して、流れの研究をなおざりにし、流れをとるにたりないものと言明している。メラニー・クラインは、こうして、あらゆる接続を短絡させてしまう(31))
欠如ではなく、生産としての欲望
もろもろの欲求は、欲望が生産する現実の中に生みだされる逆生産物である。欠如は欲望の逆効果であり、自然的社会的な現実の中に託され、備えられ、空胞になったものでしかない。欲望はいつも客体的実在の諸条件のすぐ近くにあり、こうした条件に結びつき、あるいは同伴し、これを越えて生き延びるようなことはなく、これとともに移動するのだ。
たとえ、私たちは草ではない、ずっと前に、ひとは葉緑素合成をしなくなった、ひとはだから食べなくてはならないのだ…、などと語ろうと、欲望はこのとき、おぞましいことに欠如の恐怖となる。ところがまさに、こう語ったりするのは、貧しい人びとや無一物のひとたちなのではない。それどころか逆に、彼らこそ自分が草と同類であり、欲望とはほんの僅かのものを「欲求」するにすぎないことをよく知っているひとたちなのだ。彼らに残されたものを欲求するのではなく、彼らからたえず剝奪されるあれらのもの自体を欲求するのであり、これらのものは主体の中心に欠如を構成していたのではなく、むしろ人間の客体性を、または人間の客体的存在を構成していたのだ。このような人間にとっては、欲望することはすなわち生産すること、現実に生産することなのである。現実的なものとは、不可能ではなく、反対に、現実的なものにおいては、すべてが可能であり、すべてが可能になる。
革命家たち、芸術家たち、そして見者たちは、単に客体的であることでみちたりている。つまり彼らは、欲望が生産的な力能によって生を抱擁していること、欲望が欲求をほとんど必要としていないからこそ、より強度なしかたで生を再生産するということを知っている。それを言うだけなら簡単だ、それは本の中のアイディアにすぎない、と思っている人びとにとっては心外だろうけれど。「私がしてきたわずかな読書から、私はこういう結論をひきだしたのである。生の中に最も深くもぐりこみ、生に形を与えた人びと、生そのものである人びとは、わずかしか食べず、わずかしか眠らず、たとえ物を持っているとしても、わずかしか所有しない。彼らは義務や生殖に関して、家族を永続させ国家を防衛するという限られた目的に関して、少しも幻想を抱いてはいなかった……幻想の世界とは、われわれが征服しえなかった世界である。それは過去の世界であり、未来の世界ではない。過去にしがみついたまま前進すること、それは囚人の足枷を引きずって歩くことである(24)。」生きた見者、それはナポリの革命家の衣装を着たスピノザである。私たちは欠如がどこから来るのか-そしてその主体的相関物として、幻想がどこから来るのか分っている。欠如は社会的生産において整備され、組織される。欠如は反生産の審級による逆生産物であり、この審級はもろもろの生産力に折り重なって、それらを独占してしまう。それは決して最初に来るのではない。生産は決してそれ以前の欠如とのかかわりにおいて、組織されるわけではない。むしろ欠如が先行する生産の組織にしたがって居座り、空胞化し、増殖するのである(25)。このような市場経済としての空虚の実践は、支配階級の技術に属する。それはつまり、ありあまる生産において欠如を組織すること、欲望のすべてを欠如への深刻な恐れのなかに投げ込むこと、欲望の外部にあるとみなされる現実的生産に対象を依存させることである(合理性の要求)。かたや欲望の生産は幻想のなかに入ってしまうのだ(ほかの何者でもなく幻想に)。
唯物論と観念論、唯物論的精神医学
ある意味では、欲望の論理は、第一歩からその対象を捉えそこねている。第一歩とは、プラトンの区分のことでそれは、生産と獲得との間で選択させるのである。欲望を獲得の側におくなら、たちまち私たちは欲望について観念論的(弁証法的、ニヒリズム的)な考え方を形成してしまう。これは、何よりもまず、欲望を欠如として、対象の欠如として、現実的対象の欠如として規定するものである。
欲望的生産は唯物論的精神医学の現実的カテゴリーであり、この精神医学は分裂者を〈自然人〉Homo natura として定義し、あつかう。
じじつ私たちがオイディプスの中に閉じこめられ、オイディプスを基準に測られるとたちまち一杯食わされ、生産という本来の唯一の関係は排除されてしまうからである。精神分析の偉大な発見は、欲望的生産の、無意識のもろもろの生産の発見なのだ。しかし、オイディプスの出現とともに、この発見はたちまち新たな観念論によって蔽い隠された。つまり工場としての無意識のかわりに古代劇場が、無意識の生産の諸単位のかわりに表象が、生産的無意識のかわりに、もはや自己を表現することしかできない無意識(神話、悲劇、夢…)がいすわったのだ。
ある意味では、欲望の論理は、第一歩からその対象を捉えそこねている。第一歩とは、プラトンの区分のことでそれは、生産と獲得との間で選択させるのである。欲望を獲得の側におくなら、たちまち私たちは欲望について観念論的(弁証法的、ニヒリズム的)な考え方を形成してしまう。これは、何よりもまず、欲望を欠如として、対象の欠如として、現実的対象の欠如として規定するものである。確かに、他方の側面すなわち「生産」という側面が無視されているわけではない。欲望とは、「それ自身の表象を介して、これらの表象の対象を実在させる原因となる能力」であると定義して、欲望の理論に批判的革命をもたらしたのは、まさにカントなのだ。しかし、カントは、この定義を説明しようとして、迷信にみちた信仰や幻覚や幻想を引きあいに出しているが、これは偶然ではない。私たちは、現実的対象が外的な因果関係と外的なメカニズムとによってしか生産されえないことをよく知っているが、この知識も、次のように考えることを妨げはしない。たとえ、非現実的な幻覚あるいは幻想の形においてであっても、欲望の内的な力は、欲望自身の対象を生みだし、このような因果関係を欲望自身のうちで表象する(21)。欲望によって生産されるものとしての対象の現実は、それゆえ心理的現実なのである。それなら、カントの批判的革命は、本質的には何も変えていないということができる。生産性をこのように把握する仕方は、欲望を欠如と考える古典的な発想を問い直すものではなく、むしろ古典的な発想に依存し、それに支えられたまま、それを深めることで満足しているだけなのだ。じじつ、もし欲望が現実的対象の欠如にすぎないなら、欲望の現実そのものは、幻想化された対象を生産する「欠如という本質」の中にあることになる。こうして欲望は生産として把握されても、ただ幻想の生産として把握されているにすぎず、精神分析はまさにこうした欲望を完璧に展開してきたのである。解釈の最も基礎的な次元では、このことは次のことを意味している。すなわち欲望にとって欠如している現実的対象は、それ自身としては、外的な自然的あるいは社会的生産にかかわるが、一方欲望の方は想像的なものを内的に生産し、これを現実のかわりにする、ということを意味しているのである。あたかも「それぞれの現実的対象の背後には夢見られた対象」が存在するかのように、あるいは現実的生産の背後には心的生産が存在するかのように。だからといって、精神分析は、対象の精神分析という最も悲惨な形態において、アイディア商品や市場の研究に行き着くと決まっているわけではない(麵類のパックや自動車や「何やかや」の精神分析)。しかし、幻想をそのあらゆる広がりにおいて解釈し、これを単にひとつの対象としてではなく、欲望を演出する特殊な一機械として解釈する場合でさえ、この機械は単に演劇的なものにすぎず、この機械は、これから分離されてはいるが、この機械を補足するものを存続させているのだ。まさにここで欲求は、相対的な欠如として定義され、それ自身の対象によって規定されている。ところが他方、欲望は、幻想を生産するものとして出現し、自己を対象から分離することによって自己を生産し、しかもまた欠如を倍加し、それを絶対的にしていき、この欠如を「存在の癒し難い欠陥」、あるいは「生そのものにほかならない存在欠如」にするのである。こうして欲望は、もろもろの欲求に支えられたものとして現われてくるほかない。欲望の生産性は、欲求という基礎のうえに、欲求が対象を欠いているという関係のうえに成立し続けることになる(支えの理論)。要するに、ひとが欲望的生産を幻想の生産に還元するとき、彼は観念論的原理からあらゆる帰結を引きだすことで満足していることになる。この原理は、欲望を欠如として定義するだけで、生産として、「産業的な」生産として定義しない。クレマン・ロセは、的確にこう語っている。欲望がその対象を明確にしようとして、欲望にまさに欠けている欠如を強調するたびに、「世界は、何であれこの世界とは別の世界と二重写しになって現れ、次のような道をたどることになる。欲望には対象が欠けている。したがって世界は、あらゆる対象を含んでいるのではなく、少なくともひとつの対象を欠いている。それがつまり欲望の対象なのである。したがって、欲望の鍵を所蔵する別の場所が存在する(この世界には、欲望の鍵が欠如している(22))」。 欲望が何かを生産するとすれば、それは現実を生産するのだ。欲望が生産者であるとすれば、欲望はただ現実において生産者であり、現実の生産者なのだ。欲望は、こうしたもろもろの受動的総合の総体であり、これが部分対象を、またもろもろの流れと身体を、機械として組織し、みずから生産の単位として作動する。現実的なものは欲望から生ずるのであって、それは無意識の自己生産にほかならない欲望の受動的総合の結果である。欲望には何も欠けていないし、対象も欠けてはいない。欲望に欠けているのはむしろ主体であり、欲望は固定した主体を欠いているのだ。
一方に現実の社会的生産、他方に幻想の欲望的生産があるわけではない。これら二つの生産の間に、注入や投影といった二次的関係が確立されるわけではない。もしそうなら、あたかも社会的実践が内面化された心的実践に重なり、あるいはまた心的実践が社会的システムに投影されるだけで、これらはたがいに決して侵食しあわないかのようである。私たちが一方に貨幣、金、資本そして資本主義の三角形を、他方にリビドー、肛門、ファルス、そして家族の三角形を対比させるに過ぎないなら、心地よい時間つぶしに身をゆだねることになっても、貨幣のメカニズムは、貨幣を操る人びとの肛門的投影とはまったく無縁なままである。マルクスとフロイトの対比はまったく不毛で無関係なままであり、たがいに無縁なまま、内面化されあるいは投影される諸項をうかびあがらせるだけである。たとえば、貨幣=糞という、あの名高い等式のように。本当は、社会的生産は規定された諸条件においては、もっぱら欲望的生産そのものなのである。社会的領野は直接的に欲望に横断され、それは歴史的に規定された欲望の産物であり、リビドーは、生産力と生産関係を備給するために、いかなる媒介も、いかなる昇華も、いかなる心理的操作も、いかなる変形も必要としない、と私たちは主張する。ほかのなにものでもなく、ただ欲望と社会的なものが存在する。社会的再生産の最も抑圧的、屈辱的な形態も欲望によって生産され、欲望から出現する組織において生産される。まさに私たちは、この組織がどのような条件において出現するかを分析しなければならないだろう。だからこそ政治哲学の根本的問題とは、スピノザがかつて提起したものと同じなのだ(それをライヒは再発見したのである)。すなわち「何ゆえに人間は隷属するために戦うのか。まるでそれが救いであるかのように」。どうして人は「もっと税金を! もっとパンを減らして!」などと叫ぶことになるのか。ライヒがいうように、驚くべきことは、ある人びとが盗みをし、また別の人びとがストライキをするということではない。そうではなくて、むしろ飢えた人びとが必ずしも盗みをしないということ、搾取される人びとが必ずしもストライキをしないということである。なぜ人々は何世紀も前から、搾取や屈辱や奴隷状態に耐え、他人のためだけでなく、自分たち自身のためにさえも、これらを欲するようなことになるのか。ライヒは、ファシズムの成功を説明しようとして、大衆の誤解や錯覚をその原因として引き合いに出すことを拒否し、欲望の観点から、欲望の言葉で説明することを要求しているが、ライヒがこのときほど偉大な思想家であったことはない。彼はこう語っている。いや、大衆はだまされていたのではない。大衆は、一定のとき、一定の情況において、ファシズムを欲望していたのであり、まさにこのこと、群集心理的欲望のこの倒錯を説明しなければならない、と(26)。ところが、ライヒはこれに対して十分な解答を与えるまでには至っていない。なぜなら、彼は、社会的生産プロセスの中に存在している、あるいは存在しなければならない合理性と、欲望の中の非合理的なものを区別し、この非合理的なものだけを精神分析の主題とすることによって、彼自身が打ち倒そうとしていた当のものを復活させているからである。ここでライヒが精神分析の使命としているのは、ただ社会的領野における「否定的なもの」「主観的なもの」「禁じられているもの」を説明することだけである。こうして必然的に彼は、合理的に生産される現実的対象と、非合理的な幻想的生産との間の二元論に帰ることになる(27)。彼は、社会野と欲望の共通の基準あるいは共外延を発見することを放棄するのだ。つまり唯物論的精神医学を真にうちたてるためには、彼には欲望的生産というカテゴリーが欠けていた。いわゆる非合理的な形態であれ、合理的な形態であれ、現実的なものはこのカテゴリーにしたがうべきであった。
もし唯物論的精神医学が、欲望の中に生産の概念を導入するということによって定義されるとすれば、それは分析機械、革命機械、そして欲望機械の間の最終的な関係という問題を、終末論的なことばで提起せざるをえない。
主体論
欲望が何かを生産するとすれば、それは現実を生産するのだ。欲望が生産者であるとすれば、欲望はただ現実において生産者であり、現実の生産者なのだ。欲望は、こうしたもろもろの受動的総合の総体であり、これが部分対象を、またもろもろの流れと身体を、機械として組織し、みずから生産の単位として作動する。現実的なものは欲望から生ずるのであって、それは無意識の自己生産にほかならない欲望の受動的総合の結果である。欲望には何も欠けていないし、対象も欠けてはいない。欲望に欠けているのはむしろ主体であり、欲望は固定した主体を欠いているのだ。
この主体は、いたるところで、ある生成、ある転身から報償を受け取り、みずからが消費する状態から生まれ、それぞれの状態において生まれ変わる。だから、新たに消費を終えるたびごとに、主体はその時点において生まれ変わって現われる。「だから、これは私なのである。だから、これは私のものなのだ……。」マルクスがいっているように、苦しむことさえ、自己を享受することである。。おそらく、欲望的生産はすべて、すでに直接的に消費であり消尽であり、したがって「享楽」なのである。
クロソウスキーは、ニーチェを註釈して、このことをみごとに指摘したのである。物質的感動としての気分 Stimmung は、最も高度の思考と最も尖鋭な知覚を構成するものとして現前するというのである(19)。「遠心力は、永遠に中心を逃れるわけではなく、再び中心から遠ざかろうとして、新たに中心に近づく力なのである。個人が自分自身の中心だけを求めて、自分がその一部をなしている円環全体を見ない限り、このような激しい振動は個人を圧倒することになる。この振動が個人を圧倒するのは、自分が見いだしえない中心に立つならば、振動のひとつひとつが、自分自身だと思いこんでいるのとは別の個人に対応しているからである。したがって自己同一性は本質的に偶然的で、あれやこれやの自己同一性の偶然性が、様々な個人性を必要とするためには、それぞれの同一性が一連の個人性を遍歴しなければならないことになる。」
文献学の教授であるあのニーチェという自我などは、もともと存在してはいないのだ。この自我は突然理性を失うと同時に、もろもろの奇妙な人物に同一化することになる、などということではないのだ。一連の諸状態を通過してゆくニーチェ的主体があり、この主体が、歴史上の様々な名をこれらの諸状態と同一化するのである。歴史上のすべての名前、それは私である…。自我は円環の中心を放棄したが、いまや主体がこの円環の円周上に拡がっている。中心にあるのは、欲望の機械であり、永劫回帰の独身機械である。この機械の残滓的主体として、ニーチェ的主体は、この機械が回転させるあらゆるものから、読者がニーチェの断片的著作にすぎないと思っていたあらゆるものから、幸福感に満ちた報償(ヴォルプタス)を引きだしてくる。「ニーチェがこれ以降追求しようとするのは、ひとつの体系の実現ではなくて、ひとつのプログラムの適用なのである……。これはニーチェ的言説の残滓という形で現われるが、いわば彼の歴史主義の全レパートリーを形成することになる。」人物に同一化することではなく、歴史上の名前を器官なき身体の上のもろもろの強度的地帯に一体化すること。だから、そのたびに、主体は叫ぶのだ、「これは私だ、だから、これは私だ」。これまでに分裂者ほど歴史を作り、歴史の方法を作り出したものはいない。彼は、いっきょに世界史を消費するのである。私たちは、分裂者を〈自然人〉Homo natura として規定することから出発したが、彼は最後には〈歴史人〉Homo historia なのである。
欲望とは機械であり、欲望の対象もやはりこれに接続されたもうひとつの機械である。したがって、生産物は生産する働きから採取される。そして生産する働きから生産物に移行するプロセスで、何かが離脱し、これは遊牧し放浪する主体に残余を与える。
生産の生産、消費、登録
すなわち、生産はそのまま消費であり、登録なのである。登録と消費は直接に生産を規定しているが、しかも生産そのものの真っ只中で生産を規定している。だから、すべては生産なのだ。ここに存在するのは、生産の生産、つまり能動と受動の生産であり、登録の生産、つまり分配と指標の生産でり、消費の生産、享楽と不安と苦痛の生産なのである。すべてはまさに生産であるから、登録はただちに消費され消尽され、この消費は直接に再生産される(3)。これがプロセスという言葉の第一の意味である。すなわち、登録と消費を生産そのものの中に組み込むこと、登録と消費を、同じひとつの過程の中の生産とみなすことである。
プロセスは、目標や目的と考えられてはならないし、プロセス自身を無限に継続することと混同されてもならない。プロセスの目的化、あるいはプロセスの無限の継続は、厳密にいえば、そのプロセスの早すぎる無謀な停止と同じことであり、それは病院で見られるような、人工的な分裂症者、自閉症化して廃人になり、臨床実体として生みだされる存在をつくりだす操作にほかならない。ロレンスは愛についてこう語っている。「私たちは、ひとつのプロセスを目標としてしまった。あらゆるプロセスの目的は、そのプロセスの無限の継続ではなくて、プロセスそのものの完成である…。プロセスはそれ自身の完成をめざすべきであって、何かしら恐ろしく増大する強度とか、何かしら恐ろしい極限、ついには心も体も破壊される極限などといったものではない。」
「プロセス」ということばの意味にしたがうなら、生産の上に登録が折り重なるといっても、この登録の生産そのものは、生産の生産によって生みだされてくる。同様に、この登録に消費が続くのであるが、消費の生産は登録の生産によって、また登録の生産の中で生みだされるのだ。
シュレーバー控訴院長はといえば、彼はこうしたことをじつに生き生きと意識している。宇宙的な享受の比率は定まっているのだから、シュレーバーが女性に変容するのと引きかえに、神はシュレーバーから享楽をうることを要求する。ところが、この神の享楽のうち、シュレーバー控訴院長が体験しうるのは、その残滓の一部だけであり、それは自分の苦しみの報酬であり、あるいは自分が女性になることの報償である。「神にこの享受を提供するのは、私の義務である。そして、このことによって、もしわずかの官能的な快楽が私に与えられるならば、私はそれを受けとることは正当であると感じる。それは長い間、私の運命であった過大な苦悩と窮乏とを少し埋め合せるものにほかならない。生産のエネルギーとしてのリビドーの一部が登録のエネルギー(ヌーメン)に変容したのと同様に、登録のエネルギーの一部は消費のエネルギー(ヴォルプタス)に変容するのである。まさにこの残滓のエネルギーが無意識の第三の総合、「だから、これは……である」《c'est donc...》という連接的総合、すなわち消費の生産を推進する。
ここでもまたマルクスの次の警告を思い起そう。小麦の味から、誰がそれをつくったのかを見ぬくことはできない。生産物から、生産体制や生産関係を見ぬくことはできない。生産物が、生産物が依存する現実の生産過程にではなく、原因結果、了解、表現といった理念的な諸形式に結びつけられるなら、生産物はそれだけ特殊なもの、語りがたいほど特殊なものに見えてくるのだ。
分裂症
いったい分裂者を、現実から分離され、生から切断された自閉的なあの廃人として思い描くことが、どうして可能になったのか。
もっと悪いことに、精神医学は、どうして分裂者を実際にあの廃人に変え、あのような死人になった器官なき身体の状態に還元しえたのか。
贋の唯物論と観念論の典型的形態の間に、根本的なちがいはない。分裂症の理論を特徴づけるのは次の三つの概念であり、これらはこの理論の三位一体の定式を構成する。観念解離(クレペリン)、自閉症(ブロイラー)、時間-空間あるいは世界内存在(ビンスヴァンガー)の三つである。第一のものは説明的な概念であり、これは分裂症に特有の障害や根本的な欠損を指摘しようとするのである。第二のものは了解的な概念であり、錯乱そのもの、あるいは切断という効果の特殊性を指摘する。それは「現実からの離脱であって、この離脱は内的生活の相対的あるいは絶対的な優位をともなう。」第三のそれは表現的な概念であり、この概念は錯乱する人間を彼自身の特有な世界の中に発見し、または再発見しようとする。これら三つの概念に共通しているのは、分裂症の問題を、「身体のイメージ」を介して自我に関係づけていることである(これは魂の最終的な化身にすぎず、そこには唯心論と実証主義が混交している)。ところが、自我とはパパ-ママと同じで、ずっと前から、分裂者はもはやそんなものを信じてはいない。分裂者は、こうした問題の彼岸に、あるいは背後に、その下に、あるいは別のところにいるのであって、とにかくこうした問題の中にはいないのだ。
結局フロイトは分裂症者が好きではないのだ。彼は、オイディプス化に対する彼らの抵抗をきらい、むしろ彼らを獣のように扱う傾向をもっている。フロイトはこういっている。彼らは言葉を物そのものと取り違え、無感動でナルシシストで、現実から切断されていて、転移をうけつけず、哲学者に似ている。「これは望ましくない類似である」と。
分裂症の問題が自我の次元にひきもどされるたびに、もはや分裂者のものとして前提された本質や特徴を「味わう」ことしかできはしない。愛情や憐憫をもって対するとしても、あるいは嫌悪をもって再び吐き出すことになるにしても、同じことだ。分裂者は、あるときは解離した自我であり、またあるときには切断された自我であり、また一番気のきいた別の場合には、存在をやめたことのない自我、独自に現存在している自我、しかも世界内にある自我であり、これは狡猾な精神医学者、理解力にたけて卓越した観察者、つまり現象学者によって見出されたのである。
パラノイア
精神医学者クレランボーの有名な命題は確かな根拠をもっているように思える。包括的で体系的な性格をもつ錯乱〔妄想〕は、細分化した局所的な自動性の現象に対して二次的なものであるという命題である。じじつ錯乱は、欲望機械の生産過程を収集する登録を特徴づけるものである。パラノイアにおいて、また分裂症のパラノイア気質的形態においてさえ認められるように、錯乱は、それ自身に固有の総合や情感をそなえてはいるが、自律的な領域を構成するものではなく、欲望機械の作動や不調に対しては二次的なのである。ところが、クレランボーが「(精神的)自動症」の用語を用いたのは、反響、有声化、閉鎖音の破裂、無意味音というふうに、語幹を形成しない音声現象を示すためにすぎなかった。クレランボーは、ここに、感染あるいは中毒の機械的な効果を見ていたのである。彼は、ここから大部分の錯乱を自動症の結果として説明した。錯乱のその他の部分、すなわち「個人的な」部分に対しては、この部分は、反応的性質のもので「性格」に帰するとされ、この性格の現われは自動症に先行するものとされた(たとえば、パラノイア的性格はそのようなものである(20))。だから自動症の中に、クレランボーは、語の最も一般的な意味での神経学的メカニズムを見るだけで、欲望機械を作動させる経済的生産の過程を見なかったのだ。生活史に関しては、彼は先天的あるいは後天的な性格を援用することで満足していた。マルクスが次のように語った意味で、クレランボーは精神医学のフォイエルバッハなのである。「フォイエルバッハが唯物論者であるかぎりにおいて、彼には歴史は現われてこない。彼が歴史を考察しているかぎりにおいて、彼は唯物論者ではない。」真に唯物論的な精神医学は、これとは逆に、次のような二重の操作によって定義される。すなわち、メカニズムの中に欲望を導入すること、欲望の中に生産を導入することである。
機械は欲望であり続け、欲望の配置であり続け、欲望は、根源的な抑圧と抑圧されたものの回帰を通じて、パラノイア機械、奇蹟を行う機械、独身機械を次々と遍歴して、自分の歴史を歩み続けるのである。
技術、社会的機械
欲望機械は、まったく自分自身で反生産というものを生みだすのであるが、これに対して、技術機械に固有の反生産は、もっぱら過程の再生産にとって外的な諸条件の中において生みだされる(これらの諸条件は「事後に」到来してくるものではないけれども)。したがって技術的機械は経済的カテゴリーではなく、たえずひとつの社会体すなわち社会的機械を指示している。この社会的機械は、技術的機械とは別のものであり、こうした再生産を条件づけているのである。それゆえ技術的機械は社会的生産の一般的形態の原因ではなく、ただ単にその指標であるにすぎない。こうしてもろもろの手動機械と原始社会、水力機械とアジア的社会形態、産業機械と資本主義といった組み合せが現われてくる。だから、私たちが社会体を器官なき充実身体の類比物として措定したとき、そこにはやはり重要な相異が存在していたのだ。というのも、欲望機械は欲望の経済学の基本的カテゴリーであり、まったく自分自身だけで器官なき身体を生みだすものであり、もろもろの代行者と機械自身の部品が区別されず、生産関係とこの諸機械自身の間の関係も、社会性と技術性も区別されないからである。欲望機械は、技術的であると同時に社会的なのである。
アルマンの燃やされたヴァイオリンや、セザールの圧縮された車体が、その例である。もっと一般的には、ダリの批判的パラノイアの方法は、社会的生産の一対象における欲望機械の爆発を可能にしている。ところが、すでにラヴェルは、磨滅よりも乱調を好んでいた。ゆるやかな減速や消滅に代えて、彼は急激な休止、逡巡、急テンポ、不調な音、破裂音といったものを用いていた(28)。芸術家はもろもろの対象を操る達人なのだ。彼は、壊され、焼かれ、調子の狂ったもろもろの対象を自分の芸術の中に組み込み、これらを欲望機械の体制の中へ連れ戻すのだ。欲望機械の乱調は、欲望機械の作動そのものの部分をなしている。芸術家は、パラノイア機械、奇蹟を行う機械、独身機械といった諸機械を、それらに対応する技術的機械として提示するが、それは技術的機械に欲望機械を注入することでもある。それだけではない、芸術作品は欲望機械そのものである。芸術家は、自分の宝を蓄積して、やがて起きる爆発にそなえている。だから彼は、破壊がどんなに早くきても、早すぎることはないと思っている。
欲望的生産にねらいを定める社会的抑圧が巨大な規模で存在するという事実は、少しも私たちの原理を損なうものではない。欲望は現実的なものを生産する、つまり欲望的生産は社会的生産と別のものではない、これが私たちの原理なのである。欲望に対して、特有な存在形態を認め、社会的生産の物質的現実に対立する精神的あるいは心理的現実という存在形態を認めることなど問題外である。欲望機械は、こうした幻想的あるいは夢幻的機械ではないのだが、幻想的、夢幻的機械は、技術的かつ社会的機械と区別され、むしろこれらの機械を裏打ちするものとみなされている。もろもろの幻想は、むしろ二次的な表現であり、こうした表現は、与えられた環境における欲望機械と社会的機械の同一性から派生してくるのである。だから、幻想は決して個人的なものではない。それは制度論的精神分析がいみじくも指摘した通り、あくまで集団幻想なのである。そして次の二種類の集団幻想があるとすれば、この同一性が二つの方向で解釈されうるからである。ひとつは欲望機械が、これを形成する巨大な群集的なマッスにおいて捉えられる場合であり、いまひとつは、社会諸機械が、これを形成する欲望の基本的な諸力に関係づけられる場合である。だから集団幻想においては、リビドーが、現存の社会野を、その最も抑制的な形態も含めて備給することがありうるし、あるいはまったく逆に、リビドーが逆備給を発生させ、この現存の社会野に革命的欲望を接続することもありうる(たとえば、十九世紀の偉大な社会主義的ユートピアは、理想的モデルとしてではなく、集団幻想として、すなわち欲望を現実に生産する代行者として作用し、現状の社会野の脱備給、「脱機構」を可能にして、欲望それ自身の革命的機構に味方するものにほかならない)。しかし二つの機械の間には、欲望機械と技術的社会的機械の間には、何ら本性上のちがいは存在しない。区別はたしかに存在するが、それは単に機械の大きさの比に対応する体制の区別にすぎない。これらは、体制のちがいを除けば、同一の機械なのである。もろもろの集団幻想はまさにこのことを示している。
技術的機械が作動するには、調子が狂わないという条件がいることは明らかである。技術的機械自身の固有の限界は、その磨滅であって、その乱調ではない。マルクスはこの単純な原理を根拠として、次のことを明らかにしている。技術的機械の体制とは、生産手段と生産物とを厳密に区別するものであり、この区別のお蔭で、この機械は生産物に価値を与え、この機械自身が磨滅するにしたがって、機械は価値を失うというのである。これとは逆に、欲望機械は作動しながら、たえず調子を狂わせ、ただ調子を狂わせることによって作動する。つまり生産する働きは、たえず生産物に接木されるのであり、機械の部品はまた燃料でもある。芸術は、しばしば欲望機械の特性を利用して、まさに集団幻想を創造するが、集団幻想は社会的生産と欲望的生産を短絡させ、技術的機械の再生産過程に、乱調の機能を導入するのだ。
農耕社会、専制君主、資本主義
私たちに言えるのは、あらゆる社会的生産が一定の条件のもとで、欲望的生産から生ずるということである。すなわち、まず〈自然人〉がいる。しかし、さらに正確につけ加えるべきことは、欲望的生産とは何よりもまず社会的であり、それが自身の解放に向かうことになるのは最後でしかないということである(まず〈歴史人〉がいる)。つまり器官なき身体そのものが起源において与えられ、次にそれが異なる種類の社会体の中に投影されたわけではないのである。もしそうならば、あたかも原始の遊牧民の首長たる偉大なるパラノイア人が、社会的組織の根底に存在していたかのようであろうが、そうではないのだ。社会的機械すなわち社会体は、〈大地〉の身体、〈専制君主〉の身体、〈貨幣〉の身体などでありうるが、これは、決して器官なき身体の投影ではない。むしろ、器官なき身体のほうが、脱領土化した社会体の最後の残滓なのである。社会体の課題は、いつでもこういうものだった。つまり欲望の流れをコード化し登記し登録して、どんな流れも、せきとめられ、整流され、管理されることなしには、流れないようにすること。原始的な大地機械がもはや十分なものでなくなったとき、専制機械が一種の超コード化を設立した。ところが資本機械は、専制〈国家〉の多少とも古びた廃墟の上に打ちたてられたものであるかぎり、まったく新しい状況の中にある。つまり、もろもろの流れの脱コード化と脱領土化という状況である。この状況に資本主義は外から対決するのではない。なぜなら資本主義はこの状況を糧として生き、この状況の中に自分を支える条件と自分の内容をなす素材を同時に見いだし、この状況をあらゆる暴力をもって強制するからである。その徹底した生産も抑制も、これと引き換えにしか、実現されないのだ。じじつ資本主義は、二種類の流れが出会うところに発生するのであって、そこでは貨幣-資本の形態をとる脱コード化した生産の流れと、「自由な労働者」という形態をとる脱コード化した労働の流れが出会うのだ。だから、それ以前の社会的機械とは異なって、資本機械は、社会野の全体をおおいつくすコードを生みだすことはできない。資本機械は、コードという観念そのものにかえて抽象量の公理系を、貨幣としてもたらし、この公理系は、たえず社会体の脱領土化運動をより遠くにおしすすめる。資本主義は脱コード化の境界に向かい、それは社会体を破壊して器官なき身体に向かい、この身体の上で、脱領土化した領野において、欲望の流れを解放する。この意味では、ちょうど、躁鬱病とパラノイアが専制機械の産物であり、ヒステリーが大地機械の産物であるように、分裂症は資本主義の産物である、と語ることは正確なことであろうか。
流れの脱コード化と社会体の脱領土化は、こうして資本主義の最も本質的な傾向をなすことになる。資本主義はこの自分の極限にたえず接近するのであり、これはまさに分裂症的なものである。資本主義は、器官なき身体の上で、脱コード化した流れの主体として、全力をあげて分「裂者を生みだそうとするのだ。彼は資本家より資本家的であり、プロレタリアよりプロレタリア的である。この傾向をさらに遠くまで、資本主義がついに、自分自身のあらゆる流れとともに月世界に送られてしまうまで、続けること。実際には、まだ私たちは何もわかっていないのだ。分裂症とは私たちの病気であり、私たちの時代の病気であるといわれるとき、単に現代の生活が狂気を生むということを意味しているはずはない。問題は生活の様式ではなくて、生産の過程なのだ。問題はまた単なる平行関係でもない。確かに、コードの破綻という観点から見れば、たとえば、分裂症者における意味の横滑りという現象と、産業社会のすべての段階で不調和が増大するメカニズムとの間には、平行関係が存在していることは確かであっても。じつは私たちが言いたいのは、資本主義は、その生産のプロセスにおいて恐るべき分裂症的負荷を生みだすものであり、そのため資本主義は、抑制の全力をこれに向けるが、この負荷は資本主義的過程の極限としてたえず再生産される、ということである。なぜなら、資本主義は、自分自身の傾向においてつき進むと同時に、みずからこの傾向に逆らい、これを抑止することをやめないからである。それはみずからの極限に向かうと同時に、この極限を拒絶することをやめない。資本主義は、想像的であれ、象徴的であれ、あらゆる種類の残滓的、人工的領土性を設立し、あるいは復興し、この領土性の上に、よかれあしかれ、抽象量から派生した人物たちを再コード化し、刻印するのだ。国家も、故郷も、家庭も、すべてが再来し、復活することになる。まさにこれによって、イデオロギーの上からいえば、資本主義は「これまで信じられてきたあらゆるものをよせ集めた雑色の絵」といわれる。現実的なものは、不可能ではない。それはただ、ますます人工的なるものとなる。利潤率の低下傾向と、剰余価値の絶対量の増大という二重の運動を、マルクスは相反傾向の法則と呼んだ。流れの脱コード化または脱領土化と、流れの暴力的かつ人工的再領土化という二重の運動が存在するということは、右の法則の帰結として考えられる。資本機械が、もろもろの流れから剰余価値を引きだすために、流れを脱領土化し脱コード化して、これらを公理系化すればするほど、官僚や警察のような資本主義の付属装置は、剰余価値の増大する部分を吸収しながら、ますます力ずくで再領土化をすすめることになる。
十分な定義は、現代の様々な領土性の概念との関係によって可能となる。神経症患者とは、私たちの社会の残滓的、人為的な領土性にいすわったままで、これらをすべて究極の領土性としてのオイディプスの上に折り重ねているひとのことである。オイディプスは、分析家の診察室の中で、精神分析家の充実身体の上に再構成されるのである(その通り、経営者とは父である。国家の首長もそう。それに、先生、あなたもまた……)。倒錯者とは、策略を文字通りに信用するひとのことである。あなたはそれを欲し、あなたはそれを手にいれるだろう。社会が私たちに提案するのよりも、もっと無限に人工的な領土性を。つまり、無限に人工的な新しい家族を、ひそかな空想的社会を。分裂者については、たえず移動し、さまよい、よろめく不安定な歩みで、彼は脱領土化をどこまでも遠くへとつき進め、自分自身の器官なき身体の上で社会体を果てしなく解体させるのであって、おそらくこれは、みずから大地、分裂者の散歩を再発見するための独自のやり方なのである。分裂症者は、資本主義の極限に位置する。彼は、資本主義の発展の傾向であり、その剰余生産物であり、そのプロレタリアであり、皆殺しの天使である。
コード
およそあらゆる機械は、一種のコードをそなえ、このコードは機械自身の中に組み込まれ、その中にストックされている。このコードは、身体の様々な領域に登録され伝達されるということと不可分であるのみならず、それぞれの領域が、他の領域との関係において登録されるということとも不可分である。
シニフィアンの連鎖あるいは諸連鎖を巻き込む無意識のコードという、あの豊かな領域を発見し、これによって分析の仕方を変容した功績は、ラカンのものである(これに関する基本的なテクストは、『盗まれた手紙』である)。この領域は、その多様性のために、じつに奇妙なものとなり、ひとつの連鎖として、あるいはひとつの欲望的コードとして語ることさえも、容易ではなくなる。こうした連鎖はもろもろの記号によってできているからシニフィアンといわれているが、これらの記号そのものはシニフィアンではない。コードは一般の言語活動よりも、隠語に似て、開かれた多義的な形成体である。そこで記号は任意の性質をもち、その支持体とは無関係なるものである(あるいはむしろ、この支持体の方が記号に無関係なものではないのか。支持体とは、器官なき身体である)。記号は、きまった平面をもたず、あらゆる段階において、あらゆる接続において、作用している。それぞれの記号は自分自身の言語を語り、他の記号とともに、もろもろに総合を実現するが、これらの総合はその構成要素の次元においては間接的であり続けるので、それだけますます横断的な仕方で直接的な総合を打ちたてる。これらの連鎖に固有の離接の働きは、まだ排他的でなく、排他作用が生起するのは、抑止するものや抑圧するものの働きによるのである。抑止し抑圧するものは、支持体を規定し、特定の人称的な主体を固定しようとする(33)。いかなる連鎖も等質的ではない。むしろ、それは異なるアルファベットの文字が行列をなすのに似て、この行列には、突如として表意文字や絵文字があらわれてくる。通っていく象や昇る朝日のちょっとしたイメージなどである。もろもろの音素や形態素などを(構成することなく)混合している連鎖の中に、突如として、パパのひげやママの高くあげた腕、リボン、小さい女の子、お巡り、短靴などといったものが現われる。それぞれの連鎖は、他のもろもろの連鎖の断片を捉え、そこから剰余価値を引きだすのであるが、それはちょうど蘭のコードがすずめ蜂からその形を「抽出する」ようなものだ。これがコードの剰余価値の現象である。それは転轍機やくじ引きのシステムの全体のようなもので、部分的に相互依存する確率的な諸現象を形成し、マルコフの連鎖に類似している。内部のコードや外部の環境から由来して、組織体のひとつの領域から他の領域へと登録や伝達が行われ、大きな離接的総合の道がたえず分岐してゆくのに従って、こうした登録や伝達は互に交錯し合ってゆくことになる。ここにひとつのエクリチュールがあるとすれば、それは現実的なものにじかに書かれるエクリチュールである。それは、奇妙にも多義的で、決して記号と意味とが一対一の対応関係をもたず、線型的でなく、決して推論的でない、横断記述的エクリチュールである。このエクリチュールは、もろもろの受動的総合の「現実的未組織状態」の全領域であり、この領域に〈シニフィアン〉と呼びうるようなものを求めても無駄であろう。この領域はもろもろの連鎖をたえず様々な記号として構成し分解しているが、これらの諸記号は、何らシニフィアンであることを使命としないのである。欲望を生産すること、これこそは記号の唯一の使命である。〈それ〉が自分を機械として作動させるあらゆる方向において。
切断の三形態
これらの諸連鎖は、たえずあらゆる方向に離脱するための基地であり、ここにはいたるところにそれ自身で価値をもつ分裂があり、とりわけこれは補塡してはならないものである。したがって、まさにこれは機械の第二の性格をなすのである。それは〈離脱-切断〉であって、先にふれた〈採取-切断〉と混同されてはならない。〈採取-切断〉はもろもろの連続的な流れを対象とし、もろもろの部分対象にかかわっている。〈離脱-切断〉は異質なもろもろの連鎖に関連し、宙を舞うブロックや煉瓦のように、離脱可能な線分や可動的なストックとして実現されるのだ。それぞれの煉瓦が遠くに放たれ、煉瓦自体が異質な諸要素から構成されているものとみなさなければならない。それぞれの煉瓦は、異なるアルファベット記号による登記ばかりではなくて、もろもろの形象、さらには一本のわらや多数のわら、またおそらくは死体をも内に含んでいる。流れからの採取は、連鎖からの離脱を前提する。そして生産における部分対象は、あらゆる総合の共存と相互作用における登録のストックあるいは煉瓦を前提している。流れを形成するコードの中に断片的な離脱が起きないかぎり、どうして流れに対する部分的な採取が存在しえようか。少し前に私たちが、分裂者は欲望の脱コード化した流れの極限に存在すると語ったとき、このことは社会的コードに関して理解されるべきであった。社会的コードにおいては、〈専制君主のシニフィアン〉があらゆる連鎖を粉砕し、これらを線型状にして、記号と意味とを一対一に対応させ、それぞれの煉瓦を不動の要素として用い、秦帝国の長城を築きあげている。しかし分裂者は、これらの煉瓦を常に離脱させ、抜きとり、あらゆる方向に運び去って、欲望のコードにほかならない新しい多義性を取り戻す。あらゆる構成も分解も、可動的な煉瓦によって行われるわけである。機能解離 diaschisis と本能解離 diaspasis について、モナコウは語っていた。それは、ひとつの障害が、この障害を他の領域に伝えてゆく神経線維に従って拡がり、純粋にメカニカルな観点(機械的な観点ではない)からすると理解しえない諸現象を、遠隔的に引き起すことであり、あるいはまた体液の異常が神経エネルギーの偏移をもたらし、もろもろの本能領域に分断され断片化される動向を生み出すことである。登録の手続きという観点からみれば、煉瓦は、欲望機械の本質的な部品である。つまり〈構成的部分〉であると同時に〈分解の産物〉でもあって、それはただ一定の瞬間に、ただ神経組織という大きな時間生成機械との関係において、空間的に配置される(「オルゴール」のようなタイプの、非空間的な配置をそなえたメロディ生産機械を思い起してもいい(34))。モナコウとムルグの書物を唯一無二のものとしているもの、つまりこの書物自身に着想を与えたジャクソン主義を全面的にこの書物がのり超えている理由とは、煉瓦の理論であり、その離脱、その断片化の理論である。いや、とりわけ、こうした理論が前提としていること、つまり神経学の中に欲望を導入したことである。
欲望機械の第三の切断は、〈残余または残滓-切断〉であり、機械の傍にひとつの主体を、機械の隣接部品として生みだす切断である。ところで、この主体が、特定の人称的な自己同一性をもたず、またこの主体が、器官なき身体の未分化状態を破壊することなくこの身体を横断するとすれば、この主体が単に機械の傍のひとつの部分であるからだけではなくて、それ自体分割されたひとつの部分であるからだ。機械によって操作される、流れからの採取と連鎖からの離脱に対応する諸部分が、この部分にそれぞれ帰属している。こうして主体は、自分が通過する諸状態を消費して、これらの諸状態から誕生してくるのだ。つまり、もろもろの部分からなる一部分として、これらの諸状態のひとつひとつから絶えず現われてくるのだ。これらの部分のそれぞれは、一瞬間における器官なき身体の内容をなすのである。だからこそラカンは、語源的というより機械的な作用を次のように展開する。parere は procurer〔与える〕であり、separare は separer〔分ける〕であり、se parere は s'engendrer soi-même〔自分自身を生みだす〕である。ラカンはこの作用の強度的性格を強調しているのだ。すなわち、部分は全体と無縁であり、「部分は、ただ自分一個で部分という役割を演じているにすぎない。患者〔主体〕は、自分自身が部分となること partition から、自分自身の出産 parturition にとりかかるのだ……。したがって患者〔主体〕は、ここで自分自身にかかわるものを、私たちが市民の身分〔社会の一部分〕と呼んでいる状態をみずからに与える procurer ことができる。いかなるひとの人生においても、こうした状態に至ること以上に執念をかりたてるものは何もない。部分 pars であるためには、患者〔主体〕はまさしく自分の利益の大部分さえ犠牲にするであろう(35)」…。他の二つの切断〔〈採取・切断〉と〈離脱・切断〉〕と同じく、主体を生ずる切断があらわにしているものは欠如ではない。そうではなくて、逆に、取り分として主体に帰属する部分であり、残余として主体に帰属する収入である(ここでもまた、去勢というオイディプス的モデルはなんと悪しきモデルであることか)。じじつ、これらの三つの切断は分析の行為ではなくして、それら自身が総合の働きそのものなのである。もろもろの区分〔分割〕が生みだされるのは、これらの総合働きによってである。子供のげっぷでミルクが戻ってくる例を考えてみよう。このミルクは、連合的な流れから採取したものの復元であるとともに、シニフィアンの連鎖からの離脱の再生産であり、同時にまた主体自身の取り分として主体に帰属する残滓でもある。欲望機械は隠喩ではない。それは、三つの様式にしたがって、切断し切断される。第一の様式は接続的総合にかかわり、リビドーを採取のエネルギーとして動員する。第二の様式は、離接的総合にかかわり、〈ヌーメン〉を離脱のエネルギーとして動員する。第三の様式は、連接的総合にかかわり、〈ヴォルプタス〉を残滓エネルギーとして動員する。まさにこうした三つの様相において欲望的生産の過程は同時に生産の生産であり、登録の生産であり、また消費の生産である。採取すること、離脱すること、「残滓になること」は、生産することであり、また欲望の実際の操作を現実に実現することである。
ここでは、切断が生産的であり、この切断自身が統合であるからである。離接の働きは、まさしく離接でありながら、包含的である。消費の働きそのものさえ、移行であり生成であり回帰なのである。