アルトー
私はあまりにもシュルレアリストすぎます。そもそも私は昔からシュルレアリストだったのです。
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/icons/bard.icon 巖谷國士の見解
ブルトンとの差異から導く
アルトーはエロティスム自体が脅迫的、悪魔的なものであった。五のときに重度の脳膜炎をわずらい、十八で療養所入院を体験、恐るべき肉体的苦痛と無力感を生涯のものとして、患者としての自らの生を、自らの肉体を「作りなおす」試練をつづけなければならなかった。即ち危機にある病んだ人間、文明=患者は何よりも主体であり、治療の要請は個人性に発していた。
一方元医者(精神科医)であったブルトンは、友人のドラッグの死も含め、病めるものをまず対象として認識し、対象との「つきあい」と集団的表現のなかに、つねに個人性からの脱却点を見出していた。
アルトーは存在的にシュルレアリストであり、ブルトンは存在論的にシュルレアリストであった。「であろうとする」シュルレアリスムの実践者たるブルトンに対して、生来的であるがゆえに「昔から」とアルトーは用いたのではないか。
一語で言えば、演劇は具体性と抽象性な一致についての実験的証明の一種となるべきなのです。なぜなら、語による文化とならんで、動作による文化があるからです。
つまりは戯曲本来のテクストとそれにアウラを吹き込む行為、ただそれに即して戯曲本来の形相を崩してはならないと言うことである。 技術
演劇が自分を取りもどすためには、即ち、真のイリュージョンの方法となるためには、観客に、夢の中にある正真正銘の沈殿物を与えなければならない。そこでは、観客の犯罪への嗜好、性的固執観念、粗暴性、空想、人生や事物についてのユートピア感覚、さはには喰人本能までが、仮定的、幻想的な次元ではなく、内的な次元で、あふれ出なければならない。言葉をかえれば、演劇は、あらゆる手段によって、客観的、描写的外的世界のみならず、内的世界の、つまり、形而上学的に考えられた人間の再検討を追求するものでなくてはならない。
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諸主題
〈残酷〉あらゆる上演の基盤に、残酷という要素がなければ演劇は不可能である。われわれが今日のように、堕落した状態にある時には、形而上学性は、精神に達するのに皮膚を通るほかはない。
演劇の失墜
現代が演劇に興味を失い、背を向けているのは、演劇が現代をあらわさなくなったからであり、現代が支えを求められるような「神話」を提供しなくなってしまったからだ。 れわれは恐らく、世界の歴史の中で唯一の時代を生きているのかも知れない。そこでは、世界がふるいにかけられて、その古い価値が次々と崩壊して行っている。焼きつくされて灰となった生が、その基盤からくずれていく。それは道徳的社会的次元では欲望のおそるべき解放となってあらわれ、もっとも低級な本能が野放しにされ、あまりに早く炎に近づきすぎた生は、火花を散らして燃えつきてしまう。 今日の事件で興味深いのは、事件そのものではなくて、それらの事件が人間の精神を叩き込む、あの精神的沸騰状態、あの極端な緊張度である。それらの事件がわれわれを追い込みつづける意識の混沌状態である。 精神の平衡を失わせはしないが、それをゆり動かしているこれらすべては、精神にとって、生の根元的な鼓動を表出する悲愴な手段なのだ。 上記神話作用の欠損と、下記復刻
演劇は、生と肩をならべなければならない、個人的な生活、性格が勝ち誇っている、生のあの個人的側面ではなく、一種の解放された、人間の個人性をふき払い、人 間がその一つの反映でしかないような生と同等にならなければいけないのである。神話の創造、生を、その宇宙的な、広大な面からとらえ、われわれが再発見したがっている映像(イマージュ)を、生から摘出すること、そこにこそ、演劇の真の目的があるのだ。 さらに、そうすることによって、一種の全般的な相似、瞬間的にその効果を発揮するほど強力な相似に到達することだ。 その相似が、神話の中で、われわれを、卑少な個人性を犠牲にしたわれわれを、過去の中からふたたび見出した力によって、過去から来た登場人物たちであるかのように解放してくれるのである。 /icons/白.icon
一 内容の見地から
現代的人間性を引き剥がす
残酷の演劇は固有の方式によって、即ち、世界の経済的、有用的、技術的方向への地滑りに反対することによって、現代演劇が、偽りの文明人という仮面の下に葬ってしまった本質的な、そして偉大な関心ごと、偉大な情熱を流行させる。〜性格も感情もすっかり割り切られてしまう心理的人間を捨てて、また法律に従い宗教的道徳的規律によって変形されてしまった社会的人間にでもなく、残酷の演劇は、全体的人間に話しかける。そして、人間のうちに、精神の表ばかりでなく裏をも吹き込む。そこには、想像と夢の真実が、生活と同じ次元であらわれてくる。
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ひとつの文明が同化しようと試みながら、はなはだしく消化困難のままにとどまっている〜いわば本質的に解読不可能であるがゆえに知的古典となる
サドなども引き合いに出されながら語られる。
文化の転回
いまだかつて、生自体が失われようとしている今ほど、文明と文化について語られたことはない。今日の堕落の基礎には生の全般的な崩壊があるが、〜その文化とはこれまで一度たりと生と一致したこともなく、むしろ生を支配するためにつくられたものなのである。〜現在の世界は飢えており、文化などに関心を払いはしないということである。飢えにしか向けられてない人々の考えを文化にひきもどそうというのは、全く人為的だということである。生きるための心配、飢えの心配から、一度も人間を救ってくれなかったような文化を擁護することがそれほど急を要するとは思われない。それより、もっとも緊急なのは、文化と呼ばれるものから、飢えの力と同じくらい生き生きした力を持ついくらかの観念を引き出すことである。〜飢えるという単純なわれわれの力そのものを無駄遣いしてはならないということである。 文化概念
解明してない引用w