ベネディクト・アンダーソン
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序論
国民を次のように定義する ことにしよう。国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である―そしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なもの(最高の意思決定主体)として想像されると。国民は(イメージとして心の中に)想像されたものである。というのは、いかに小さな国民であろうと、これを構成する人々は、その大多数の同胞を知ることも、会うことも、あるいはかれらについて聞くこともなく、それでいてなお、ひとりひとりの心の中には、共同のコミュニオンのイメージが生きているからである。
近代時間論
近代における新しい世界理解の様式について、アンダーソンは「文化システム」という概念を分析することで解明する。「文化システム」とは、共同体の想像力と時間観念に依拠し、人びとにアイデンティティを与えることで生と死に意味を付与する役割を果たす。彼はネーションを「宗教共同体」と「王国」と並んで、「文化システム」として認識すべきだと主張する。
中世後期までに「宗教共同体」と「王国」が支配的な「文化システム」として存在した。旧来の世界理解の様式は、この二つの「文化システム」にもたらされた言語と王権の垂直的で階層的な権力構造によって維持されている。ところが近代の世界探査、聖なる言語(ラテン語)の格下げ、そして神聖君主の正統性の衰退という三つの近代的条件とともに、この世界理解の様式は中心的地位から退場していく。
そのかわりに、新しい世界理解の様式が芽生えた。近代の小説と新聞の基本構造から新しい時間観念が見出され、この新しい世界理解の様式を受容する装置となっていく。そこで現れる新しい時間観念を、ベンヤミンの言葉を借用して、「均質で空虚な時間」と呼ぶ。 横断的で、時間軸と交叉し、~時間的偶然によって特徴付けられ、時計と暦によって計られる
「均質で空虚な時間」は、旧来の、未来に成就される「即時的現在における過去と未来の同時性」という垂直的な「メシア的時間」と対置される。「メシア的時間」は旧来の「文化システム」の時間的な表象である。それに対し、「均質で空虚な時間」は垂直な時間軸(通時性)を横断する水平的な平面(同時性)を持ち、新しい「文化システム」の基礎──「均質で空虚な時間のなかを暦従って移動していく」共同体の観念──の形成を促す。こうした新しい時間観念と新しい共同体様式は、新しい世界理解の様式を構成していく。
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複製技術の世紀
次に、資本主義・近代複製技術は、彼の提起した「出版資本主義」の概念から見出される。「出版資本主義」は近代における新しい共同体の想像を促進する条件だとされる。そして、資本主義と近代複製技術は、「出版資本主義」の重要な構成要素である。資本主義は近代化の経済的規範であり、資本主義の市場原理は利益と市場の拡大を求める。
さらに、近代複製技術は効率追求のためのコミュニケーション技術の革新の成果として、出版物の大量生産/複製を可能にする。その結果、書籍出版は「初期の資本主義的企業のひとつ」として出版市場を拡大していく。そして商品である出版物──本(小説)、新聞を消費することが、共同体を想像するという行為を可能にしていく。
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アンダーソンが論じる「文化システム」の概念は生への意味付与の問題につながっている。この問題は、資本主義及び科学技術などでは完全に克服できない。こうした不可避的で超越的な特徴は、宿命性と呼ばれ、世界理解の様式の深層に横たわっている。この宿命性は以下の二つの事象を通じて現れてくる。
生と死の宿命性
第一に、人間が避けては通れない生と死の宿命性がある。旧来の宗教や王国は人間の生と死をめぐる様々な体験に解釈を与えることで、生と死に意味を付与してきた。だが近代において、宗教や王国が衰退し、「文化システム」の断絶が生じた。この断絶された場所では、生と死の宿命性に意味付与を果たすものはなくなる。
このような背景から生まれた新たな「文化システム」としてのネーションは、生と死をめぐる体験に解釈を与え、それを有意味なものにし、生と死の連続性を人びとに感じさせる「国民的想像力」を生む。この点についてアンダーソンは以下のように論ずる。人生は偶然に満ちているが、結局、必然的に死を迎える。「偶然と必然の組み合わせに満ちている」人間の生は、「病い、不具、悲しみ、老い、死といった人間の苦しみの圧倒的重荷」を負わざるをえない。従来の宗教はそういう状況に応答してきたが、「啓蒙主義」や「合理主義」などの近代的思想の流行りとともに、「宗教的思考様式」の支配的な力が減衰していく一方、「進化論的/進歩主義的思考様式」は生と死の宿命性に「沈黙でしか答えない」ことになる。人間が直面しなければならない超越的で不可避的なアポリア─生と死の宿命性は、世界理解の様式の転化の過程における根本的な背景として、共同体の想像力の変化を促していく。
言語の多様性
第二に、言語の多様性という宿命性がある。アンダーソンは次のように述べる。
積極的な意味で、この新しい共同体の想像を可能にしたのは、生産システムと生産関係(資本主義)、コミュニケーション技術(印刷・出版)、そして人間の言語的多様性という宿命性のあいだの、なかば偶然の、しかし、爆発的な相互作用であった。ここで、宿命性の要素は、決定的に重要である。というのは、資本主義にいかなる超人的偉業が可能であるにせよ、死と言語は、資本主義の征服しえぬ二つの強力な敵だからである。特定の言語は、死滅することもあれば、一掃されることもある。しかし、人類の言語的統一はこれまでもできなかったし、これからもありえない。
ここでアンダーソンは、資本主義・近代複製技術と言語の多様性との間の「相互作用」を強調している。資本主義・近代複製技術は地域方言の差異を排して、言語を一元化する推進力を持つが、言語の多様性によって、「人類の言語的統一」が不可能である。こうした資本主義に「征服」されえないという一面は、言語の多様性の宿命的な性格を露わにする。さらに彼の言語の原初性をめぐる議論は、言語の多様性の宿命的な性格を一層明らかにする。
つまり言語は、過去へ無限に遡る超越的な性格を有する。しかしながら、このことは同一言語に限ったことである。異なる言語間では、この超越性は理論的に不可能である。そして、アンダーソンは人間の生の限界について次のように説明する。
つまり、現実的に「人が他者の言語に入っていくことを制限するのは、~人生には限りがあるからである」。それゆえ、多様な言語の統一が理論的にも、現実的にも不可能なのである。言語の多様性は、人間の力では克服されえない超越性を持ち、不可避的なものであるために、その宿命性は自明なのである。