ユク・ホイ
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ドイツ観念論の再検討
カントによる「有機的なもの」の契機
最初に「中心となる主張」として、カントの『判断力批判』によって提示された「有機的なものという概念が、哲学することの新たな条件であり続けてきた」とする。別の章から換言すると「有機的なものは哲学することの一つの新たな条件を構成している。それは有機体というものが哲学に一つの出口を提供することで、自由をもろもろの機械的法則と運命論に明け渡すアプリオリな諸法則によるシステムの規定性から脱出可能にしているからである。あらためて強調しておきたいが、われわれは何らかの有機体の哲学について論述しているわけではなく、有機的なものが哲学に対して一つの新たな思考の条件と方法を押し付けていると主張しているのである」。 それは機械論の時代の後になされた一つの哲学の再開であり、これがその後さまざまな方向へと展開されてゆくことになる。とりわけ、生気論、有機体論、システム理論、サイバネティクス、そして器官学がこれにあたる。〜有機的なるものを哲学に導入したのは、それを一つの新たな形而上学の対象とするためだけでなく、機械論的な生命観に対する解毒剤とするためでもあった。時計との比喩で連想された機械論的な還元がもはや魅力を失い、ルネ・デカルトの機械論で曖昧にされた動物と機械の区別が明晰な光の下で問い質されてみれば、その結果には驚くよりほかなかったからである。ぜんたい動物の身体のようなものが、どうしたらそもそも可能なのか、と。 そこで本書は「有機的なもの」を「再帰性と偶然性という二つの鍵概念によってこれを分析する」として、それによって「この考え方の歴史と動態」、具体的には「これは、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルをはじめとする観念論者から、後のホワイトヘッドのような思想家を経て、「有機体論運動」やサイバネティクス(わらわれはこれを機械的有機体論と呼ぼう)という、個体発生としての個体化の一理論」と進歩していったという。 つまり本引用冒頭の「
」い、という言明は、「有機的な存在者」が「諸部分と全体の互酬的な関係と再生産の能力」によるものだからであり、樹木のように「円環的」に再帰することによって「逸脱」するということである。この逸脱というのは下記引用に現れている。
再帰というのはただの機械的な反復ではなく、みずからを規定するべくみずからへと回帰する循環運動により特徴づけられるものであり、その循環運動はどれも偶然性に開かれていながら、それが転じてその特異性を規定することになる。われわれはこれを螺旋の形式でイメージすることもできよう。すなわち、円環運動のたびに、その生成が過去のもろもろの円環運動により部分的に規定されながらも、その効果をもろもろの観念や印象として拡張してゆくのである。
フィヒテ
シェリング
ヘーゲル
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サイバネティックな世界への導入
われわれは今これまで以上にサイバネティクスの時代に生きている。装置と環境が有機体のようになろうとしているからである。環境はわれわれの日常生活に能動的に関与してくる。惑星規模のスマート化が到来するとなれば、まさにわれわれの未来の環境における計算と作動の主要な様態は、再帰性が構成することになるわけである。ビッグデータを活用するアルゴリズムの再帰性が人間の諸器官と社会の諸器官の全側面に浸透してゆく。かかるテクノロジーの参加様態は、根本的に環境的であると同時に、その環境そのものを変容させる。
サイバネティクスからシモンドンへ
生命の働きがなければ、所与の実在とその現行のシステム化を超えて新たな諸形式へと向かう跳躍はできない。この新たな諸形式がみずからを維持するには、それらがすべて一緒に一つの構成されたシステムとして実存していなければならない。つまり進化の過程で或る新たな器官が出現するとき、それはシステム的で多機能的な収斂を実現するのでなければみずからを維持できない。器官とはみずからの条件なのである。これと同じような仕方で、地理的な世界と手許に実存している技術対象の世界とは、その具体化が有機的であるような、一つの関係をなし、この関係的な機能によりみずからを定義する。
上記『実存様態について』でシモンドンは「有機的」なものについて論じた「唯一の箇所」である。それをユク・ホイは「器官がみずからの条件になるとは、どういう意味か。それは或る一つのシステムの内に状況づけられて、他の諸部分と互酬的な関係にあるという意味である。つまりみずからをシステムに適応させながら、同時にシステムを変様させ、転じてこれがまたみずからのさらなる作動様態を条件づける。それは有機的なシステム全体のフィードバックを通じて、みずからの条件となるのである」、と解釈しシモンドン哲学の、有機的なものを起源とした技術の再帰性を明らかにする。こうしたシモンドンの姿勢はサイバネティクスの文脈にある。 シモンドンは、カントの「反省的な思考はサイバネティクスに継承されており、それゆえシモンドンはカントならサイバネティクスも『判断力批判』の中に位置づけるだけで扱えたであろうという」。これはまさに目的論的判断力の有機的な再帰性を正当に評価してるが故なのだ。 サイバネティクスはシモンドンにいわせると一つの新たな認識論を指し示しており、これはデカルト的な認識論からは区別されなければならない。彼が何度か繰り返しているように、「自動化主義はサイバネティクスではない」、「ロボットはサイバネティクスとは関係ない」。彼はデカルト的な推論の形式とサイバネティクス的な推論の形式を二つの異なる認知の図式と呼ぶ。一方は線形で論理的命題を台とするが、他方は帰還的因果性を土台とする。帰還的因果性(causalitereourn)は、みずからに還帰することでみずからに作用する因果性である―これはフィードバックを翻訳したものであり、シモンドンはときにこれを内的共鳴とも呼ぶ。帰還的因果性は再帰的である。それゆえシモンドンは帰還的因果性で構成された連合環境をもつ技術対象を技術個体と呼ぶ―そうして技術要素(たとえば歯車や二極真空管や三極真空管)およぴ技術集合(たとえば研究所や工場)と対照区別する。みずからに帰還することでみずからの次の動作を規定するというこの能力が、「生ける存在者」を意味するものとしての「個体」の判断基準である。帰還的因果性は間違いなくフィードバックを参考にしている 則、シモンドンはこの「帰還的因果性」というフィードバックモチーフの概念が、カント由来であることを知っていたのであり、有機的な再帰性由来であることを知っていたのである。
ウィーナーと同じくシモンドンも、技術対象が「有機的なものになろうとしている」と認識している。いわく、「具体化した技術対象の実存様態は、自然のそれが自発的に対象を産出するのと類比的であるから、自然の対象について考察するのと同じように考察するのも妥当であろう。つまりそれは帰納的に研究できる。」〜サイバネティクスは科学の新たな一時代を指し示してはいるが、ウィーナーによる一九八四年の『サイバネティクス』シモンドンにしてみればデカルトの『方法叙説』と似たり寄ったりで、サイバネティクス的な方法をまだ十分には定義できていない。シモンドンはしたがって最も急務の課題はサイバネティクス的な思考の再生であるとし、これを一般アラグマティクスと呼ぶのである。 「それは作動と構造のほんとうの関係を定義することになる。すなわち構造における作動と作動における構造の、同一システム内での可能な変換を定義するのである」という言明は「サイバネティクスが構造より作動を優先している」ことが「適切でな」く、なぜなら「すべてのシステムは構造を前提としている」から、則、「一般アラグマティクスの核心が構造と作動の間の変換の理論をなしている」のである。 一般アラグマティクスが一つの普遍サイバネティクスであるというのは、それが特殊ないし特定のサイバネティクス(たとえば心理学や社会学)を超えて、一つの発生、そこにおいては作動と構造が絶えず相互作用しているような一つの発生を捉えるからである。それが知識の価値論であるのみならず存在の知識―つまり個体発生論ないし個体価値論―であるというのは、行為と価値、作動と構造を統一するという意味である。〜一つの全体論的な構造と作動をなしているのである。〜作動と構造の間の変換は、両者がともに分有する一つの発生を要求する。個体化は再帰的な過程であり、その動態は(諸部分の間では)互酬的でありながら(一つの全体としては)全体論的である。
「個体的なものと集団的なものとの間には一つの有機的な全体があり、これは水と魚のように分けるわけにはいかない。この有機的な部分-全体の関係こそが、かかる固体化の理論の条件なのである」という立脚点のもと「シモンドンは心理学主義も社会学主義も致命的な誤りを犯している」とする。その所以は「両者ともにこの二つの実在を実体化し、なおかつそれらを相対立するものとして直面させようとしている」ことであり「心理学主義は社会的なものを個体的なものの内的活動の一投影と見なし、個体的なものの内なる緊張を考慮しないが、社会学主義も個体的なものを外的視点からの一産物と見なし、個体的なものの行為者性を考慮しない」と批判するのだ。
シモンドンにいわせれば、個体的なものと社会的なものは、実体的な実在ではなく、むしろ関係の集合なのである。〜個体化は同時に心理的かつ集団的である。
「つまり心理的なものは集団的なものから分離することができない」のであり逆も然りである。そこで孤独を例にだして個体化を論じる。
孤独とは世界との一切の関係を断絶することではない。逆で、それはつねに外部を探し求めているという意味で超個体的」なものであるとして「シモンドンはニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』に登場する網渡り師を例に引いている。彼は地面に落下して群衆から見棄てられてしまう。ツァラトゥストラは彼に情を感じ、その亡骸を埋葬するため肩に担ぐ。これについてシモンドンはこう述べている。「孤独を通り抜けることで、群衆に見棄てられた死せる友人に寄り添うツァラトゥストラの内に、超個体性の試練が始まる」。この網渡り師との出逢い―あるいはこの例外的な出来事というべきか―こそが超個体性の発見の始まりであり、これが新たな個体化へと通じている。この超個体化は内と外の二極で構成され、再帰的な運動からなる。すなわち、外的なものの内化と、内的なものの外化である。つまり、記憶がそうであるように、アポステリオリなものがアプリオリになるということである―このアプリオリは、超越論的であるという厳密な意味ではなく、選択の条件ないし規準になるという意味である。心理的かつ集団的な個体化はかかる再帰性を通じて達成されるのであり、集団的なものが心理的なものから分離できないというのは(そしてその逆も)この意味で理解しなければならない。再帰的なモデルは心理的かつ集団的な個体化を、シモンドンが物理的な個体化の記述に用いた結晶化の過程よりも、よく表現している。〜作用や運動こそが心理的かつ集団的な個体化にとっては根源液なのである。心理的な存在者は〜絶えず情報を探索することでみずからのエントロピーを維持ないし減少させるのであり、そしてかかる探索は過剰ないしハイデガーのいう意味での脱自に淵源するのである。 シモンドンからスティグレールへ
ここで「スティグレールの一般器官学は、シモンドンによる分析の一つの拡張」、それは「シモンドンの個体化と個別化の理論における主要項目を再解釈したもの」として評価する。 カンギレムの器官学はクルト・ゴルトシュタインのような論者たちが提案する有機的な全体というものと密接に関連していたが、対照的にスティグレールには有機的な全体という概念の強調はあまり見られず、かわりに機能的器官というものが強調されている。これは器官学という術語が彼にとっては、ベルクソンとカンギレムの生命の哲学よりも、むしろ音楽学に由来するものであることによる。スティグレールがベルクソンとカンギレムに共鳴しているところより、むしろ彼らから逸脱しているところの方が、ここでのわれわれにとっては興味深い。スティグレールはカンギレムが彼の器官学の概念を粗描した「機械と有機体」にはほとんど言及しないのである。 スティグレールの思想においてしばしば「反復」という名前で呼ばれる再帰性は「把持と予持というものに刻印されている」。この「二つの術語はフッサールの内的時間意識の理論から援用されたもので、それによると把持とは想起ないし保持する能力のことをいい、予持とは予料する能力のことをいう」。そこでスティグレールは「フッサールのいう第一次そして第二次の把持/予持に基づいて〜さらに第三次把持という概念を発展させる」。
一つ例をあげよう。ヨハン・シュトラウスの『青く美しきドナウ』を初めて聴いているとする。このときわれわれはそのメロディのすべてのいまをどれも保持することになる。どのいまもつねにすでにもはやないから、このメロディの把持は第一次把持と呼ばれる。それと同時に、わたしは到来しつつあるメロディを予料することもできるから―というのもそれなしではフレーズを把握することができず、そうなると音楽のない音響だけになってしまうからであるが―この到来しつつあるいま―まだないもの―の予料は第一次予持と呼ばれる。もし明日になってわたしが『青きドナウ』を想起するなら、それはもはや一時的に保持されたいまではなく回想である、つまり記憶ないし第二次把持である。そしてわたしはすでにこの音楽の記憶をもっているから、フレーズの終わりまでそして曲の終わりまで予料することもできるが、これが第二次予持と呼ばれる。 これら「第一次そして第二次の把持と予持に基づいて、スティグレールは彼が第三次把持と呼ぶものを提案する」。 それはすなわちさまざまの人工的な記憶のことである。たとえば、このシュトラウスの作品についてのわたしの第二次把持は信頼ならないもので時間とともにぼやけてゆくが、CDがあればわたしの記憶を回復させるのに役立つであろう。いまやレコード(アナログ)やCDやMP3(デジタル)が第三次把持として何らかの方法で第一次と第二次の把持と予持を呼び覚ます。それはあたかもプルーストのマドレーヌのようでもあるが、しかしマドレーヌ以上のものである。というのもそれは或る正確さによって特徴づけられているからであり、これをスティグレールは「正定立〔orthothetic〕」という造語、すなわちギリシア語で「正確」を意味するオルトテースと「定立」を意味するテシスからなる新語で呼ぶ。〜この第三の記憶は、有機体の把持が有限であることに対する一つの補償である。というのも有機体にはみずからの経験をすべて把持するということができず、その経験を象徴や道具として外化しなければ次の世代に伝達することもできないからである。さらに、第二次把持をわれわれは記憶と呼んでいるが、これは第三次把持を通じてしか効果的に活性化されない。というのも記憶の共時化と通時化の力は第三次把持(たとえば文書や画像)が提供しているからである。シモンドンと同じくスティグレールの器官学にも内化と外化の再帰的な形式が見られる。記憶を技術対象に外化するというのは、アポステリオリなものがアプリオリになるということでもある。この生成は経験的なものから非-超越論的なものに向けた移行である―なぜ非-超越論的かというと純粋に超越論的でも経験的でもないからである。 ここにきて「テクノロジーはアプリオリなものになるアポステリオリなもの」という言明が呼応する。そして「このようなフッサール解釈はスティグレールをシモンドン批判へと導いてもいる」。それは「シモンドンは情報という考え方に照らして個体かを再考しようと試みているが、情報が何らかの物質的な支持体を要求するということ、そしてそれが技術対象にほかならない」という批判であり、換言するなら「作動の予科が技術対象に依存していることを見落としている」のであり「予科は記憶の組織化を要求するが、その組織化は人工的な記憶にますます依存してい」のである。
スティグレールは外化を時間の空間化として理解している。たとえば書くということは発話をもろもろの象徴へと離散化し空間化するということなのである。道具や言語や儀式や文書などは外化の形式であり、これが人類を他の動物たちから区別しているというわけである。「道具と同様、人間の記憶は外化の一産物であり、エスニック集団内に貯蔵されている。これが人間の記憶を動物の記憶から区別する。動物の記憶についてはほとんどよく知られていないが、少なくともそれは種内に貯蔵されている」。
この「種内に貯蔵されてい」た、「環境に適応する間に産出された表現型」を-ラマルクのいうように、それが遺伝型にまで伝わることはないことをアウグスト・ヴァイスマンが発見したが-「テクノロジーがあることで、人間存在たちはその記憶を世代から世代へと渡す」のだ。つまり「遺伝型と環境の変化にもかかわらず同じ表現型を生み出すことのできる能力」が長けているからこそ我々は生きながらえたのだ。 またスティグレールはテクノロジーを「後成系統発生的な記憶」と呼ぶ。彼自身の言葉で説明すれば、これは「わたしが決して生きたことのない過去でありながら、しかしわたしの過去であり、それなしではわたしはわたし自身の過去というものを決してもつことがないであろうもの」である。後成系統発生的な記憶たちは個体的かつ集団的な記憶の補綴を構成する。それらはまた大部分、われわれがその内へとハイデガーのいう意味で被投されているところの世界つまり既在により構成される―それはわたしが継承したものであり、わたしの同一化の傾向(何らかの静的な同一性ではなく)を形成するものである。 「過去三〇年間でスティグレールは」、「術語の公式を第三次把持から後成系統発生そしてより最近の外身体化と変化させてきたが、しかしこれらの術語はみな同じ主題に関係しているのである―すなわち「生命以外の手段による生命の追求」としての技術」、換言するなら表現型の是非である。
こうした技術対象を「心理的かつ集団的な個体化」に関与するものとして、芸術家を例にあげる。ユクホイは「芸術家は個体化の促進者の役割を担う」として『象徴の貧困』から引用する。 芸術家とは心理的かつ集団的な個体化の一つの典型的な形象である。そこでは、わたしというものはわれわれというものの内にしか見あたらず、そしてわれわれというものはこの過程が前提する前個体的な地の緊迫した過飽和な潜勢力から構成されているとともに、それを形成するわたしたちがなす通時性から構成されている。このわたしたち、ないし心理的な個体たちは、かかる前個体的な潜勢力の継承者であるとともにこれに緊縛されており、それらが構成するわれわれというものに各々それぞれの仕方で接続している。
ユクホイによると「ここでの芸術家という術語は、哲学者や教育者や工学者など好きなように置き換えてよい。ここでいう芸術家とはあくまで一つの典型的な形象である。かかる芸術家は何らかの味わい深い作品を産出するもののことではなく、むしろ芸術作品(あるいは書物やコンピュータ・プログラムなど)のかたちで外化された感性的なものを通じて、わたしとわれわれの間の超個体化を可能にする何らかの回路を創造する能力があり、これに責任を負うことのできるもののことをいうのである。芸術作品を通じて再帰性が確立され」るのだ。
ユク・ホイがシモンドンに対して「彼は心理的かつ集団的な個体化の過程における技術対象の役割を詳説しなかった」として「スティグレールの一般器官学は、シモンドンによる分析の一つの拡張」というのはここにあるのだ。則、「外身体化」することによって「第三次把持」となり私たちに「後成系統発生的な記憶」を齎す技術対象こそが「心理的かつ集団的な個体化に不可欠の一次元」なのだ。だからこそテクノロジーは「アポステリオリなものがアプリオリになる」機能をもつのだ。 スティグレールからユクホイへ
『デジタル対象の実存について』でわたしは、スティグレールの提案した把持と予持の回路の中に或る要素が欠けていることを指摘した。この欠けた要素―第三次予持―が、もろもろの技術システムの進化つまりそれらが有機的なものになろうとしているということを理解するには肝心なのである。わたしは第三次予持という概念をみずから提案することで、計算的解釈学とわたしが呼ぶものを粗描した。 ちなみに復習すると「予持とは予科する能力」であり、予科とは「音楽の記憶をもっているから、フレーズの終わりまでそして曲の終わりまで予科することができる」とあるように、把持によって可能となるものである。本引用文より換言するなら「想起は以前の知覚作用などの「存在の措定」を含む作用。言い換えれば、不自由に「かつてあった知覚」を思い浮かべる作用。同様に、予期や予想、予見、予科も「これからあろう知覚」を通して「存在の措定」を含む作用」である。つまり把持によって想起或いは保持された「かつてあった知覚」を予科することによって「これからあろう知覚」の「存在の措定」をするのだ。 ユクホイはこの「予持」こそが「フッサールを師フランツ・ブレンターノから区別する一つの鍵となる要素」とする。なぜなら「ブレンターノのモデルは二つの主要素からなる。このいまの瞬間の普通の感覚と、過去の表象である」。一方フッサールは「三重の志向性のモデル」具体的には「把持と原現前と予持の絡み合いにより媒介されている」のだ。そこで「把持と予持の関係の最も明晰な説明」として『ベルナウ草稿』を紹介し、下記のように結論づける。 予持と把持を二つの作動として完全に分離することはできないし、事実それらは一つの必然的な回路を形成している。つまり把持は受動的であるとはいえ予持を動機づけており、そして予持は能動的でありながら個体の経験と整合的な構造に即して把持を豊かにする。
他に「把持」が「予持を動機づけ」るのは「予持の内に把持がある」からであり、「予持」が「能動的」と言われるのは「予持は未来を向いている」ためである。更にフッサールの図式を用いて下記のように説明する。
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どの「原現前」もみなそれぞれ一つの志向的な行為であり、それは把持と予持の両方をともなう。或る一連の出来事$ E_1から$ E_4が到来すると想像してみよう。$ E_2がいまであるとする。この瞬間において、$ E_1が把持に加えられ、その結果として予持$ E_3を変様させる。次のいまである$ E_3においては、$ E_1と$ E_2がともに$ E_1^3と$ E_2^3として把持される。次の予持はまた把持の変様に即して変様させられる。フッサールによると「新たな核与件が到来すると〜古い核与件たちが単純に把持的になるだけではなく、予持的な意識が「成長」するのであり、それは新たな原与件に対応してともにみずからを実現させる」。〜予持の内に把持があるというのもまた真であることは、この意味で理解できる。どの予持の意識も一瞬の出来事ではなく一連の進行中の流れの一部であり、それゆえ予持は未来を向いているということ以外は第二次把持と似通うからである。
ユクホイは注釈で「これはわたしが初めて第三次予持と再帰性の概念を展開した箇所」とするように予持によってテクノロジーは再帰性をもつ。「この欠けた要素―第三次予持―が、もろもろの技術システムの進化つまりそれらが有機的なものになろうとしているということを理解するには肝心」というのは「ウィーナーと同じくシモンドンも、技術対象が「有機的なものになろうとしている」と認識している」という言明を意識していっている。
まとめるならサイバネティクス―の作動中心主義的性質―を乗り越えて打ち立てられたアラグマティクスは「構造における作動と作動における構造の、同一システム内での可能な変換を定義した」―恐らく転導的一性??。が、「彼は心理的かつ集団的な個体化の過程における技術対象の役割を詳説しなかった」。そこでスティグレールは「外身体化」することによって「第三次把持」となり私たちに「後成系統発生的な記憶」を齎す技術対象こそが「心理的かつ集団的な個体化に不可欠の一次元」であるとし、だからこそテクノロジーは「アポステリオリなものがアプリオリになる」機能を持つことを明らかにした。だがそれはシモンドンが―「帰還的因果性」として表現し―ウィーナーと意見を同じくした「技術対象が「有機的なものになろうとしている」」観点が不足している。だからこそユクホイはそこに「第三次予持」という要素を加え完成させたのだ。 /icons/白.icon
サイバネティックな世界
そこでユクホイは「無機的な有機性」と「無機的な機械性」にテクノロジーを弁別する。「後者がシステムの機能不全を防止するのに必須のものとして総体的な共時化を要求するのに対して、前者は(何らかの共通の時間軸は必要とするにせよ)多様性の出現を許容するところにある」。それはある地点では「インターネット中毒とゲーム中毒」者のように「人間を飼い慣らす」ことを可能にする「病理の源泉」である。「センサーからデータへ、データからソフトウェア、そしてソフトウェアからシステムへと」、「個別の技術対象の作動能力も、いかなる個別の人間の認知能力も、はるかに凌駕」して「それらは再帰的なフィードバック循環で作動」し、「技術対象の進化と非人間化」を可能にするのだ。
今日われわれが目撃しているのは、サイバネティクスの出現このかた、ありとあらゆるスマートデバイスや多数の水準にわたるシステムとしての組織を通じて拡大してきた無機的な有機性の発展である。それらはもはやただの組織化された無機的なものではなくなり、むしろ再帰的に機能することでみずからの構造とパターンを産出する組織化する無機的なものになろうとしている。〜グーグルは一つの巨大な再帰的機械であり、そのユーザーのありとあらゆるデータを統合し更新し他のサービスに有用な情報に解析することでみずからを再生産している。グーグルは無論一例でしかなく、われわれの環境がもろもろのセンサーや相互作用機械に取り囲まれている今、実質的包摂は新たな機構を採用しているのであり、そこではユーザーが一つの再帰的アルゴリズムとして扱われ、また別の何らかの再帰的アルゴリズムの一部となっているのである。