スティグレール
善と(et)惡
ジャン=ジャック・ルソー以降、政治的な論争の中でもっともポピュラーな問いのうちの一つ(それによって伝統的に右派と左派が分かれていた)は、果たして人間というものは生得的には(naturellement)善なのか悪なのか、というものだ。〜それ故に問題となっているのは、有名な『人類不平等起源論』のなかにある、法律における人間、即ち来るべき人間(homme à venir)なのだ。人間は生成する。そしてこの生成は完璧なメカニズムではない。ここに自由の行使がある―人間が善であったりなかったりするような自由だ。別の言い方をすれば、人間とは善でもなければ悪でもない。何故なら法律にあって人間は善であり、事実にあって人間は悪だからだ。人間は二つの「傾向」の「間」にいる。一方はアクチュアルで現実的なもので、他方は絶対的な過去のフィクションに基礎付けられた来るべき想像的なものだ。これが《自然状態の人間》というものだ。〜要するに、果たして人間は善「か(ou)」悪かという問いの提起は、哲学的な問いというものを理解していない。というのも、事実に属するものと法律に属するものを区別する必要性を理解していないからだ。そしてその差異を適切に支える自由というものは、哲学が支えているという限定がついている。哲学の起源そのものにあって、哲学者が提起するのは、人間は善で「も(ou)」なければ悪で「も(ou)」ないという、あらゆる哲学の「基底的な(fondatrice)」問いのようなものだ。だからこそ、たとえば哲学がその区別を作り出し、そしてそこで形成される関係を「対立なし」で済ませられるかもしれない。善悪の二つは不可約的(irréductiblement)だ。つまり善「と(et)」悪なのだ。 要約すれば、ルソーが発見したのは、法律=権利(であるべし〔善〕)と事実(である〔惡〕)とに引き裂かれた人間像だ。彼は理想と現実の「間」にある「諸差異を通過」する生成プロセスのなかにある。人間は完全な善人でもなければ完全な悪人でもない。人間は善人になったり悪人になったりする生成の途上に常にある。人間は変化するのだ。善か悪か、ではなく、善と悪へ。そして、「か」(ou=or)ではないこの「と」(et=and)の次元がシモンドン哲学の、いやそれ以上に哲学そのものの根幹をなしている。スティグレールは次のように論じる。
この「と(et)」はゲシュタルト理論(la Théorie de la Forme)の用語を再使用つつ、それ自体に「場(champ)」と呼ばれる電磁気物理学の知見を付け加えたシモンドンが切り拓いたものだ。《善と悪》という表現にある、「と」調整の連接(conjonction)、これは明らかに離接(disjonction)でもあり、そして力学の原理にあって取り結ばれる構成的な矛盾の結節点でもある。この離接的な連接は転導的(transductive)関係を形成する諸項の間にとどまっている―諸項を構成するものこそその関係なのだ。そして、そこにあって一つの項、例えば善は、他の項、例えば悪なしには「存在しない」。 離接(disjonction)(選言とも訳される)とは論理学の言葉で、命題を結びつける形式、日常語では「か」や「あるいは」に相当する。これに対して連接(conjonction)(連言とも訳される)とは「と」や「そして」に相当する。以前みたように、シモンドン哲学の重要性は「か(ou)」ではなく「と(et)」にあった[それゆえ善か(ou)惡という「問いは哲学的には何の意味ももたない」とスティグレールはいう]。しかしシモンドン=スティグレール(以下、SS)にとって〈「か」か「と」〉の選択が重要なのではない。「と」が重要視されるのは、それが「か」の機能を含みもつことができるからであり、即ち〈「か」と「と」〉にこそ「と」特有の力があるのだ。だからそれは、分断しつつ紐帯する「結節点」になる。