シモンドン
1958『個体化の哲学』
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転導概念
この研究が立脚するところの存在の考え方は次のようなものである。存在は同一性という一性をもたない。なぜならそれは、安定的状態の一性であり、そこではいかなる変化も可能ではないからだ。存在がもつのは転導的一性である。つまりこの存在は自らに対し重位相化師、自身の中心の両側から自らをはみ出していくことができる。〜個体化された存在は完全な存在でもなければ第一の存在でもない。個体化を個体化された存在から把握するのではなく、個体化された存在を個体化から把握するべきであり、さらに個体化を、いくつかの大きさのオーダーに応じて配分される前個体的存在から把握するべきである。
則、完全なる静的な安定状態ではない―転導の起こりうる可能性をもつ―準安定状態こそ本来の個体の様相なのであり、その意味で「前個体的自然は、未来の準安定状態の源泉であり、そこから新たな個体化が生じうることになる」のである。それはユク・ホイの「自然は人間の反対ではなく、存在の第一の位相であり、第二は個体と環境の対立で、これはすべてのものとの関係における個体的なものを賞賛している」という解釈によって精微できる―ただこれはシモンドンによれば「前個体的存在は、位相がない存在である」とするため表現は正しくないと言える。つまり「前個体的自然」という非位相的な存在を源泉として「準安定状態」の個体をつくりだすというような「個体から個体化を認識するというよりもむしろ個体化を通して個体を認識」するもの、ひいては「個体化させる系でもあるが個体化する系でもある」ものこそ「転導的一性」そのものなのである。だからシモンドンは「転導は個体発生に適用されるものであり、かつ個体発生そのものでもある」というのだ。こうしたことから「存在は同一性という一性をもたない。〜存在がもつのは転導的一性である。」の意味が浮上してくるだろう。つまり「知の領域において転導は真の発見の歩みを定義する。真の発見の歩みは、帰納的でもなく演繹的でもなく、転導的なのである」のだ。