ロールズ
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ロールズの正義観
偶然性の受容
出生や生来の資質の不平等は、不当なものであるから、こうした不平等はともかく補償されるべきなのである〜その観念は、偶然性の偏りを平等の方向に正すことである。〜格差原理は、実際には、生来の才能の分配をある時点で共通の資産とみなし、この分配を補正することによって可能となるより大きな社会的、経済的便益を分け合うことに、同意することを表している。〜誰一人としてより大なる生来の力量を受けるに値するわけではないし、いかなる利点も、社会におけるより恵まれた出発点の位置に値するわけではない
社会的地位・自然的能力は道徳的に値しないということ
自分が持っている社会的地位や環境や自然的能力は、偶然に所有したものである
自然的能力でさえ、自らが獲得した努力の賜物だと思われがちだが、実情は違う。すなわちかかる能力は偶然の産物たる社会の環境や地位によって偶然体得されたものである。偶然所有したモノには道徳的に値しないというべきであり、偶然性は道徳にとって何の価値もないものなのである。所有している個人にとっては、かかるモノは偶然の産物なのであるから、道徳的に値しないものとして共同資産にプールされるべきものなのである。
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(1)一般的な形式を纏い、(2)適用においては普遍的である原理の集合をなし、それは(3)道徳的人格相互の対立する権利要求を順序づけるための(4)最終の控訴裁判所として(5)公共に承認されるものでなければならない。
固有名もしくは偽装された確定記述に過ぎないと直感的に見分けられそうな字句を使用することなく、原理を定式化することが可能でなければならない
2.普遍性
適応に際して普遍的でなければならない。原理はあらゆる人に(彼らが道徳的人格であるとの理由に基づいて)妥当しなければならない。〜それらの原理がどれほど複雑でありうるかに関して、そしてそれらnの原理が画する区別の数や種類に関して、ある種の上限を課している。〜自己矛盾的であったり、自己論駁的であったり〜理にかなうものでしかないならば、その原理も却下される。全員がそれらを遵守している場合の帰結に照らして、原理は選択されなければならない。
一般性との差異
第一人称の独裁政治という形態でのエゴイズム(万人が私の―もしくはペリクレスの―利益に奉仕すべきである)は普遍性を充してはいるけれども、一般性は充してはいない 3.公示性
これは契約説的な立場から無理なく生じてくる。当事者たちは、正義の公共的な構想を支持する原理を自分たちが選択するものとみなしている。合意の結果としてそうした諸原理が受け入れられたのであるならば、当の諸原理に関して自分が知りえたすべてを全員が知るに至るだろう―そう当事者たちは仮定している。それゆえ、原理が普遍的に受け入れられているという自覚が一般的になることは、望ましい効果を有しており社会的協働の安定性を下支えするはずである。
普遍性との差異
全員が理知的にかつ規則正しく原理に従っているという根拠に基づいて、それらの原理を評価するような人を導くのは、普遍性の条件〜ある原理を全員が理解し従っている場合であっても、その事実が広く知られていない(もしくははっきりと承認されていない)ということがありうる。公示性〜は、公共的に認知され、じゅうぶんな実効力を持って社会生活を取り仕切る道徳上の基本法として正義の構想を当事者たちに評価させるところにある。
理性的な存在者が諸目的の王国の法として進んで制定する用意があるような、原理と一致して行為せよと私たちに要求するものこそ、定言命法なのだからである。 4.順序づけ
対立する複数の権利要求の〔優先順序を定めてくれる〕順序づけを正の構想が課すべき〜競合する要求を調停するという原理の役割から直接的に生じる。
脅しの効果(Threat advantage)や決闘裁判の否定
肉体的な衝突・戦闘や武力の行使が結果的にひとつの順序づけをもたらしてしまい、特定の権利要求が他の要求に勝ち抜く〜武力や狡猾さに訴えることを避けるために正や正義の原理が受け入れられる。
5.最終性
原理の体系を実践的推論における最終の控訴裁判所だと見極めねばならない。
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功利主義批判
功利主義は、強い立場の人々の利益のために、弱い立場の人々を犠牲にすることが正当化される
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原初状態はもちろん、実際に起こった歴史的事態としてみなされるものではないし、ましてや文化が生まれる原始的条件でもない。それは,正義の一定の構想を導くために 特徴付けられる、純粋に仮想的な状況として理解されるものだ。この状況の本質的特徴 には、いかなる者も社会における自分の地位、すなわち階級的立場ないし社会的地位を知らないということ、いかなる者も知性や強さといった自然的資産や能力の配分上の無形の財産について知らないということなどが含まれる。私は、当事者が自身の善の構想やおのおのに特有の心理的な性向についても知らないということさえも仮定する。正義の原理は、無知のヴェールの背後で選ばれるのである。このことが原理の選択の際に、誰もが自然のチャンスの結果や社会環境の偶然性によって利益ないし不利益を被らない、ということを保証するのである。すべての人間が同じような状況に置かれ、誰も自分の特定の条件に有利なように原理を企図できないがゆえに、正義の原理は公正な合意や交渉の結果となる。というのも、全成員の相互の関係が対称性を有しているという原初状態を所与とすれば、こうした初期状況は道徳的人格とされる諸々の個人にとって公正なものとなるからだ。ここで道徳的人格とは、自分自身の目的をもち、正義感覚を発揮しうることが想定される合理的存在のことである /icons/白.icon
反照的均衡論
定義
おそらく原理と確信との間に食い違いが生じるだろう。その場合に〜初期状態の説明の方を修正するか、それとも現在の判断の方を見直すrかのどちらかの選択肢が選べる。〜ある場合は契約の状況に関する条件を変更し、別の場合は私たちの判断を取り下げてそれらを諸原理に従わせるといったような仕方で、いったりきたりを繰り返すことを通じて〜理にかなった条件を表すとともに、じゅうぶん完結にされ訂正された私たちのしっかりした判断と合致する原理を生み出してくれるもの〜この事態を反照的均衡と呼ぶ。 均衡状態の性質
ある状況が均衡状態にある〜という事実があるからといって〜正義に適っているということが必然的に意味されるわけではない。それが意味するのは〜人びとがその均衡状態を維持するよう実行的に行為する、ということ
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本書の末尾
すべての人をひとつに合体・融合してしまうことなく、人びとを別個独立した存在として承認することを通じて〜不偏・公平な立場に立つことを可能にする。したがって、この視座から社会における私たちの境遇を眺めることは、それを永遠の相の下に了解する業に等しい。すなわち、人間の状況をあらゆる社会的視点からのみならず、あらゆる時間的観点からも凝視することを意味する。永遠性の視座は現世を超えた場所からの眺望でもなければ、ある超越的な存在社の観点でもない。むしろ、この世界の内部にあって理性的な人びとが採用しうる特定の思考と感情の一形態なのである。〜心の清廉潔白(purity of heart)とは―もし人がそうした境地を達成しえたならば―こうした永遠性の観点からものごとをはっきりと見据え、優雅かつ自制的に行為することと変わらなくなるだろう。 /icons/白.icon
本書が設ける特別な想定として、合理的な個人は嫉みに悩まされないというものがある〜彼らは愛着や憎しみによっては動かされない、また当事者たちは、相互比較の上に立った相対的な利得を得ようともしない。彼らは嫉妬深くもなければ、虚栄心が強いわけでもない。
つまり自己の利益の最大化にのみ努めており、他者に無関心な合理的個人である。
ロールズ的個人は原初状態において等しく理性をもっており、己の納得できる諸原理を選択する能力をもつ。が、無知のヴェールによって人々は、自らの社会条件、すなわち個人的な利害や能力がわからなくなっている。となると最も恵まれない人々の最善を考慮するマキシミン・ルールを採用せざるを得ない 二原理がマキシミン・ルールによって選び出されることになろう
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格差原理(the Difference Principle)
各人は、基本的自由に対する平等の権利をもつべきである。
公平な機会平等原理 (the Fair Equality of Opportunity Principle)
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テーゼ:功利主義の亜種に過ぎないのではないか
例)高額な生命維持装置で生きている植物状態の人がいる際、本当に平等公平なシステムを構築できるのか
2.功利主義における比較衡量の亡霊
貧困に苦しむAとB。この二者は社会から正義として平等な待遇となるよう支援を受ける。が、Bが難病に苦しんだり精神病を患っている際、より多くの額を支給するとしてその支給額は比較以外何を持って定めるのか??
3.反功利主義者における自由
自由を得れないことは極端な妄言であり、最大多数がそれを望めば得ることができるからであり、それは自由の絶対的な制限とは言えない。
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社会的・自然的環境や自然的能力こそが道徳的(上記の偶然性の受容に対して)
人聞が人格を有する限りその人格を規定するものが、属性としての社会的・自然的環境や生得的能力なのである。人聞が他の人間と正しく区別されることが人格の最大の道徳的基礎であると信じるノージックは、われわれが偶然にも所有しているありとあらゆるものは、不正がない限り道徳的に値するのである。これら所有物や先天的能力は偶然にもたらされたのかもしれないが、国家や社会がこれらすべてを剥奪すれば、人間の人格性を根底から掘り崩すことになる。
様々な物は、それらの上に権原(entitlement)を有する人々に既に属しているものとして、この世に生み出されるのである
かかる剥奪後に残るあらゆる負荷なき人格は、形式的には平等に見える。こうした形式的平等は、「平等な人格」とい う一見崇高な道徳的人格論の基礎を提供するかに思えるが、言葉の真の意味で人格性を支える所有物や先天的能力(属性)が存在しないため空虚な自我を帰結する。 自分達を存在するに至らせたような当の過程を道徳的に批難しそれによって我々の存在そのものの正当性を低めるような原理
上記を是とするのであれば属性を備えた具体的個人を人格として認めないロールズの論法は、結局人格の「生存」の否定を帰結する。
多数の精子のうちのどれが卵子の受精に成功するかは(我々の知る限りでは)道徳的観点からは恣意的〜である。現に生きている各々の人は、 一つの成功する精子といえども失敗する何百万もの精子と同じく、(受精に)値するわけではない過程の産物である
したがってロールズの論法によれば、受精に失敗した精子も成功した精 子も受精に値するわけではないから、成功した精子は失敗した精子が辿った運命(死)を負わされることになる。結局ロールズ的観点、すなわち、道徳的に恋意的か否かという観点で、あらゆる保有物を所有していることの正当性を吟味し始めると、我々の生存それ自体が道徳的に恋意的ということになる。これは不合理であると考える。
偶然性除去が人格を社会や共同体へと滅私奉仕させる悪しき平等主義を帰結し、カントのいう人を手段として扱ってはならないという命法に明かに抵触すると解釈する。つまり、偶然性は我々の人格を規定するというのである。 https://scrapbox.io/files/64b157d8e39e7a001bafc94b.png
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主要概念
政治的リベラリズムは、理にかなった包括的世界観の重なり合うコンセンサスを目指す。すなわち、固有の包括的世界観を抱く市民がそれぞれ独自の観点・筋道から正義の政治的構想を是認し、結果として同一の構想を手にしている状態を目指す。ロール ズの想定では、世界には独自の善を携えた多くの包括的世界観が存在しており、諸世界観の下で暮らす市民たちを特定の世界観のもとに包摂することはできない。そのため、政治的リベラリズムでは、個々の包括的世界観から独立した公共的な政治文化で形 成される政治的構想を合意の対象とする。このとき、 個々の包括的世界観に対して、別の世界観を持ち出して合意を要求するのではなく、各々の世界観に内在するものへの合意を求めるため、重なり合うコンセンサスは安定性を有するとされる
これらの理念の下では、道理的で合理的な市民たちは、自らの善を正義の政治的構想から構築する。このとき市民たちは、いかなる包括的世界観を有していても必要となる「基本財(primary goods)」 を要求する。基本財は、基本的な権利・自由、所得・ 富、自尊の社会的基礎などを含む。市民たちは基本財を活用しながら、正義の政治的構想の内で自らの 善を構築し、追求していくのである
公共的理性はデモクラティックな人民である市民の理性である。そして、この公共的 理性は個々の市民たちの政治権力の正統性を担保する。すなわち、すべての市民が道理的・合理的に受け入れられる原理や理想に照らして是認できる憲法に従っているときのみ、市民の政治的能力の行使は正統となる。公共的理性は、個々の市民の主張が政治的諸価値によっていかに支持・確証されるのかを 相互に説明するための理由づけを行う理性である。 公共的理性の実践は、社会における「市民としての礼節の義務(duty of civility)」であり、この義務には自らの主張への理由づけだけでなく、他者に耳を傾ける意欲や、公平な心持ちが含まれる
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各知識人への応答
メタ・ユートピアにおける国家は私的な連合体を描くものであり、社会契約論の基底的な理念を拒絶した、社会の基礎構造に関する正義の理論を持たない立場であると言う。対して、公正としての正義のように社会の基礎構造にアプローチすることは、社会を構成する個人や連合体の活動の後ろ盾となる正義を措定し、自由な活動を通した市民の目的追求の促進を可能にすると述べた ハートは『正義論』で示された基本的諸自由がなぜ他の自由に対して優先権を持つのか、自由同士の対立の中でどのようにそれらの自由が調整されるのかが不明瞭であることを批判した。ここで基本的諸自由とは、思想や良心の自由、政治的自由、結社の自由、人格・身体の自由などを含む。ロールズは、こうした基本的諸自由が市民が道理性と合理性を行使し、自らの善の構想を追求する上で必要となると考えるため、それらに優先権を与える。そして、基本的諸自由間の調整は、適切な制度枠組みを規定するという目的に鑑みて適宜行われるとした
ここでハーバーマスは『政治的リベラリズム』批判を展開するのだが、その論点は主として三つある。第一に、原理を非党派的に判定するための観点を解明・確定しようとするとき、原初状態のデザインは適切であるのか。第二に、原理の中立性を重視するあまり、認知的妥当要求を放棄しているのではないか。第三に、自由主義的な基本的な権利を民主的な正当化原理よりも上位に置くことで、近代人の自由(私的自律)と古代人の自由(公共的自律)を調和させることに失敗しているのではないか。ロールズは、前二者に対し、立場の違いを論じることで応答する。すなわち、ハーバーマスが包括的な理論を語るのに対し、ロールズは政治的な理論を語るのであり、ハーバーマスの理想的発話状況が主張の真実性や妥当性を目指すのに対し、ロールズの原初状態は主張の正統性を目指すのである。第三の問いに対しては、公正としての正義においても、私的自律と公共的自律は等しく重要性を有しているとされる
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主題
民主制は、宗教的なものであれ非宗教的なものであれ、諸々の包括的教説と両立するのか。そして、もし両立するとすれば、どうすれば両立するのか。
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民衆の分類
1道理をわきまえたリベラルな諸国の民衆 (reasonable liberal peoples)
2良識ある諸国の民衆 (decent peoples)
3無法国家 (outlaw state)
4不利な条件の重荷に苦しむ社会
5仁愛的絶対主義 (benevolent absolutism) の社会
「良識ある」は「道理に適う」に較べると弱い(つまり「道理に適う」に較べ、より狭い範囲しかカバーしない)ものだが、それでもやはり、同種の規範的観念である
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良識ある諸国の民衆の条件
諸々の結社、組合、階層(身分)の構成員たる各人は、諮問手続きのいずれかの時点で(集団の代表を選ぶ段階であることも多い)、政治上の反対意見を表明する権利を有しており、同時に政府には、集団の反対意見を真摯に受けとめ、誠意ある回答を行う義務がある
2政治的決定は、民主的ではないような、宗教的・哲学的価値観に基づいてなされるものの、個々人の意見は、ある適度は尊重されている。このような制度をもち、以下の二つの基準を満たす社会は良識ある階層社会であるといえる。 第一に、この社会は、侵略的な目的を抱くことなく、外交や貿易、その他の平和的手段によって、自らの正統な諸目標を達成しなければならない
第二の基準は三つの部分からなる
(a)〜良識ある階層社会民衆の法システムは、正義にかんする共通善的観念にしたがい、いまでは人々が人権と呼ぶようになったものを、その国の民衆の全構成員に保障する
(b)〜良識ある民衆の法システムは、その国の領域内にいる全ての人格に対し、(人権とは区別される)正真正銘の道徳的権利義務を課すものでなければならない
(c)〜法システムを実際に執行する裁判官やその他の官僚たちが誠心誠意、かつ、道理に反しないやり方で「法は本当に正義の共通善的観念に導かれている」と信じている必要がある
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正義論について
『正義論』はロック、ルソー、カントにより代表される社会契約の観念から、次のような正義理論を展開することを試みる〜長らく支配的だった功利主義の伝統よりも優れていることが明らかな、そうした正義理論である。〜その結果として、民主的社会に対し最も適切な道徳的基盤を提供するような理論の、構造的特徴を提示したいと願うものである。さらに 『正義論』は、公正としての正義が、一つのリベラルな包括的教説として提案され〜その秩序だった社会の全構成員がこの同じ教説を支持しているとされるのである。こうしたたぐいの秩序だった社会は穏当な多元性の事実と矛盾するものであり、それゆえに『政治的リベラリズム』はそうした社会を不可能なものと見なす 公共的理性における差異
公共的理性がリベラルな包括的教説により与えられる。
政治的リベラリズムについて
こうして『政治的リベラリズム』は別の問題に検討を加えることとなる。すなわち、人々が、宗教的であったり非宗教的であったりする包括的教説、とりわけ教会や聖書といった宗教的権威に基づく諸々〜を支持すると同時に、立憲民主制社会を支える、道理に適った正義の政治的構想をいだくといったことは、どうすれば可能であるのか―こうした問題である。
公共的理性における差異
公共的理性が、自由で平等な市民たちに共有される諸々の政治的価値に関する推論=理由づけの方法となり、そしてこの理性は、市民たちの包括的教説が民主的な政治形態と両立する限りにおいて、それらの教説に干渉しない。〜したがって『政治的リベラリズム』の秩序だった立憲民主制社会とは、有力で支配的な市民たちが、宥和不可能だが、それでもなお道理には適っている諸々の包括的教説を支持し、そしてこれに基づいて行動するような社会である。
良識ある諮問階層制
万国民衆の社会