ヘア
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多くのひとびとは今でも、~カントと功利主義は道徳哲学の対極に位置していると考えている。しかし、~道徳言語の形式的・論理的な特質に関するわれわれの理解は、とりわけカントに負うものであるが、そうした特質から生 る一連の道徳的論証の帰結はといえば、ある種の功利主義と同一の内容となる。 /icons/白.icon
道徳的原則のレヴェル
快苦といった心理的観念には先駆ける欲求や選好が存在する。だからこそ選好功利主義は直接価値意識を扱える。従来の道徳思考の仮想的な直感レヴェルでは、直観的原則同士で葛藤が生じることがあるため、そういった際になんらか普遍化可能で指令的な判断(批判的レヴェルの道徳思考)をくださなければならない。 即ち規範的には直感レヴェル、特殊的に批判的レヴェルを用いる。後者を用いる必要のある「直観的な対立」が生じたときは、関係する当事者の選好の充足を最大にするものを選択するべきという行為功利主義を採用するべきと考える。 これは勿論直観主義の否定ではない。直観的思考をまっ く必要としない人がいるとすれば、それは完全な知識を持ち判 に時間を要しない超人的な存在であり、ヘアはこれを大天使 と呼ぶ 普遍化可能性
指令性
「べき」という道徳判断は命令作用をもつ。つまり「べきだ」=「せよ」
もしAの「人のものを盗むべきではない」という道徳判断を、Bが受け入れたならBは「人のものを盗むな」というAの指令(命令)を受容したこととなる。
事実と論理に基づく判断の要請
へアが問題にする道徳判断は合理的な道徳判断である。道徳判断の合理性の基準はいろいろ考えられるが、少なくとも事実と論理に基づいているべきであるという点に関しては明らかだと考えられる(ヘアはこれは指令的な言語 般に当てはまる性質で、普遍化可能性によってさらに強化されていると考えている)
そして、ここでは問題を単純にするために、のぞむかぎりの情報、すなわち完全な情報が手に入る理想的な状態を仮定する。つまり、一種の理想化として、大天使の批判的思考について考察するわけである。
条件的反省原則
選好に基づいて、同じ条件下で相手の経験を知る手法論を(引用論文と同じく)ギボードにならって「条件的反省原則」呼ぼう。具体的には下記に基づく (前提)選好の強さの大小を個人間で比較することができる
(1)自分の選好の体系ではなく相手の選好の体系をもつ
(2)ある経験に対して相手と同じ強さの感情を実際に持つ
もしわたしが他人の選好について十分な知識を持てば、わたしが彼の状況に置かれたとした仮定の場合にわたしが受ける仕打ちに関し、彼の選好と同じ選好を獲得することになる。~そうすると、これは事実上、異なる個人の間での選好や指令の衝突ではなく、同一個人内での葛藤にほかならない——衝突している選好はどちらもわたしのものである。そこで、わたしはその葛藤をもともとわたし自身のものである二つの選好の間の葛藤と全く同じ方式で扱うことになる~多者間の事例も、もう最初の見た目ほどむずかしくはない。なぜなら、どれほど複雑でどれほど多くの人々が関係していようと、他の人々の選好についての十分な知識が得られれば、異なる個人間の衝突はやはり同一個人内での葛藤に還元されるからである 非現存な経験はどのように実装するのか
いま現存しない経験を正しくしかも確信をもってわれわれ自身に再現する~哲学的懐疑論を別にすれば、再現できるという確信をわれわれが持っていることに疑いはない
過去のわれわれ自身の選好
記憶によって再現する
未来のわれわれ自身の選好
未来の経験は類似した条件のもとで過去に経験した記憶のあるものに類似すると前提した上で、記憶と帰納との結合によって再現する
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選好功利主義の実践
つまりあるコミュニティに属すAが事実と論理に基づきある行為を提言し、それらの関係者が直感レヴェルで同意できない場合は、条件的反省原則を用いて、普遍化可能な指令(道徳判断)としてのコンセンサスを形成-照合するのが、選好功利主義である。 異なる人々は互いに衝突する直観を持つものである。必要とされるのは、この事例ではどちらの権利が優越すべきか、あるいは、それらの権利の基礎にある原則のうちどちらが優越すべきかを決定する批判的思考の方法なのである~この方法は、権利に関する原則も含め、直観的レベルで用いるための一組の道徳的原則を、その受容効用を根拠として選ぶ——つまり、問題にされている社会でそれらの原則を一般に受容したときに、公平に考慮された社会の人々の利益にとって総計で最善となる結果をもたらすように選ぶのである(引用) ex)ここで取り上げられるのはわたしが自動車を駐車したい場所に 自転車がおいてある、という例である。もしわたしがここに自動車をとめられないならば、かなり遠くまでいって駐車し歩いてこ なくてはならないので大変不便である。一方、自転車の所有者は 自転車が動かされても少し困るだけである。このように状況を想定したときに、わたしが普遍化可能で指令的な判断を下そうとす るならばどうなるだろうか。わたしはまず、条件的反省原則にしたがって自転車所有者の選好を自分の中に再現する。すると、わ たしはこの選好を自分の中に現に持つのだから、この選好ともとからの選好との比較は個人の中での選好比較と同じことになる。 個人の中では強い選好の方が優先されるのだから、仮定により自 動車をとめたい選好の方が優先される。ここでポイントとなるの は、もしわたしが自転車の所有者だったとしても、まったく同じ 経路をたどってやはり自分の自転車が動かされるべきだと判断す るだろうという点である。したがってこの判断は、わたしの立場がどちらであっても受け入れることのできる判断、言い換えれば普遍化可能な判断であるということになる。