サンデル
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本学とは... 現象学の用語を借りて、コミュニティのような単独の人間以上の存在を共有し、 互に自己を形成していく間主観性的な自己理解や、単独の人間のなかにある自我の多元性に関する内主観性的な自己理解をとるものである /icons/白.icon
サンデルの哲学的人間学の立場に対しロールズはカント的な義務論的倫理学(定言命法)の立場から、 我は単独で存在し、何の目的も属性も持たず、それゆえにあらかじめ何の善の構想も持たないで、すべてを自己の意思で決定していく、徹底的に独立した存在であると主張している。正義の原理を導くための原初状態では、 このような人間が仮定されているが、ロールズの格差原理、福祉国家を正当化する原理はロールズが否定している「間主観的自我の構想」を必要とする ただ、ロールズ自身、『正義論』 七九節「社会連合の観念」では、目的論的な議論に接近し、人間は「最終目的を共有」するといい、フンボルトに従って「社会連合においてのみ、個々人は完全なものとなる」と矛盾した主張をしている。 /icons/白.icon
3つのコミュニティ構想
個人の私利私欲をもと、プラグマティックにコミュニティを考えるものであるが、そのコミュニティは個人にとっては外的なものでしかない。
コミュニティの成員が「一定の最終的日的を共有」するとし、その点で個人にとって一部は内的なものである。ロー ルズはこの立場を取っているという。
コミュニティは自発的アソシエーションのように選択する関係ではなく、発見する愛着であり、たんなる属性ではなく、自らのアイデンティティの構成要素であり、間主観的なものである。これがサンデルの立場である。
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ロールズの「公正としての正義」はわれわれの共同性を真剣に考えていない。義務論的倫理学では、 独立した自我が考えられ、自らの愛着や意向が自我のアイデンティティと結びついていない負荷なき自己である。しかし、「持続する愛着や関わり合い」が「私の人格を部分的に定義し」、そのことから道徳的な貴務が生じるのである。「自らの家族、コミュニティ、国家、国民の成員として、自らの歴史の担い手として、過去の革命の子孫として、現在の共和国の子孫として」自分自身を理解することである。このように位置ある自己へ変容しよう!! 主題:公共的生活を支える中間的な形態のコミュニティが、企業経済と官僚制国家の両方から侵食されていることを懸念し、アメリカの伝統のなかに存在するが、 現在消滅の危機にある市民的共和制を再活性化することを主張している。
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公共哲学としての二項対立:下記二つの流れを主として政府の政策や最高裁の判決を通して、詳細に跡づけている。
特定の目的よりも手続きを重視し、政治に関しては価値中立的なものである。
これは自由が自己統治を共有することに依存すると考えるものである。そのために公共性に関する知識と帰属意識、コミュニティとの道徳的絆などが要求される。
建国から二〇世紀初頭までは共和主義の伝統が圧倒的に支配的
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最終章「公共哲学を求めて」
共和主義に対して
彼は共和主義にも問題のあることを認めるが、とりわけ共和主義が「排他的」で「強制的」な政治になるという批判に対しては、共和主義の徳の能力は固定されているものでなく、またルソーのような強制的なものでなく、トクヴィルがアメリカの政治に見出したように、分散化され、差異化された公共生活における市民教育、「陶治のプロジェクト」に期待を寄せている。 しかし、このプロジェクトが衰退している大きな問題として、アメリカにおける貧富の拡大によって、とりわけ富裕層が公共空間から撤退して、彼らの私的コミュニティに逃げ込み、交流がなくなっていることをあげている。
そのために、「所得に関係のないコミュニティの制度を再建し」て、「様々な階級の人々が交流する制度」を促進する必要があるという。具体的には、「公立学校、 図書館、公園、コミュニティ・センター、公共交通機関、国民兵役」である。
「コスモポリタンなシティズンシップ」要求の傾向に対して
狭いナショナル・アイデンティティを打破し、経済問題や環 境問題への国家を超えた忠誠をもたらすものとして評価するが、コスモポリタニズムの理念はの「自己統治のための公共哲学」には不適切であるという。 というのも、それは「より普遍的なコミュニティがつねにより特殊なコ ミュニティに対して優先されねばならない」と主張するからである。しかし、国民国家のアイデンティティに期待をよせることも現在では間違いである。
彼は自己統治のために「主権の分散」に期待をよせ、それは連邦主義の伝統やトクヴィルのいうタウンシップの伝統のなかにある。ただ、このような地方自治体が現在では共和主義的なシティズンシップにふさわしくなければ、その代わりとして「学校、職場、教会、 シナゴーグ、商業組合、そして社会運動」のような市民社会の制度に見出すべきである。その優れた例が1950年代から1960年代の半ばの公民権運動である。 https://scrapbox.io/files/645dae6b7b5c0e001b38f4df.png
自由の尊重
「最高の笛はどのような人間が使うべきか?」という問い
平等主義の解「最高の笛であっても誰もが平等にそれを使うべきだ」
功利主義者の解「最高の笛は上手な奏者が使うことで多くの人を楽しませることができる」
「最高の笛は最上の笛吹きが手にする」すなわち、笛の形相論的な目的論からすれば、笛は最高の奏者が吹き、その「美徳を実現するという目的」のために存在しているから
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人生を生きるのは、ある程度のまとまりと首尾一貫性を指向する物語的探求を演じることだ。分かれ道に差しかかれば、どちらの道が自分の人生全体と自分の関心事にとって意味があるか見極めようとする。道徳的熟考とは、自らの意志を実現することではなく、人生の物語を解釈することだ。それは選択を含むものであるが、選択は解釈から生まれるものであり、意志の主権的行為(sovereign act of will)ではない。目の前の道のどれが私の人生のヤマ場にもっとも適しているか、私自身より他人の目にはっきりと見えることも、ときにはあるかもしれない 「したがって、人格について主意主義的な(voluntarist)考え方をとるか物語的な(narrative)考え方をとるかを決める1つの方法は、第3のカテゴリーの責務──すなわち連帯(solidarity)や同胞主義(membership)──は、契約主義的用語では説明できない、ということである。自然的義務とは異なり、連帯の責務は個別的であり、普遍的でない、そこには我々が負う道徳的責任も含まれているのだが、この責任は理性的な人間(rational being)そのものではなく、一定の歴史を共有する人間にたいする責任である。だがこれらは、自発的責務とは異なり、合意(consent)の行為に基づいていない。その道徳的重みは道徳的な考察の状況づけられた側面、すなわち、私の人生の物語は、他者の物語のなかに組み込まれたから出てくるのである