トクヴィル
Jules Prosper Levallois(1861)
誰よりもパスカルのメランコリックな言葉を想起させる
1832 手紙
私が生まれたときアリストクラシーはすでに死んでおり、デモクラシーはまだ存在していませんでした(...)一言で言えば、私はまさに過去と未来の均衡のなかにいたので、生まれながらの本能として過去にも未来にもひかれる気にならなかったのです。
1835『アメリカのデモクラシー』
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序論
平等へ向け、前進する神学、進歩主義、資本主義
わたくしがアメリカ滞在中に注目した新しいものごとのうちで、地位の平等ほどにわたくしの目をひいたものはなかった。社会の発展途上におけるこの地位の平等という基本的事実がはたす大きな影響力を、わたくしはたやすく発見したのである。地位の平等は、公共的精神にある一定の方向を、法律にある一定の表現様式を、治者に新方針を、被治者に特殊な習慣を、与えている。わたくしは、まもなく、この地位の平等という事実が政治的慣習と法律とを超えて、その影響力を拡大していること、そして政府にも人民にも支配力をもっていることを、知ったのである。
したがってトクヴィルはアメリカを分析するにこの「地位の平等」という概念を歴史的に紐解こうと試みる。そこで第一にトクヴィルは歴史を西半球に写し、分析を試みる。そこで明らかになるのは大革命による抜本的な変革ではなく、平等の漸進的実現である。それははじめに聖職者の開放性によって教会から政治空間へと導入され、叡智の開放性によって学者の才が政治空間へと貢献し、富の開放性が政治空間を補助し、時にその立場までもが商品化された。すなわち、このパースペクティヴが示すのは神学、進歩主義、資本主義によって民主主義がつくられたというナラティヴ、平等に資した思想とは、アメリカヘゲモニーそのものなのである。
わたくしは、われわれの西半球にこのわたくしの考えを移してみた。そうすると、新世界が表わしている光景に似たものが、西半球にもあるように思われたのである。旧世界では地位の平等は、アメリカほどには最高限度に達してはいないが、日進月歩にそれに近づきつつあるのである。そしてアメリカ社会を支配しているこの民主政治は、ヨーロッパでは急速に強大な勢力をもつようになってゆきつつあると思われたのである。この瞬間から、わたくしは、本書の構想をもつようになった。フランス人の間には民主主義的大革命が行なわれている。すべての人々はこれを見ている。けれどもすべての人々は、これを同じようには判断してはいない。ある人々は、これを新事実だと考えてはいるが、これを供然の事としてとり扱い、これをまだ防止できると思っている。これに反して、他の人々は、これが歴史のうちで知られているもののうちで、最も持続的な、最も古い、最も永続的な事実だと思われているために、これを拒否できないものと判断している。わたくしは、一瞬、七百年前(十二世紀初頭〕のフランスの状態を追想してみた。当時のフランスは土地を所有し、住民を支配している少数の諸家族の間に分配されていた。当時、命令権は世襲財産とともに世代から世代にうけつがれていった。人々は人々相互に他者を支配する唯一の手段として力をもっていたにすぎない。そこには、権力の唯一の源泉として土地財産があった。けれどもそこには聖職者の政治権力があって、これは根を張り拡がっていった。聖職者は、その地位をすべての人々に、すなわち、貧民にも富者にも、平民にも領主にも、開放していた。平等は、教会を通じて政府内に、はいりこみ始めた。そして永続的隷従状態で農奴として一生を送ったであろう人でも、貴族たちの間で司祭として地位を占め、しばしば玉の上座にも坐るようになっていった。その社会は時がたつにつれて、一層文明化していったが、また、一層安定化していった。そして「人々の間の種々な関係もより複雑により多くなっていった。私法の要求も強くなっていった。そのとき法学者たちが生れた。彼等は法廷のうす暗い部屋や書記課のほこりっぽい片隅から出ていって、宮廷でテンの毛皮や甲冑で身を装っていた封建君主たちのそばに席を占めるようになっていった。王たちは大きな試みに失敗して没落したし、貴族たちは私闘で力をすりへらしていったが、平民は商業で富裕になっていった。金力は国事にその力を及ぼし始めた。交易は権勢に達する新しい源泉であり、金融業者たちは侮られ、へつらわれる政治的権力となっていった。少しずつ知識はひろがっていった。文芸への趣味がよびさまされていった。そのとき、才智が成功の一要件となった。科学は政治手段であり、知性は社会力であり、有識者は仕事にありつけるようになった。しかし権力に達する新しい道が発見されてゆくにつれて、門閥の値打ちが低下していった。十一世紀には貴族は限り知れない価値をもっていた。十三世紀には貴族の地位は金で買えるようになった。平民からの最初の貴族への昇格は一二七〇年に起っている。そして平等が貴族自体によって、ついに政治の中にとりいれられた。
そして次に紹介されるのは民主制へ献身する君主制、平等へ献身する権威という逆説である。トクヴィルによれば、王の意志如何なるものであってもそれは民主主義の糧となる。それはいわば、民を愛するものであればその地位を然るべきものへと押しあげるし、民を圧するものであればその暴力が民衆へ主権の獲得を再起させるのである。
フランスでは「平等主義者たちのうちでは、玉は最も積極的で最も持久的であった。王は野心に富み強力であるときには、人民を貴族の水準にまで高めるように努力している。そして王は平凡で弱いときには、人民が自分の上位に立つことを認めている。ある王たちはその才能によっていまた他の主たちはその悪徳によって、それぞれ民主主義を助けている。ルイ十一世 〔王位1461-1483〕とルイ十四世〔王位1643-1715〕とは王位の下ですべての人々を平等化しようと努めたしミルイ十五世〔王位1715-1774〕は、ついには自ら宮廷とともに塵の中に没落していった。
そして近代、平等化にさらなる拍車がかかる。それこそが資本主義、進歩主義の登場、富と智の開放性、その華々しき勝利である。
封建的保有地の場合と異って、市民が土地を所有し始めたし、そして動産が知られるようになって、またこれが勢力をつくりだし権力を与えるものになった。それ以来、技術上の発見がなされたり、商工業上に一層多くの完成化がとりいれられたりすると、必ず人々の間に平等の多くの新しい要件のようなものがつくられていったのであった。このとき以来の発見されるすべての操作も、発生してくるすべての欲求も、満足さるべきすべての願望も、普遍的な平等化への前進なのである。侈欲も、闘争愛も、流行も、心の最も軽薄な情熱もその最深の熱情とともに、富者を貧しくし、貧者を富ますために協力しているようである。理知のはたらきが力と富との源泉となって以来、科学の発展も新知識も新考案も、すべては人民の手のとどく範囲にある権力の芽と考えられねばならない。詩藻も雄弁も記憶力も精神の優雅も想像のひらめきも思想の深さも供然に与えられたすべての天賦の才能も、民主主義に貢献するのである。そしてこれらのものが民主主義の反対者たちの手中にあるときでさえ、それらのものは人間の天性の偉大さを浮きぼりにすることによって、なお民主主義に役立っているのである。それ故に民主主義の支配は文明と知識との発展とともに拡大してゆくのである。そして文学は、弱者と貧民とが毎日そこに武器をさがしにゆく開かれている武器庫のようなものであった。フランスの歴史をひもといてみるとき、七百年以来、平等に貢献していない大事件というものはないのである。
そしてトクヴィルはこのことを「平等の漸進的発展が人類史の過去でもあり、将来でもある」とし、フランスに限らずキリスト教圏すべてに普遍的な出来事であるとする。トクヴィルは手前で進歩主義、資本主義の平等に対する貢献を論じたがここで明らかになるのは最後のアメリカヘゲモニー、神学の貢献である。
十字軍とイギリス人との百年戦争とは、貴族を衰えさせその土地を細分化させた。自由都市の制度は封建的王制のうちに民主的自由をひきいれた。火器の発見は戦場で平民と貴族とを平等化している。印刷術は平民と貴族との理知の平等な源泉を与えている。郵便は貧乏人の小屋の入口にも宮殿の門にも同じように文明の光を投げるようになっている。新教はすべての人々が平等に天の道をみつけうることを主張している。発見されたアメリカは、人間の運命に無数の進路を示し、無名の冒険者たちに富と権力とを与えている。(...)これらの五十年期の各々の未端には、社会状態に二重の革命が必ず起っていることが認められるのである。この二重の革命とは、貴族が社会的地位で低落し、平民の地位が高まっていることである。一方は低下し、他方は上昇している。半世紀ごとに貴族と平民とは接近し、まもなく接触しあうようになっている。(...)これはフランスに特有なことではない。われわれがどこかに眼を向けると、すべてのキリスト教世界に続行しているこの同じ革命がみつかるのである。どこでも諸民族の種々のできごとが民主主義に貢献している。すべての人々はその努力によって民主主義を助成している。民主主義の成功を企てている人々も、民主主義のために奮闘している人々も、民主主義の反対者であると宜言している人々でさえも、すべての人々は、同じ道になだれこんで押し進められている。そしてすべての人々は、あるいは自らの意志に反して、あるいは自覚なしに、神の手の中の盲目の道具として民主主義に向って協力しているのである。それ故に、地位の平等化への少しずつの発展は、神の携理による事実である。そしてそれは神の摂理がもっている主たる諸特性をあらわしている。すなわち、平等化への発展は普遍的であり、永続的であり、日々に人力を超えて進んでいる。すべてのできごとは、すべての人間と同様に平等への発展に貢献している。これほどに遠い昔から生じている社会的前進運動が、わずか一世代の努力によって中絶されうるとはとてもじられない。民主主義は、封建制度を破壊し、王を征服した後、ブルジョアと富者との前で後退すると考えられるであろうか。民主主義は、今やそれが非常に強くなり、その反対者たちが非常に弱くなっているときに、停止するなどということがあろうか。ところでわれわれはどこにゆこうとしているのであろうか。それを誰もいうことはできないであろう。なぜなら比較すべき諸条件は、すでにわれわれにはみつからなくなっているからである。すなわちキリスト教徒たちの間では、今やいかなる時代いかなる国にもかつては見出されなかったほどに、人々の境遇は平等になっているのである。このようにして、すでに成しとげられているものの偉大さは、これからつくられうるものを予想することを妨げている。本書全体に記されていることは、幾世紀この方すべての障害をこえて前進し、そして今日なお自らつくった廃墟の中を進んでいるこの不可抗的な革命に面して著者の心のうちに起された、一種の宗教的畏敬の感銘の下に書かれたのである。われわれが神の意志の確証を発見するためには、神自らが語ることは必要ではない。そのためには、自然の慣習的進行と人間のできごとの持続的傾向とが何であるかを吟味するだけで十分である。わたくしは、造物主が声をだして命じないでも、神の指がさし示している円周軌道を星が宇宙空間でたどっていることを知っている。永い間の観察とまじめな考察との結果として、平等の熱進的発展が人類史の過去でもあり、将来でもあることを、今日の人々が認識するようになるならば、この唯一の発見が神の意志の聖なる性格に基づくものであることが分かるであろう。そのとき民主主義を中止させようとすることは、神自身に反対して闘うことであろう。そして神の意志が諸国民に強要している平等な社会状態に順応すること以外に、諸国民にとってなすことは何もないのである。
冒頭にトクヴィルを再解釈し、三つの解放性を論じたが、このことは以下のように整理できる。近代において聖の解放性とはプロテスタントとして現れ、智の解放性とは進歩主義として現れ、富の解放性とは資本主義として現れたのだ。
当為論
キリスト教的諸民族は今や恐るべき様相をあらわしているように見える。彼等を熱狂させている平等化への前進運動は、すでにとても強くなっている。そのために、これをおしとどめることはできなくなっている。けれどもこの運動を制御することをあきらめねばならないほどにはかこの運動の速度はまだはやくなってはいない。つまるところ、彼等の運命は彼等自らの学中にある。けれども、まもなくその運命を彼等は制御できなくなるであろう。民主主義を教え、できればその信念をよみがえらせ、その風習を純化し、その運動を規制しいその未熟なものを政治学に、そしてその盲目的本能をその真の利益の認識に、少しずつとって代わらせ、その政治を時と所に順応させ、これを状況と人々に応じて変化させること、これらのことこそが、今や社会を導く人々に課せられている第一の義務である。全く新しい世界には新しい政治学が必要である。
このことは21世紀初頭にかつてない勝利を飾った平等主義と、その制御なき理念の暴走が現実の問題を放棄し、それに疲れ果てた国民によって衆愚的なバックラッシュが起きた全世界的な右傾化に予言的である。だからこそ我々は今一度トクヴィルに帰らなければならない。「全く新しい世界には新しい政治学が必要である」。
1837/12/26 妻宛書簡
ぼくは存在しない一つの絶対や完全を切望します