ノージック
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諸個人は権利を持っており、個人に対してどのような人や集団も、〔個人の権利を侵害することなしには〕行い得ないことがある。この権利は強力かつ広範なものであって、それは、国家とその官史たちがなしうることはなにか~という問題を提起する。
国家についての本書の主な結論は次の諸点にある。暴力・盗み・詐欺からの保護、契約の執行などに限定される最小国家は正当とみなされる。それ以上の拡張国家はすべて、特定のことを行うよう強制されないという人々の権利を侵害し、不当であるとみなされる。
批判:マイノリティや弱者からなるユートピアが自然選択されて行き、むしろ一元的な均質性に収斂していくのでは??
経験機械という思考実験
あなたが望むどんな経験でも与えてくれるような、経験機械があると仮定してみよう。超詐術師の神経心理学者たちがあなたの脳を刺激して、偉大な小説を書いている、友人をつくっている、興味深い本を読んでいるなどとあなたが考えたり感じたりするようにさせることができるとしよう。その間中ずっとあなたは、脳に電極を取りつけられたまま、タンクの中で漂っている。あなたの人生の様々な経験を予めプログラムした上で、あなたはこの機械に一生繋がれているだろうか。 こうした仮説を置くことによって「人々にとって経験以外に何が重要なのかの問題が孕む複雑さ」を理解できるであろうとする。
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ユートピア論
メタ・ユートピアの地平
まずノージックは「私が想像することのできるすべての世界の中で、最も私が住みたいと思う世界は、あなたなら選ぶであろう世界と厳密に同じものではないだろう」として、いかに「我々すべてにとって最善、我々各人にとって想像できる最善の世界」をつくるか、そうした多元的ユートピア像を描き出す。別箇所でも「ユートピアにおいては、一種類の社会が存在し一種類の生が営まれることはないだろう、というものである。ユートピアは、複数のユートピアから、つまり人々が異なる制度の下で、異なる生を送る多数の異なった多様なコミュニティーからなっているだろう」としている。そこで「複数の可能的世界」というモデルを描くべくまず自身が「そこに住むべきある可能的世界を想像して」ほしい、とする。 この世界は、現在生きている他の人々全員を含む必要はないし、実際に生きたことのない者達を含んでもかまわない。あなたの想像したこの世界にいるすべての理性的動物は、彼が生きるある可能的世界を想像するための、あなたと同じ権利をもつであろう。
つまりあらゆる「理性的動物」もこうした可能的世界の想像が可能なのであり、それゆえ「あなたの想像した世界の他の住人達は、彼らのために創出された世界に留まることを選ぶかも知れないし、それから去って自分自身の想像する世界に住むことを選ぶかも知れない」権利が生まれるのだ。
もし彼らが、あなたの世界から去って、別の世界に住むことを選ぶなら、あなたの世界は彼らぬきの世界になる。あなたは、今やそこへの移民達がいなくなったあなたの想像世界を、捨てるかも知れない。この手続きは、さらに続いてゆく。複数の世界が創出され、人々はそれから去り、新たな多くの世界を創出する、等々である。
そして「もしこの手続きが、最後にいくつかの安定的世界に至るとすれば、それらの世界の各々は、どのような興味深い一般的条件を充足するだろうか」として、以下のように述べる。
もし安定的な世界がいくつかあるなら、その各々は、その世界が設定された当の方法のお蔭で、一つの非常に望ましい記述を満足することになる。つまり、その世界の住人の誰も、自分がむしろそちらに住みたいと思うようなこれに代わる世界―ただし、その理性的住人達がすべて同じ想像と移住の権利をもっていても存続する(とこれを想像する者が信じる)ようなもの―を想像することができない、のである。
そしてこうした「すべての理性的住人が自分の想像することのできるどんな他の世界(そこでもすべての理性的住人が自分の想像することのできるどんな他の世界へと去ってもよく、そしてその世界でも...)へと去ってもよいような世界を、教会(an addociation)と呼ぶことにしよう」とする。そして以下より安定的な世界を安定的教会と読み替える。
そのような安定的協会〜あなたは、自分が他のすべての理性的住人達を搾取する絶対君主になるような協会を設立することはできない。なぜなら他の者達は、あなたのいない協会にいる方がよりよい立場にあるので、最低限のところでも、彼らはすべて、あなたの創出したところに住むよりはむしろ、あなたを除いた他の者すべてを含むその世界に住むことを選ぶだろう。
続いてこうしたモデルを現実世界に対応させようと試みる。
現実の我々の世界では、複数の可能的世界というモデルに対応するものは、人々が、もし受け入れるなら加入し、出て行きたければそうし、願望に応じて形を作る、ことができる、広範で多様な複数の共同体であり、それはユートピアの実験を試みることができ、色々異なった生活スタイルを取ることができ、代替的な様々な善の考え方を個人的または集団的に追求することができる社会、である。
なぜなら彼は「全員が住むべき最善の社会が一つある、という考えは、私には信じられないもの」であるとするからだ。「誰も、たとえば、シェイクスピア、トルストイ、オースティン、ラブレー、ドストエフスキー、の作品をもう一度読み直して、いかに人々が異なっているかを思い出して」ほしいという。だから彼は「ユートピアにおいては、一種類の社会が存在し一種類の生が営まれることはないだろう、というものである。ユートピアは、複数のユートピアから、つまり人々が異なる制度の下で、異なる生を送る多数の異なった多様なコミュニティーからなっているだろう」と結論づけるのだ。 一部の種類のコミュニティーは、ほとんどの人々にとって、他の種類のものよりも魅力的であろう。コミュニティーには盛衰があるだろう。人々はあるものから別のものへと移ったり、一つの中で一生を送ったりするだろう。ユートピアは、複数のユートピアのための枠であって、そこで人々は自由に随意的に結合して理想的コミュニティーの中で自分自身の善き生のヴィジョンを追求しそれを実現しようとするが、そこでは誰も自分のユートピアのヴィジョンを他人に押し付けることはできない、そういう場所なのである。私が主張したいと思う真理の半分は、ユートピアはメタ・ユートピアだという点にある。それは、複数のユートピア実験が試されうる環境であり、人々が自由に自分の〔考えた〕ことができる環境であり、もしもっと具体的なユートピアのヴィジョンが安定的な形で実現されるとすれば、最初にまずかなりの程度に実現されねばならない環境なのである。 誰かの一生を通じたすべての幸福をグラフに表すことにしよう。〔得られる〕幸福の量を垂直軸に、時間を水平軸にとる。~もしもただ幸福の総量だけが重要なのであれば、恒常的に増大する幸福と恒常的に減少する幸福、つまり上昇曲線と下降曲線との違いについて、その幸福の総量、すなわちその曲線の面積の全面積が二つの事例で同一であった場合には、私たちは関心を抱かないことになるだろう。けれども私たちのほとんどは上昇曲線の方を下降曲線よりも好むだろう。つまり、幸福の減少する生よりも増大する生を好むのである。