バーリン
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決定論の非受容状態の理由と見解
彼は、われわれは決定論が正しいかのように話したり考えたりしてはいない―(本文から引用すると)「わたくしはここで、なにも決定論が必然的に誤っていると言おうとするのではない。ただわれわれは、それが真理でありうるかの如くには話もしないし、考えもしないということ」―ということを主張する。例えば、自由への信仰が幻想であるとしても、自由はとても根深く、広く浸透しているため、それが幻想だとは感じられない。言い換えれば、自由(あるいは選択、責任)の観念はわれわれの考え方にとても深く埋め込まれているから、その観念をまったく欠いた世界の人間としての自分たちの生活など、われわれにはまったく理解できない。とすると、われわれが単に理論においてのみならず、実践においても、自分たちの思考法や話し方を変えないかぎり、決定論の仮説は空虚なままにとどまる。すなわち、われわれが思考や言語を決定論の仮説に適合させようと本気で試みることは、今日においても、記録された歴史においても、ほとんど実行不可能なことがらなのであると論ずるのだ(引用)。そこでまずラプラスの悪魔の契機から論じる。 そして人間の意思決定のレイヤーから論じる。
そして下記のように結論づける