ドーキンス
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文化の伝播は遺伝子の伝播と同じようなものである。~われわれには新たな自己複製子の名前が―文化の伝播の単位、あるいは模倣の単位という考えを伝える名詞が――必要である。〔そこで、ギリシャ語に由来する言葉として、ジーン(gene 遺伝子)と同じ単音節の「ミーム」(meme)を導入する。~遺伝子が精子や卵子を移ることによって遺伝子プールの中で増殖していくように、ミームは広い意味で模倣と呼ぶことのできる過程を通して脳から脳へと移ることによって、ミームプールの中で増殖していく。科学者は、いい考えを聞いたり読んだりしたら、それを自分の同僚や学生に伝える。彼は自分の論文や講義でそれに言及する。もしその考えが流行ったら、その考えは増殖し、脳から脳へと広がっているのだと言っていいであろう。 https://scrapbox.io/files/657d743bf0db8d00232aaff2.png
ドーキンスの正義
本書ではそれ以前より明確に、神仮説(God Hypothesis)を論破し、宗教は危険なものであると主張している。本書における宗教批判の具体的対象は「人格をもつ神の概念が中心的教義となっているすべての宗教」である。ドーキンスの言う有神論者(theist)とは、「そもそもこの宇宙を創造するという主要な仕事に加えて、自分の最初の創造物のその後の運命をいまだに監視し、影響を及ぼしているような超自然的知性の存在を信じている」人たちであり、理神論者(deist)とは、同様に超自然的な知性を信じているが、「その活動はそもそも最初に宇宙を支配する法則を設定することに限定される」と考えている人たちである。また、ドーキンスは基本的にそれらの宗教が「神仮説」を前提としていると考える。「神仮説」とは、以下である。 宇宙と人間を含めてその内部にあるすべてのものを意識的に設計し、創造した超人間的、超自然的な知性が存在するという仮説
それらに対し、批判の対象とならない汎神論者(pantheist)は、「超自然的な神をまったく信じないが、神という単語を、超自然的なものではない〈自然〉、あるいは宇宙、あるいは宇宙の仕組みを支配する法則性の同義語として使う」人たちを指す。これはコッターの〈自然〉に相当し、また、本章第7節で見る「自然についてのスピリチュアリティ」の発露とも言えるだろう。そしてアインシュタインやホーキングもその立場であると示し、それは「アインシュタイン的宗教とでも呼べるもの」であるが、「アルバート・アインシュタインと私たちの多くが共有する汎神論的な崇敬の念に「宗教」というラベルを張りたがる」ことには批判的である。 ドーキンス 超自然的な神だけを妄想と呼んでいる〜それは有害な妄想なのだ〜私は特定の神や女神を攻撃しようとしているのではない。私は神というものを、すべての神を、これまでどこでいつ発案された、あるいはこれから発案されるどんなものであれ、超自然的なものすべてを攻撃しているのである
ドーキンスの要点は、「宗教的な信仰は、攻撃されると非常に傷つきやすいので、どんな人間であれすべての他人に対して払うべき敬意に加えて、異常なほど厚い敬意によって、護ってやらなければならないという前提」があるが、宗教を金科玉条のごとく掲げるこのやり方をなくすべきだというものである。「私は要らぬ侮辱をするつもりはないが、宗教を扱うのに、ほかの事柄よりも手控えた扱いをして甘やかすつもりはない」というのである。
宗教上の信念は、それが宗教上の信念であるというだけの理由で尊重されなければならないという原則を受け入れているかぎり、私たちはオサマ・ビン・ラディンや自爆テロ犯が抱いている信念を尊重しないわけにはいかない。ではどうすればいいのか、といえば、こうして力説する必要もないほど自明なことだが、宗教上の信念というものをフリーパスで尊重するという原則を放棄することである。それこそが、私がもてるかぎりの力をつくして、いわゆる「過激主義的な」信仰に対してだけでなく、信仰そのものに対して人々に警告を発する理由の一つなのである。「中庸な」宗教の教えは、それ自身には過激なところはなくとも、門を開けて過激主義を差し招いているのである。 穏健で中庸的な宗教でさえ、過激主義が自然にはびこるような信仰風土をつくりあげるのに手を貸している〜宗教上の過激主義を責める―あたかも、それが、本物のまっとうな宗教が堕落してできたおぞましい変種でもあるかのように―のではなく、宗教そのものを非難すべきだ
特に超自然的に見えるものについても、いずれは理解し自然として受け入れられるというのである。そして、超自然的な宗教に対し、「何かを設計できるだけの十分な複雑さを備えたいかなる創造的知性も、長期にわたる漸進的進化の単なる最終産物にすぎない」という進化論の立場からの代案を提唱し、自然淘汰による進化という理論が、意識を高める究極的な道具であるとする。
ダーウィン流の進化、とりわけ自然淘汰は、天文学や地質学以上の力をもっており、「生物学において設計者デザイナーの存在という錯覚を粉砕し、物理学や宇宙論においてもいかなる種類の設計デザイン仮説にも疑いの目を向けるよう、私たちを導いてくれるのだ」というのである。 社会における無神論者の地位を高めることも、意識向上の一環と言えるだろう。ドーキンスは、現代のアメリカの無神論者たちが、「嫌がらせ、失職、家族による忌避、さらには殺人といったことまで含む」、偏見や差別を受けていること、カミングアウトを躊躇うことに触れる
私の夢は、そういう人々がカミングアウトする後押しを本書がしてくれることだ。ゲイ運動のときとまったく同じように、多くの人間がカミングアウトをすればするほど、他の人間はそれに加わりやすくなる〜アメリカの無神論者たちが孤立しているというのは、ひたすら偏見によって培われた錯覚にほかならない。アメリカにおける無神論者の数は、ほとんどの人が思っているよりもはるかに膨大だ」
このことに関連して、ドーキンスは理性と科学のためのドーキンス財団(Richard Dawkins Foundation for Reason and Science)を運営しており、宗教的でない人が宗教的でないとカミングアウトするよう勧め、無神論者であることはおかしなことや恐ろしいことではない、無神論者もまた良い人々だということを啓蒙する「アウト・キャンペーン(OUT campaign)」や、ロンドンの「無神論のバス・キャンペーン(Atheist Bus Campaign)」などを支持した。さらに、ダニエル・デネットとともに、自然主義的な世界観をもつ人々を “Brights” と呼ぶブライト運動にも参加している。 そして同書は「人類が理解の限界を押し広げようとしている時代に生きていることに、私は興奮を覚える。もっとうまくいけば、そこには限界などないのだと、いつかは知ることができるかもしれない」と書いて締め括られている。
神の起源と害悪性
ドーキンスは神仮説を論破することを目指している。神の存在証明についてドーキンスは、「何についても、あるものや事柄が存在しないと決定的な形で証明するのは不可能なことを考えれば、神の非在を証明できなくてもいいわけだし、それは瑣末なことでもある。問題は、神が反証可能(神が存在しない)かどうかではなく、神の存在がありえるかどうか(蓋然性)なのである。問題がまったく別物なのだ。ある種の反証不能な事柄は、他の反証不能な事柄よりもはるかにありえないと、分別によって判定される。蓋然性のスペクトラムに沿って考えるという原則から神だけを除外するべき理由はどこにもない」という立場を採る。そこで、バートランド・ラッセルの天空のティーポットの喩えを挙げ、「地球と火星の間に観察できないほど小さなティーポットがある」という主張は科学的に反証不可能であるが、だからといってそれを信じることはナンセンスだろうと言う 厳密に言えば、私たちはみなティーポット不可知論者でなければならない。天空のティーポットが存在しないことを、確実に証明することはできないのだ。なのに、実際問題として、私たちはティーポット不可知論を捨て無ティーポット論をとるのである」
天空のティーポットを信じる人とは比べものにならない数の、世界中の人々が神の存在を信じているからと言って、論理的な立証責任を負うのがそれを批判する側になることはない
そこでドーキンスは、宗教を進化の産物と見る理論について検討している。「自然淘汰の及ぼすいかなる圧力(それは一つとは限らない)が、そもそも宗教への衝動を進化させたのかを問うべきである」とし、進化の産物、とりわけ副産物として宗教を捉え、「ダーウィン主義にもとづく究極因的説明」を目指すのである。例えば、ロウソクの炎に飛び込むガの神経系は、普段は月や星の光に導かれる、役に立つコンパスとしての機能をもっているが、それが人工的な光に導かれると誤作動となり、炎に飛び込んでしまう。それと同様に、「宗教的な行動は、別の状況では有益な、あるいはかつては有益だった、私たちの心理の奥底にある性向の誤作動、不幸な副産物なのかもしれない」ドーキンスはさらに「私はむしろ、宗教はそういった傾向の多岐にわたる、いくつもの副産物と言いたい」とする。
宗教が偶然得られた副産物―何か有用なものが誤作動した結果―だという、あくまで一般的な理論を推奨したいと思う。議論の詳細に眼をやれば、そこは多様かつ複雑で、議論の余地もある。だが当面は、「副産物」説の代表として、私の「騙されやすい子供」説を使いつづけることにしたい
「騙されやすい子供」説とは、まず、「大人の言うことは疑問をもたずに信じよ」という経験則があり、それは子どもにとって一般的には有益で淘汰上の利益があるということである。「疑いをもたず服従する」という行動には生存上の価値がある。また、幸運が果たす役割もあることを人間原理から論じる。私たちが、私たちのような種類の生物に好都合な惑星に生きているのはなぜなのか、という理由について、ドーキンスは自然淘汰と人間原理の二つを挙げる。私たちはこの惑星の条件下で繁栄するよう進化してきた。一方、人間原理とは下記である。
宇宙には何十億という惑星が存在し、進化を可能にするような少数派の惑星の数がどんなに少なかろうが、わが地球は必然的にそうした惑星の一つでなければならないのである
しかし、人間原理はあくまで自然淘汰の考えを助けるものと考えているようである。つまり、ドーキンスは、生命の起源―あるいは真核細胞の出現や意識の芽生え―という一回限りの出来事については人間原理を適用でき、それは数多の惑星のうち地球で起こった幸運だったと言うことができるとする。しかし、「地球上の複雑な生命の豊かな多様性」を説明するのには、それとは別に、自然淘汰が必要になると考えるのである。 つまり、例えばもし脳に「神中枢」があるとしたら、「神中枢を発展させる遺伝的傾向をもつ私たちの祖先が、そうでないライヴァルに比べてなぜ、生きのびてより多くの孫をもつようになったのであろうか?」ということを問う。脳は専門的なデータ処理に対処するモジュールの集合であり、宗教はいくつかのモジュールが誤作動したことの副産物とみなせるとも述べている。しかし、そのような人間は、心のウイルスに感染しやすく、正しい忠告と悪い忠告を区別する方法をもたないことになる。つまり、世界や道徳にかんするものも含め、さまざまな悪い忠告―ドーキンスが考える非合理的で宗教的な忠告―も信用してしまう。そしてそれをそのまま子どもに伝える可能性が高いため、迷信やその他の事実に基づかない信仰がダーウィン流の淘汰に似た過程によって進化するだろうという予測が立てられるというのである。
ここで、ミームという用語を造った当人であるドーキンスは、宗教はミームであるとし、「遺伝子のように真の自己複製子として振る舞う単位が、文化における模倣という現象についても存在するかどうか」を検討している。
一つの宗教の進化の初期段階、まだ組織化される前には、いくつかの単純なミームが、人間の心理に対してもつ普遍的な魅力のおかげで生き残る。ここは、宗教のミーム説と、宗教が心理学的な副産物とする説が重なり合うところである。後期になり、宗教が組織化され、他の宗教と洗練された恣意的なちがいをもつようになると、ミーム複合体―相互に適合性のあるミームのカルテル―の理論で非常にうまく扱うことができる。これは、司祭その他による意識的な操作が果たす付加的な役割を排除するものではない
また、「騙されやすい子供」説は〈教育〉の問題にもかかわる。ドーキンスは、子どもに親の宗教を教え込むこと、その宗教の子どもであると言うことを児童虐待の一種と考えている。ドーキンスは、「小さな子供がいずれかの特定の宗教に属しているというラベルを貼られているのを耳にしたときに、私たちの誰もが顔をしかめるようであるべきだと、私は思うのだ。小さな子供は、宇宙や、生命や、道徳の起源について自分の意見を決めるのにはまだあまりにも幼すぎる」とし、「〜教徒の親をもつ子供」という表現を推奨する。それにより、子どもが「宗教とは、大人になって物事を自分で決められるようになったときに自分で選べる―あるいは拒絶できる―ものだと気づくだろう」とも言う。
さらに、文学的教養の一部として、聖書やギリシア・ローマの神々にかんする伝説を―信じることなく―学ぶことは重要であるとする。同様に、「アラビア語やヒンドゥー語をしゃべる人々にとっては、『コーラン』や『バガヴァド・ギータ』もまたおそらく、彼らの文学的遺産の完全な評価のためには不可欠だろう」といったように、他の文化圏についても言及している。 だからこそ無神論はいくらかましと論じるのだ。
私はかならずしも、無神論が道徳性を高めると主張しているわけではないが、ヒューマニズム―しばしば無神論にともなう倫理体系―は、たぶん高まるだろう。もう一つありそうな可能性は、無神論が何か第三の要因、たとえば高等教育、知性、あるいは思慮深さといったものと相関していて、それが犯罪衝動を抑えるようにはたらくかもしれない。この件に関して現在ある調査にもとづく証拠をみるかぎり、宗教と道徳観の高さが正の相関をもつという、世間一般の見方はまちがいなく支持されない