マッキンタイア
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アリストテレスへ還れ
啓蒙主義から現在までの哲学的立場を道徳的不一致を齎すとほぼ全面的に否定。 啓蒙主義とは人間の本性に関する目的論的見解、つまり人間の本質が理性によって真の目的を規定できる事にあるという見解を否定し、目的や伝統を失った個人は自分自身の領域で主権を獲得する。
しかしそれはすべての道徳的判断を自らの態度や感情の表現とする情緒主義をもたらす。この点では合理主義もニーチェ主義もリベラリズムも同義である。 このような近代以後の哲学的傾向に対して、マッキンタイアはアリストテレスの倫理・政治理論の伝統を擁護する。 それは外的な金銭、名誉、快楽のようなゼロサムを廃し、内的な共通善を追求する徳を所有することであり、偶然そうであるところの人間本性から自らの目的を実現したならば可能となるところの人間本性へと向かう目的論的なもの。 このような人間観は最大多数の最大幸福と異なり、多様な多元性を承認しえる。これは価値中立性を唱えるリベラルな個人主義には不可能である。彼らは共通の事業として政治的コミュニティを考えられず、コミュニティとは各人が選択した善き生の構想を追求するための闘技場に過ぎない /icons/白.icon
物語的存在としての現存在
個々の人生の統一性は何に存するか〜答えは「その統一性は単一の人生において具体化された物語がもつ統一性である」
上記が下記でまとめている要項の解である。だからこそ「「私にとっての善とは何か」を問うことは、私がその統一性を生き抜き、完成させるには、どうするのが最善か、を問うことことである」として下記のように述べる。
人間の生の統一性は、物語的な探求(narrative quest)の統一性である。探求はときに、失敗し、挫折し、また放棄されたり、気晴らしへと散逸したりする。人間の生はこれらすべての仕方で失敗することもある。しかし、全体としての人生が成功したか失敗したかの唯一の基準は、物語られたあるいは物語られるべき探求の成功、失敗という基準である。
文脈(=物語)として位置づけられる自己
「自己性についての概念」を下記のように述べる
物語のもつ統一性のうちにその統一性が存在するような自己の概念であり、その物語は、誕生−生−死を〈物語の始め−中間−終わり〉として連結させるのである。
そして「そうした自己についての考え方はおそらく、一見して思われるほど馴染みのないものではない」が、だからこそ「私たちがすっかり当然だとしているが明らかにただしい概念的洞察のいくつかを精査するところから始めて、物語の様式で自己について考えることがいかに自然であるかを示す道が考えられる」とする。そこで「私たちは意図から独立に行動を特徴づけることはできないし、逆に意図を特徴づけるのに、それらの意図を行為者自身と他者の双方に対して理解可能なものにする舞台から独立に行うことはできないのだ」として、まず「舞台」の概念を導入する。
私はここで「舞台」(setting)という言葉をかなり包括的な用語として使っている。社会的舞台とは、制度であったり、私が実践と呼んだものであったり、何か他の人間的な環境であったりする。ただ、私がこれから理解していく〈舞台〉という観念に中心的なことは、舞台が歴史をもつことである。その歴史とは、内部で個々の行為者が歴史がたんに位置づけられているだけでなく、位置づけられるべきものである。その理由はまさに、時間の中で変化する舞台がなければ、行為者個人の歴史と時間の中での彼の変化とが理解不可能になるだろうということにある。もちろん、同一の行動が一つ以上の舞台に属するということはある。
そしてここで「行為者の意図とそれゆえ行為者が立ち回っている舞台とに関係づけようとするならば、行為者の行動についての多様でそれぞれただしい性格づけがどのように互いに関連し合っているかを、性格に理解する必要がある」とし、下記のように説明する。
その行動が適切に性格づけられるのは、言挙げされた長期および最長期の意図が何であり、短期の意図がどのように長期の意図に関係づけられているかを知る場合だけである。ここでもまた私たちは、一つの物語的な歴史(a narrative history)を書くことに巻き込まれている。〜特定の行為を同定するのは、明白にでなければ暗黙に、もっぱら二種類の文脈に訴えることによってである。〜因果的・時間的な順序で位置づけ〜属する(諸)舞台の歴史において〜位置づけ〜このようにして、行為者の意図が一つないし複数の方向でもつ因果的効果を決定することで〜私たち自身がこれらの歴史の続きの部分を著しているのである。こうして、ある種の物語的な歴史が、人間の行為を性格づけるのに基本的かつ本質的ジャンルであることが判明する。
則、諸舞台の歴史と因果的・時間的なものの複合体によって意図或いは行為が決定されるという物語性である。
文脈(=物語)による理解可能性
〈理解可能性〉という概念が重要なのは、それがこの領域での私たちの言説と実戦に埋め込まれたものすべての中でもっとも基礎的な区別とは人間存在と他の存在との区別である、という事実に密接に関係しているからである。人間存在は、自分がし始めたことについて申し開きできるものだと見なせるが、他の存在はそのようには見なせない。ある出来事を行為として同定するとは、典型的な事例にあっては、その出来事を、人間の行為者の意図、動機、情念、目的から理解可能な仕方で流れ出るものとして見ることができるようなタイプの記述のもとで同定することなのである。したがって、その同定は、行為を誰かが申し開きできるアカウンタブル何かとして理解することであり、それについては行為者に理解可能な申し開きを求めることが常にふさわしいのである。それに対して、ある出来事が一見すると人間の行為者の意図的な行為であるのに、それを今のように同定できない時には、私たちは知的にも実践的にも戸惑ってしまう。そのように応答すべきかわからず、どのように説明すべきかもわからないからだ。 そこでマッキンタイアはバスの比喩を出すとともに、理解可能な同定の相互行為を明らかにし、それは「ある物語の中に定位されることで理解可能になる」という。ただ「物語を補うことはそうした行為を理解可能にするために必要なことではない、と応答されるかもしれない」として、下記反論に至る。 例えば〜「私は質問に答えていました」と言ったとしよう。私が「でも私は今のが答えになるような質問など一切していませんよ」と応じると、彼は「ああ、それは分かってますよ」と言うとする。そうすると再び彼の行為は理解不可能になる。また〈ある行為が認知されたタイプの目的に役立つと言う事実だけでは、その行為を理解可能にするために十分ではない〉ということを明らかにする、それと並行した例を作りあげるのは容易なことであろう。目的も発話行為もともに文脈を必要とするのである。 そしてその最たる日常的なタイプとして「会話」を挙げ、その物語的性質を明らかにする。
私たちは、文学的叙述に対してと同じく、会話をいろいろなジャンルに割り当てる。たしかに会話はきわめて短いものではあっても劇的作品なのであり、その参加者たちは俳優であるだけでなく、その共同脚本家でもある。荘子て彼らは意見を同じくしたり異にしたりして、自分たちの作品の様式を決めていくのだ。〜会話には文学作品と同じく、始めと中間と終わりがある〜会話では逆戻りや念を押すことが具体的に述べられるし、それは話の山場に向けて進行し、次にそこから離れていく。長めの会話には脱線や副筋が、そして実に脱線の中に脱線が、副筋の中に副筋があることが考えられる。
そして「以上のことが会話について言えるなら」チェスや戦争や哲学の演習など、あらゆる「人間の相互行為(human transaction)一般についても言える」とする。それは「会話とは広く理解すれば人間の相互行為一般の形態をとるからである」。こうして下記結論に至る。
私はこうして、特殊的には会話、一般的には人間の相互行為という両者を、演じられた物語(enacted narratives)として提示しているのだ。〜バーバラ・ハーディは、「私たちは物語の形で夢や白昼夢を見、物語によって記憶し、予期し、希望し、絶望し、信じ、疑う。また、物語によって計画し、修正し、批判し、組み立て、噂話をし、学び、憎み、愛する」と書いたが、それは同じ点を論じてのことであった。 ここで簡単な主張のまとめをしてくれている。以下である。
この章の始めで私が論じたのは、ある人の行いを首尾よく同定し理解しているときには、私たちは常に、特定の挿話を一揃いの物語的な歴史という文脈に位置付けているという点であった。その歴史とは、当の個人のそれと、個人,の行為と受苦の舞台のそれという両方の歴史である。さて、今明らかになっている点とは、他者の行為がこの仕方で理解可能とされるのは、行為自体が基本的には歴史的な性格をもっているからだという点である。物語という形態が他者の好意を理解するのにふさわしいのは、私たちすべてが自分の人生で物語を生きているからであり、その生きている物語を基にして自分自身の人生を理解するからである。物語は、虚構の場合を除けば、語られる前に生きられているのだ。
ミンクの批判的見解と回答
ルイス・O・ミンクは、バーバラ・ハーディの見解に文句をつけて、次のように主張した。「物語は生きられるのではなくて語られるものだ。人生には始め、中間、終わりはない。出会いはあるが、ある事件の始まりは、私たちが後に自分に語る物語に属することである。そして別れもあるが、最後の別れは物語の中にしかない。希望、計画、戦争、思想もあるが、回顧的な物語の中で初めて、希望は成就されなかったものになり、計画は遂行されず、戦争は決定的なものとなり、思想は種子の状態であったということになるのだ。物語の中でのみコロンブスが発見したのはアメリカであり、物語の中でのみ王国は一本の釘の不足から滅びることになる」と。
始まり、中間、終わりについて
たしかに、希望が成就されなかったとか戦争が決定的だったとして性格づけられるのは、回顧的に見た場合でしかない、という点には同意しなければならない。しかし、私たちは文芸の中でと同じく人生の中でもそうした性格づけをしている。そして、人生の中には終わりはないと言ったり、最後の別れは物語の中でしか起こらないと言ったりする人には、「でもあなたは死について一度も聞いたことがないのですか」と応答したくなる。
下記のように続ける。
アンドロマケーが成就されざる希望と最後の別れを現に嘆くまでは、ホメロスにはヘクトールの話を物語る必要などない。そして、ホメロスの同名の主人公たちの人生形態を具現しながら、どんな詩人の注目の的にもついにならなかった、数え切れないヘクトールたちやアンドロマケーたちが存在するのだ。言えることは、ある出来事を始めあるいは終わりと解することで、私たちはその出来事に論争を招くかもしれない意義を付与するのだということである。ローマの共和制が終わったのは、ジュリアス・シーザーの死でもってか、それともピリピの戦いでか、あるいは元首政の創設でか? 答えはたしかに、チャールズ二世のように、ローマの共和制は長い間死の過程にあったというものだが、この答えはやはり、先の三つの候補と同じく、共和制の終わりという現実を含意している。だから決定的な意味において、アウグストゥスの元首政の始まり、あるいはテニスコートの誓い、ロス・アラモスでの原爆製造の決定が始まりを構成し、紀元前404年の平和、スコットランド議会の廃止、ワーテルローの戦い、が同じく決定的な意味で終わりを構成しているのだ。また終わりと始まり両方の意味をもつ出来事も多く存在する。
類型(=ジャンル)
そこで「トマス・ベケットの人生はどの類型に属するかという問い」を事例にして考察する。
この問いは、彼の人生が著わされるべき仕方を決める前に、問われ答えられるべき問いである。(ミンクの逆説的な見解ではこの問いは、その人生が書かれた後にならなければ問われえないことになる。)いくつかの中世の書き物では、トマスの生涯は中世の聖人伝の規準に基づいて著わされている。アイスランドの『トマス・サガ』では、サガの英雄として語られている。ドム・デイヴィド・ノールズの現代の伝記では、物語は悲劇になっていて、トマスとヘンリー二世という、それぞれが〈英雄は致命的な欠点をもった偉大な人間である〉とのアリストテレスの要求を満たす人物の間の悲劇的関係が描かれている。そこで、「いるとすればどの著者が正しいのか」という問いには明らかに意味がある。カンタベリーのウィリアムという修道僧か、サガの作者か、ケンブリッジの欽定講座の名誉教授か? 答えは明らかに最後の人物であると思われる。その人生が属する真の類型は聖人伝でもサガでもなく、悲劇だからである。 そして下記のように結論づける。つまり、大いなる〈理解可能性〉という地平で説明できるのだ。
同じように、トロツキーの人生とかレーニンの人生のような近代の物語の主題について、またソヴィェト共産党の歴史とかアメリカの大統領制の歴史についても、「それらの歴史はどの類型に属するのか」と問うことが許されるだろう。そしてこの問いは、「それらの歴史についてのどんなタイプの説明が、真実であり理解可能であるのか」と同一の問いなのである。 埋め込み
またさらに、一つの物語がいかにして別の物語の中に埋め込まれるかを考察してみよう。芝居にも小説にも有名な例がいくつかある。『ハムレット』での劇中劇、『レッドガウントレット』での遍歴者ウィリーの話、『エーネアス』第二巻でのエーネアスがディドにする物語などである。しかるに、実人生においても、同じように有名な例がいくつか存在する。再度ベケットを取り上げるが、彼の大司教と大法官としての生涯がヘンリー二世の治世の中に埋め込まれたことを考えてみよう。あるいは、メアリー・ステュワートの悲劇的人生がエリザベス一世の人生の中に、また南部同盟の歴史が合衆国の歴史の中に埋め込まれたことを考えてみよう。 そして下記のように続ける。
人は、自分が同時に複数の物語―あるものが別のものの中に埋め込まれているようなーの中の登場人物であることを発見するだろう。(それとも発見しないかもしれない。)あるいは、自分がその中で役割を演じていた理解可能だと思われていた物語が、その全体または部分が理解不可能な挿話からなる話へと変形させられることも起こるかもしれない。この最後のケースは、『審判』と『城』の二つでカフカの登場人物Kに起こったことである。(カフカが自分の小説に終止符を打てなかったのは、なんら偶然ではない。〈終了する〉という観念は〈始める〉という観念と同じく、理解可能な物語を基にしてのみ意味をもつからだ。) 則、他者を自己の物語に埋め込み、他者の物語に自己を埋め込まれているのが、行為者の相互作用なのである。
私は先に行為者のことを、俳優としてだけでなく脚本家としても語ったが、いま強調しなければならないのは、行為者が俳優として理解可能な仕方で行い言うことのできる内容は、私たちが自分たち自身の物語の共同脚本家以上の者では決してない(ときにはそれ以下の者である)という事実に深く影響されているということである。幻想の中でのみ私たちは好むがままの物語を生きるのであって、人生においては、アリストテレスとエンゲルスがともに注目したように、常にいくつかの束縛のもとで生きている。私たちは自分が企画したわけではない舞台に立たされ、自分の作ではない演技を受け持たされていることに気づく。それぞれが自分自身のドラマでは主な登場人物でありながら、他の人たちのドラマでは脇役を演じている。こうして各々のドラマは他のドラマを束縛する。私のドラマでは、おそらく、私がハムレットかイアゴー、少なくとも王子になるかもしれない豚飼いなのだが、あなたにとっては、私は単なる〈一紳士〉あるいはせいぜいのところ〈第二の刺客〉でしかない。ところであなたのほうは、私からみればポロニウスか〈墓掘人〉の役であろうが、あなた自身からみれば英雄の役なのである。このように、私たちのドラマのそれぞれが互いのドラマに制約を課し、その全体を諸部分とは異なったものに仕上げるのだが、それがドラマであることに依然変わりはない。 サルトルの批判的見解と回答―物語的存在(人間)としての束縛と予測不可能性と目的論的性格、ひいては「本質的に物語を語る動物」であること
: 次にサルトルの批判的見解の紹介と回答を行う。まず前提として「行為」と「物語」を節合する「理解可能性」概念は、行為自体を二次的なものにすると同時に誤解可能性という性格を明らかにする。そして上記にあわせて歴史概念との結びつきを論じる。
〈理解可能性〉という観念を〈行為〉の観念と〈物語〉の観念とを結びつける概念上の連結点にすることには、以上のような複雑な考察が含まれている。その〈理解可能性〉という観念の重要性がいったん理解されれば、〈行為〉の概念は〈理解可能な行為〉という概念に対して二次的であるという主張は、おそらくそれほど奇異には思われないだろうし、また今〈「一つの」行為〉という観念は、実践的にはきわめて重要ではあっても、常に誤解を招く可能性のある抽象物である、という主張も奇異には思われないだろう。一つの行為とは、ある可能的あるいは現実的な歴史、または複数のそうした歴史の中での一契機(moment)なのである。〈歴史〉という観念は〈行為〉のそれと同じくらい根本的な観念であって、それぞれが他方を要請している。
ここで「ところで私はこう論じながら、サルトルが否定するのはまさしくこの点だ」として、サルトルの見解を紹介する。
実際、自己についての彼の理論全体―それは近代性の精神を実によく捉えているーが、その否定を要求している。『嘔吐』でサルトルがアントワーヌ・ロカンタンに論じさせているのは、ミンクが論じている点、すなわち、物語は人生とは大いに異なっているという点だけでなく、物語の形で人間の生を提示することは常に人生を偽ることになるという点でもある。真実の物語など一切存在しないし存在しえないというわけだ。人間の生は、どこに導くのでもなく何の秩序もないバラバラな諸行為から成り立っている。ところが物語の語り手は、人間的事象に対して、それが生きられていた間はなかった秩序を回顧的に付与するのである。 上記の「サルトル/ロカンタン〔のこうした主張〕が正しければ、明らかに私の中心的な主張は誤っているはずである」が、「サルトル/ロカンタン」とマッキンタイアは行為の理解可能性を「一連の物語の中でのその行為の位置」を照合することによって、確認する観点において共にするという。
さて、もしサルトル/ロカンタン〔のこうした主張〕が正しければ、明らかに私の中心的な主張は誤っているはずである。〜それにもかかわらず、私のテーゼとサルトル/ロカンタンのテーゼとの間には、重要な一致点がある。つまり私たちは、行為が理解可能であることを一連の物語の中でのその行為の位置でもって確認する点で、一致しているのである。ただ、サルトル/ロカンタンは、人間の行為はそれ自体としては理解不可能な出来事であると見なしている。ロカンタンが小説の流れの中で気づかされていくのは、このことのもつ形而上学的な含みである。こう気づいたことの実践的な結果として、彼は、歴史的な自叙伝を書くという自分の企てに終止符を打つことになる。この企てはもはや何の意味もないからだ。彼は真実なことを書くか、理解可能な歴史を書くかのいずれかであり、一方の可能性は他方を排除するのである。ではサルトル/ロカンタンは正しいか?
そこでサルトルのテーゼの誤謬を「二つの方法」で紐とく、とマッキンタイアは述べる。先に結論を引用する「個人的かつ社会的生の物語が理解可能な仕方で継続しうるとすれば―いずれのタイプの物語も理解不可能な状態へと陥ることはあるが―、どうしたらその物語は継続しうるかに関しての束縛が存在すること、およびそれらの束縛の内部にあってはその継続が可能な無限定に多くの仕方が存在すること、この二つが常に言えるのだ」。
第一の方法として「「物語による秩序づけは人生を偽るものだと言うが、ではそうした秩序を奪われた人間の行為はどのようなものになるか」と問うこと」を試みる。
サルトル自身はこの問いに決して答えていない。もっとも、真実の物語は何もないということを示すために、彼自身が虚構のであれ物語を書いているという事実は、印象深いことだ。しかし、物語による偽りの解釈だと申し立てられたものに先立つ人間本性それ自身について、私が自分でできると思う唯一の描写は、ジョンソン博士がフランス旅行の記録の中で示している類の混乱した連続記述だけである。「そこで私たちは婦人たちのお供をしたーモーヴィルの。―スペイン。―田舎の町は乞食だらけ。―ディジョンで彼はオルレアンへの道が分からなくなった。ーフランスの十字路はたいへん悪い。―五人の兵士たち。―女たち。―兵士たちが逃げた。―大佐は一人の女のために五人の部下を失うことはしないだろう。―長官は大佐の許可がなければ一人も兵士を捕まえられない、等々」。この記述が示唆しているのは、私が真実であると解していることである。すなわち、申し立てによれば物語の形態を付与されるのに先立っている諸行為を性格づけようとすれば、結局のところ常に、ある物語になりうる明らかにバラバラな諸部分を提示する破目に陥るということである。
下記のように続ける。→簡略化すると「物語による秩序づけは人生を偽るもの」という言明は「社会的舞台とによって束縛」があるゆえ成り立たない定式であるということ。
私たちは先の問いにもう一つの方法でも接近しうる。歴史と呼んだものは、上演された劇的物語であり、そこでの登場人物たちは脚本家でもあった。登場人物たちは言うまでもなく、文字どおり最初から始めることは決してない。彼らは事件の途中で(in mediasres)飛び込んでくる。その物語の始まりはすでに、それ以前の出来事と人物によって彼らのために作られている。しかし、ジュリアン・グレン・フィルやエドワード・トマスは、1914〜18年の戦争でフランスに出征したときにある物語を演じたが、それはメネラウスとオデュッセウスが出征したときに彼らがやはりある物語を演じたのと変わらない。仮想と実在の登場人物の違いは、彼らが行うことを物語る形式にあるのではなく、その形式と彼ら自身の所業を本人たちが自分で創造しているかどうかにある。もちろん、彼らは気にいったところから始められなかったように、まさしく気にいるとおりに事を進めることもできない。それぞれの登場人物は、他者の行為と、自分と他者の行為において前提されている社会的舞台とによって束縛されている。
第二の方法として、第一の方法で述べた「論点は、マルクスが上演された劇的物語として人間の生を説明した、全面的に満足できないにしても古典的な説明である『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』において、力強く打ち立てた論点である」として深ぼる。
私がマルクスの説明を「満足できる」というほどには評価しない理由の一部は、彼が人間の社会生活についての物語を、法則に支配され特定の方法で予測可能なものとして社会生活をみる見方と両立するような仕方で提示しようとする点である。しかし、上演される劇的物語のいかなる所与の時点でも、私たちは次に何が起こるかを知らないという点は、決定的なことである。第八章で論証した類の予測不可能性は人生の物構造によって要求されているのだ。~この予測不可能性は、すべての生きられた物語の第二の決定的な特徴である、ある種の目的論的性格と共存している。
そして下記のように「予測不可能性」と「目的論的性格」の共存を丁寧に描写する。
私たちが自分の人生を生き抜くのは、個人的にも相互の係わりにおいても、分かち合うことのできる未来についての何らかの考えに照らされてである。その未来とは、いくつかの可能性は私たちに前進するよう促すが、他の可能性は私たちを受けつけないような、またある可能性はすでに締め出されているが、他のものはおそらく不可避になると思われるような、そうした未来である。実際、何らかの未来のイメージによって形成されていない現在というものは存在しない。そして未来のイメージとは常に、テロスの―あるいは多様な諸目的や諸目標の―形で現前していて、それに向かって現在の時点で私たちは進んでいるか進み損ねているかいずれかなのだ。予測不可能性と目的論はしたがって、人生を構成するものとして共存している。虚構の物語の中の登場人物と同じく、私たちは何が次に起こるか知らないが、にもかかわらず私たちの人生は、未来に向けて投影されるある種の形をもっている。こうして、私たちが生き抜く物語は予測不可能な性格とある部分目的論的な性格との両者を有している。
前述したサルトル批判に対して「個人的かつ社会的生の物語が理解可能な仕方で継続しうるとすれば―いずれのタイプの物語も理解不可能な状態へと陥ることはあるが―、どうしたらその物語は継続しうるかに関しての束縛が存在すること、およびそれらの束縛の内部にあってはその継続が可能な無限定に多くの仕方が存在すること、この二つが常に言えるのだ。」とまとめここから立ち現れる性質を明らかにする。
そうすると、一つの中心的なテーゼがここで姿を現し始める。〈人間はその行為と実践において、虚構においてと同様、本質的に物語を語る動物(story-telling animal)である〉とのテーゼである。ただし人間は、本質的に真理に就こうとする物語の語り手であるのではなく、自分の歴史をとおしてそうした語り手になっていくのである。しかし、人々にとって鍵となる問いは、彼らが自分で創作したかどうかではない。「私はどうすればよいか?」という問いに答えられるのは、それに先立つ「私はどの(諸)物語のなかに自分の役を見つけられるか?」という問いに答えられる場合だけだ。私たちが人間の社会に仲間入りするということは、一つか複数の負わされた役回り―私たちが選り抜かれて与えられた役割のこともってなのであり、その役回りが何であるかを学んで初めて、 どのように他の人々は私たちに応答するか、そしてその人たちに対する私たちの応答はどのように説明されるのが適切か、 を理解できるのだ。子どもたちが、子どもとは何で親とは何であるかを、自分たちが生まれおちた劇での登場人物の役は誰がしているのかを、そして世界はどんなあり方をしているのかを、学びとったりあるいは間違って学んだりするのは、 次のような物語を耳にすることをとおしてなのである。それは、意地悪な継母、行方不明の子どもたち、善良だが誰かさ誑かされた王様たち、双子の少年に乳を飲ませる狼、遺産を分けてもらえずに世間を自分で渡っていかねばならない年下の息子たち、逆に放蕩な生活に遺産を浪費した挙げ句、国を追われて豚と一緒に生きることになる年上の息子たちについての物語である。子どもたちからそのような物語を奪ってしまえば、彼らは言葉においてだけでなく行為においても、どうしていいか分からない不安げな吃りにされてしまうだろう。だから、 私たち自身の社会も含めてある社会を私たちが理解する仕方としては、その社会の初期のドラマの材料となっている蓄積された様々な物語によるしかないのである。神話はその本来の意味において、ものごとの核心にある。その点でヴィーコもジョイスも正しかっ た。そして言うまでもなく、英雄社会からその継承者である中世の社会に至るまでのかの道徳伝統も正しかった。なぜならその伝統に従えば、物語を語ることが、人々を諸徳に向けて教育するうえで鍵となる役割を占めるからである。 物語よって構成される人格の同一性
「〈人格の同一性〉(personal identity)」を論じるために「デレク・パーフィットと他の論者は最近、厳密な同一性の規準と人格性の心理的連続性との間の対照に注意を喚起してきた」と指摘しそれぞれを説明する 厳密な同一性
前者は〈全てか無か〉の事柄であり(例えば、そのティッチボーン家の相続請求者はティッチボーン家最後の相続人であるかそうではないかのいずれかである。最後の相続人の財産すべてはその請求者に属するかその請求者は相続人ではないかのいずれかである―ここではライプニッツの法則が適用される) 人格性の心理的連続性
後者は〈より多くかより少なく〉の事柄である。(例えば、五〇歳の私は、記憶力、知的能力、批判的応答の点で四〇歳の私と同じ人であるのか?これは、〈より多くかより少なく〉である。)
上記に反してマッキンタイアは「演じられる物語での登場人物としての人間にとって決定的なことは、心理的連続性の材料しか所有していないのに、厳密な同一性の負託に応える能力を必要とするという点」を指摘して、その両義的性格を下記のように続けて述べる。
〈私〉は永久に、他者にとっていつの時点でもそうであったところの者である―そしてそのことの申し開きをするよう、私はいつ要求されてもおかしくない。たとえ今はどれほど変化したにしてもである。そうした〈私〉の同一性-またはその欠如-を自己の心理的連続性あるいは不連続性の上に基礎づけることは不可能である。自己はある登場人物のうちに住まっていて、その統一性は登場人物の統一性として与えられるのだ。
そこで人格の統一性における哲学的系譜を紹介するとともに、その限界を紹介する。
この点でも私の見解は、一方で経験論的あるいは分析哲学者たちと、他方で実存主義者たちとの間で、決定的な不一致がある。ロックやヒュームのような経験論者たちは、もっぱら心理的な状態や出来事に基づいて人格の同一性を説明しようとした。分析哲学者たちは、多くの点で経験論者への批判者であると同時に相続人でもあるが、これらの状態や出来事と、ライプニッツの法則に基づいて理解される厳密な同一性とがどう繋がるかという問題と格闘した。
つまりタブラ・ラーサを下地に心理学的連続性の材料が累積し、束となることで、人格が構成されるという経験論者らの指摘は、ライプニッツのいう厳格な同一性は満たさない。こうした経験論者の文脈を継承しつつ同時に同一性に立脚するものとして、下記のようにマッキンタイアは物語を提案する。 両者が見失っていたのは、ある背景が抜け落ちているということだった。それが欠けていれば問題は解決不能になるのである。その背景は、〈物語〉および物語が要求する類の〈登場人物の統一性〉という概念によって供給される。ちょうど歴史が諸行為の連続ではなく、〈行為〉という概念は、ある目的のために歴史から抽出された、現実的ないし可能的歴史における〈契機〉(moment)という概念であるように、歴史の中の登場人物たちも人格の集合ではなく、〔逆に〕〈人格〉という概念が、歴史から抽象された、〔もともとは〕〈登場人物〉という概念なのである。
つまり自己は経験論的に累積されるが、自己の物語における登場人物としての他者が要請される時点で、厳格的な同一性が付与される(歴史から抽出される)。ということである。「かくして、自己性についての物語的概念が要求するものは二点ある」として、下記のように述べる
①
一つに、〈私〉とは、私の誕生から死にいたるまでを貫く一つの物語を生き抜く過程で、他者によってそうであると正当に見なされているところの者である。つまり〈私〉は、私自身のもので他の誰のでもない、それ自身の特殊な意味をもつ一つの歴史の主体(subject)である、自殺を試みたり実行したりする人々がときに言うように、誰かが自分の人生は無意味だと不平を言うとしたら、その人の不平は、自分の人生の物語が理解不可能になってしまい、それが何の意義ももたず、頂点あるいはテロスに向かう運動を欠いているという点にあることがしばしばであり、おそらくそれが特徴であろう。したがって、その人たちの人生での決定的な諸時点でことさら何かを行うことの意義は失われてしまったと、そのような人には思われるのである。 つまり他者によって特殊な物語的歴史的主体と認識されるということ。
②
誕生から死までを貫くある物語の主体であるということは、先に述べたように、語られうる人生を構成する諸行為、諸経験の申し開きができることである。ということは、問われた時点より以前であればいかなる人生の時点のことであっても、自分がしたこと、自分に起こったこと、自分が目撃したことについて、ある種の説明〔申し開き〕を与えるようにとの要求を受け入れるということである。もちろん、忘れたり、脳に損傷を被ったり、あるいはたんに、適切な申し開きを与えられるほど当の時点で十分な注意を払っていなかったりとうことはありうる。けれども、ある一つの記述のもとでの誰か(例えば「イフの館の囚人」)について、その人はまったく異なった表現(「モンテ・クリスト伯爵」)で特徴づけられる人と同一人物なのだと言うとすれば、それは、次のような説明をその人に求めることには意味があると言っているに等しい。つまり、いかにして当人が異なった時と場所にあって同一の人格〔人物〕でありながら、しかもそれほど異なった表現で特徴づけられるのかを、私たちに納得させてくれる理解可能な物語による説明である。こうして、人格の同一性とは、物語の統一性が要求する登場人物の統一性によって前提されている同一性性に他ならない。そうした統一性がなければ、物語が語られうるような主体は存在しないだろうからである。
つまり他者に自己の貫く物語を語る(申し開く)時点で、登場人物としての同一性を要請され、自己は理解可能に他者に物語る。この行為があって初めてライプニッツの法則と経験論的な境地が節合されるのだ。
そして下記のようにまとめる。
物語的な自己性についての他の側面はこれと対応する点である。すなわち、私はたんに申し開きのできる者というだけではなく、常に他者にも申し開きを求めうる者、他者にその問いをかける者でもあるという点である。彼らが私の物語の一部を占めているように、私は彼らの物語の一部を占めている。ある一つの人生の物語は、それと連動する物語群の一部となっている。さらに、こうして申し開きを求めたり与えたりすること自体が、物語を作り上げるうえで重要な役割を演じている。あなたが何をなぜしたかを尋ねること、私が何をなぜしたかを述べること、そして私がしたことについてのあなたの説明と私の説明との違いを思案すること(また、あなたがしたことについても同じように)、これらは、きわめて単純で含みのないもの以外はすべての物語にとって本質的な構成要素である。それゆえ、自己の申し開き能力がなければ、きわめて単純で含みのないもの以外すべての物語を構成している一連の出来事は起こりえないであろう。そしてその同じ申し開き能力がなければ、物語とそれを構成する諸行為とをともに理解可能なものにするために要求される連続性が、物語には欠けることになるだろう。大事な点なので注記するが、私は、〈物語〉〈理解可能性〉〈申し開き能力〉という諸概念が〈人格の同一性〉という概念に比べてより根本的であると論じているのではない。それら〈物語〉〈理解可能性〉〈申し開き能力〉という諸概念は〈人格の同一性〉という概念が適用可能であることを前提しているのであり、逆にその概念は、それら三つの概念が適用可能であることを前提しているし、さらに実際のところ、これら三つのそれぞれも他の二つが適用可能であることを前提しているのだ。つまり、その関係は相互前提のそれである。そこから当然ながら帰結することは、〈人格の同一性〉という観念を、〈物語〉〈理解可能性〉〈申し開き能力〉という観念から独立に切り離して解明しようとしても、その試みはすべて失敗せざるをえないということだ。実際、すべて失敗してきたように。
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彼が提示した概念に戦う立憲主義と従順な立憲主義がある。前者は従前の社会のあり方、政治のあり方を変革し、新たな政治社会を樹立しようとし、後者はそれまでの社会秩序、政治体制をそのまま受け入れ、それを成文化する。もちろん基本的に現国家は片方に偏ることはまあないが、とはいえおおよその傾向などは判断できるであろう。 そしてジェイコブソンはしばしば従順な立憲主義の基礎づけとして「伝統とは論議である」というマッキンタイアの本書のことばに言及する。それは、多種多様な議論が交差する中で、紡ぎ出される物語としての統一性であり、論理的・体系的整合性をそこに求めることに意味はないとされる。 1991 "I'm Not a Communitarian, But..."
私はコミュニタリアンでは無いが、しかし〜ローカルな環境における特定の制度ー学校、農場、その他職場、診療所、教区(を重視することを示し)~限定された共通の目的のためにしばしば根本的に異なる道徳的立場の人々を動員する連合
が近代国家においても不可能で無いことを期待すると述べている。
政治的には先進的西洋近代社会はリベラル民主主義を装った寡頭政である。
排除の例として...家族或いは家事農場とそれに伴う生き方の消滅の危機。
これは古代から現在までの徳の歴史に不可欠なものである。
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現代の政治社会に欠けているものは、普通の人々が〜体系的に理性的な討論にともに従事できる制度上の闘技場である。そこでは対立する別の生き方―それぞれが徳と共通善それ自体の概念をもつが―の主張に対して、政治の関係性の問題をいかに答えるかに関して、合理的に、よく基礎づけられた共通の精神に到達することが企てられる。
そこでは対立する別な生き方ーそれぞれが徳と共通善のそれ自体の概念をもつが−の主張に対して、政治の関係性の問題をいかに答えるかに関して、合理的に、よく基礎づけられた共通の精神に到達することが企てられる。
現在共通善は単なる道具的なものであり、個々の成員の善にすぎなくなっている。そのためにフリーライダーが合理的なものとなり政治社会に対する忠誠心が失われている。 /icons/白.icon
アリストテレスがポリスと呼んだ、共通の文化(少なくとも一つの共通の言語)があり、また熟議のための様式が共有され、さらに実践と制度について共通の理解がある。その絆が非合理的である民族の政治社会と異なり、ポリスはつねに潜在的にも、実際的にも、合理的な探究の、自己精査の社会である。これが共同の学びの活動によって形成されていくということ https://scrapbox.io/files/64ac10f008734c001cb91815.png
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人類と他の知的動物種の共通点に着目し理解することの重要性
犬、イルカや類人猿のように、前言語的能力を持つ動物がいることから
人類も非人類の動物も自分と同じ種のメンバーと交際し、協働するそれぞれの善を追求する。
人類も非人類も両親や親類などに依存した存在として学び、独立した実践理性のある者として完成され、自己の欲望に距離を置き、他者と協同して、共通善を目指す。 道徳哲学者が人間の傷つきやすさと能力の無さに注目することの重要性
問題として独立するまでの幼児の段階は、依存し、傷つきやすく、能力がないことから、フェミニストのいうケアの倫理重要性を指摘するとともに、最も依存し、最も受け取ることが必要な子供、老人、障害者に配慮された政治社会制度が必要であることを指摘する。 これが共通善の構想に不可欠となる利益である。
実践の指南
このようなことが実現されるために必要なのは、政治活動がすべての成人による毎日の活動であるローカルなコミュニティである。
ローカルなコミュニティにおける比較的小規模な性格と対面的な出会いと会話は、与え且つ受け取るネットワークを維持するのに必要である合理的な熟議に参加する者の共通善が共有されて達成されるために必要な者である。
ローカルなコミュニティにおける脆弱性に対する言及
正しい寛大さや共有された熟議の徳がなければ、ローカルなコミュニティは偏狭さ、ひとりよがり、外部の者への偏見、ローカルなコミュニティの崇拝から生じるものを含む他の一切の欠陥へと堕落する可能性がつねにある。
いずれにしても徳と共通善は外的な制約ではなく、むしろ内的な探求と批判の条件前提となるものである。
After MacIntyre : Critical Perspectives on the Work of Alasdair MacIntyreに収録↓
現在のコミュニタリアンは国民国家の制度を通して、国家自体がコミュニティとして、かなりの程度まで構成されるべきであると主張している。
だがあくまでマッキンタイアはアリストテレス的コミュニティであり、現代では小規模でローカルなものを擁護する