ニック・ランド
1988『サイバーゴシック』(引用)
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1988『Kant, capital, and the prohibition of incest』(引用)
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冒頭の3引用文
But intuition and the concept differentiate themselves from each other specjfcally; because they do not inter-mix with each other. IMMAUEL KANT
カントの『判断力批判』より、感性(intuition)と悟性(concept)が互いに異なり交わらないこと→他者性の抑圧??
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南アフリカ政権からみる世界秩序
南アフリカ政権のアパルトヘイト政策が新植民地秩序の縮図であり、世界のミニチュア
〜South African regime, since apartheid is directed towards the construction of a microcosm of the neo-colonial order; a recapitulation of the world in miniature.
ボーアにおける政治的距離と経済的近接性は、まさしく植民地主義がぬけがらを取り込んでることがわかる。
The most basic aspiration of the Boer state is the dissociation of politics from economic relations,〜simultaneous political distance and economic proximity〜
上記を国家主権を軸とした地理的分断によって政治的外部性を目指す。
This policy seeks to recast the currently existing political exteriority of the black population in its relation to the society that utilizes its labour into a system of geographi-cal relations modelled on national sovereignty.
上記民族的地理的自治(ethno-geographical autonomy)といった縮図が国際コードで再表現される可能性がある。
The direct disenfranchisement of the subject peoples would then be re-expressed within the dominant international code of ethno-geographical (national) autonomy.
これはまさにG7の存在でもある。例えば東南アジアは間違いなく経済的近接性が存在するはず。だがG7は新植民地主義の名残から、それを阻害する行為であり、つまり政治的外部性・距離である。
blackの認識過程
下記二つの要因によって北アメリカ系白人が第三世界の労働力として“black”を認識した。
世界の列強らが南アフリカを不動の領有権(indissoluble claim)として承認したこと
則、西洋諸国及び白人による植民地支配が国際的に承認されたということ
西洋諸国及び白人による植民地支配が国際的に承認された。南アフリカ系白人は“black”を雇用対象としてアパルトヘイト政策を行なった。そんな経済的近接性を保ち、政治的外部性を醸成するプロジェクトが漸進的、無意識的に成功したこと
則、"black"の労働力の価値を示したということ
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啓蒙のパラドックス
啓蒙のパラドックスとは、根源的な他者を安定的な関係のうちに固定しようとする試みにある。というのも、他者が関係性の内部において固定的に措定されるならば、それはもはや完全なる他者とはいえないからだ。
西洋における近代の課題は、どのように自己同一性を保ったまま他者を自己の内部に同化させるか。であると同時に他者を自己に同化させた瞬間、他者の抜け殻しか残らずそれは他者を取り込んだと言えるのか。
この西洋の近代の課題は喰人の弁証法的、だから後期オイディプス・コンプレックスよりインセスト禁忌ということ??
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抑制された総合
カントの観念論では、対象は主観を構成する認識作用を経て現象し、物自体のありのままを認識することは不可能である。対象を他者と対応づけると、他者は主観側の相互作用によって表象として現象しうるということであり、他者の他者性を圧殺するプログラムに他ならず、異民族/先住民族/黒人/女性などを代表とする植民地主義に継承された。
メルトダウン(引用)
2012『暗黒の啓蒙書』(翻訳前)
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NRxの聖書
君主制や哲人政治などの古典的回帰を望んでいる
パンとサーカスにドラッグとメタバースを対応させている
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ゾンビ・アポカリプス-民主主義批判
寄生とギリシア
民主主義は、その理論の水準から見ても明白な歴史的事実の水準から見ても、我先にと貪るような状態にまで時間選好率を上昇させていくものである。したがってそれは、致命的な野蛮さやゾンビ・アポカリプスへといたる社会的な崩壊を即座にもたらすものではないにしても、他のなににもまして文明の否定そのものへと接近していく
そしてスティーヴ・H・ハンナを引用しながらリバリタリアンらのおはこ。則、民主主義と自由の相反する関係を下記のように述べる。
民主主義にとって自由とは、ガルガンチュワの前に差しだされたたった一つのパイのようなものなのである(「きっと分かってもらえるでしょうが、われわれは自由が大好きなのです、それはもう腹の虫が鳴きやまず、よだれがとまらないほどに...」)
「過度に力を与えられたポピュリスト的で共食い的な国家」は「シュンペーターが述べているとおり、産業資本主義には最終的には不況をもたらすような民主主義的で官僚主義的な文化を生みだす傾向がある」という「漸進的な民主化から産業化が派生するのではなく、逆に産業化の方がその土台をなす」順序のもとに成立した、とする。だがランドはそうした「民主主義は、癌細胞が生きている生物だけを蝕むこと同じ意味において-もっともらしい理由をともないながら-生命力そのものと協働しているのだろう。」として、資本主義の生存において発生する寄生的な癌細胞として扱う。だからこそ下記結論に至るのだ。
民主主義は、進歩を使い果たし、食べ尽くすものなのである。したがって暗黒啓蒙の観点から見た場合、民主主義的な現象を対象とする研究にふさわしい方法は一般寄生虫学(ジェネラル・パラサイトロジー)なのだといえる。
「民主主義の成れの果てとしてギリシア」を挙げる。
もしこうしたことのすべてが、歴史的な具体性から遊離しているように見えるのだとすれば、うってつけの治療法がある。多少話題を変えて、ギリシャへと目を移してみればいいのだ。リアルタイムで進行する西洋の死の縮図となるようなモデルとして、ギリシャのたどってきた物語には、人を呆然とさせるほどの説得力が備わっている。その物語は2500年にも及ぶ歴史の弧が描くものだが、しかしその弧はまったく整然としたものなどではない。むしろそれは抑えがたくドラマチックなもので、原始民主制からはじまり、最後には完全なゾンビ・アポカリプスへと向かっていくことになる。
この物語の傑出した長所は、それが臨終の間際にある民主主義のメカニズムを完璧に例示していることにある。このメカニズムのなかでは、中央集権化された大規模な再配分のシステムをつうじて、その言動が一つにまとめられていくことにより、諸個人や局所的な人口集団が、自分たちの決定の結果から切り離されていくことになる。自分がなにをするのかを事前に決定することはできるが、しかし投票はつねに、すでに決められた選択肢のなかでおこなわれることになるわけだ。こうしたメカニズムにたいして、いったい誰が「否」といえるというのか。以上のような民主主義というメカニズムの存在を考えるなら、30年以上にわたってEUの一員でありつづけてきたギリシャの人々が、欧州中央銀行という熱的死の終着点を経由することによって経済に関連するあらゆる情報を一つ残らず赤方偏移させていき、社会的な短波信号のことごとくを無化して、ヨーロッパの連帯という壮大な回路を経由するかたちでフィードバック・システムを再設定していく、そんな社会工学上の巨大プロジェクトに熱心に協力しつづけてきたのも無理のない話である。とりわけこのプロジェクトは、ギリシャの金利となる可能性のあるあらゆる情報を跡形もなく消しさるために「ヨーロッパ」と結託し、結果として、ギリシャ国内の政治的選択にかんする財政上のフィードバック・システムを、事実上すべて無効化しつづけてきたものだ。法の制定によって現実を廃棄してしまうこと以上に「一般意志」に適うことはなく、チュートン人「ゲルマン系諸民族の総称」の金利を東地中海人の支出にかんする意思決定と結びつけること以上に現実にたいして決定的なかたちで毒人参を差しだしてやることはないことを考えれば、これこそが、それ以上の完璧さを許さないような、その完全な形態における民主主義なのだといえる。ギリシャ人として生活し、ドイツ人として金を支払え−こうした標語にもとづいて権力の座に就くことのできなかった政党はみな、荒野のなかを、ハゲワシの食い散らかした残飯を我先にと求めてたがいに競いあうことを余儀なくされる。その完全な形態における民主主義とは、この表現から考えられるほぼすべての意味において、まったく頭を働かざずにできることノーブレイナーなのである。これ以上事態が悪化することなどありえないだろう。
「ノーブレイナー」とは、字義通りには「脳を持たない者」だが、転じて「考えずとも分かる簡単なこと」を意味し、あるいは思考しない者という意味で「馬鹿」等の意味にもなる口語表現。ここではさらに、脳の機能が停止したまま活動するような形象として、ゾンビ的な存在を暗示してもいるだろう。則、ノーブレイナーとして這い回り喰らうゾンビということ。
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自由なExitというコンセプト
ティールの私はもはや自由と民主主義が両立できるとは信じていない。というテーゼの民主主義/自由に対応させた意思の表明におけるVoice/Exitという二項対立)(この二項はアルバート・ハーシュマンの“Exit, Voice and Loyalty”からである)
Voiceとは...国家は一般意志の表彰であり、不満があれば声を上げる。ただリバタリアンからすればソフィストらと衆愚の空虚な馬鹿騒ぎに過ぎない。
Exitとは...意義のない国家において語りえぬものには沈黙しなければならないのでメタ・ユートピア的に脱退、参加、或いは新なフロンティアを自ら開拓するということ。
つまり民主主義のVoice/自由なExitという二項対立である
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普遍主義批判とカテドラル論
ヨーロッパの古典時代にあっては民主主義とは、自然に衰退していくことが条件づけられた循環的な政治的発展段階のひとつ、すなわち専制へ移行していくための準備段階に過ぎないと認識されていた。ところが今日、この古典的理解は完全に失われ、代わりにグローバルな民主主義的イデオロギーが取って代わった。【この歴史的発展段階のひとつでしかないはずの】批判的な自己省察を欠いたイデオロギーは、信頼に足る社会科学的な命題でもなければ自発的な民衆の熱望ですらなく、宗教的な信条によって自己の正当性を力説するのだ。
進歩主義、多文化主義、リベラリズム、ヒューマニズム、平等思想、ポリコレ、人権主義...etc これらは世俗化された非有神論化されたキリスト教のセクトである。
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』からイギリス国教会に歯向かいアメリカ大陸に渡ったピューリタン(清教徒主義)の系譜に端を発している
それがユニテリアン主義や超越主義を経て進歩主義運動を形成し、グローバルな民主主義という普遍主義という権力の上に建造されたカテドラルとなり、現代社会を支配している
ドーキンス批判
彼は急進的な無神論者で理性主義者だが人類の生物学的平等性や遺伝的多様性、生物多様性で止まった彼はカテドラル論の象徴的なイデオロギーであると揶揄
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レイシズムと超越
レイシズムを絶対的に糾弾する道徳的態度は宗教における原罪説に対する態度よりも合理的ではないという
それを解消とする地平がバトラーのXenogenesisにおけるOankaliは遺伝子改変と遺伝子交換によって人種や性別を超越した存在であることだ。
「生物工学の地平」という観点から見たときに、人種的な災厄の弁証法から立ち現れるものがどんなものであれ、それらは依然として些末さに補わられている。進もう、前へ。
これはランドのdifférentielではなく脱領土化のみを徹底的に推し進めることで、人間の定義を融解させ生物工学の地平やシンギュラリティへ進もう!という加速主義的思想に基づく
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ホイユク批判(引用)
イポリットの定義にて不幸な意識と揶揄する
The object of unhappy consciousness … is the unity of the immutable and the specific. But unhappy consciousness does not relate to its essence through thought, it is the feeling of this unity and not yet its concept. For this reason, its essence remains alien to it … The feeling of the divine which this consciousness has is a shattered feeling, precisely because it is only a feeling.
「The Hour of Decision」より