アルバート・ハーシュマン
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「回復メカニズム」としてのEXIT/VOICE
第一章の結論部をまずさきに引用したい。
本書の結論を述べよう。イグジットとヴォイス、つまりは、市場力と非市場力、経済的メカニズムと政治的メカニズムとは、文字通り対等な力と重要性をもつ二つの主役として導入された。これを基礎として議論を展開していくなかで、私は、政治学者には経済的概念の有用性を、そして経済学者には政治的概念の有用性を知ってもらいたい。
つまり本書の試みの一つとして行われるのは、経済的メカニズムの市場力としてのEXITを政治学者に、政治的メカニズムの非市場力としてのVOICEを経済学者に届けることなのである。この結論を理解すべく、まずはハーシュマンのEXIT/VOICEの定義から入るとしよう。
(一)顧客がある企業の製品の購入をやめたり、メンバーがある組織から離れていくという場合がある。これがすなわちイグジットオプションである。イグジットオプションが行使される結果、収益が低下したり、メンバー数が減少したりする。したがって経営陣は、イグジットをもたらした欠陥がどんなものであっても、これを矯正する方法・手段を模索しなければならなくなる。(二)企業の顧客や組織のメンバーが経営陣に対して、あるいは、その経営陣を監督する他の権威筋に対して、さらには耳を傾けてくれる人なら誰に対してでも広く訴えかけることによって、自らの不満を直接表明する場合がある。これがすなわちヴォイスプションである。ヴォイスオプションが行使される結果、経営陣はこの場合も、顧客やメンバーの不満の原因をつきとめ、可能な不満解消策を模索しなければならなくなる。
回復のこうした内生的諸力の性質・強さを検証する際、すでに述べたように、私たちの研究は、二つに枝分かれしている。相互に排他的ではないにせよ、イグジットとヴォイスという対照的な二つのカテゴリーが経済学と政治学という、より根本的な分立を忠実に反映していないとすれば、収まりがつかないだろう。イグジットは経済学の領域に属し、ヴォイスは政治学の領域に属している。ある企業の製品に不満を感じ他の企業の製品に切り替える顧客は、自らの厚生を保持したり状況を改善するために市場を利用し、さらにまた、他社と比較して業績が落ちている企業に回復をもたらす市場諸力を稼働させる。経済学はまさにこのメカニズムを対象とし発展してきた。それは、人がイグジットするか否かのどちらかという点ではっきりとしている。またそれは、予測できずどうなるかわからない要素を抱えながら顧客と企業が直接対峙することはいっさいない、という意味で非人格的である。したがって、ある組織がうまくいっているのか、失敗しているのかは、統計上の数字をとおしてその組織に伝えられる。さらに、衰退する企業の側のいかなる回復も、商品切り替えという顧客側の決定が生みだす意図せざる副産物であり、「神の見えざる手」のおかげであるという意味で、それは間接的なものである。ヴォイスは、これらすべての点においてまさにイグジットの対極にある。ヴォイスは、弱々しい不満の声から激しい抗議行動にいたるまで程度に差があるため、離脱よりもはるかに「ごたついた」概念である。それは、スーパーマーケットの苦情受付箱に一人「こっそりと」投書するというよりも、むしろ自らの批判的見解をはっきりと表明するということを示唆している。そして最後に、それは、回りくどいというよりも、直接的で率直なものである。ヴォイスとは、すぐれて政治的な行為なのである。 このような理由で、非人格的で間接的な経済学的メカニズムがEXITなのであり、それに対してはるかに政治的(≒人格的)で直接的な政治学的メカニズムがVOICEなのである。ここで、再び第一章の結論部に戻るとする。ここまでEXIT/VOICEの定義から、それらが属する領域、そして理論の重要性を論じてきたわけだがハーシュマンはこれを踏まえてなぜ、「政治学者には経済的概念の有用性を、そして経済学者には政治的概念の有用性を知ってもらいたい」のだろうか。それは、この二項それぞれが属さない領域で極めて不当な扱いを受けてきたからである。例えば経済学ではVOICEを「非効率」的だとか「厄介な政治的経路」とし、政治学ではEXITを「逃亡、離反、裏切り」として「罪深いものという汚名を着せ」てきたのだった。つまり「一方にとって良い力は他方にとって悪い力であるといった具合に理解されてきたのである」。
もともと経済学者は、自らのメカニズムがはるかに効率的で、実際上、真剣に取り扱われるべき唯一のものと思い込む傾向にある。こうした偏見は、公教育に市場メカニズムを導入することを説いたミルトン・フリードマンのよく知られた論文に如実に示されている。フリードマンの提言のエッセンスは、学齢期の子供をもつ親に特定目的のヴァウチャーを配布するというものである。このヴァウチャーを使い、親は私企業が競争的に供給する教育サーヴィスを購入できるというわけである。こうした計画を正当化するため、彼は次のように述べている。「親は、ある学校から自分の子供を退学させ別の学校へ転校させることによって、学校に対する自らの考え方を今よりもはるかに直接的に表明できるだろう。現在、一般的には、転居する以外に親はこうした手段をとりえない。あとは、厄介な政治的経路を通じて自分たちの意見を表明できるにすぎない」。ここでフリードマンの提言のメリットについて議論するつもりはない。それよりもむしろ、私がこうした一節を引用しているのは、それがイグジットを好み、ヴォイスを嫌う経済学者の偏見を示す、ほとんど完全な事例だからである。まず第一に、フリードマンは、ある組織に対し快く思っていないことを表明する「直接的な」方法として、退去、つまりはイグジットを想定している。経済学の訓練をさほど受けていない人ならば、もっと素朴に、考えを表現する直接的な方法とは、その考えを言明することじゃないか、と思うことだろう。第二に、フリードマンは、自らの考え方を発言すると決めて、それを広く訴えようと努力することなど、「厄介な政治的経路」に頼ることだと、侮蔑的にいい放っている。だが、まさにこうした経路を掘り起こし、それを利用し、望むらくはそれをゆっくりとでも改善していくよりほかに、政治的で、まさに民主主義的なプロセスがあるだろうか。国家から家族にいたるまで、およそ人間の関わるすべての制度において、ヴォイスは、いかに「厄介な」ものであろうと、その制度に関係するメンバーが日常的につきあっていかなければならないものなのである。注目すべきことに、今現在、問題にぶつかりながらも、大都市において公立学校をよくしようと大きな努力が払われている。公立学校をその構成員の要望に、もっと応えられるものにしようというのである。その際、公立学校システムにおける構成員と管理者とのコミュニケーションを以前ほど「厄介」でなくするための手段として提唱され、取り組まれてきたのが分権化である。だが盲点、つまり(ヴェブレンのいう)「訓練された無能力」に陥り、二つのメカニズムのうち一方の有効性を認識できなくなっているのは、経済学者だけではない。実際、政治学の分野で、イグジットは、経済学の分野におけるヴォイスよりもはるかに不適切な扱いを受けてきた。イグジットは、ただ単に非効率だとか「厄介」であるとかにとどまらず、罪深いものという汚名を着せられることが多かった。というのも、それが逃亡、離反、裏切りと決めつけられてきたからである。 こうした見解をもって次のように唱え、結論部に至るのだ。
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情念史
ルネサンス期国家論の新たな展開としての「人間本性論」
ハーシュマンは「ルネサンス期」から出発する。この時代の決定的な事件としてハーシュマンが跡づけたいのは「国家論の新たな展開であり、既存秩序の中で統治術を改善する試みである」という。そこでハーシュマンが着目するのはマキャヴェリによる、理想主義の「道徳哲学者や政治哲学者」に向けたアンチテーゼである。これを決定的事件の萌芽として次のように論ずる。 権力をいかにして獲得し、維持し、拡大するかについて教えるにあたって、マキャヴェリは「事実の真相」と「実際には見えない、実在しない共和国や君主国」との間に根本的で有名な区別をもうけた。その区別の意味するところは、道徳哲学者や政治哲学者はそれまで後者のみについて論じており、君主が活動しなければならない現実世界での手引きを提供してこなかったということである。科学的で実証的な問題接近に対するこのような需要が君主から個人へ、国家の性質から人間の本質へと拡張されたのは後のことである。マキャヴェリは現実主義的な国家観は人間の本質に関する知識を必要とするということをおそらく察知していたのであろう。
マキャヴェリに始まりホッブズ、スピノザ、ヴィーコ、ルソーまでを突き動かした人間本性論はいかなる源泉から要請され、時代を席巻したのか。ハーシュマンは次のように結論づける。
人間を「あるがままの姿において」見ることがなぜかくも強く要請されたかは簡単に説明できる。まず道徳哲学や宗教的戒律に人間の破壊的な情念を制御する務めをもはや任せておけないという気運がルネサンス期におこり、一七世紀には強い確信として定着した。そこから情念を制御する新しいやり方を見つける必要が生じ、きわめて当然のことながら人間性の詳細で容赦のない解剖が始まったのである。
この意味で、ハーシュマンは本書の冒頭で「既存秩序の中で統治術を改善する試み」として、人間本性論を「国家論の新たな展開」として位置づけたのである。次の節では勃興した「人間の破壊的な情念」に対して編みだされた「統治術」を三つに大別して論ずる。
情念の統治術
こうした「国家論の新たな展開」によって編みだされた「統治術」は、情念の抑圧、情念の利用、情念の相殺、の三つに大きく分類できるという。第一に情念の抑圧に対して論じたい。
最も明快な代案は、実はここで検討している思潮より前からあった考え方で、強制と抑圧に訴えるものである。その際必要とあらば力を用いてでも情念の最悪の発現と最も危険な帰結を押しとどめる役目は国家にゆだねられる。これは聖アウグスティヌスの考えであり、16世紀にはカルヴァンが忠実に復唱したものである。(...)聖アウグスティヌスとカルヴァンの政治体制は『リヴァイアサン』で提唱されているものとある意味で密接に関連している。しかしホッブズの決定的な発明である、彼独自の、相互取引的な契約概念は、それ以前の権威的体制の精神と全く相容れないものである。 王権神授説はこうした君主制において情念を抑圧する決定的機構であったことに間違いはない。第二に、現代において最も身近な情念の利用について論じる。 心理学的な発見と関心にもう少し調和する解決策は、やみくもに抑圧するかわりに情念を「利用する」という考え方である。ここでもこの芸当をするのは国家あるいは「社会」であるが、それらは今度は単なる抑圧のとりでではなく、情念の変革者、その文明化の担い手として現れる。破壊的な情念を建設的なものに変身させる構想は、すでに十七世紀に見られる。アダム・スミスの「神の見えざる手」を見越していたパスカルは、人間の偉大さを弁護して、人間は「情欲から称賛すべき仕組みと美しい秩序を梳き出した」と述べている。十八世紀初頭にはジャンバティスタ・ヴィーコがこの考え方をさらにはっきりさせたが、それは彼特有の血湧き肉躍る発見の香りに充ちている。「[人類を惑わす三つの悪徳である狂暴、強欲、野心から〔社会は〕国防、商業および政治を形作り、それによって共和国の力と富と叡智が生まれる。すなわち地上の人間を確実に破滅させる三大悪徳から、社会は市民の幸福を生み出す。この原則は神の摂理を証明するものである。私的な実利に完全に没頭している人間の情念は、その叡智ある法によって、人間の社会生活を可能にする市民的秩序に変貌する」。(...)人間の情念を利用し一般の福祉にまで役立てるという考えは、ヴィーコと同時代のイギリス人のバーナード・マンデヴィルによってかなりの程度まで展開された。しばしばレッセフェールの先駆者と見なされるマンデヴィルは、事実『蜂の寓話』において一貫して「抜け目のない政治家の巧みな統治」こそが「私的悪徳」を「公的利益」に転換させるために必要な条件であり原因である、と訴えかけている。(...)彼が一般論を展開せずに終わった後を承けて、この問題を取り上げ周知の通り赫々たる成功を収めたのが『国富論』の著書アダム・スミスであったが、この作品は(...)この間に生じた言葉の進化に助けられたため、スミスはその命題をなじみやすく説得力あるものとする上で偉大な一歩を踏み出すことができた。それというのも彼は、マンデヴィルの衝撃的な逆説を弱めるために、「情念」や「悪徳」といった言葉を、「便宜」や「利益」といった穏やかな言葉で置き換えたからである。情念を利用するという考えは、このように限定された穏やかな形をとることによって19世紀自由主義の主たる教義として、また経済学説の主柱として、生き延び栄えることができた。(...)同じ考えが最も鮮やかに見られる代表的な例として、ゲーテの『ファウスト』に登場するメフィストフェレスを最後に挙げよう。彼の有名な自己定義は、「常に悪を志しながらいつも善をもたらす力のひとかけら」である。ここにあっては、よこしまな情念を具体的に利用する考えはすっかり放棄されてしまったようであり、かわりにかの情念の転換は情け深くも隠された世界の過程によって達成されるようである。 ここで非常に重要なのは、情念の利用という主題がパスカル、ヴィーコ、マンデヴィルらを通じて展開され、それをアダム・スミスがより実践的で啓蒙的に転換させ現代のリベラリズムへと至るという文脈である。こうした二つの方策に対して「十七世紀のモラリストたち」は「第三の解決策」を提示したという。それが情念の相殺である(これのイメージとしては『1984年』とか『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』が近いかも?)。ここで第一にその論者としてイギリス経験論の祖たるベーコンを紹介する。 ここまで精読した読者は、マキャヴェリ的国家論と非常によく共鳴するなんとも経験論的な言説であるだろう、と思ったであろう。が、不思議なことに「この考えは、十七世紀において思想と人格ともに両極端に位置するベーコンとスピノザに見られた」のだ。つまり「形而上学的傾向を持ち実生活の実践経験においてはベーコンに劣るスピノザが同様の考えを抱いたことである」。勿論「事実彼は全く別の理由でこう考えるにいたった」のだ。次にこうした合理論者のスピノザ的相殺論を紹介したい。 情念論を詳論するために、『論理学』の中でスピノザは、議論の展開に不可欠なものとして二つの命題を提出している。「情念は、それに対抗するより強い情念がない限り抑制することも除去することもできない」。そして「善悪に関する真の認識は、それが真であるだけでは情念を抑える力にはならない。情念を抑えられるのは、その認識が情念であるとみなされる時に限られる」。(...)先の引用部分は、情念の威力と自立性をまず強調し、『倫理学』中でスピノザのたどる旅路の最終目的地に至ることがいかに難しいかを十分にわからせることを目的として描かれたのである。その目的地とは情念に対する理性と神の愛の勝利であって、情念に対して情念を対抗させる考えはそれへの単なる途中の段階にすぎない。しかし同時にこの考えがスピノザの著作の頂点において必須の要素でもあったことはその最後の命題を見ても明らかである。「われわれが浄福の喜びを見出すのは情欲を抑制しているからではない。むしろ反対に、われわれは浄福に喜びを見出すからこそ情欲を抑制できるのである」。