アルバート・ハーシュマン
1970“Exit, Voice and Loyalty”
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「回復メカニズム」としてのEXIT/VOICE
第一章の結論部をまずさきに引用したい。
本書の結論を述べよう。イグジットとヴォイス、つまりは、市場力と非市場力、経済的メカニズムと政治的メカニズムとは、文字通り対等な力と重要性をもつ二つの主役として導入された。これを基礎として議論を展開していくなかで、私は、政治学者には経済的概念の有用性を、そして経済学者には政治的概念の有用性を知ってもらいたい。
つまり本書の試みの一つとして行われるのは、経済的メカニズムの市場力としてのEXITを政治学者に、政治的メカニズムの非市場力としてのVOICEを経済学者に届けることなのである。この結論を理解すべく、まずはハーシュマンのEXIT/VOICEの定義から入るとしよう。
(一)顧客がある企業の製品の購入をやめたり、メンバーがある組織から離れていくという場合がある。これがすなわちイグジットオプションである。イグジットオプションが行使される結果、収益が低下したり、メンバー数が減少したりする。したがって経営陣は、イグジットをもたらした欠陥がどんなものであっても、これを矯正する方法・手段を模索しなければならなくなる。(二)企業の顧客や組織のメンバーが経営陣に対して、あるいは、その経営陣を監督する他の権威筋に対して、さらには耳を傾けてくれる人なら誰に対してでも広く訴えかけることによって、自らの不満を直接表明する場合がある。これがすなわちヴォイスプションである。ヴォイスオプションが行使される結果、経営陣はこの場合も、顧客やメンバーの不満の原因をつきとめ、可能な不満解消策を模索しなければならなくなる。
ハーシュマンはこの二項を「回復メカニズム」と呼び、その重要性を説く。秩序の崩壊或いは社会構造の機能不全を防ぐには、「個人や企業、組織」の特に「弱っている主体をできるだけ多く、社会がうまく機能するのに必要な行動へとひき戻す力が当該社会の内部から生みだされなければならない」。こうした力こそ「回復メカニズム」である。それゆえ「回復のメカニズムこそ、人々の苦境と社会的な損失を回避するうえで有益な役割を果たすことになろう」。そして先の引用にあったように、EXIT/VOICEの双方が我々を「模索」へと導いてくれるダイナミズムを発生させる。こうした論理構成のもとにハーシュマンは「回復メカニズム」としてのEXIT/VOICEに着目するのだ。ここで、第一章の結論部に戻るとすると、なぜこれらは経済的メカニズム/政治的メカニズムとされているのか。ハーシュマンは次のように論ずる。
回復のこうした内生的諸力の性質・強さを検証する際、すでに述べたように、私たちの研究は、二つに枝分かれしている。相互に排他的ではないにせよ、イグジットとヴォイスという対照的な二つのカテゴリーが経済学と政治学という、より根本的な分立を忠実に反映していないとすれば、収まりがつかないだろう。イグジットは経済学の領域に属し、ヴォイスは政治学の領域に属している。ある企業の製品に不満を感じ他の企業の製品に切り替える顧客は、自らの厚生を保持したり状況を改善するために市場を利用し、さらにまた、他社と比較して業績が落ちている企業に回復をもたらす市場諸力を稼働させる。経済学はまさにこのメカニズムを対象とし発展してきた。それは、人がイグジットするか否かのどちらかという点ではっきりとしている。またそれは、予測できずどうなるかわからない要素を抱えながら顧客と企業が直接対峙することはいっさいない、という意味で非人格的である。したがって、ある組織がうまくいっているのか、失敗しているのかは、統計上の数字をとおしてその組織に伝えられる。さらに、衰退する企業の側のいかなる回復も、商品切り替えという顧客側の決定が生みだす意図せざる副産物であり、「神の見えざる手」のおかげであるという意味で、それは間接的なものである。ヴォイスは、これらすべての点においてまさにイグジットの対極にある。ヴォイスは、弱々しい不満の声から激しい抗議行動にいたるまで程度に差があるため、離脱よりもはるかに「ごたついた」概念である。それは、スーパーマーケットの苦情受付箱に一人「こっそりと」投書するというよりも、むしろ自らの批判的見解をはっきりと表明するということを示唆している。そして最後に、それは、回りくどいというよりも、直接的で率直なものである。ヴォイスとは、すぐれて政治的な行為なのである。
このような理由で、非人格的で間接的な経済学的メカニズムがEXITなのであり、それに対してはるかに政治的(≒人格的)で直接的な政治学的メカニズムがVOICEなのである。ここで、再び第一章の結論部に戻るとする。ここまでEXIT/VOICEの定義から、それらが属する領域、そして理論の重要性を論じてきたわけだがハーシュマンはこれを踏まえてなぜ、「政治学者には経済的概念の有用性を、そして経済学者には政治的概念の有用性を知ってもらいたい」のだろうか。それは、この二項それぞれが属さない領域で極めて不当な扱いを受けてきたからである。例えば経済学ではVOICEを「非効率」的だとか「厄介な政治的経路」とし、政治学ではEXITを「逃亡、離反、裏切り」として「罪深いものという汚名を着せ」てきたのだった。つまり「一方にとって良い力は他方にとって悪い力であるといった具合に理解されてきたのである」。
もともと経済学者は、自らのメカニズムがはるかに効率的で、実際上、真剣に取り扱われるべき唯一のものと思い込む傾向にある。こうした偏見は、公教育に市場メカニズムを導入することを説いたミルトン・フリードマンのよく知られた論文に如実に示されている。フリードマンの提言のエッセンスは、学齢期の子供をもつ親に特定目的のヴァウチャーを配布するというものである。このヴァウチャーを使い、親は私企業が競争的に供給する教育サーヴィスを購入できるというわけである。こうした計画を正当化するため、彼は次のように述べている。「親は、ある学校から自分の子供を退学させ別の学校へ転校させることによって、学校に対する自らの考え方を今よりもはるかに直接的に表明できるだろう。現在、一般的には、転居する以外に親はこうした手段をとりえない。あとは、厄介な政治的経路を通じて自分たちの意見を表明できるにすぎない」。ここでフリードマンの提言のメリットについて議論するつもりはない。それよりもむしろ、私がこうした一節を引用しているのは、それがイグジットを好み、ヴォイスを嫌う経済学者の偏見を示す、ほとんど完全な事例だからである。まず第一に、フリードマンは、ある組織に対し快く思っていないことを表明する「直接的な」方法として、退去、つまりはイグジットを想定している。経済学の訓練をさほど受けていない人ならば、もっと素朴に、考えを表現する直接的な方法とは、その考えを言明することじゃないか、と思うことだろう。第二に、フリードマンは、自らの考え方を発言すると決めて、それを広く訴えようと努力することなど、「厄介な政治的経路」に頼ることだと、侮蔑的にいい放っている。だが、まさにこうした経路を掘り起こし、それを利用し、望むらくはそれをゆっくりとでも改善していくよりほかに、政治的で、まさに民主主義的なプロセスがあるだろうか。国家から家族にいたるまで、およそ人間の関わるすべての制度において、ヴォイスは、いかに「厄介な」ものであろうと、その制度に関係するメンバーが日常的につきあっていかなければならないものなのである。注目すべきことに、今現在、問題にぶつかりながらも、大都市において公立学校をよくしようと大きな努力が払われている。公立学校をその構成員の要望に、もっと応えられるものにしようというのである。その際、公立学校システムにおける構成員と管理者とのコミュニケーションを以前ほど「厄介」でなくするための手段として提唱され、取り組まれてきたのが分権化である。だが盲点、つまり(ヴェブレンのいう)「訓練された無能力」に陥り、二つのメカニズムのうち一方の有効性を認識できなくなっているのは、経済学者だけではない。実際、政治学の分野で、イグジットは、経済学の分野におけるヴォイスよりもはるかに不適切な扱いを受けてきた。イグジットは、ただ単に非効率だとか「厄介」であるとかにとどまらず、罪深いものという汚名を着せられることが多かった。というのも、それが逃亡、離反、裏切りと決めつけられてきたからである。
こうした見解をもって次のように唱え、結論部に至るのだ。
典型的な市場メカニズムと典型的な非市場・政治メカニズムの両者が、ときには調和的に、それぞれの機能を高めあうように働き、ときには邪魔をしあい、それぞれの効率性を低下させるように働く。この相互作用の様子を観察するという特別な機会を生かそうとするなら、どちらの側も、あまりに一方に入れ込んだり、偏見を抱いたりしないようにする必要があるのは明らかである。市場力と非市場力のこうした相互作用をつぶさに観察すれば、経済学のある分析ツールが政治的現象を理解するのに役立つこと、そして逆の場合も同じであることが分かるだろう。そしてさらに重要なことに、この相互作用を分析することによって、経済学・政治学それぞれ個別の分析によるよりも、社会の動きがより完全なる形で理解できるようになるだろう。こうした観点からすると、本書は、『経済発展の戦略』における叙述の多くが依拠していた論法を新しい分野に適用したものとみなすことができる。「どんな不均衡状態であれ、市場力の作用だけで均衡が回復するかどうか、という問題を延々と議論するのが経済学者の伝統であるように思われる。たしかにそれはおもしろい問題である。しかし、社会科学者として私たちは、もっと大きな問題、すなわち、いやしくも不均衡状態が是正されるのは、市場力と非市場力こいずれによるのか、それとも両者の共同作用によるのかという問題を取り上げねばならない。非市場力が必ずしも市場力よりも非「自動的」ではないというのがここでの論点なのである」。ここで私が関心を抱いていたのは、均衡の攪乱、および均衡への復帰である。ケネス・アローは、最適を満たさない状態から最適な状態への移行について、これときわめて似かよった議論を展開している。「ここで私は次のような見方を提示する。すなわち、市場が最適状態を達成することに失敗する場合、社会は最適状態とのギャップを少なくともある程度は認識するであろうし、そのギャップを架橋しようとして非市場的な社会制度が生まれるだろう。(...)このプロセスは必ずしも意識的なものとはかぎらない」。
1971『情念の政治経済学』
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情念史
ルネサンス期国家論の新たな展開としての「人間本性論」
ハーシュマンは「ルネサンス期」から出発する。この時代の決定的な事件としてハーシュマンが跡づけたいのは「国家論の新たな展開であり、既存秩序の中で統治術を改善する試みである」という。そこでハーシュマンが着目するのはマキャヴェリによる、理想主義の「道徳哲学者や政治哲学者」に向けたアンチテーゼである。これを決定的事件の萌芽として次のように論ずる。
権力をいかにして獲得し、維持し、拡大するかについて教えるにあたって、マキャヴェリは「事実の真相」と「実際には見えない、実在しない共和国や君主国」との間に根本的で有名な区別をもうけた。その区別の意味するところは、道徳哲学者や政治哲学者はそれまで後者のみについて論じており、君主が活動しなければならない現実世界での手引きを提供してこなかったということである。科学的で実証的な問題接近に対するこのような需要が君主から個人へ、国家の性質から人間の本質へと拡張されたのは後のことである。マキャヴェリは現実主義的な国家観は人間の本質に関する知識を必要とするということをおそらく察知していたのであろう。
これは後に引用される、ベーコン道徳哲学者批判と同様の主張である。「彼らは確かに善や徳や義務や幸福の試案を含む、まともで平均的な模範や手本をつくった(...)。しかしどのようにしてこの卓越した目標に到達するのか、またこれらの追求を適切に行うために、どのように人間の意志を形成し抑制するかについて彼らは全く触れていない」。上記は『君主論』の次の語に象徴的である。「理想を追いかけて現実に目を向けない者は、長続きせず、やがて滅びるだろう」。これが「国家論の新たな展開」の初動なのである。ただこうしたマキャヴェリの視点は鋭いが、彼自身が理論的に「君主から個人へ、国家の性質から人間の本質へと拡張」できたとは言い難い。が、「国家論の新たな展開」芽吹はあくまでマキャヴェリによるものだとハーシュマンは語るのだ。これは上記引用にあるように単なる転回ではなく理論の拡張であることは留意せねばならない。そして次の世紀で本格的に「君主から個人へ、国家の性質から人間の本質へ」と国家論の争論領野が拡張的に理論化されていく。
次の世紀には大きな変化が生じた。数学と天体運動論の進歩を背景にして、落下物や惑星と同様に人間の行動についても法則が見つかるのではないかという希望が広がったのである。それゆえガリレイを基礎として人間の本質について語ったホッブズは、国家の本質を語るに先立って『リヴァイアサン』の冒頭十章を費して人間の本質に言及している。(...)スピノザ(...)は、「人間をありのままの形でとらえず好みに合うような形で考えている」哲学者たちを攻撃している。(...)「ありのまま」の人間が今日のいわゆる政治学の固有の主題であるということは、十八世紀において時としてほとんど慣例的に言われ続けてきた。スピノザを読んでいたヴィーコは他の点はともかくとしてこの点に関しては彼に従った。ヴィーコの『新科学』によれば、「哲学は人間をあるべき姿においてとらえるため、ロムルスの辛酸に身を投ずることを欲せずプラトンの共和国に住みたいと考えるごく少数の人々にだけ役立つものである。〔それに対して〕法律はあるがままの人間を問題とし、彼が人間社会で役に立つようにすることに寄与する」。マキャヴェリやホッブズとは人間観において大きく隔たったルソーでさえ、こうした考え方には一目置いており、『社会契約論』を次の文章で書き始めている。「人間をあるがままにとらえ、法をありうる姿においてとらえた場合、正当で確実な何らかの統治の原則が見出されないかどうか検討してみたい」。
マキャヴェリに始まりホッブズ、スピノザ、ヴィーコ、ルソーまでを突き動かした人間本性論はいかなる源泉から要請され、時代を席巻したのか。ハーシュマンは次のように結論づける。
人間を「あるがままの姿において」見ることがなぜかくも強く要請されたかは簡単に説明できる。まず道徳哲学や宗教的戒律に人間の破壊的な情念を制御する務めをもはや任せておけないという気運がルネサンス期におこり、一七世紀には強い確信として定着した。そこから情念を制御する新しいやり方を見つける必要が生じ、きわめて当然のことながら人間性の詳細で容赦のない解剖が始まったのである。
この意味で、ハーシュマンは本書の冒頭で「既存秩序の中で統治術を改善する試み」として、人間本性論を「国家論の新たな展開」として位置づけたのである。次の節では勃興した「人間の破壊的な情念」に対して編みだされた「統治術」を三つに大別して論ずる。
情念の統治術
こうした「国家論の新たな展開」によって編みだされた「統治術」は、情念の抑圧、情念の利用、情念の相殺、の三つに大きく分類できるという。第一に情念の抑圧に対して論じたい。
最も明快な代案は、実はここで検討している思潮より前からあった考え方で、強制と抑圧に訴えるものである。その際必要とあらば力を用いてでも情念の最悪の発現と最も危険な帰結を押しとどめる役目は国家にゆだねられる。これはアウグスティヌスの考えであり、16世紀にはカルヴァンが忠実に復唱したものである。(...)聖アウグスティヌスとカルヴァンの政治体制は『リヴァイアサン』で提唱されているものとある意味で密接に関連している。しかしホッブズの決定的な発明である、彼独自の、相互取引的な契約概念は、それ以前の権威的体制の精神と全く相容れないものである。
王権神授説はこうした君主制において情念を抑圧する決定的機構であったことに間違いはない。第二に、現代において最も身近な情念の利用について論じる。
心理学的な発見と関心にもう少し調和する解決策は、やみくもに抑圧するかわりに情念を「利用する」という考え方である。ここでもこの芸当をするのは国家あるいは「社会」であるが、それらは今度は単なる抑圧のとりでではなく、情念の変革者、その文明化の担い手として現れる。破壊的な情念を建設的なものに変身させる構想は、すでに十七世紀に見られる。アダム・スミスの「神の見えざる手」を見越していたパスカルは、人間の偉大さを弁護して、人間は「情欲から称賛すべき仕組みと美しい秩序を梳き出した」と述べている。十八世紀初頭にはジャンバティスタ・ヴィーコがこの考え方をさらにはっきりさせたが、それは彼特有の血湧き肉躍る発見の香りに充ちている。「[人類を惑わす三つの悪徳である狂暴、強欲、野心から〔社会は〕国防、商業および政治を形作り、それによって共和国の力と富と叡智が生まれる。すなわち地上の人間を確実に破滅させる三大悪徳から、社会は市民の幸福を生み出す。この原則は神の摂理を証明するものである。私的な実利に完全に没頭している人間の情念は、その叡智ある法によって、人間の社会生活を可能にする市民的秩序に変貌する」。(...)人間の情念を利用し一般の福祉にまで役立てるという考えは、ヴィーコと同時代のイギリス人のバーナード・マンデヴィルによってかなりの程度まで展開された。しばしばレッセフェールの先駆者と見なされるマンデヴィルは、事実『蜂の寓話』において一貫して「抜け目のない政治家の巧みな統治」こそが「私的悪徳」を「公的利益」に転換させるために必要な条件であり原因である、と訴えかけている。(...)彼が一般論を展開せずに終わった後を承けて、この問題を取り上げ周知の通り赫々たる成功を収めたのが『国富論』の著書アダム・スミスであったが、この作品は(...)この間に生じた言葉の進化に助けられたため、スミスはその命題をなじみやすく説得力あるものとする上で偉大な一歩を踏み出すことができた。それというのも彼は、マンデヴィルの衝撃的な逆説を弱めるために、「情念」や「悪徳」といった言葉を、「便宜」や「利益」といった穏やかな言葉で置き換えたからである。情念を利用するという考えは、このように限定された穏やかな形をとることによって19世紀自由主義の主たる教義として、また経済学説の主柱として、生き延び栄えることができた。(...)同じ考えが最も鮮やかに見られる代表的な例として、ゲーテの『ファウスト』に登場するメフィストフェレスを最後に挙げよう。彼の有名な自己定義は、「常に悪を志しながらいつも善をもたらす力のひとかけら」である。ここにあっては、よこしまな情念を具体的に利用する考えはすっかり放棄されてしまったようであり、かわりにかの情念の転換は情け深くも隠された世界の過程によって達成されるようである。
ここで非常に重要なのは、情念の利用という主題がパスカル、ヴィーコ、マンデヴィルらを通じて展開され、それをアダム・スミスがより実践的で啓蒙的に転換させ現代のリベラリズムへと至るという文脈である。こうした二つの方策に対して「十七世紀のモラリストたち」は「第三の解決策」を提示したという。それが情念の相殺である(これのイメージとしては『1984年』とか『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』が近いかも?)。ここで第一にその論者としてイギリス経験論の祖たるベーコンを紹介する。
情念を互いに区別して毒をもって毒を制するようなことはできないだろうか。比較的無害な情念を用いて他のもっと危険で破壊的な情念を相殺できないだろうか。またもしかしたら「分割統治」の要領で同士討ちをさせて情念を弱め飼い慣らせないだろうか。こうした考えは、(...)単純明快なものであったが、しかし聖アウグスティヌスがかすかに暗示しているとはいっても、すべての情念を同時に攻撃するという計画よりおそらく思いつきにくい考えであった。(...)ベーコンにとってこの考えは、経験に基づく帰納的な思考を妨げてきた、形而上学的・神学的な束縛をふりきるための系統だった試みの結果だった。「人間の欲求と意志」を論じている『学問の進歩』の中で、彼は伝統的な道徳哲学者たちを次のように批判する。「(...)彼らは確かに善や徳や義務や幸福の試案を含む、まともで平均的な模範や手本をつくった(...)。しかしどのようにしてこの卓越した目標に到達するのか、またこれらの追求を適切に行うために、どのように人間の意志を形成し抑制するかについて彼らは全く触れていない」。この批判はマキャヴェリ以来おなじみのものだが、ここでの比喩は驚くほど示唆的である。数ページ後にベーコンは自ら提示した課題を解決すべく自らこの任に就く。彼は哲学者との対比で詩人や歴史家を褒めるという形でその主張を展開する。それというのも後者は、「感情がいかにしてくすぶり燃え上がり、鎮められ抑えられ、(...)いかにして姿を現し、作用し、変化し、集まり、強め合い、他に包み込まれて、他と闘い、遭遇するか、といった具体的な事柄を生々と描いたからである。特にこの最後の点は道徳的・政治的に有用である。私が言うのは、いかにして感情同士を対抗させ一方によって他方を征服できるか、という点である。ちょうど獣によって獣を獲り、鳥によって鳥を捕らえるように。ちょうど国の統治においても党派同士を牽制させることが時には必要なように、内心の統御似ついても同様にすることが時には必要である」。この力強い一説は、とりわけ最後の部分に見られるように、詩人や歴史家の業績よりベーコン自身の政治屋、政治家としての豊かな個人的体験に明らかに基づいていると言えよう。また情念同士を互いに対抗させることでコントロールするという考えは、権威にとらわれない、経験的な彼の思想の傾向とよく合致する。
ここまで精読した読者は、マキャヴェリ的国家論と非常によく共鳴するなんとも経験論的な言説であるだろう、と思ったであろう。が、不思議なことに「この考えは、十七世紀において思想と人格ともに両極端に位置するベーコンとスピノザに見られた」のだ。つまり「形而上学的傾向を持ち実生活の実践経験においてはベーコンに劣るスピノザが同様の考えを抱いたことである」。勿論「事実彼は全く別の理由でこう考えるにいたった」のだ。次にこうした合理論者のスピノザ的相殺論を紹介したい。
情念論を詳論するために、『論理学』の中でスピノザは、議論の展開に不可欠なものとして二つの命題を提出している。「情念は、それに対抗するより強い情念がない限り抑制することも除去することもできない」。そして「善悪に関する真の認識は、それが真であるだけでは情念を抑える力にはならない。情念を抑えられるのは、その認識が情念であるとみなされる時に限られる」。(...)先の引用部分は、情念の威力と自立性をまず強調し、『倫理学』中でスピノザのたどる旅路の最終目的地に至ることがいかに難しいかを十分にわからせることを目的として描かれたのである。その目的地とは情念に対する理性と神の愛の勝利であって、情念に対して情念を対抗させる考えはそれへの単なる途中の段階にすぎない。しかし同時にこの考えがスピノザの著作の頂点において必須の要素でもあったことはその最後の命題を見ても明らかである。「われわれが浄福の喜びを見出すのは情欲を抑制しているからではない。むしろ反対に、われわれは浄福に喜びを見出すからこそ情欲を抑制できるのである」。