フーリエ
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哲学者たち(政治学者、道徳学者、経済学者等々)は、たえず行政あるいは宗教の改善に社会的幸福を探し求めてきた。これとは逆に私は、行政とも聖職とも全く関係がなく、産業的ないしドメスティックな方策だけに基づき、そしてどんな政府とも両立しながらも、その介入を必要としない操作に社会的幸福を求めてきた。
フーリエは、『四運動の理論』の冒頭で宣言する。人間は、これまで情念を抑圧し、禁欲の上に社会を築こうと努力してきたが、いまだかつて一度もそれに成功したことはない。なぜなら、人間はいくら裕福になろうとも、おのれの情念を充足させることがなければ、けっして幸せにはならないはずだ。ならば、むしろ、情念の抑圧をやめて、情念の上に社会を作り上げたらどうか。ただし、情念をそのまま解放したのでは、社会に混乱を招くだけなので、まず情念を分類し、それを階層化・構造化して組み合わせ、その組み合わせに基づいて社会を作らなければならない。これがフーリエの情念理論である。
一、社会的運動。その理論の解明すべきものは、神がそれらに則って、住民をもつすべての天体における諸々の社会機構の配置と継承とを規制した諸法則である。
二、動物的運動。その理論の解明すべきものは、神がそれらに則って、諸々の天体における過去または未来のあらゆる創造物に、情念と本能とを配分する諸法則である。
三、有機的運動。その理論の解明すべきものは、神がそれらに則って、諸々の天体において創造された、または創造さるべきあらゆる物質に、特性、形、色、味、等々を配分する諸法則である。
四、物質的運動。この理論はすでに近代幾何学によって解明されたところだが、その結果知られたものは、神がそれらに則って、諸々の天体に対し物質の重量を規制した諸法則である。
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真実の不要さ
もし自然の体系に関する知識が、現存する悪を是正し、人間に有害なものを有用なものに変化せしめる方法を与えないならば、そんな知識はわれわれにとって無益なものだろう。いかなる自然の理法において星々が創造に参与するか、なぜ馬と驢馬とが土星によって創造されたか、 そんなことを知ったとて何になろう?
技術による上位物創造の地平
われわれにとって大事なことは、反対鋳造の作業によって、それらをふたたび創造の分野に連れもどす技術であろう。この作業によって、たとえば今までライオンだった動物は、堂々たる従順な四足獣、弾力性に富んだ 一個の乗り物、すなわち「反獅子アンチ・ライオン」に一変するであろう。もしこの乗り物に乗って未明に ブリュッセルを出発するならば、朝食はパリで、昼食はリヨンで、夕食はマルセイユで食うこ とが出来るばかりか、その日一日、全速力で飛ばす馬に乗って旅行したよりも、疲労はずっと少ないであろう。なぜなら馬は単純粗野な(単蹄の)乗り物であるのに、反ライオンはやんわりしたぱね付きの乗り物にひとしいからである。現在用いられている鋳型より三倍も大きな鋳型を使って、人間が反ライオン、反虎、反豹などといった、弾力性に富んだ乗り物を次々と作 り出した暁には、馬などは耕作用か閲兵用に棄て置かれるだろう。⋯⋯わずか五年でこの新しき創造は、地上といわず海といわず、三界ことごとくに有りあまる富をもたらすだろう。反鯨は凪のとき船を曳っぱり、反鮫は魚類を駆出す役を引受け、反河馬は河で小舟を曳き、反鰐は河川労働者となり、反あざらしは海上の乗用獣となるであろう。 多元的に秩序化されてく情念
せっかくだから、ここで原則をくり返しておこう。すなわち、誰にも迷惑をかけずに多くの人々に快楽をもたらすことがつねに善なのであり、調和世界では、そういう善に期待をかけていくべきなので、快楽を限りなく多様化させていかなくてはいけないのである。したがって、調和世界では、無数の淫蕩嗜癖に期待をかけていくようになる。(...)そして、文明世界におけるのとはちがって、各人の嗜癖を揶揄するのではなく、それを奨励し、集団に結びつけることにだれもが懸命になるようになる。もし大軍隊の中に、踵を掻くのが好きな十二人の男と、この暇つぶしを気に入っている十二人の女がいるなら、愛踵という変種を得ることになる。物質的及び心情的なたくさんの集団変種を手に入れるという目的に照らして、この変種は、他と(...)まったく同じ有益となるであろう。
フーリエにとって「踵掻きのように無限小のもの、すなわち嗜癖であれ」、快楽の限りない「多様化」に貢献する重要な情念なのだ。