ボードリヤール
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資本主義批判
ボードリヤールにとっての豊かさとは、モノの豊富さではない。豊かさにはモノの量は必ずしも必要ではなく、
ほんのわずかの、常に有限の財だけで普遍的冨を生みだすのに十分なのだ。なぜなら、それらの財はある人々から他の人びとへと絶えず移動するからである。富は財のなかに生じるのではなくて、人々のあいだの具体的な交換のなかに生じる
という。そして真の豊かさとは下記と表現する
未開社会の特徴である集団全体としての"将来への気づかいの欠如"と"浪費性"
つまり、真の豊かさとは、モノの量ではなく、モノを交換する人間関係である。「豊かさ≠モノの量」だが「豊かさ=人間関係」ということ。
この真の豊かさを求めずに、モノの量による豊かさを追い求めても、その先に幸福はない。幸福とは自身の欲求が充足され、比較すべき他人との差異がない状態である。
成長という虚構
ボードリヤールは成長によって貧困や格差は解決しないどころか、成長が格差を生みだしているという。なぜなら、成長の中心には他人に対する格差が「ひずみ」として生み出され、それが成長の原動力になっているからである。
まさに成長の中心において進行しているのはひずみの過程だし、成長に構造と真の意味を与えているのは、このひずみ率にほかならないのだから〜このシステムが〜体系的不平等を含みつつ安定している〜成長自身が不平等の関数であるというべきなのだろう また、成長によってモノの量として豊かになったとしても、「ひずみ」によって生み出された他人との差異は「心理的困窮」を生み出す(つまり以下結論である)。
成長の社会はもっと深い意味で豊かな社会とは正反対だ〜この社会は特権を生産する社会なのである。
つまり経済が成長して所得が増え、消費できるものが増えると豊かになり、その先に幸福な生活が訪れる、というプロセスを、ボードリヤールは「消費社会の神話」として切り捨てる。 彼のいう「神話」とは、かつての日本でも「土地神話」と言ったように、集団が漠然とした経験値から信じている「思い込み」をいう。
ガルブレイスとの差異
しかし、これらはシステムの次元のこととして捉えるべきで、下記に述べる通り、概念を厳密に区別する。
これらの欲求はシステムの要素として生み出されるのであり、個人とモノとの関係として生み出されるものではない。〜だから真なる命題は「欲求は生産の産物である」ではなくて、「欲求のシステムは生産のシステムの産物である」〜「人為的アクセル」の作用がなかったなら、〜個人の領域でのバランスのとれた「調和ある」満足をめざす傾向が存在する〜のだが、こうした見解はまったく空想的である
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記号社会
欲求の形相
ガルブレイスも含めて既存の消費論は、人は欲求充足のためにモノの使用価値を消費すると考える。それに対し、下記点がガルブレイスとの決定的な違いである。
もはやはっきり規定された機能や欲求には全く結びついていない〜欲求とは決してある特定のモノへの欲求ではなくて、差異への欲求 (社会的な意味への欲求)
例えば赤と青の対比に、女性と男性という意味が付与されると赤は女性という記号に、青は男性という記号になる。
ここに生産のシステムは黄色という新たな対比色を持ち出してくる。すると私たちが認識する色の世界は赤と青の2色から赤、青、黄の3色の世界に変わる。そして黄色には子ども用という意味が付与される。こうして新たな記号が生まれる。
さらに対比色として緑が登場し、男女の別なく環境に配慮する人の記号になる。認識可能な対比色が乏しくなってくると、パステルカラー、アースカラー、ツートンカラーなどが次々と出てきて、意味が与えられる。それらの色も区別しにくくなるとレインボーカラーが登場し、LGBTの記号となる。
このように、商品たちは下記作用を持つ
鎖のように切り離しがたいモノの一貫した集合的な姿を押しつけてくる
こうして生産のシステムによって用意された記号(上の例でいうと色と意味の結びついたもの)の体系が各商品分野に存在し、それぞれの記号に意味(記号化されたモノ)が付与される。その意味を自分のものにして他人との差異を表示し、アイデンティティを確立しようとするのが記号消費である。 記号消費について
下記でいう「個性」はその人が本来持つ特徴、「個性化」は記号によって獲得した差異で演出した自分の特徴である。
かけがえのない特質と特別な重みをもった絶対的価値としての「個性」、そんな個性は存在せず、〜今や「個性化」されようとしている〜人びとは決してモノ自体を(その使用価値において)消費することはない。理想的な準拠としてとらえられた自己の集団への所属を示すために、あるいはより高い地位の集団をめざして自己の集団から抜けだすために、人々は自分を他者と区別する記号として(もっとも広い意味での)モノを常に操作している
そして生産のシステムは、モノを記号化することであらゆるものや事象を消費対象に変える。その手法は、ボードリヤールが「解放」と呼ぶもので、その物の現実の特徴を破壊し、その後に代わりの「モデル」を提示する。
例えば、田園都市(ボードリヤールは「緑の都市」という)
森を切り倒して「緑の都市」と命名した集落を打ち立てる。そこにはいくらかの樹木が植えられて、それが自然の「代わり」をする
そして、私たちには元の自然の森林の姿は忘れられ、作られた公園の木々に本物の森林以上に自然を感じるようになる。
「自然化」とは、自然を解体したあとで記号として現実の中へ復活させることである
則、私たちを取り巻くものは全て本物ではなく、本物のシミュレーションである。
豊かになった人間たちは、〜モノによって取り囲まれている
この「モノ」というのは記号化されたモノ=記号のことで、元の物の本来の姿ではない。しかし、現実を生きているつもりの私たちは、生々しい現実には直接触れずに、マス・メディアによって"記号化された現実"や"記号化された商品"に囲まれて安楽な生活を送っている
われわれは記号に保護されて、現実を否定しつつ暮らしている
在り方の記号化
こうして現実が記号化されていくと、生の人間関係も記号化される。親と子、会社の上司と部下、先生と生徒、すべての人間関係は「モデル」としての役割を演じ、その役割にふさわしい口調、ふるまいをする。
個人はもはや自律的価値の中心ではなく、流動的相互関係の過程における多様な関係の一項にすぎなくなる
即ち、形式化されてしまった人間関係に代わって、記号となったモノたちが私たちのことを親身に気づかってケアしてくれる。
こうして、生産のシステムはモノだけでなく、社会のあらゆるものを記号化して消費対象の記号とし、その記号を通して人間関係を生産するに至る。
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価値の構造的革命
ソシュールは言語の諸項の交換に二つの次元を与え、それらを貨幣と同一視している。すなわち、貨幣は、何らかの価値をもつ物財と交換されうるであろうし、他方では貨幣システムのすべての他の項と関連づけられ得るであろう。彼は、徐々にではあるが、後者の側面に価値という用語を指定するようになった。つまり、この価値は、一般システムに内在し、差別的対立からなる、すべての項の間の相対性を意味している 第一の次元は「何らかの価値をもつ物財と交換されうる」貨幣という「構造的次元」。
第二の次元は「貨幣システムのすべての他の項と関連づけられ得る」、「一般システムに内在」する「すべての項の間の相対性」としての「価値」という「機能的次元」。
第一の側面は、言語活動の構造的次元に対応し、第二の側面は、その機能的次元に対応する。二つの次元は区別されるが、互いに接合しあっている。
こうした「両次元は一体となって作用」し、「この緊密な結びつきが、指示機能がつねに言語の構造的働きの目的性として現れる」。「このような意味作用の「古典的」段階」或いは「このような「古典的な」価値の経済学を終焉させた」ひとつの革命なあるという。これが本章の題目である、「価値の構造的革命」である。
価値を、その商品形態を越え出て、根源的な形態へと連れもどす価値革命がそれだ。〜座標的価値が絶滅されて、価値の構造的働きだけが前景に出る。構造的次元は座標的次元を排除して自立し、後者の死の上に樹立される。生産・意味作用・情動・実体・歴史といったもろもろの座標軸は終焉し、一種の有用さや重さのしるしをまだ帯びている「実在的」内容との等価関係も、実在を代理する等価形態も終焉した。〜これらすべてのことは、ソシュールもマルクスもまだ予感していなかった。彼らはまだ、資本と価値の「古典」時代でもある記号と実在との弁証法の黄金時代のなかにいる。この弁証法は四散し、実在は価値の幻想的自立化の一撃の下で死にたえる。決定性が死にたえ、非決定性が王座につく。生産の実在、意味作用の実在の文字通りの意味での絶滅(脱-項化)が生じたわけである。 ここで言われている座標的次元の終焉とはなんなのか。まずボードリヤールは、先ほど述べた経済学における「価値の二側面」の「緊密な結びつき」の起源を次のようにマルクスにみる。「両者はマルクスの分析全体にわたって弁証法的に接合されており、経済学が要求する生産の合理的配置図を定義する」。つまり「座標的次元」とは「第一の次元」と「第二の次元」の弁証法的接合によって、立ち顕れる「合理的配置図」なのである。その意味でボードリヤールは「価値の二側面は、互いに緊密に結合しており、あたかも自然法則によって永久に結びあわされているかのごとく信じられてきたが、実は分解されるのだ、という点にこの革命の眼目がある」というのである。そうすると「座標的価値が絶滅されて、価値の構造的働きだけが前景に出る」を次のように解釈できるのではないか。それは〔価値の第一の次元:構造的次元〕、〔価値の第二の次元:機能的次元〕、〔双次元の弁証法的接合によって立ち顕れる次元:座標的次元〕、の区分であり、価値革命が「座標的価値」の終焉を惹き起こし「根源的な形態へと連れ戻す」というのは、第一の次元の回帰という意味ではなかろうか。実際「構造的働き」「構造的次元」という言明からもそれを補完できるだろう。
すべてが浮遊しはじめる
価値の座標系が労働になり、価値法則がすべての労働の一般的等価性を指すことになる
これを境に、富が自然的に分配されていた自然的価値法則が崩れ、「人間労働(社会的労働)」で価値が測定できる商品法則が社会を支配するようになる。
かつて労働は、社会的生産や富を蓄積する社会的目標の現実性を表すこともできた。資本と剰余価値のなかで搾取されるときですら、いやまさにそのときにこそ、労働は資本の拡大再生産とそれの最終的な破壊のための使用価値を保持していた。いずれにしてもひとつの目的性が労働を貫いていた。たとえ労働者が自分の労働力の単なる再生産のなかにのみこまれていようと、生産過程が無意味な再生産として体験されていたというのは本当ではない。
すなわち「価値の座標系」によって「生産、商品形態、労働力、等価性、剰余価値は物質的で測定可能な量的配置図」を導出可能であった。それゆえ「人間労働(社会的労働)の判別的で合理的な働き」を生み出すということである。それこそ「目的性が労働を貫いていた」所以なのである。だが「この配置図も今やわれわれにとって過去のものとなった」という(それがつまり構造的次元への回帰である)。それはなぜか。
ところが、われわれは価値の商品法則から構造法則へと移行してしまった。〜今日では事態は変わった。労働は今日ではもう能産的ではなく、労働への割当てを再生産するものになっている。それは、生産したいのかしたくないのかすらわからなくなっている社会の一般的パターンのようなものである。〜労働はもはやひとつの力ではなく、労働はもろもろの記号のなかのひとつの記号になったからである。労働は他のものと同じく生産され消費される。労働は、全面的等価性にしたがって、非-労働、余暇と交換され、日常生活の他のあらゆる部門と転換可能である。労働は〜今ではもう個別的な社会諸関係を生みだす特異な歴史的「実践」の場所ではない。労働は、大部分の実践と同じく、信号発信操作の集まり以上のものではない。〜労働者はもはや人間ではなく、男でも女でもない。労働者はそれにふさわしい性をもっている。それが彼をひとつの目的に結びつけるこの労働力なのだ。女性がその性(性的定義)によってマークされるように、また黒人がこの皮膚の色によってマークされるように、労働者は労働力によってマークされる。彼ら自身が記号であり、記号以外の何ものでもない。
ボードリヤールは、ソシュール的言語学的双次元の「緊密な結びつきが、指示機能がつねに言語の構造的働きの目的性として現れる」と述べているが、これと同じように、「座標系」によって指示されていた「等価性」が視認不可能になり、それによって「目的性」が損なわれ「労働そのものの浮遊」したということである。それゆえボードリヤールは「意味作用の実在の文字通りの意味での絶滅(脱-項化)が生じた」というのだ。
このようにして「座標系」或いは「商品法則」を失った人間は、「判別的で合理的な」認識基準を失い、労働の「目的性」が内破されるため、「個別的な社会諸関係を生みだす特異な歴史的「実践」の場所ではない」たんなる記号になるのである。だから「労働はもろもろの記号のなかのひとつの記号になった」のだ。その文脈で「労働の意味作用が、以前の生活の想像界を伴いつつ浮動する変数になってしまっている事態に由来する」と述べるのだ。ちなみにここでいう浮遊=浮動は浮遊するシニフィアンやレヴィ=ストロース的意味と異なる。 生産の目的性を奪われ、生産からの影響をうけなくなると〜貨幣は座標記号から構造形式へと移行する。ここに「浮遊する」記号表現の固有の論理が生まれる。「浮遊する」記号表現というのは、それがまだ記号内容を見いだしていないが、いつかは記号内容を見いだすだろうといったレヴィ=ストロース的意味での記号表現ではなくて、記号表現の繁殖と無際限の戯れへの制限となるあらゆる記号内容(現実のなかにある等価物)から解放されているという意味での記号表現である。〜経済学の諸カテゴリーが金標準、労働力、社会的生産を失うことになると、それを境にそれらはすべて浮遊しはじめる。労働と非労働、労働と資本は転換可能になり、すべての論理が溶けて流れる。それに加えて、金標準の心的等価物たる主体が見失われてしまうと、意識のすべてのカテゴリーもまた浮遊しはじめる。生産者たちが諸価値を交換しあう等価関係をコントロールし裁可する準拠審級はもはや存在しない。それは金標準の終わりである。主体と客体が弁証法的に交換しあい、確実な規則にしたがって、安定した同一性をめぐって諸規定を交換するようにとりはからう準拠審級もやはり存在しない。それは意識の主体の終わりである。 このように「座標系」が損なわれることによって等価性のネットワークが瓦解し「構造法則」の世紀に至ることを「構造的次元は座標的次元〜の死の上に樹立される」と表現したのである。それが「全面的相対性の段階、全般的置換・組み合わせ・シミュレーションの段階である。あらゆる記号が互いに交換しあうが、今や決して実在と交換されることがないという意味でのシミュレーション(諸記号は十全に交換しあうわけではない。諸記号は、もはや実在と交換されないという条件つきでのみ、相互に完全に交換しあうのである)、記号の開放」とボードリヤールが述べることである。 労働が特定の生産と無関係になる労働の完成形態においては、労働と賃金との等価関係もなくなる。〜今日では賃金がもらえないということはない。誰でも賃金は与えられるのであるが、それは労働の対価としてではない。誰もが労働を支出してくれるようにするためにである。これは別種の労働のあり方である。そして賃金を受け取るものは、物を消費し利用するなかで、彼が労働のなかで被るのとまったく同じ緩慢なる死の象徴関係を再現する。利用者は、資本の下での労働者とまったく同じような、物の延期された死を生きる(彼は物を祭儀のためにつかうのではない、彼は物を「利用し」、物を機能的に「利用する」)。そして賃金が仕事の一方的な贈与を贖うのと同じく、物に支払われた価格は使用者が物の延期された死を贖うことに違いない。その証拠は象徴的規則にあって、この規則によれば代価なしに手に入れたもの(富クジ、贈物、賭けでもうけた金)は用立てられるのではなくて、すっからかんになるまで浪費されるのである。
つまりこれは記号化された労働と-誰もが労働を支出してくれるようにするための-記号化された規則(象徴的規則?)との交換なのではないか。それゆえ「賃金が労働力から切り離されることになれば、際限のない最大限の賃金要求をおしとどめるものは何もない(労働組合を除けば)。ひとは少なく労働するに応じて、高賃金を要求するにちがいない」というのだ。
労働力は死とひきかえに、つくりあげられる。人間が労働力になるためには、死なねばならぬ。彼はこの死を賃金という形で貨幣化する。しかし賃金と労働力との不等価性の面でみられるような、資本が人間におしつける経済的暴力は、人間を生産力と定義することで人間に加えられる象徴的暴力に比べればとるに足りない。経済的等価性のもつまやかしも、賃金と死との記号としての等価に比べればとるに足りないものだ。量的等価性の可能性ですら、死を予想する。賃金と労働力との等価は労働者の死を予想し、すべての商品が互いに等価であることは物の象徴的死滅を予想する。死はいたるところで等価計算と無差別的な規整を可能にする。この死は暴力的でも物理的でもない。それは生と死との無差別的コミュニケーションであり、生きのこることあるいは延期された死のなかで生と死をそれぞれ骨抜きにすることである。
この引用の意味も手前の引用から理解できよう。記号としての「労働力になるため」に人間は死に、賃金をうけとる。雇主は「誰もが労働を支出してくれるようにするため」に賃金を支払う。これは全くもって等価性の原理ではないと言えるだろう。
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シミュレーション概念
最も華麗なシミュレーションのアレゴリーはボルヘスのおとぎ話だ。そこでは帝国の地図師があまりにも線密に地図を描いたので、結局領土をそっくり覆い隠してしまった。(だが帝国がおとろえるのにつれて、地図は少しずつぼろぼろになりついに廃墟と化す~ちょうど複製が古くなるにつれて本物と見分けがつかなくなってしまうようなものだ。)~今、抽象作用とはもはや地図、複製、鏡あるいは概念による抽象作用ではない。~シミュレーションとは起源も現実性もない実在のモデルで形作られたもの、つまりハイパーリアルだ。 領土が地図に先行するのでも、従うのでもない。今後、地図こそ領土に先行する―シミュラークルの先行―地図そのものが領土を生み出すのであり、仮に、あえて先のおとぎ話の続きを語るなら、いま広大な地図の上でゆっくりと腐敗しつづける残骸、それが領土なのだ~帝国の砂漠にあらず、われわれ自身の砂漠に点在する遺物とは、地図ではなく実在だ。実在の砂漠それ自体だ 本書の主題について
こんな実在でも真実でもないカーブを描く空間に至る過程で、あらゆる照合系〔照合し照合されるかんけい→照合系〕が排除され、シミュレーション時代の幕が開く。−最悪な場合にはその照合系は意味より柔軟な素材である記号システムの中で人工的に蘇り、その結果その素材は、あらゆる等価のシステム、あらゆる二項対立に、あらゆる組み合わせ自在な数値的操作に身を捧げる。だから〜問題なのは、実在の記号を実在に置き換えることだ。 /icons/白.icon
ディズニーランド論
ディズニーランドとは、錯綜したシミュラークルのあらゆる次元を表すかんぺきなもでるだ。〜群衆を魅了するのは実在するアメリカ、その強制と歓喜を表す社会の縮図、宗教的快楽、ミニチュア化がまずそこにあるからにちがいない。〜ディズニーランドとは≪実在する≫国、≪実在する≫アメリカすべてが、ディズニーランドなんだということを隠すために、そこにあるのだ。(それはまさに平凡で言いふるされたことだが、社会体こそ束縛だ、ということを隠すために監獄がある、と言うのと少々似ている)。
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歴史的変遷
基礎付け
歴史とはわれわれが失ってしまった照合系、つまわりわれわれの神話だ。だから歴史はスクリーンの上で神話と交代する。
「前近代」では、シミュラークルは、オリジナル(実在)からシミュレーション(表象化・記号化)してつくられるコピー(偽物)であり、この時代においてはまだ、シミュラークル(表象・記号)とオリジナル(実在)との区別は、明確です。
「近代」になると、科学技術の発達にともない正確な複製品を大量生産することが可能になり、オリジナル(実在)とシミュラークル(表象・記号)の区別は、曖昧となり、オリジナル(実在)の意味(意義)が希薄化します。
「現代」になると、シミュラークル(表象・記号)は、オリジナル(実在)を必要としなくなり、シミュラークル(表象・記号)をひたすらシミュレーション(表象化・記号化)するようになり、画一的なシミュラークル(表象・記号)で構成されたシミュラークル(表象・記号)のみの世界になります。
そして、オリジナル(実在)がほとんど意味(意義)を喪失し、〈世界〉が巨大なシミュラークルそのものになり、私たちは、その〈世界〉に取り残されている存在だと指摘しています。
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