ガルブレイス
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たとえばある人物の消費は、他の人物の消費欲求を生み出すかもしれない (消費者同士の見栄張り競争)。あるいは生産者は宣伝などの活動によって,積極的に欲求をつくり出すかもしれない(下記引用)。 物の生産が満足させる欲望は、その物の消費がつくり出した欲望であるか、またはその物の生産者がつくり出した欲望なのだ。
彼はこのように主張することで、人びとの自律的な欲求の存在をもって生産の重大性を正当化する既存の経済学に異を唱えた。
欲求が生産に依存したものであるならば、欲求の存在を理由に、無批判に生産の拡大を肯定することはできないと考えたのだ。人びとは、伝統と神話によって生産に関心を持つように強制されている。
経済学的な通念によって、「生産の重要さ」という暗黙の前提それ自体を疑うことができないでいる。生産の増加が幸福の追求につながると信じている。依存効果の指摘は、こうした視点に疑問符を投げかけ、新たな経済観察への道を拓くものであると、ガルブレイスは考えていた(下記引用)。
われわれはそれ「生産の増大」以外の機会を探求する自由を得るのだ
言いかえればガルブレイスは〈「自律的な個人による実質のある欲望」自発的で自然で基礎的な欲求 /「生産過程に依存する空虚な欲望」 他発的で不自然で過剰な欲求〉の区別を用いて,後者が前者を疎外しているという形で議論を展開したのである。こうした二分法はそのまま消費社会への異議申立ての根拠となった。
欲求の内容を吟味し、あるいは生産による欲求の創出を止めることができれば,「自由で意識的な主体」が「物語の終わりにハッピーエンドとして再登場」するというわけである。
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主題
本書で私が意図していることは、以上に述べたことによって示唆されていると思う。特定の経済学説は特定の世界の中で発展したのであって、私は経済学をそのように世界を反映したものとして見ようとしている。たとえば、アダム・スミスの学説は産業革命初期のショックという状況の中で、リカードの学説は産業革命のいっそう成熟した段階において、マルクスの学説は資本家的権力によるしめつけの時代において、ケインズの学説は大不況の仮借ない災厄に対する応答として、それぞれ発展した。 主題に基づく構成
私の主たる関心は、特定の著者、学派もしくは時代の中心的な考え方を取り出して強調し、なかんずく継続的な反響を現代にも及ぼしているものに焦点を当てることにある。
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結論
これまで見てきたように過去は受動的な興味の対象ではない。過去は、現在のみならず未来をも、能動的かつ強力に形づくるものである。経済学に関するかぎり、歴史のはたらきはきわめて大きい。過去は無視しては、現在を理解することはできない。
経済学の紐付き合い
経済学がその時代の状況から離れて存立しえないことも十分明らかになったと思う。或る時代の政治的・経済的事実はその時代の経済学に形式を与える。〜ケインズが断言したように、経済学の観念は政策に指針を与える。しかしまた、観念は政策の所産でもあり、観念が奉仕する利害関係の所産でもあるのだ。
経済学の流動性
経済の現実及び経済制度が変化すると、あらゆる経済思想がその影響を受ける〜経済学は最終的かつ不変のシステムを完成することにかかわっている、と考える向きも少なくないが、決してそうではない。経済学は変化に対してたえず適応しているのであり、ときには不承不承そうしているのである。このことを認識しないと、確実に陳腐化し、誤りを積み重ねることになる。