アレクサンダー・ギャロウェイ
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主題
わたしたちは、社会生産にかかわる他の分野や他の領域を掘り下げていかなくてはならない。それも自分たちの主たる仕事に対する趣味や補足としてではなく、その仕事の本体をなす一部としてのことである。
ただある意味で「コンピュータと批判理論とのあいだ」を示しているのが「コード」というテクストであるという。
アンドレ・バザンにとっての映画がそうであったように、またはロラン・バルトにとってのファッションがそうであったように、コンピュータというものは、深いところでテクストから成り立っているメディウムであるとわたしは考えている。 つまり「わたしの試みはコンピュータのコードという終わりのない流れを、人がテクストをあつかうときにまさにそうするように読むこと」こそ「コンピュータと批判理論とのあいだ」なのだ。
最終的には、わたしがこれらの著者に多くを負っていることは次第に明らかとなるものの、情報化や人工知能、またはヴァーチャルなものについての社会的ないし文化−歴史的な特徴を検証することがここでの目的ではない。それよりもアンドレ・バザンが映画作品を研究し、ロラン・バルトがストリップショーを研究したようにして、わたしはコンピュータを研究したいのである。
そこで具体的には「ダイアグラム」「テクノロジー」「マネジメント」を中心的に論じる。
この著作は、ダイアグラム、テクノロジー、マネジメント様式についてのものである。ここでいうダイアグラムとは分散型ネットワーク(distributed network)、つまりは蜘蛛の巣や網細工に似た中心なき構造形式のことである。そのテクノロジーとはデジタルコンピュータ、すなわち、あらゆる他の機械の働きを実行しうる抽象機械のことである(それが論理の面で記述されうるのであれば)。そのマネジメント様式とはプロトコル、つまりはコンピュータに生じた機構原理のことである。これらの三つが一体となって、新世紀が始まるころに重要なものとなった、管理=制御コントロールの新たな装置(appratus)を規定しているのである。 その論考は、経年的なかたちで、近代と呼ばれてきた時代の次の時期区分を明確化することから始まる。その近代の後の時期区分は、もはや君主=主権(sovereig)よる中心的な管理にも、監獄や工場における脱中心的な管理にももとづいてはいない。〜ミシェル・フーコーが古典主義時代における君主=主権型社会と呼ぶもの、つまり、中心化された権力と君主=主権の専断によって特徴づけられる社会では、管理が指導者の言葉や行いから伸長したものとして存在し、暴力およびその他の強制的な諸要因に支えられていた。時代がくだって、近代における規律=訓練型社会が定着するようになると、指令と管理は暴力からより官僚主義的な形式へと置き換えられたのである。 ドゥルーズはこの時期区分を現在にまで広げることで、規律=訓練型社会の後に到来する管理=制御型社会を提示していた。まったく新しいテクノロジーが、管理=制御型社会の出現と同時に作用していると、ドゥルーズは考えていたのである。彼によると、「古い君主=主権型社会はてこや滑車、時計といった単純な機械とともに作動した。しかしながら、近年の規律=訓練型社会は、熱力学的な機械を装備していた。〜そして管理=制御型社会は第三世代の機械、つまり情報技術やコンピュータとともに作動する」。マルクスの経済理論がちょうど、工場の生産機械のありようをめぐる厳密な分析に根付いていたのと同様に、ドゥルーズは現代の社会政治の論理を説明するために、コンピュータを来るべき生産力として予告しているのである。 まとめると本書はこうした「第三の「管理=制御」の段階について、個別にいえば、分散型のネットワークのダイアグラム、コンピュータのテクノロジー、プロトコルのマネジメントの様式について詳述」するものである。
Certainly the accelerationists' willingness to challenge leftist orthodoxies is refreshing. I also like how the accelerationists demand that we take technology and science seriously. And I also agree that there are important tactical uses of accelerationist or otherwise hypertrophic interventions (Eugene Thacker and I have referred to them as exploits).
こうして加速主義の態度を一部肯定する。だが-下記引用にあるように-それは戦術に限った話であるとして、加速主義者はそれを戦略と誤謬しているという。
まさにこうした加速主義批判はイヴァン・イリイチの不能化する専門職の時代と合流するだろう。恐らくテクノリバタリアン達はこれをルサンチマンと聞く耳を持たないのだろうが、「paternalistic」な「elitism」なのであれば明らかにニーチェ的な言い訳の範疇を越えているだろう。