イヴァン・イリイチ
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本書においてイリイチは、「価値の制度化(institutionalization of values)」という概念を提示した。そこでイリイチは、過程と実体とを混同させる学校化がその人の想像力に及ぶとき、それは価値の代わりにサービスを受け入れるようにさせるのであり、下記と指摘した。 健康、学習、威厳、独立、創造的な試みといったものは、これらの目的に奉仕すると主張する制度の行為とほとんど同じものと定義される
このような価値の制度化は、不可避的に自然の汚染、社会的な分極化、心理的な不能を導くのであり、このような堕落の過程は、非物質的なニーズが商品の需要に変換されるとき、促進されるのであり、このことについて述べることが本書の主題である。
価値の制度化にゆだねた社会は、財とサービスの生産を、それらに対する需要と同一視する
上記は、財とサービスを区別しつつ、両者が商品として生産されるとき、同時にそれに対する需要をも生産していることを述べているのである。
イリイチの捉える未来像
望ましい将来は、消費の生活よりも行為(action)の生活を慎重に選択するかどうかということに〜行為の生活を支える制度の選択に、将来がかかっている
制度の使用に対する需要を生み出すことなく、個人の自発的で自由な活動、自立しつつ他人とかかわり合うような活動をサポートする制度がコンヴィヴィアルな制度である。
イリイチはこれに操作的制度(manipulative institution)を対置し、下記のように説く
制度は〜消費者に、制度によって提供された生産物や取扱いなしには生活できないと信じ込ませる〜強制的に繰り返しの使用をもたらし、同じ結果を得るための代わりの方法を挫折させるのである
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はじめに-産業主義批判とポスト産業主義への断章
イリイチは「産業主義時代の終焉」というテーマに取り組む。それは次の確信に基づく。
私はとりわけ、人類の三分の二が、その生産様式における脱産業主義的な均衡をいまただちに選択することによって、産業主義時代を経過せずにすますことが、いまなお可能であることをはっきりさせたい。そういう脱産業主義的な均衡は、高度に産業化された諸国民も、混沌状況へおちこむことを望まないならば、採用しないわけにはいかないのである。
イリイチはそのために過去の書籍を通じて、現代の「産業主義的生産様式」を検討してきた。その結論、彼が導出したのは「産業主義的生産様式」が教育に依存しているということである。そこでイリイチは次の三つのテーゼを結論づける。
①
強制的な学校化によって万人に普遍的教育を与えるというのは、とうていできない相談である。
②
教育の生産と市場商品化という代案は、学年編成の義務的学校よりも技術的には実行可能だが、倫理的にはよりたえがたいものである。こういう新しい教育的配置は、高める国においても貧しい国においても、伝統的な学校制度にいまやとって替ろうとしている。それは産業主義的経済における就業者と消費者を条件づけするうえで、潜在的により効果がある。それゆえに、今日の社会を管理するうえでより魅力的であり、国民にとっても誘惑的であり、気がつかぬうちに基本的な諸価値に破壊的な影響を及ぼす。
③
産業成長に教育的限界を設定しうるものがあるとすれば、それは相互学習と批判的な人格的交流が高いレベルに達した社会でなければならない。
これら三つのテーゼを概略したい。第一に普遍教育は学校によって成しえない。第二に、学校によって実装される「教育の生産と市場の商品化」は「教育の大量生産は、教育以外の産業主義的諸企業、つまりサービス商品を生産したり、公益事業として組織されたり、その産出物を基本的必需品として規定したりするような企業にとって範例となりうる」という意味で、「技術的」に可能である。が、それは「倫理的」に容認できない。第三に、産業成長は、一方通行な学校教育が蓋をする。即ち、「相互学習と批判的な人格交流」を以てしかそれを乗り越えることはできない。という以上の三点である。
そのもとに産業主義時代のなにが問題だと考えるか。イリイチは次のように論ずる。
大量生産の限度なき成長が環境を敵対的なものにし、社会の成員が固有の能力を自由に行使することをできなくさせ、人々をたがいに切り離して人工的な殻に閉じこめ、極端な社会の分極化と分裂的な専門化を促進することで、共同体の組織を掘り崩すとき、あるいは、ガンのように悪性の加速化が、社会的変化に、今日の行動の公的な指針としての法的文化的政治的な慣行を否認するような速度を強いるとき、社会は破壊される。(...)こうなれば、企業が名目上、個人によって所有されるか、法人によって所有されるか、それとも国家によって所有されるかといったことは、問題に関係がない。というのは、どんな所有形態であろうとも、このような根本的な破壊行為を、社会の目的にかなうものにすることはできぬ相談だからである。
こうした理由で以て産業社会のいとなみに対して、「社会の脅威となるような組織的いとなみはたえしのぶわけにはいかない」と結論づけるのである。
こうした論理のもとに産業主義を構造的に批判し、ポスト産業主義を構想するという意味で、本書はこれまでにない試みである。ゆえに困難を極める。それは「現代のいろいろイデオロギーは、産業主義的生産を資本主義的に操作することに依存している社会で見られる諸矛盾を明らかにする上では役に立つ。しかしそれは、産業主義的生産様式自体の危機を分析するのに必要な枠組を提供してくれはしない」からである。だがイリイチは夢想する。「いつの日か」その「定式化」がなされるだろう、と。そうした見解のもとに彼は次のように呟く。
この論文がそういう理論の定式化に役立つといいのだが。
則、本書はポスト産業主義理論の「定式化」という試みである。
一章 専門家社会と産業主義社会の崩壊メカニズム
現代医療の第一-分水嶺
1913年という年は、現代の医療の歴史でひとつの分水嶺をなしている。(...)その年あたりから患者は(...)医学校を卒業した医者から専門的な効果ある処置をうける機会が、五十パーセントをこすようになった。それまでは、地域の病気と治療法に精通し患者から信頼されていた数多くの呪医や薬草を使う民間医が、つねに同等かあるいはそれ以上の治療効果をあげて来たのである。
即ち、開かれた医療は1913年を皮切りに、形式化された学問に基づく専門的職業となったのである。
それ以来医学は、何が病気で何がその処置なのかということを定義し続けている。西欧化された公衆は、医学の進歩によって定義された効果的な医療を要求することをおぼえた。歴史上はじめて、医師は自分たちの能力を、自分たちがつくりだした尺度に照らして計ることができるようになった。(...)全社会成員がますます医師に依存するようになった。健康維持は美徳から一転して、科学の祭壇で専門的にとりおこなわれる儀式に変わった。
確かにそれは水の浄化、幼児死亡率の低下、ペストの無力化、トレポネーマ菌の除去、梅毒の予防、医療手順の簡略化、糖尿病判断の明瞭化、インシュリンの自己服用化を可能にした。が、それは「技術者が医学によって発見された新事実に対して払った関心」が可能にしたことに過ぎなく、「医者の介入のおかげであることはたまにしかなかった」のではないかとイリイチは問うのである。即ち、イリイチは研究としての医学は重要だとするうえで、それを特権化し「新技術によって、公衆の目からかく」すような専門的職業としての医学に懐疑をむけるのである。
現代医療の第二-分水嶺
医原病(医者がひきおこした病気)のうちまずあげねばならぬのは、自分たちは患者にすぐれた健康を与えているのだという医師のうぬぼれである。まず、社会計画立案者と医師がその犠牲となった。たちまちこの伝染性の倒錯は社会全体に拡がった。そしてこの十五年のうちに、専門家による医療は健康への主たる脅威となり、医療によってひきおこされた計りきれぬほどの被害をくいとめるために、巨額の金が費やされた。(...)医療専門職が行使する独占が、すべての人間の生活の日常の出来事の上に、ますます広い範囲で及ぶようになった。妊娠していたり、気がふれていたり、怪我をしていたり、病気をしていたり、死にのぞんでいたりする身内や友人たちの世話から、母親たち、叔母たち、その他の素人たちを排除してしまったことの結果として、医療制度が提供できるよりずっと早い割合で医療サービスに対する新たな需要が生じることになったサービスの価値が上昇するにつれて、人々が自ら世話することはほとんど不可能になった。同時に、技術手段をギルドの管理下におくために、新たな専門化や議事専門職をつくりだすことによって、処置が必要と定義される条件がますますふやされていった。 前掲した医原病は第一の分水嶺から観測されるだろうが、遙かに感染力が高い点でそれと異なる。家庭的或いは日常的レヴェルの処置にまで医療が侵蝕し、ときには「新たな専門化や擬似専門職」までをも設置し、あはゆる行為に正否を下していく様は明らかに特権化された医療-という社会的病理としての医原病-の暴走と言えるだろう。
次に第二の分水嶺による医原病の作用としてイリイチが挙げるのは、「富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる」という20世紀的医療の資本主義的症状である。
第二の分水嶺の頃には、(...)高くつく予防や高くつく医療はますます、以前に医療サービスを消費したことがあるという理由でよりいっそうの医療サービスを請求する権利をえた個々人の特権となるに至った。専門家、権威ある病院、生命維持装置に優先的に近づけるのは、大都市の住民である。大都市では、水処理、汚染防止といった基本的な疾病予防の費用はすでに並はずれて高額なのである。予防の一人当りの費用が高ければ高いほど、皮肉なことに診療の一人当りの費用も高くなった。以前に高価な予防措置と診療を消費したことがあれば、なおいっそう並はずれた医療を要求する権利が生じる。現代の学校制度と同様に、病院に基礎をおく健康管理は、持てるものがより多くを受けとり、持たざるものは現に持っているわずかなものさえ巻きあげられるという原理に適っているのである。医療においては、同じ原則が、病苦が医学的管理の増大とともに増大すること、すなわち富めるものは医原病に対していっそうの処置をほどこされ、貧しいものはただ医原病に苦しむだけだということを請けあっているのだ。
こうして第一の分水嶺における医原病との違いがより明らかとなった。20世紀半ば、感染力に裏づけされた医原病は上記で示したように「全社会成員」、ひいては社会構造をも変革する。それを次のように論ずる。
このふたつめの転回点ののち、医療が生んだ誰も望まぬ健康上の副産物が、単なる個人ではなく全社会成員に影響を与えはじめた。富める国々では、医療は中年の者を、よぼよぼになって、より多くの医師とますます複雑化する医療手段を必要とするまで支えるという仕事を始めた。貧しい国々では、現代医学のおかげで、子どもの大部分が青年期まで生きのび、より多くの婦女子が出産を無事にすますようになった。人口は、彼らの住む環境の受容力と、彼らを養って行くための文化の抑制と効率性とをこえて増加した。西欧の医師は原住民がそれと共生して行くことを学んでいた疾病に薬を濫用した。その結果彼らは、現代医療も生得の免疫も伝統的な文化も対抗できないような新しい系統の病気をつくりだした。世界的規模で、しかしとくに合衆国で、医療は、ますます高価かつ人工的で科学的に制御された環境内での家畜化された生活にのみ適合する種類の人間の育成に力を集中した。
特権化された医療は、医療当事者と特権的人間に独占され、貧しきものから回収された富は、更なる独占の種となる。つまり専門家社会が産業主義社会と手を組むことは、社会の分極化を最も加速すると同時に既得権益が無限に肥えるダイナミクスを容認することであり、それは社会秩序の崩壊に近づくと言って差し支えないだろう。
産業主義的制度の倫理
イリイチによれば、それは単に医療市場に限定される話ではない。
医療の危機はその症候が表わしているよりももっと深いレベルにあり、すべての産業主義的制度の今日の危機と合致している。(...)他の産業主義的諸制度も同じく二つの分水嶺をすでに通過した。このことはこの150年のあいだ科学的基準にしたがって再編成されて来た主要な社会的機関についていえる。教育・郵便・社会事業・輸送、さらには土木工学さえこの進化のあとを追った。最初の分水嶺では、新しい知識がはっきり指定された問題の解決に適用されたし、科学的な測定手段が新しい効率を説明するのに用いられた。しかし第二の分水嶺になると、それまでの達成によって立証された進歩が、価値のサービスという形をとった社会まるごとの搾取に対する理論的根拠として用いられる。その価値は、社会のたんなる一構成分子、つまり自分で自分を有資格化する専門職エリートのひとつによって決定されたえず改訂されるのだ。(...)われわれの今日の社会的危機について新鮮な展望を得るには、こういったふたつの分水嶺が存在するのを認識すれば十分である。
では専門家と産業主義が結びついた現行社会は如何なる方途をもって、それを解決せんとするか。イリイチはその紹介とともに批判を投じる。
『原子科学者広報』の編集長は、われわれが今日抱えている諸問題の大部分は、最近得られた知識の誤った適用の結果であると主張し、こういう情報の生みだした混乱に対する唯一の解決策はもっと情報をふやすことであると結論している。科学と技術が問題を生みだした場合、それを克服しうるのはより多くの科学的知識とよりよい技術しかない、というのが今日流行の言い草になっている。悪しき管理の是正策は、管理の増強なのだ。専門分化した研究の是正策はより高くつく学際的研究だというわけで、それはちょうど、汚染された河川の救済策がより高くつく汚染浄化剤であるようなものである。情報ストックの共同利用化、知識ストックの積み立てなど、科学の生産増大によって当面の問題を力づくで解決しようとする企図は、エスカレーションによって危機を解決しようとする究極の企てなのである。 こうした倫理は非常に危険極まりない。情報を情報で補うような進歩的ダイナミクスに伴い、エスカレーションする専門化は産業主義が更なるガソリンを注ぐ。専門家が手に入れた特権的対象は、徹底的に専門化-つまり公衆への秘匿化-されると需給の関係に基づき富む者の元に届く。時代と共に安価で可能となった対象は、貧しき者のなけなしの金銭を巻きあげる。そうして得た金銭は、進歩的ダイナミクスに再びとりこまれ、富む者は奉仕する。それがあらゆる業界で生じた先にあるのは、富める者が万物を支配する、超-専門家社会、換言するなら超-分極化社会である。
ゆえにそれが真に到来するのであれば、それは社会秩序の崩壊であり、共同体の危機である。ここまで論を追うことで、イリイチが「社会の脅威となるような組織的いとなみはたえしのぶわけにはいかない」と確信する意図が実感できるだろう。
第二章
産業社会批判
今日の制度がかかげる諸目的は、自立共生的な有効性を犠牲にして産業主義的生産性をあがめたてようとするもの
今日の管理者たちは、性格や有能さや関心によって選りぬかれた新しい階級をかたちづくっている。(...)誰かが自分が道具の持ち主なのだという幻想のなかに生きていようとも、権力を保有し管理しているのは彼ら管理者なのだ。この権力保有者の階級は除去されねばならないが、それは大量虐殺や人のいれ替えによってできることではない。新しいエリートが現れて、ひき継いだ権力構造の操作においてよりいっそうの正統性を主張するだけだろう。管理は、管理を必要ならしめる機構と、それゆえに管理に支配力を与える産出物への需要とを除去することによってのみ、廃絶することができる。
換言するなら、専門化された産業社会の延長線上にその終焉はない、ということである。本書の一章でイリイチが「悪しき管理の是正策は、管理の増強なのだ」としたように、それは正統性の強化或いは教化に過ぎない。ゆえに独占的なダイナミクスを是正するには、技術官僚(=専門家)による管理の必要性を根源的に断ち切る社会システムの創造があらねばならない。それなくして革命を行っても新たなる正統性の増強に他ならないことは自明だろう。すなわち、現行社会の原因療法として根治せねばならない。
自立共生
産業主義的な生産性の正反対を明示するのに、わたしは自立共生という用語を選ぶ。私はその言葉に、各人のあいだの自立的で創造的な交わりと、各人の環境との同様の交わりを意味させ、またこの言葉に他人と人工的環境によって強いられた需要への各人の条件反射づけられた反応とは対照的な意味をもたせようと思う。わたしは自立共生とは、人間的な相互依存のうちに実現された個的自由であり、またそのようなものとして固有の倫理的価値をなすものであると考える。
技術官僚支配がもたらす災厄にかわる選択として、私は自立共生的な社会のヴィジョンを提案する。
ただイリイチによればそれは「政治的な戦略戦術」ではないという。
自立共生的な生産様式を採用するに(...)さまざまな形態の統治方式が存在する余地がある。新しい技術手段は間違いなく新しい選択の自由を提供するだろう。自立共生的な技術手段は、一定のレベルの権力や強制や計画化を排除する。(...)しかし、自立共生的な生産手段の採用は、それ自体では、ある特定の政治形態が他のものより適切だということを意味するものではないし、また、世界連邦制度をも、民族国家間の協定をも、コミューンをも、もっど伝統的な統治形態の多くをも排除するものではない。
イリイチは、そうして単に、自立共生「社会の道具的再編成が達成されるための基本的・構造的基準を叙述するにとどめたい」と結論づけるのだ。
道具
社会の道具に対する統御が専門家の決定によってではなく政治的過程によって確立され実行されるように保証する手続きが必要なのだ。(...)もしも道具が災厄に対する時期おくれの技術官僚的反応という形で管理されることになろう。自由と尊厳は、人間の道徳に対するこれまで見たこともないような隷属のなかに、姿を没し去るであろう。
このように言うが、イリイチはなにも非自立共生的な道具を全面的に禁止するべきと謳うわけではない。彼はその均衡を重んじるのだ。
大きな技術手段と集中管理的な生産のすべてが、自立共生的な社会から排除されなければならないと信じるのは誤りである。自立共生のためには、自己決定的な参加の平等な権利を最大にするために、産業的な商品およびサービスの分配を、生存できるだけのぎりぎりの線まで切り下げるべきだと要求するのも、おなじく誤りだろう。(...)自立共生的な社会にとって基本的なことは、操作的な制度と中毒性のある商品およびサービスが、全く存在しないということではなくて、特定の需要(それをみたすために道具は特殊化するのだが)をつくりだすような道具と、自己実現を助ける補足的・援助的な道具とのあいだのバランスがとれていることなのである。
私は、道具を使う人々の性格の構造ではなく、道具の構造に焦点を合わせようと思う。
私は"道具"という言葉を、ドリル、ポット、注射器、箒、建築材料、モーターのような簡単なハードウェアだけを、また自動車や発電装置のような大きな機械だけを包含するのではない、広い意味で用いる。すなわち私は、コーンフレークとか電流とか触知しうる商品を製造する工場のような生産施設と、"教育"とか"健康"とか"知識"とか"意志決定"とかを生みだす触知しえない商品の生産システムとを、道具のうちに含めるのである。私がこの言葉を用いる理由は、それを用いれば、人工品であれ規則であれ、コードであれ演算記号であれ、合理的に考案された工夫すべてを、ひとつのカテゴリーに包摂することができるからであり、さらに、こういった計画され設計された手段すべてを、基本的な食料や器具のような、既存の文化のなかでは合理化する必要があるとは思われていない他の物から区別することができるからである。学校のカリキュラムや婚姻法は、道路交通網に劣らず意図的に形成された社会的工夫なのである。 道具は社会関係にとって本質的である。個人は自分が積極的に使いこなしているか、あるいは受動的にそれに使われているかする道具を用いることで、行動している自分を社会と関係づける。彼が道具の主人となっている程度に応じて、彼は世界を自分で意味づけることができるし、また彼が自分の道具によって支配されている度合いに応じて、道具の形態が彼の自己イメージを決定するのである。
前者が「自立共生的道具」であり、後者が「産業主義的道具」である。また後者はイリイチ自身によって「操作的に動かすことができるだけの道具」とも言い換えられる。
いま争点となっているのは道具の法的な所有形態ではなくて、誰にとっても"所有する"ことを不可能にするような、ある種の道具の特徴を発見することなのである。所有という概念は統御することができない道具にあてはまらないのだ。それゆえに当面の争点は、公衆の利益になるように統御できる道具とはいかなるものかということなのだ。
脱産業主義社会の自立共生的な生活スタイルの理論的可能性を、新しい道具のための政治的プログラムに表現し直すためには、今日の道具の一般的な基本構造が人類の生存を脅やかしていることがいますぐ明らかにされねばならない。この脅威が差し迫ったものであり、効率を強制することの影響が、私たちの世代の大部分の人々に、益よりも害を与えていることが明らかにされねばならない。このためには私たちは、今日の諸制度が欲求不満をひきおこすものとなる限度を確認しなければならぬし、また、私たちの道具が社会全体を破壊するものとなるもうひとつの限度を認識せねばならない。
教育批判
すべての人々に啓発の継起的な段階を通過させようとする営みは、中世末期の「偉大なる技芸」であった錬金術に深い源をもっている。十七世紀のモラヴィア派の僧正で、自称百科全書的博識家であり教育学者であったヨハン・アモス・コメニウスは、正当に現代の学校の創始者の一人と見なされている。彼は七ないし十二学年の義務的学習を提案した最初の人の一人であった。『大教授学』のなかで、彼は学校を「あらゆる人にあらゆることを教える」仕組として記述し、知議の流れ作業的生産のための青写真の大要を示した。彼の方法によれば、知識の流れ作業的生産は教育をより安価でよりすぐれたものにし、すべての人にとって可能な十全な人間性へと成長させるはずであった。しかしコメニウスは大量生産についての早期の理論家であったばかりでなく、自分の技芸の技術的用語を、子どもを育成する技術を述べるのに適用した錬金術師でもあった。この錬金術師は、十二の連続的啓蒙の段階を通じてその精神を濃縮することによって、劣位の要素を精錬しようとしたのである。その目的は劣位要素自身と全世界の利益のために、劣位要素が金に変わることであった。 ここでは錬金術と教育がダブルイメージで述べられているので、訳文でそのニュアンスを出すのはむずかしい。「その精神」は原文では'their spirits'であり、theirは「劣位要素 (base elements)」を受けている。つまり錬金術は「濃縮(graduate)」重ねることで劣位要素のspiritsを高いstageにひきあげて行くのだが、劣位要素とはむろんこの場合生徒たちのことであり、graduateには「修業させる」という意味がかけられているわけである。ここで錬金術師が教師と教育学者の暗喩となっていることはいうまでもない。教育の失敗が何度明らかになっても、彼らは失敗の科学的理由を見つけて、ふたたび教育を開始するのである。教育とは絶対に成功することのない錬金術だというイリイチの含意がこめられている。ゆえに以下のように結論づける。
産業主義的生産様式は"教育"と呼ばれる目に見えない新商品を製造することによって、はじめて十分に合理的根拠を与えられた。教育学は"偉大なる技芸アルス・マグナの歴史で新しい一章を開いた。教育は、科学という魔術によってつくりだされた環境に適応する新しいタイプの人間を生みだす錬金術的過程の探求となった。 義務制の学校は巨大な官僚的制度である。
専門化
国家と多国籍企業は、拡大する国際的な専門職の帝国の手段と化している。専門職帝国主義は、政治的支配や経済的支配が打倒されたところでさえ凱歌をあげている。(...)専門職帝国主義の知識資本主義は、国際金融や国際的兵器体系よりも気づかれることなく、そしてそれと同じくらい効果的に人々を征服する。
今日、人々は未来を思い描く仕事を専門的エリートに譲り渡してしまいがちである。
道具とは何か。イリイチは次のようにいう。
私は「道具」というタームを、ドリル、ポット、注射器、箒、建築材料、モーターといった単純なハードウエアだけを、そして自動車や発電装置のような大きな機械だけを含むのではないくらいに、広い意味で用いる。私は、コーンフレークや電流といった触知できる商品を生産する工場のような生産制度と、「教育」、「健康」、「知識」、「決定」を生産するような触知できない商品のための生産システムをも、道具のなかに含めるのである。
触知できる商品、触知できない商品とは、それぞれ財とサービスを商品化したものに相当する。ここにおいても、『脱学校の社会』に見た価値の制度化という議論を引き継いでいるのは容易に見て取れる。価値が制度化されて、触知できない商品、すなわちサービス商品として生産されるというわけである。 イリイチは、個人が道具を支配するか、道具に支配されるかによって、彼が世界に意味づけできるか、「道具の形態が彼自身の自己像を決定する」かの違いができるため、「道具を社会関係にとって本質的なもの」とみなしている。ここには、制度を道具というタームに置き換えることによって、本来はそれが人間が作りだしたものであり、補助的なものであったのだという含意を読み取ることができよう。
ただ、価値の制度化という議論が引き継がれているといったが、本書においては、そのような価値を使用価値(use-value)といいなおし、交換価値(exchange-value)と対置している記述がみられる。イリイチは次のようにいう。
人々は癒す、慰める、移動する、学ぶ、家を建てる、死者を葬るといった生まれながらの能力を持っている。これらの能力のそれぞれがニーズを満たす。これらのニーズを満足させるための手段は、商品には最低限しか依存せずに、主として人々が自分自身のためにできることに依存するかぎり、豊富にある。これらの活動は使用価値を持っており、交換価値が与えられることはなかった。
このように、人間本来の自律的になしうる能力に使用価値をみとめ、それを商品の持つ交換価値と区別することで、価値というタームの使われ方が価値の制度化という議論におけるものよりも厳密になったといえる。
根本的独占と専門家集団
イリイチによれば、そのような交換価値を持つ商品は、非産業的な活動を排除し、個人の自律的な使用価値を奪い、新たなニーズを作りだしていくという根元的独占(radical monopoly)をうちたてる。根元的独占とを以下のように説明する。 一つのプランドの支配よりもむしろ一つのタイプの生産物の支配である。
イリイチの示す例に従えば、普通一般に意味するところの独占のように、コカコーラという一つのブランドが清涼飲料の市場を独占したとしても、その他の領域にあるビールなり水なりで喉の渇きを癒すことが可能であるが、喉の渇きがコーラへのニーズに置き換えられ、コーラ以外に喉の渇きを癒すものがなくなったときに根元的独占となるのである。さらに、根元的独占は下記の機能を持つ
新しい種類の稀少性を導入する
つまり、先に、(使用)価値が制度化される今日の産業的生産様式下にあっては、商品だけでなく、その需要までもが生産されることをみておいたが、それとパラレルに、根元的独占は、新たな稀少性をみいだし、ニーズを作りだしていくような産業的生産様式の下でおこる独占なのである。このように、根元的独占は選択肢がなくなるという意味で徹底的な独占であるとともに、新たなニーズを作りだしつつ、「一つの産業的生産過程が差し迫ったニーズの満足に対して排他的なコントロールを及ばし、非産業的な活動を競争から排除する」ことによって、個人の自律的な能力、すなわち使用価値を奪い、それを商品の強制的消費に置き換えていく点において、まさに根元的な独占なのである。
このような過程を保証するのが専門家権力(professional power)であり、下記のように説明する。
イリイチは、20世紀半ばを、不能化する専門職の時代(the Age of Disablin Professions)と呼ぶことを提案し、その時代感を下記とする。 人々が「問題」を持ち、専門家が「解決」を持ち、科学者が「能力」や「ニーズ」といった測ることのできないものを測定してい四方利明た〜時代
イリイチによれば、専門家の特徴は、下記にあるのである。
コンヴィヴィアリティの導入
以上の産業的生産様式に対置されるのが、コンヴィヴィアリティ(conviviality)に基礎をおくコンヴィヴィアルな生産様式(convivial mode ofproduction)である。イリイチは次のように述べている。
産業的生産性の反対を示すために、私は「コンヴィヴィアリティ」というタームを選ぶ。私はその言葉によって、人どうし、そして人と環境との、自律的で創造的な交わりを意味したい。これは、他人や人間の作った環境によって作りだされた需要に対する人々の条件づけられた反応とは対照的なものである。コンヴィヴィアリティとは、人間的な相互依存のうちに実現された個人的な自由であり、またそのようなものとして固有の倫理的価値をなすものであると私は考える。 産業的生産様式においては商品だけでなくその需要までもが作りだされることから、イリイチが自由というものに極めて価値をおいていることが、コンヴィヴィアリティの概念を出した時点からであることも、この引用から明らかである。というのも、イリイチは、使用価値と商品の対置とバラレルに、自由と権利を対置しているのである。
ただし、「個人的な自由」に価値をみいだしながらも、「交わり」、「相互依存」というふうに、他人とのコミュニケーションについても、このコンヴィヴィアリティというタームは含意している。
イリイチにおける学校化論
我々の学校化の分析は、教育の大量生産を、サービス商品を生産し、公益事業として組織され、そのアウトプットを基本的必需品として定義するような、他の産業的事業のためのバラダイムとして認識するように導いてきた イリイチは、「コンヴィヴィアルな道具の使用によって学ぶことと操作を通して学ぶことのあいだ」の区別をしたうえで、今日の産業社会にあっては、学ぶことのバランスが後者の教育に傾いて、それが根元的独占をうちたてているとする。
ここには、根元的独占がコンヴィヴィアリティを奪うという論理が見受けられる
学校は、学ぶことを教育と再定義することによって学ぶことに対する根元的独占を拡張しようとしてきた〜「教育」と呼ばれる商品と「学校」と呼ばれる制度はお互いを不可欠なものにしている
しかし、学ぶことを教育に置き換えていくのは何も学校だけではない。学ぶことが商品として新たに稀少性が見いだされているのであるが、この稀少性の性質は、学校はもちろんのこと、メディアが生み出すものや消費財に組み込まれた指示、あるいは技術革新に合わせた再教育といったように、教育が取る多くの形態によって隠されているとイリイチはいう。問題はこのような形態の差にあるのではなく、教育そのものにあるのである。産業社会では、何をするにも前もってその方法を教えられなければならないのであり、学校が増大していくのと並行して、他の社会機関も自己の教育的使命を発見したという。
このように、イリイチはまさに社会が学校化されていることを論じているのである。
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ヴァナキュラーなジェンダーという地平
イリイチの問題意識は「商品の過剰生産から生じる望ましくない副作用に指摘すること」、すなわち希少性の仮定の上につくられた社会において「商品を買うほかなくなること」という産業社会批判にある。
このような副作用は産業社会に暗黙のうちに存在し、家庭の維持のため不必要な消費として増加していく。消費するための不必要な労働は「シャドウ・ワーク(支払われない労働)」と呼ばれ、家庭においてはその大部分を女性が担っている。 現在あるような家事労働を、昔の女性たちはしていなかったのだ
イリイチはシャドウ・ワークのルーツを探求したところ、現代では「ヴァナキュラーなジェンダー」が消失していることを発見したのだ。ここでいうヴァナキュラーというのは、「根付いていること」と「居住」を意味し、広義には風土的で伝統的で自給自足的、という意味となる。それぞれの地域が異なった風土や伝統、異なった生活習慣や言語や時間を持っており、ヴァナキュラーな社会を形成していた。ポランニーのいう市場経済が社会から離床する以前の社会のことである。 このヴァナキュラーな社会は、男女ジェンダーにより総合的に作り上げられていた。イリイチは男女ジェンダーによるヴァナキュラーな社会の特徴について以下のように説明している。
ヴァナキュラーな文化における普遍的な特性を明示することにした。ジェンダーによって、男にかかわる場所、時間、道具、課題、話し言葉の形、動作、知覚と、女にかかわるそれらとが区別される〜社会的ジェンダーというものを形成する。私はこれを、ヴァナキュラーなジェンダーと呼んでいる
ヴァナキュラーという地域による多様性を男女の関係にもあてはめたのがヴァナキュラーなジェンダーである。人間の労働力や性格や知性を分極化するセックスとは特性が異なる。セックスとは生殖器のちがいで男女を区別するが、男性セックスにまとめられた単一性の要素が強い。なお、ジェンダーとセックスの転換期はキリスト教社会に入ってからとされており、セックスにはカトリック的な要素もある。カトリック的なセックスに対し、ヴァナキュラーな男女ジェンダーは「互いに補い合って全体を構成〜ある社会の男と女による社会的現実の、互いに相補う認識」として存在し、多かれ少なかれ明確にジェンダーにより分界されつつも総合的に社会を構成していると主張する。 産業社会以前はヴァナキュラーなジェンダーの相補性が生かされ、男女ジェンダーが総合的に社会を形成していた。しかし、産業社会の発展に伴い男性がますます賃金労働のために外にでるようになると、「消費者が、買い入れた商品を使用可能な財に転換する労働」は家庭内で大部分女性が押しつけられることになった。
こうして家庭における男女の労働分担が明確になるとともに、ヴァナキュラーなジェンダーの相補性は身を潜めてしまった。もはや産業社会において容易に気づかれる概念ではなくなったのだ。ヴァナキュラーなジェンダーを、イリイチは現代物理学における相補性にあてはめて説明しようとした。量子力学において、光が波動にも粒子にも帰せず相互に補足しあっていることが証明されたことに影響を受けた。現代物理学の相補性概念を、男女ジェンダーにも当てはめることができると考えたのである。光は波動でもあり粒子でもある。同様に、社会はヴァナキュラーな男女ジェンダーの相補性により総合的に成り立っていると主張した。