イヴァン・イリイチ
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本書においてイリイチは、「価値の制度化(institutionalization of values)」という概念を提示した。そこでイリイチは、過程と実体とを混同させる学校化がその人の想像力に及ぶとき、それは価値の代わりにサービスを受け入れるようにさせるのであり、下記と指摘した。 健康、学習、威厳、独立、創造的な試みといったものは、これらの目的に奉仕すると主張する制度の行為とほとんど同じものと定義される
このような価値の制度化は、不可避的に自然の汚染、社会的な分極化、心理的な不能を導くのであり、このような堕落の過程は、非物質的なニーズが商品の需要に変換されるとき、促進されるのであり、このことについて述べることが本書の主題である。
価値の制度化にゆだねた社会は、財とサービスの生産を、それらに対する需要と同一視する
上記は、財とサービスを区別しつつ、両者が商品として生産されるとき、同時にそれに対する需要をも生産していることを述べているのである。
イリイチの捉える未来像
望ましい将来は、消費の生活よりも行為(action)の生活を慎重に選択するかどうかということに〜行為の生活を支える制度の選択に、将来がかかっている
制度の使用に対する需要を生み出すことなく、個人の自発的で自由な活動、自立しつつ他人とかかわり合うような活動をサポートする制度がコンヴィヴィアルな制度である。
イリイチはこれに操作的制度(manipulative institution)を対置し、下記のように説く
制度は〜消費者に、制度によって提供された生産物や取扱いなしには生活できないと信じ込ませる〜強制的に繰り返しの使用をもたらし、同じ結果を得るための代わりの方法を挫折させるのである
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はじめに-産業主義批判と脱産業主義への断章
イリイチは「産業主義時代の終焉」というテーマに取り組む。それは次の確信に基づく。
私はとりわけ、人類の三分の二が、その生産様式における脱産業主義的な均衡をいまただちに選択することによって、産業主義時代を経過せずにすますことが、いまなお可能であることをはっきりさせたい。そういう脱産業主義的な均衡は、高度に産業化された諸国民も、混沌状況へおちこむことを望まないならば、採用しないわけにはいかないのである。
イリイチはそのために過去の書籍を通じて、現代の「産業主義的生産様式」を検討してきた。その結論、彼が導出したのは「産業主義的生産様式」が教育に依存しているということである。そこでイリイチは次の三つのテーゼを結論づける。
①
強制的な学校化によって万人に普遍的教育を与えるというのは、とうていできない相談である。
②
教育の生産と市場商品化という代案は、学年編成の義務的学校よりも技術的には実行可能だが、倫理的にはよりたえがたいものである。こういう新しい教育的配置は、高める国においても貧しい国においても、伝統的な学校制度にいまやとって替ろうとしている。それは産業主義的経済における就業者と消費者を条件づけするうえで、潜在的により効果がある。それゆえに、今日の社会を管理するうえでより魅力的であり、国民にとっても誘惑的であり、気がつかぬうちに基本的な諸価値に破壊的な影響を及ぼす。
③
産業成長に教育的限界を設定しうるものがあるとすれば、それは相互学習と批判的な人格的交流が高いレベルに達した社会でなければならない。
これら三つのテーゼを概略したい。第一に普遍教育は学校によって成しえない。第二に、第一で示したような学校の不可能性のもとに、そのオルタナティヴとして構想される「教育の生産と市場商品化」というリバタリアン教育は、「技術的には実行可能だが、倫理的にはよりたえがた」く、「気がつかぬうちに基本的な諸価値に破壊的な影響を及ぼす」意味でそれは「倫理的」に容認できない。第三に、産業成長は、一方通行な学校教育が蓋をする。即ち、「相互学習と批判的な人格交流」を以てしかそれを乗り越えることはできない。という以上の三点である。
そのもとに産業主義時代のなにが問題だと考えるか。イリイチは次のように論ずる。
大量生産の限度なき成長が環境を敵対的なものにし、社会の成員が固有の能力を自由に行使することをできなくさせ、人々をたがいに切り離して人工的な殻に閉じこめ、極端な社会の分極化と分裂的な専門化を促進することで、共同体の組織を掘り崩すとき、あるいは、ガンのように悪性の加速化が、社会的変化に、今日の行動の公的な指針としての法的文化的政治的な慣行を否認するような速度を強いるとき、社会は破壊される。(...)こうなれば、企業が名目上、個人によって所有されるか、法人によって所有されるか、それとも国家によって所有されるかといったことは、問題に関係がない。というのは、どんな所有形態であろうとも、このような根本的な破壊行為を、社会の目的にかなうものにすることはできぬ相談だからである。
こうした理由で以て産業社会のいとなみに対して、「社会の脅威となるような組織的いとなみはたえしのぶわけにはいかない」と結論づけるのである。
こうした論理のもとに産業主義を構造的に批判し、脱産業主義を構想するという意味で、本書はこれまでにない試みである。ゆえに困難を極める。それは「現代のいろいろイデオロギーは、産業主義的生産を資本主義的に操作することに依存している社会で見られる諸矛盾を明らかにする上では役に立つ。しかしそれは、産業主義的生産様式自体の危機を分析するのに必要な枠組を提供してくれはしない」からである。だがイリイチは夢想する。「いつの日か」その「定式化」がなされるだろう、と。そうした見解のもとに彼は次のように呟く。
この論文がそういう理論の定式化に役立つといいのだが。
則、本書は脱産業主義理論の「定式化」という試みである。
一章 専門家社会と産業主義社会の崩壊メカニズム
現代医療の第一分水嶺
1913年という年は、現代の医療の歴史でひとつの分水嶺をなしている。(...)その年あたりから患者は(...)医学校を卒業した医者から専門的な効果ある処置をうける機会が、五十パーセントをこすようになった。それまでは、地域の病気と治療法に精通し患者から信頼されていた数多くの呪医や薬草を使う民間医が、つねに同等かあるいはそれ以上の治療効果をあげて来たのである。
即ち、開かれた医療は1913年を皮切りに、形式化された学問に基づく専門的職業となったのである。
それ以来医学は、何が病気で何がその処置なのかということを定義し続けている。西欧化された公衆は、医学の進歩によって定義された効果的な医療を要求することをおぼえた。歴史上はじめて、医師は自分たちの能力を、自分たちがつくりだした尺度に照らして計ることができるようになった。(...)全社会成員がますます医師に依存するようになった。健康維持は美徳から一転して、科学の祭壇で専門的にとりおこなわれる儀式に変わった。
確かにそれは水の浄化、幼児死亡率の低下、ペストの無力化、トレポネーマ菌の除去、梅毒の予防、医療手順の簡略化、糖尿病判断の明瞭化、インシュリンの自己服用化を可能にした。が、それは「技術者が医学によって発見された新事実に対して払った関心」が可能にしたことに過ぎなく、「医者の介入のおかげであることはたまにしかなかった」のではないかとイリイチは問うのである。即ち、イリイチは研究としての医学は重要だとするうえで、それを特権化し「新技術によって、公衆の目からかく」すような専門的職業としての医学に懐疑をむけるのである。
現代医療の第二分水嶺
医原病(医者がひきおこした病気)のうちまずあげねばならぬのは、自分たちは患者にすぐれた健康を与えているのだという医師のうぬぼれである。まず、社会計画立案者と医師がその犠牲となった。たちまちこの伝染性の倒錯は社会全体に拡がった。そしてこの十五年のうちに、専門家による医療は健康への主たる脅威となり、医療によってひきおこされた計りきれぬほどの被害をくいとめるために、巨額の金が費やされた。(...)医療専門職が行使する独占が、すべての人間の生活の日常の出来事の上に、ますます広い範囲で及ぶようになった。妊娠していたり、気がふれていたり、怪我をしていたり、病気をしていたり、死にのぞんでいたりする身内や友人たちの世話から、母親たち、叔母たち、その他の素人たちを排除してしまったことの結果として、医療制度が提供できるよりずっと早い割合で医療サービスに対する新たな需要が生じることになったサービスの価値が上昇するにつれて、人々が自ら世話することはほとんど不可能になった。同時に、技術手段をギルドの管理下におくために、新たな専門化や議事専門職をつくりだすことによって、処置が必要と定義される条件がますますふやされていった。 前掲した医原病は第一の分水嶺から観測されるだろうが、遙かに感染力が高い点でそれと異なる。家庭的或いは日常的レヴェルの処置にまで医療が侵蝕し、ときには「新たな専門化や擬似専門職」までをも設置し、あはゆる行為に正否を下していく様は明らかに特権化された医療-という社会的病理としての医原病-の暴走と言えるだろう。
次に第二の分水嶺による医原病の作用としてイリイチが挙げるのは、「富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる」という20世紀的医療の資本主義的症状である。
第二の分水嶺の頃には、(...)高くつく予防や高くつく医療はますます、以前に医療サービスを消費したことがあるという理由でよりいっそうの医療サービスを請求する権利をえた個々人の特権となるに至った。専門家、権威ある病院、生命維持装置に優先的に近づけるのは、大都市の住民である。大都市では、水処理、汚染防止といった基本的な疾病予防の費用はすでに並はずれて高額なのである。予防の一人当りの費用が高ければ高いほど、皮肉なことに診療の一人当りの費用も高くなった。以前に高価な予防措置と診療を消費したことがあれば、なおいっそう並はずれた医療を要求する権利が生じる。現代の学校制度と同様に、病院に基礎をおく健康管理は、持てるものがより多くを受けとり、持たざるものは現に持っているわずかなものさえ巻きあげられるという原理に適っているのである。医療においては、同じ原則が、病苦が医学的管理の増大とともに増大すること、すなわち富めるものは医原病に対していっそうの処置をほどこされ、貧しいものはただ医原病に苦しむだけだということを請けあっているのだ。
こうして第一の分水嶺における医原病との違いがより明らかとなった。20世紀半ば、感染力に裏づけされた医原病は上記で示したように「全社会成員」、ひいては社会構造をも変革する。それを次のように論ずる。
このふたつめの転回点ののち、医療が生んだ誰も望まぬ健康上の副産物が、単なる個人ではなく全社会成員に影響を与えはじめた。富める国々では、医療は中年の者を、よぼよぼになって、より多くの医師とますます複雑化する医療手段を必要とするまで支えるという仕事を始めた。貧しい国々では、現代医学のおかげで、子どもの大部分が青年期まで生きのび、より多くの婦女子が出産を無事にすますようになった。人口は、彼らの住む環境の受容力と、彼らを養って行くための文化の抑制と効率性とをこえて増加した。西欧の医師は原住民がそれと共生して行くことを学んでいた疾病に薬を濫用した。その結果彼らは、現代医療も生得の免疫も伝統的な文化も対抗できないような新しい系統の病気をつくりだした。世界的規模で、しかしとくに合衆国で、医療は、ますます高価かつ人工的で科学的に制御された環境内での家畜化された生活にのみ適合する種類の人間の育成に力を集中した。
特権化された医療は、医療当事者と特権的人間に独占され、貧しきものから回収された富は、更なる独占の種となる。つまり専門家社会が産業主義社会と手を組むことは、社会の分極化を最も加速すると同時に既得権益が無限に肥えるダイナミクスを容認することであり、それは社会秩序の崩壊に近づくと言って差し支えないだろう。
産業主義的制度の倫理
イリイチによれば、それは単に医療市場に限定される話ではない。
医療の危機はその症候が表わしているよりももっと深いレベルにあり、すべての産業主義的制度の今日の危機と合致している。(...)他の産業主義的諸制度も同じく二つの分水嶺をすでに通過した。このことはこの150年のあいだ科学的基準にしたがって再編成されて来た主要な社会的機関についていえる。教育・郵便・社会事業・輸送、さらには土木工学さえこの進化のあとを追った。最初の分水嶺では、新しい知識がはっきり指定された問題の解決に適用されたし、科学的な測定手段が新しい効率を説明するのに用いられた。しかし第二の分水嶺になると、それまでの達成によって立証された進歩が、価値のサービスという形をとった社会まるごとの搾取に対する理論的根拠として用いられる。その価値は、社会のたんなる一構成分子、つまり自分で自分を有資格化する専門職エリートのひとつによって決定されたえず改訂されるのだ。(...)われわれの今日の社会的危機について新鮮な展望を得るには、こういったふたつの分水嶺が存在するのを認識すれば十分である。
では専門家と産業主義が結びついた現行社会は如何なる方途をもって、それを解決せんとするか。イリイチはその紹介とともに批判を投じる。
『原子科学者広報』の編集長は、われわれが今日抱えている諸問題の大部分は、最近得られた知識の誤った適用の結果であると主張し、こういう情報の生みだした混乱に対する唯一の解決策はもっと情報をふやすことであると結論している。科学と技術が問題を生みだした場合、それを克服しうるのはより多くの科学的知識とよりよい技術しかない、というのが今日流行の言い草になっている。悪しき管理の是正策は、管理の増強なのだ。専門分化した研究の是正策はより高くつく学際的研究だというわけで、それはちょうど、汚染された河川の救済策がより高くつく汚染浄化剤であるようなものである。情報ストックの共同利用化、知識ストックの積み立てなど、科学の生産増大によって当面の問題を力づくで解決しようとする企図は、エスカレーションによって危機を解決しようとする究極の企てなのである。 こうした倫理は非常に危険極まりない。情報を情報で補うような進歩的ダイナミクスに伴い、エスカレーションする専門化は産業主義が更なるガソリンを注ぐ。専門家が手に入れた特権的対象は、徹底的に専門化-つまり公衆への秘匿化-されると需給の関係に基づき富む者の元に届く。時代と共に安価で可能となった対象は、貧しき者のなけなしの金銭を巻きあげる。そうして得た金銭は、進歩的ダイナミクスに再びとりこまれ、富む者は奉仕する。それがあらゆる業界で生じた先にあるのは、富める者が万物を支配する、超-専門家社会、換言するなら超-分極化社会である。
ゆえにそれが真に到来するのであれば、それは社会秩序の崩壊であり、共同体の危機である。ここまで論を追うことで、イリイチが産業主義社会に対して「社会の脅威となるような組織的いとなみはたえしのぶわけにはいかない」と嘆く意図が実感できるだろう。
第二章
錬金術的神話という起源
そんな産業社会はある論理の神話化によってその効力を保ち、イリイチに言わせればそれは失敗に終わった。その神話とは進歩によって機械は人類の奴隷と成すといった仮説である。その仮説は二つの面での「失敗に終わった」。
百年のあいだ、私たちは機械を人間のために働かせようと努めてきたし、また機械に奉仕される生活に適するように人間を学校化しようと努めてきた。いまや機械は働きはしないのだし、人間は機械に奉仕される生活にあうように学校化されはしないのだということは明らかである。実験の基礎となっている仮説はいまや廃棄されねばならない。その仮説とは機械は奴隷のかわりをすることができるというものだった。明らかな証拠によれば、こういう目的に用いられたとき機械は人間を奴隷化するのである。独裁するプロレタリアートも、レジャーをたのしむ大衆も、どちらもたえず膨張する産業主義的な道具の支配からのがれることはできない。 では如何にしてこうした神話が生まれたのか。第一に確かに「過去においては、あるものが自立共生的な生活をするには、他のものが隷属状態におかれることがどうしても必要だった」とイリイチは認める。が、これが現代に通ずる理念だという誤謬の源泉が、産業社会の現在地に起因するという。イリイチによると、それは錬金術である。錬金術によって「機械は実験室で作られたホムンクルスであり、奴隷にかわって、私たちの労働をこなすことができるという幻想がひろまった」ことで、「中世盛期と啓蒙主義の時代とのあいだは、錬金術の夢が、それがなければ正しい途をたどったであろう多くの西欧の人文主義者を誤った方向に導いた」のだ。
すべての人々に啓発の継起的な段階を通過させようとする営みは、中世末期の「偉大なる技芸」であった錬金術に深い源をもっている。十七世紀のモラヴィア派の僧正で、自称百科全書的博識家であり教育学者であったヨハン・アモス・コメニウスは、正当に現代の学校の創始者の一人と見なされている。彼は七ないし十二学年の義務的学習を提案した最初の人の一人であった。『大教授学』のなかで、彼は学校を「あらゆる人にあらゆることを教える」仕組として記述し、知議の流れ作業的生産のための青写真の大要を示した。彼の方法によれば、知識の流れ作業的生産は教育をより安価でよりすぐれたものにし、すべての人にとって可能な十全な人間性へと成長させるはずであった。しかしコメニウスは大量生産についての早期の理論家であったばかりでなく、自分の技芸の技術的用語を、子どもを育成する技術を述べるのに適用した錬金術師でもあった。この錬金術師は、十二の連続的啓蒙の段階を通じてその精神を濃縮することによって、劣位の要素を精錬しようとしたのである。その目的は劣位要素自身と全世界の利益のために、劣位要素が金に変わることであった。もちろん錬金術師たちは、何度も試みようとも失敗した。しかし、彼らの"科学"が失敗の理由を案出するたびに、彼らはふたたび試みたのである。産業主義的生産様式は"教育"と呼ばれる目に見えない新商品を製造することによって、はじめて十分に合理的根拠を与えられた。教育学は"偉大なる技芸アルス・マグナの歴史で新しい一章を開いた。教育は、科学という魔術によってつくりだされた環境に適応する新しいタイプの人間を生みだす錬金術的過程の探求となった。しかし、各世代がどんなに多くの金額を学校に費やそうとも、大多数の人々はより高い段階の啓発にはふむきだと認定され、人工的環境で恵まれた生活をすごす準備ができていないものとして見捨てられなばならないことが、つねに明らかとなった。 ここでは錬金術と教育がダブルイメージで述べられているので、訳文でそのニュアンスを出すのはむずかしい。「その精神」は原文では'their spirits'であり、theirは「劣位要素 (base elements)」を受けている。つまり錬金術は「濃縮(graduate)」重ねることで劣位要素のspiritsを高いstageにひきあげて行くのだが、劣位要素とはむろんこの場合生徒たちのことであり、graduateには「修業させる」という意味がかけられているわけである。ここで錬金術師が教師と教育学者の暗喩となっていることはいうまでもない。教育の失敗が何度明らかになっても、彼らは失敗の科学的理由を見つけて、ふたたび教育を開始するのである。教育とは絶対に成功することのない錬金術だというイリイチの含意がこめられている。
よって、錬金術的神話は教育へとその影響圏を拡大することで、公衆を教養なき「劣位」対象へと貶め、「金」たる専門職を上位の対象へと促すのだ。このメカニズムに基づいて専門家は特権的な地位を得る。しかし専門家を生み出す錬金術的教育はなぜ失敗といるのだろうか。そしてなぜ機械による人間奴隷化が起きているなどと明言できるのだろうか。実際、「機械は奴隷のかわりをすることができる」という仮説は21世紀の現代、素朴な意味で可能な未来に見える。が、実状としては専門家社会において技術発展は、人間奴隷化に過ぎないことを理解しなければならない。なぜなら、医学の分水嶺で示したように専門家集団は「人をクライエントと定義し、人のニーズを決定し、人に処方を与える権威」であり、「強いられた需要への各人の条件反射づけられた反応」を促す人間奴隷化の技術開発局なのである。そのように専門家によってあらゆるニーズと処方が決定されていく先には、「最大多数の最大限の充足とは」専門家によって様々に定義(強要)された「産業主義的商品の最大の消費だとする社会」、が待っており、「個人の自主性は(...)たえがたいほど縮小されている」だろう。 機械の力が増大するにつれて、人間の役割はますます単なる消費者の役割におしさげられていく。(...)富める国々の囚人はしばしば、彼らの家族よりも多くの品物やサービスを利用できるが、品物がどのように作られるかということも決められない。彼らの刑罰は、私のいわゆる自立共生を剥奪されていることに存する。彼らは単なる消費者の地位に降格されているのだ。
即ち、産業社会化(=専門社会化)が発展した「富める国々」では、専門家によって需要及びニーズが定義〔病の規定〕され、それに対する商品〔処方〕までもがその権威によって生産される。この意味で、人間は機械及び道具に奴隷化された消費者になり下がるのであり、これが「人間を学校化」させたことの末路なのだ。そして、それは「劣位」(公衆)を「金」(専門家)の区分を明らかにし、人類を後者へと導く「学校化」を施すことで、専門家の特権化が為され、専門家が産業主義的生産様式を支配できる条件が確立されるのである。この意味でイリイチは「産業主義的生産様式は"教育"と呼ばれる目に見えない新商品を製造することによって、はじめて十分に合理的根拠を与えられた」とするのだ。
よって錬金術的神話はその根を教育に下ろすことで、機械奴隷化どころか、専門社会化とそれによる人間奴隷化という「二つの失敗」を同時に可能とし、現代に「専門職帝国主義」を顕現させ、「人々を征服する」専門家集団を育むのだった。
専門職帝国主義から自立共生社会へのイントロダクション
国家と多国籍企業は、拡大する国際的な専門職の帝国の手段と化している。専門職帝国主義は、政治的支配や経済的支配が打倒されたところでさえ凱歌をあげている。(...)専門職帝国主義の知識資本主義は、国際金融や国際的兵器体系よりも気づかれることなく、そしてそれと同じくらい効果的に人々を征服する。 (...)人々はよりよい教育、よりよい健康、よりよい輸送、よりよい娯楽、そしてよりよい栄養さえも手にいれる。ただしそれは、専門家が設定した目標を「よりよい」ということの尺度と思いこむ場合にかぎっての話だ。 「今日、人々は未来を思い描く仕事を専門的エリートに譲り渡してしまいがちである」。しかしその発展の先にある「自由と尊厳は、人間の道徳に対するこれまで見たこともないような隷属のなかに、姿を没し去るであろう」。では、専門家の除去によってそれは改善されるのか。公衆を専門家の消費対象とし、機械及び道具の奴隷へと変貌させ、人々を征服する専門職らを打倒すればよいのか。答えはNoである。なぜならそれは新たなる「専門職帝国主義」への再生産に過ぎないからだ。
今日の管理者たちは、性格や有能さや関心によって選りぬかれた新しい階級をかたちづくっている。(...)誰かが自分が道具の持ち主なのだという幻想のなかに生きていようとも、権力を保有し管理しているのは彼ら管理者なのだ。この権力保有者の階級は除去されねばならないが、それは大量虐殺や人のいれ替えによってできることではない。新しいエリートが現れて、ひき継いだ権力構造の操作においてよりいっそうの正統性を主張するだけだろう。管理は、管理を必要ならしめる機構と、それゆえに管理に支配力を与える産出物への需要とを除去することによってのみ、廃絶することができる。
換言するなら、専門化された産業社会の改良主義的活動の延長線上にその人間奴隷化の終幕はない、ということである。本書の一章でイリイチが「悪しき管理の是正策は、管理の増強なのだ」としたように、それは正統性の強化或いは教化に過ぎない。ゆえに独占的なダイナミクスを是正するには、技術官僚(=専門家)による管理の必要性を根源的に断ち切る社会システムの創造があらねばならない。それなくして革命を行っても新たなる正統性の増強に他ならないことは自明だろう。そこで「技術官僚支配がもたらす災厄にかわる選択として、私は自立共生的な社会のヴィジョンを提案する」。 産業主義的な生産性の正反対を明示するのに、わたしは自立共生という用語を選ぶ。私はその言葉に、各人のあいだの自立的で創造的な交わりと、各人の環境との同様の交わりを意味させ、またこの言葉に他人と人工的環境によって強いられた需要への各人の条件反射づけられた反応とは対照的な意味をもたせようと思う。わたしは自立共生とは、人間的な相互依存のうちに実現された個的自由であり、またそのようなものとして固有の倫理的価値をなすものであると考える。
しかしそれはユートピアの提案ではないという。
どんなものであれ将来の架空の共同体をくわしく記述することは私の目的にかなわない。私が提供したいのは行動のための指針であって、空想物語ではない。自立共生的な暮らしかたへと向かっている現代社会というものは、もし実現すれば、何人の想像も希望も及ばぬような驚異を花開かせることができる。私はユートピアを提案しているのではない。それぞれの共同社会が独自な社会的配置を選択できる手続きを提案しているのだ。
では「行動のための指針」或いは「社会的配置」の選択とは特定の「政治的な戦略戦術」であるのか。それもイリイチは否定し、自立共生社会とは、あらゆる統治方式の上で成り立つことを示唆する。
自立共生的な生産様式を採用するに(...)さまざまな形態の統治方式が存在する余地がある。新しい技術手段は間違いなく新しい選択の自由を提供するだろう。自立共生的な技術手段は、一定のレベルの権力や強制や計画化を排除する。(...)しかし、自立共生的な生産手段の採用は、それ自体では、ある特定の政治形態が他のものより適切だということを意味するものではないし、また、世界連邦制度をも、民族国家間の協定をも、コミューンをも、もっど伝統的な統治形態の多くをも排除するものではない。
そこで導入するのが「道具」というタームである。イリイチによれば「自立共生的な社会は、他者から操作されることの最も少ない道具によって、すべての成員に最大限に自立的な行動を許すように構想されるべき」であるとし、自立共生的な道具の性質を明らかにすることで、自立共生社会にむけた「行動のための指針」或いは「社会的配置」を示すことができると論ずるのだ。イリイチは、その意味で単に、自立共生社会に向けて「社会の道具的再編成が達成されるための基本的・構造的基準を叙述するにとどめたい」と結論づける。
自立共生的道具
それでは本格的に道具の分析に入りたい。第一にイリイチの分析対象は次のように言明される。「私は、道具を使う人々の性格の構造ではなく、道具の構造に焦点を合わせようと思う」。そこで道具の構造を顕にする前段階として、道具という言葉のもつ範囲とその意義を次のように規定する。
では、触知しうる商品と触知しえない商品を含む広義の「道具」概念のなかで、イリイチの提案する「自立共生」か否かを区別する観点はどこに求めるのか。
自立共生的道具とは、それを用いる各人に、おのれの想像力の結果として環境をゆたかなものにする最大の機会を与える道具のことである。産業主義的な道具はそれを用いる人々に対してこういう可能性を拒み、道具の考案者たちに、彼ら以外の人々の目的や期待を決定することを許す。
上記に則るならば、道具は自然状態において、基本的に「自立共生」的である。そして「道具は、使い手によって選ばれた目的の達成のために、必要ならひんぱんにでもまれでも、誰によっても容易に使われる度合いに応じて、自立共生をはぐくむ」。例えば「ハンマー」、「ポケットナイフ」、「歯医者のドリル」など「手に頼る道具ハンド・トゥールのたいていは、なんらかの制度的配置によって人為的に制限されていないかぎり、自立共生的な使用に適している。それが制限されるのは、資格免許が必要となったことで歯科医のドリルに起こったように、また学校内で設置されることで図書館や実験室に生じたように、ひとつの職業によってそれが独占される場合」に限る。なぜなら、想像力を膨らませることで「歯医者のドリル」は別の用途で使うことが可能になるのであり、それが制限されるのは制度的なもの基づいて設定される過ぎず、本来的に産業主義的な道具では決してないと言えるだろう。しかし制度であるからして、すべて産業主義的な訳でもない。 制度には、その構造からして自立共生的な道具であるものがいくつかある。電話はその一例である。誰であってもコインさえもっていれば、自分の選んだあいてにダイヤルすることができる。(...)電話のおかげで誰でも、自分が選んだあいてと話したいことを話せる。用件を果たすことができるし、恋を語れるし、喧嘩だって売ることができる。官僚たちは人々のやりとりのプライヴァシーに介入したりそれを保護したりはたとえできるにしても、人々が電話でたがいにやりとりする内容を規定するわけにはいかない。(...)第二の分水嶺に向かいつつある制度はすべて、高度に操作的なものになりがちである。たとえば、授業を可能にするには、授業そのものより費用がかかる。役割にかかるコストは生産のコストを超える。制度的な目的の達成に向けられた諸構成要素は、たがいに独立に用いることはできないようにますます設計しなおされる。車をもたないものは飛行機を利用することはできないし、飛行機の搭乗券をもたないものは国際協定に加入しているホテルを利用することはできない。
以上を以てイリイチは道具概念の範囲と自立共生を育むものとそうでないものを区分した。しかしイリイチはなにも非自立共生的な道具を全面的に禁止するべきと謳うわけではなく彼は自立共生的な道具との均衡を重んじることを理解せねばならない。即ち、自立共生「社会の道具的再編成」とは自立共生的な道具と非自立共生的な道具の「バランスがとれている」あらゆる社会を指す言葉なのである。
脱産業主義的世界における望ましい生産のすべての手段が、自立共生の基準に合致するとは限らない、というのはありうることである。圧倒的に自立共生的な世界においてさえ、おそらくいくつかの地域社会は、創造性の制限という犠牲を払ってでもよりゆたかであることを選び取るだろう。一定の国々における現在の生産様式から未来の生産様式への移行期にあっては、電気が裏庭で生産されるのがふつうというわけにはいかないのはほとんど確かである。なるほど、また、列車は線路を走らなねばならぬし、時刻表にもとづいて限られた数の地点に停まらねばならない。(...)大きな技術手段と集中管理的な生産のすべてが、自立共生的な社会から排除されなければならないと信じるのは誤りである。自立共生のためには、自己決定的な参加の平等な権利を最大にするために、産業的な商品およびサービスの分配を、生存できるだけのぎりぎりの線まで切り下げるべきだと要求するのも、おなじく誤りだろう。(...)自立共生的な社会にとって基本的なことは、操作的な制度と中毒性のある商品およびサービスが、全く存在しないということではなくて、特定の需要(それをみたすために道具は特殊化するのだが)をつくりだすような道具と、自己実現を助ける補足的・援助的な道具とのあいだのバランスがとれていることなのである。
よって「反自立共生的で操作的な道具を見分けるための基準は、その基準に合致するあらゆる道具を排除するためには用いることはできない」とする。とするならば如何に自立共生という「行動のための指針」を扱えばよいのか。
自立共生の基準は、それによって社会の成員が自分たちの自由を擁護する連続的家庭へのガイドラインとみなされるべきであって、機械的に適用できる一組の処方箋だとみなされるべきではない。
いわばイリイチは、非自立共生を排他するべく自立共生的道具を提唱するのではなく、専門家に基づく産業的生産様式によって損なわれる「自由を擁護する」ためのガイドラインとして提起するのである。しかし「現在では(...)逆のガイドラインが優勢である」と同時にそれは脅威として「差し迫ったものであり」、「私たちの時代の不公正の主な源は、まさにその性質からして、それを自律的に使用する自由をごく少数の者に制限してしまうような道具の存在を、政治的に容認することにある」という。よってイリイチは本章を以下のように締める。
政治を逆倒するには、自立共生的な生活スタイルが可能であることを示すだけでは、あるいはそれが、産業主義的生産性によって律されている社会における生活より魅力的であることを明示するだけでは、十分ではなかろう。(...)公正で社会的に平等な秩序は、道具の自立共生的な再構築と、その結果としての所有権と力能の再定義とを通じてしか実現されないことを示したところで、十分ではない。(...)脱産業主義社会の自立共生的な生活スタイルの理論的可能性を、新しい道具のための政治的プログラムに表現し直すためには、今日の道具の一般的な基本構造が人類の生存を脅やかしていることがいますぐ明らかにされねばならない。この脅威が差し迫ったものであり、効率を強制することの影響が、私たちの世代の大部分の人々に、益よりも害を与えていることが明らかにされねばならない。このためには私たちは、今日の諸制度が欲求不満をひきおこすものとなる限度を確認しなければならぬし、また、私たちの道具が社会全体を破壊するものとなるもうひとつの限度を認識せねばならない。
第三章では上記が詳細に検討されることとなる。
第三章 産業主義的道具の危機
本章では人類に脅威を齎す「今日の道具の一般的な基本構造」の以下六つの危険が示される
産業主義的発展が第二の分水嶺を通過したあとで、世界のあらゆる人々を脅かしている六つの側面を確認しておこう。1)過剰成長が、人間が進化してきた環境の基本的な物質的構造に対する人間の権利を脅かしている。2)産業化が自立共生的な仕事をする権利を脅かしている。3)人間を新しい環境にあわせて過剰に計画化プログラミングすることが、創造的な想像力を麻痺させてしまう。4)生産力の新しい水準が政治参加の権利を脅かしている。5)古いものを強制的に廃してしまうことが、言語や神話や道徳や審判における先例の源泉である伝統を生かす権利を脅かしている。私は以上五つの脅威を、手段を目的に倒置する破壊的な作用を共通してもっている、相互に関連はしているが区別可能なカテゴリーとして叙述するつもりである。6)巧みに仕組まれてはいるが強制的な満足のおしつけが生みだした広汎な欲求不満は、六番めのより微妙な脅威を構成する。(...)この六つのカテゴリーは、道具の働きが現在不均衡であることを明らかにしさらにそれを矯正することを可能にする手順に関する原則を、回復するのに役立つ。 1)生物学的退化
人間と生命界とのバランスが不安定であることはすでに認識されているし、また急に多くの人々を悩まし始めている。環境の悪化は劇的であり、すこぶる目につきやすい。(...)人間は宇宙の中で或る生態的地位を獲得するように進化してきたのである。地球は私たちの故郷なのだ。この故郷がいまや人間の仕業で脅かされている。
イリイチによればそれは三つの問題が複雑に重なり合うという。
人口過剰と豊かさの過剰と科学技術の欠陥が、連合して環境のバランスを破壊におとしいれる3つの傾向であると、ふつうみなされている。(...)環境危機に人々が心を奪われたために、人類の生き残りに関する論議は、技術的手段によって脅かされているバランスのうち、たったひとつのバランスにのみ集中してしまうことになった。ひとつの次元だけでの議論は不毛でしかない。この三つの傾向は実際に正体が確かめられてきた。そのそれぞれが人間と自然環境のバランスを狂わせる傾向をもっている。人口過剰とは限られた資源に依存する人々の数をふやす。豊かさは各人により多くのエネルギーを使うことを矯正する。欠陥のある科学技術は非効率的なやりかたでエネルギーを劣化させる。
「ひとつの次元」に拘ってしまう産業主義的学者の例として、「人工抑制」を掲げるポール・エーリヒと「科学技術の欠陥」に焦点を当てるバリー・コモナーを挙げる。イリイチによれば「エーリヒは産業主義的効率によって産児制限を実行したがっている」のであり、「コモナーは道具の基本構造を逆転するよりむしろ、産業を道具面で再編成したがっているのだ」。そうした一次元的議論は、まさに錬金術的神話に基づくのであり、その先にあるのは産業主義社会なのである。 生態学的な不均衡に対するさまざまな万能薬的対策の提唱者どうしの一次元的な論議は、どうにかして人間の行為を、技術的な完全性として思い描かれた世界が要求するものに適合するように、工学的に計画化することができるという誤った期待を煽りたてるだけだろう。こういう環境のもとで官僚制に保証されて生きのびるのは、生産と生殖のシステムを中央で計画化することが、地球の進化の方向を指導することと同一視されるにいたるまで、産業主義的経済を拡大することを意味する。こういう産業主義的性向の解決策が、生存可能な環境を保存する唯一の方法として一般に受けいれられるようになると、自然環境の保護とは、人間の生殖・期待・生産・消費の水準を規制するレバーに手をかけている官僚制というリヴァイアサンの存在を、理論的に根拠づけることになりかねない。(...)すなわち「科学技術の歴史的達成は、諸価値を技術的な課題に変えること、つまり諸価値の物質化を可能ならしめた。したがって、急を要するのは、価値を科学技術的過程の一要素として専門用語的に再定義することである。そうすれば、技術的な目的としての新しい目的は、事業計画や機械体系の利用においてはもとよりその構築において有効に働くだろう」という仮定にもとづいている。 イリイチはそうした産業主義的方途に代わり、自立共生的関係を提唱する。
私たちは、機会が私たちに代わって仕事をしてくれるだろうとか、セラピストが私たちに知識や健康を与えてくれるといった期待心を根本的に削ぎ落とさねばならない。環境機器の唯一の解決策は、もし自分らがともに仕事をしたがいに世話しあうことができるならば、自分たちは今より幸せになるのだという洞察を、人々がわけもつことなのである。今日の世界のものの見かたをこのように逆倒するには、知的勇気がいる。というのは、そういう逆倒をあえてすれば私たちは、たんに反人民的だとか経済的進歩にさからうというだけでなく、同様に、自由な教育と科学技術の進歩に反対するものという、迷妄なしかしたえがたい批判にさらされるからである。(...)私たちが、人間だけが目的をもち人間だけが目的をめざして仕事をすることができるということを再認識しないかぎり、生態学的均衡を再建することはできない。機械はただ、人間を、機械の破壊的な進歩における無能な協力者という役割におとしめる作用を、無慈悲にいとなむだけである。
2)根元的独占
根元的独占という言葉で私が表したいのは、独占という概念のふつう含意をはるかにこえた、一生産物によるある種の支配なのである。「独占」という言葉が一般に意味するのは、商品やサービスを生産(または販売)する手段に対する一企業による排他的支配である。(...)そういう独占は消費者に市場である製品を買うように強制するかもしれないが、同時に他の領域で消費者の気ままな行為を制限することはめったにない。のどの渇いた人間が冷たくてすっとするあまい飲みものがほしくなったとき、ただひとつの銘柄しか選べないようになっていることに気づく、ということはあるだろう。それでも彼は渇きをビールでいやそうと水でいやそうと、自由なのである。彼の渇きがコカコーラへの欲求に置き換えられ、ほかに代わるべきちゃんとしたものがないとすれば、そのときにのみ独占は根元的なものになるだろう。「根元的独占」という言葉で私が意味するものは、ある銘柄が支配的になることではなく、あるタイプの製品が支配的になることである。ひとつの産業の生産過程がさしせまった必要をみたす行為に対して排他的な支配を及ぼし、産業的でない活動を競争から締めだすとき、私はそれを根元的独占と呼ぶ。 その具体例としてイリイチは第一に「車」を挙げる。車が走る道路は「徒歩や自転車での移動を締めだした」。よって、これは道路の根元的独占である。
車はこのようにして交通を独占する力を持っている。車は自分の姿にあわせて都市をかたちづくることができる―実際にロサンジェルスで徒歩や自転車での移動を締めだしたように。(...)フォードよりシボレーに乗る人が多いということが根元的独占なのではなくて、自動車による交通が歩く人の権利を削りとるということが根元的独占である。
第二に挙げるは「学校」である。学校は、学校以外に対して「無教育という烙印を捺」す意味で、根元的独占である。例えば学校教育権威に依存する就職なんかはこの最たる例であり、先進国の就職状況は自立共生的な関係を育まず、権威に依存することで構成されている。
学校は、学ぶことを教育と定義しなおすことによって、学ぶことへの根元的独占を拡張しようとしてきた。人々が現実について教師がくだした定義を受けいれるかぎり、学校の外でものを学んだ人々は公式には“無教育”という烙印を捺された。現代の医療は病弱な人々から、医師によって与えられる以外の看護を受ける機会を奪っている。人間生来の能力が大型の道具によって排除されているところではどこでも、根元的独占が成り立つ。
第三に「葬儀屋」を挙げる。死こそあらゆる方途をもってして人間が向き合ってきた生活空間の根幹であり、専門家社会は「柩・教会での儀式執行・遺体の防腐保存」などの観点を用いることでまたもや根元的独占を成そうと試みる。
葬儀屋による葬儀の管理をみれば、根元的独占がどのように機能するか、それが文化的に規定された他の行動の形態といかにちがうかということがよくわかる。一世代前のメキシコでは、墓を開くことと死者に祝福を与えることだけが本職、つまり墓掘り人と僧侶の仕事出会った。家族に死人が出ればしなければならぬことがいろいろ出て来るが、そのすべては家族内部で片づけることができた。お通夜や葬式や葬式やお斎は争いごとをおさめ、悲しみに捌け口を与え、参会者ひとりひとりに死を免れぬ宿命と人生の価値を思いださせるのに役立った。(...)最近になって、主だった都市には葬儀場が設立された。最初のうちは葬儀屋はお客を見つけるのに苦労していた。というのは、大都市においてさえ人々はなお、身内の死者を埋葬するすべを知っていたからである。60年代に、葬儀場は新しい共同墓地の管理権を獲得し、柩・教会での儀式執行・遺体の防腐保存を含む一括業務を提供しはじめた。いまや葬儀屋に儀式執行をゆだねることを義務づける立法がなされようとしている。いったん死体をつかまえてしまうと、葬儀演出家は、ちょうど医療が死という行為に対してそうしようとしているように、埋葬に対する根元的独占をうちたてることになろう。
上記で論じたような根元的独占は人間の本来的能力を毀損していると言える。なぜならイリイチによれば、人々は生得的かつ自存的にそれらをこなす能力が備わっているのであり、専門家社会はそれらを権威のもとに破壊し、自らが分け与える対象に依存的にするからである。その意味で現代において「根元的独占は制度的なサービスの場合とは反対に、個人的なサービスの根元的な希少さをつくりだすのである」。
いったん人々がこういう役割をひきうけると、専門家によって希少と定義された商品のみが、彼らのどんなつまらない必要でさえかなえてくれることになろう。人々は生まれながらにして、治療したり、慰めたり、移動したり、学んだり、自分の家を建てたり、死者を葬ったりする能力をもっている。この能力のおのおのが、それぞれひとつの必要ニーズをみたすようにできているのだ。人々が商品には最小限頼るだけで、主として自分でできることに頼るかぎり、そういう必要ニーズをみたすための手段はあり余るほどある。(...)大規模な道具が人々の代わりにしてくれる何か“よりよい”こととひき換えに、人々が、自分の力とおたがいの力でできることを行う生まれつきの能力を放棄するとき、根元的独占が成立する。根元的独占は価値の産業主義的制度化の反映である。それは個人的な対応を、標準的商品のパッケージに置き換える。(...)こういう再定義は価値あるサービスの単価をひきあげ、特権を差別的にわけ与え、資源に近づく権利を制限し、人々を依存的にする。とりわけ、人々から個人的なやりかたで個人的な必要ニーズをみたす能力を奪うことで、根元的独占は制度的なサービスの場合とは反対に、個人的なサービスの根元的な希少さをつくりだすのである。 3)計画化の過剰
学ぶことのバランスは、社会における二種類の知識の割合によってきまる。第一の知識は環境に対する人間の創造的な働きかけの成果であり、第二の知識は人工的につくりあげられた環境による人間の"些末化"を表している。第一の種類の知識は、人々の基本的な相互の関わりあいと、自立共生的な道具の使用とに由来し、第二の種類の知識は、目的をもち計画化された訓練に彼らが従うことの結果として、彼らのものになる。
これは「第一の知識」に自然発生的な社会化と(=「ふつうの性格」)「第二の知識」に方法的社会化(=「教育」)を対応できるだろう。前者については以下引用が示唆的である。 ふつうの生活から学ぶことができるものと、意図的な教育の結果として学ばねばならないものとの関係は、場所と時代により非常にさまざまである。その関係は大いに儀式に依存している。イスラム教徒は誰でも、お祈りを唱える結果としていくらかアラビヤ語をおぼえる。こういう学習は、伝統によって限定された状況のなかでの相互作用から発達する。まったくおなじやりかたで、農民は自分が住む地域の民間伝承を聞きおぼえる。階級とカーストもまた、ものを学ぶための機会を生みだす。金持ちは“正しい”テーブルマナーやアクセントを習得しており、こういったものは教えられるものではないと主張する。貧しいものたちは、教育が金持ちたちに生きのびるすべを教えられないような状況のもとで、品位を保ちながら自活して行くことを学ぶ。
そして「第一の知識」から「第二の知識」への移行は、「道具が自立共生的でなければないほど、教えるという行為が助長される」ゆえ、知識体系というのは「道具の構造」に依存していることがわかる。なぜなら人類史は「集中と専門化は一定の点をこえると、高度に計画化された操作者と依存者を必要とするようになる」ことで、「目的をもち計画化された訓練」が要請されるからである。このように人類は「“教育”のほうに傾いてしまう。人々は自分が教えこまれたことは知っているが、自分のすることからはほとんど何も学ばない。人々は自分たちには“教育”が必要なのだと感じるようになる。なにかものを学ぶということは、こうして商品となる」。
学ぶことから教育への転換は、人間の詩的能力、すなわち世界に彼個人の意味づけを与える力を麻痺させる。人間は、自然を奪われ、彼自身ですることを奪われ、彼が学ぶように他人が計画したことではなく、自分の欲することを学びたいという彼の深い欲求を奪われるならば、ちょうどそのぶんだけ生気を失っていく。(...)学習のバランスの堕落は人々を道具の操り人形にしてしまう。 自立共生的道具から操作的道具への変遷に基づく教育史観は、イリイチに特徴的なものである。それを論証するべく、イリイチ自身は一般的な二通りの教育史観を紹介する。
この現象はこれまで、ふたつのうちのどちらかひとつのやりかたで解釈されてきた。ひとつの解釈は、教育は社会的目的にとっての手段だときめてかかる。この見地からすれば、知的投入物を通じて人間を資本化することは、高い生産性のための必要条件である。(...)第二の解釈は逆の仮定から出発する。この見かたによれば、教育は制度的な成長の最も価値ある産出物である。(...)以上のふたつの見かたのいずれにおいても、自立共生的な道具を用いての学習と、操作による学習とが区別されていない。どちらの見かたも、操作的な教育を肥大させ自主的な質問を圧しつぶすことによって、学習のバランスを傾けるのである。
4)分極化
今日の道具の構成は社会を、人口と豊かさの水準の両面における成長に駆りたてている。この成長は特権スペクトルの正反対の両端で生じている。特権をもたぬものは数の面で成長するし、一方、既得特権のもちぬしは豊かさの面で成長する。特権をもたぬものはこうして欲求不満を高めるだけの欲求を強め、一方富めるものは自分のものときめこんだ権利や必要物を防衛する。飢えと無能感のために、貧しいものは急激な産業化を要求するようになり、増大する贅沢を防衛するために、富めるものはいっそう狂気じみた生産へ駆りたてられる。権力は分極化し、欲求不満は一般化する。
道具が大きなものになるにつれて、操作する能力をもつものの数は減少する。クレーンを操作できるものは手押し一輪車を動かせるものよりつねに少ない。道具が効率的になるにつれて、希少な資源のより多くがその操り手の自由になる。
5)廃用化
6)欲求不満
私は、道具の効率化が生活のバランスをくつがえすことができる五つの領域を確認した。欠陥のある科学技術は環境を人の住めないものにすることができる。根元的独占は豊かさへの要求を、仕事をする能力を麻痺させるところまで駆りたてることができる。過剰な計画化は世界を、人々がそこでたえず教化され社会化され正常化され試験され改良される治療塔に変形させることができる。制度的に産出された価値の中央集中とパッケージ化は、とり返しのつかぬ構造化された専制にむけて社会を分極化することができる。そして最後に、計画的な廃用化は、お手本となりうる過去への架け橋をすべて切り落とすことができる。こういった次元のどれかひとつ、あるいはいくつかにおいて、道具は、自分たちの環境という偉大な諸次元のひとつと行動において関わることを、たいていの人にできなくさせることによって、生存を脅かすことができる。
第四章
自立共生的科学の回復―科学神話からの脱却
「科学に対する過剰信頼」は、「人間的活動」としての「創造的な活動」を破壊し、「制度的事業」の「与えられた謎解き」へのパラダイムシフトを起こした。「科学は今日、ちょうど医療がよりよりい健康を生産するように、よりよい知識を生産する幽霊のような生産期間を表示するのに用いられている」。それは何故か。
知識の制度化はより一般的で退廃的な妄想をもたらす。それは人々を、自分たちの代わりに知識を生産してもらうことに頼るようにしむける。それは結局は道徳的・政治的想像力を麻痺させてしまうのである。こういう認識上の混乱は、個々の市民の知識は科学の“知識”より価値が低いという錯覚にもとづいている。前者は個人の見解である。それは主観的なものにすぎず、政策からは排除される。後者は“客観的”である。つまり科学によって定義され、専門的なスポークスマンによって流布されたものである。この客観的な知識は、洗練することができ、たえず改善することができ、蓄積して今日いうところの“意思決定”過程に喰わせてやることのできる必需商品とみなされている。
即ち「科学によってよりよい知識に頼りきると、本人による決定から、進行する歴史的社会的過程に寄与する力が奪われる」のであり、専門家(=金)によって科学的に探究された「客観的」対象を啓示されることで、低位とされた市民はその意志決定の隷属状態となり、「道徳的・政治的想像力を麻痺させてしまうのである」。
よって公衆が連帯し、自立共生的態度を以て政治的共同体に臨むことを訴える。
科学的計測は一定のいとなみが生活の主要なバランスを脅かすことを示唆してくれるかもしれない。だが、個人と社会の目標を制限するやりかたをきめることができるのは、日常に得られる証拠というはるかに複雑な基盤に立って行為する思慮深い大衆が、十分な情報にもとづいてくだす判断だけなのだ。科学は宇宙における人間の領域の大きさを明確にすることはできる。だが、政治的共同体のみが、その成員がその下で暮らしていく屋根の寸法を対話のなかで選ぶことができるのだ。
自立共生的言葉の回復―産業主義的所有に基づく「名詞優先的な言語」の脱却
学校は“教育を!”というスローガンで動くのだが、ふつうの言葉は子どもは何を“学ぶ”のかと尋ねるものなのである。動詞から名詞への機能的転換は、それに対応する社会的想像力の貧困化をくっきりと浮かびあがらせる。
そこで産業主義的言語としての名詞に介在するのが「所有」の概念である。
名詞優先的な言語を話す人々は、習慣的に彼らがもっている仕事に対する所有関係を表現する。ラテンアメリカではどこでも、労働者であろうが官僚であろうが給料を得ている被雇傭者だけが、自分たちは仕事をもっているという。農夫は自分たちは仕事をするという。すなわち、「彼らは仕事をしに行くが仕事をもたないバン ア トラバハール ペロ ノ ティーネン トラバーホ」というわけだ。近代化され組合化された人々は、産業がより多くの商品のみならず、より多くの人々により多くの仕事を生みだしてくれるものと期待している。たんに人間がすることだけでなく、人間が欲するものをも指し示すのが名詞なのだ。住宅ハウジングという言葉は活動よりむしろ商品を指している。人々は知識や移動力を獲得するのだし、感受性や健康ですら獲得する。彼らは仕事や楽しみをもつだけでなく、性すらももつのである。この動詞から名詞への転換は、所有権の観念における変化を映し出すものなのだ。(...)完全に産業化された人間は自分の所有するものを、たいてい、自分のために作られたものとみなす。彼は学校や車やショービジネスや医者から得る商品について「私の教育」「私の移動」「私の娯楽」「私の健康」といった言いかたをする。西洋の言語とりわけ英語は、産業主義的生産とほとんどきり話せないものになっている。 他にも「「私は学びたい」という言い方は「私は教育を受けたい」と言いかえられる」し、「「私は歩きたい」は「私は輸送機関を必要とする」というふうに言いなおされる」。言語が本源的な動詞から、所有的な図式を表す名詞へと姿を変えた様は、ちょうど自立共生社会から、産業主義社会へのダイナミクスに対応する。
産業主義的な道具の操作規則は日常の言葉のなかに侵入し、人間の詩的自己証明を辛うじて許される片隅での抗議にまでおしさげている。その結果生じる人間の産業主義化を逆転するには、新しい意識水準とともに、言葉の自立共生的な働きをとり戻すしかない。共同社会の形成に参加する各人の権利を要求し主張する一国民によって使われる言葉は、人々と工学的に設計された技術的手段の関係を明らかにするいわば二次的な道具となる。
自立共生的改良手続きの回復―形式の中立性の想起
無限拡大的な生産主義社会を支えることは、政治と法律の既成構造の圧倒的に優越する目的になってしまった、人々がなされるべきことは何か決定する手続きは、法人的組織体はより多く生産すべきだ、より多くの知識や意志決定を、より多くの商品やサービスを生産すべきだというイデオロギーに迎合するものになりきっている。(...)産業主義社会の前進をめざして法律は、社会工学のために、また超科学技術機構の無駄と摩擦をたえず、より完全かつ効果的に除去するために、系統的に利用されている。英米系統の産業は社会主義国の産業より、一貫して長期的な成功を収めてきた。法は人々を機械の支配のもとに置きそして置き続けるうえで、中央集権的計画より能率がいいのだ。
しかし「言語や法の堕落した用いかたの達人である専門家たちが、突然明晰にものを考え正しい途を歩めるようになるなどと期待するのは、ばかげたことであるだろう」。よってイリイチはそれを我々の側で一念発起しようと呼びかける。
今日の法律の立法者の大部分、今日の法廷とその判決の大部分、原告とその訴えの大部分は、その上を覆う産業主義的な合意、すなわち、より多いということがよりよいことであり、人間より法人的組織体のほうが公益に役立つという含意によって、深く堕落させられている。だが、こういう合意が根を張っているからといって、法と政治の手続きの形式の利用を等閑視する革命はいかなるものであろうと失敗するという私の命題が無効になるわけではない。その内部であらゆる個人と集団が自分自身の道理にもとづいて自分の権利を主張し、その成員が同一の自立共生的手続きを共有するような能動的な多数派のみが、法人組織体対抗して人間の権利を回復しうるのだ。 上記でいう「法と政治の手続きの形式の利用を等閑視する革命」がなぜ失敗するかについては、恐らく第二章の「権力保有者の階級は除去されねばならないが、それは大量虐殺や人のいれ替えによってできることではない。新しいエリートが現れて、ひき継いだ権力構造の操作においてよりいっそうの正統性を主張するだけだろう」というテーゼに基づくと考えられる。即ち法と政治の手続きの「内部であらゆる個人と集団が自分自身の道理にもとづいて自分の権利を主張し、その成員が同一の自立共生的手続きを共有するような能動的な多数派のみが、法人組織体対抗して人間の権利を回復しうるのだ」。イリイチは最後、善悪の相対性を憂い、この章を締める。
われわれの主要な諸制度の行く手をふさぎそれをおしとどめ逆倒するという目的にそういう手続きを行使することは、制度の管理者や中毒者には法の悪用とみえ、彼らが認める唯一の秩序を転覆するものにみえるだろう。しかるべく自立共生的手続きを行使することは、官僚にとっては、たとえ裁判官と称するものであっても不純で犯罪的なことに思えるのである。
「反官僚的な意味において」、自立共生的な「法と政治の手続き」を、「自覚的に行使する」ことで、「制度の革命」を惹き起こし、「自立共生的な社会への移行」を完成させるのがイリイチのプログラムである(以下は第五章より引用)。
自立共生的な社会への移行は、訓練を積んだ手続きを自覚的に行使することによって、対立する諸利害の合法性とその対立を生じさせた歴史的先例と、仲間たちの決定に従う必要とを認識した結果でありうるし、またそうでなければならない。制度の革命がその達成目標が法制化されたものとして現れるような道具であり続けるように保証してくれるのは、自立共生的に行使される手続きなのだ。つまり、たえず反官僚的な意味において手続きを自覚的に行使することが、革命それ自体が体勢と化すことを防止する唯一の手立てなのである。こういう手続きを社会の全主要制度の逆倒に応用することを文化革命と呼ぶか、法の形式上の構造の回復と呼ぶか、参加的社会主義と呼ぶか、スペイン慣習法の精神への復帰と呼ぶかは、たんなる名辞の問題にすぎない。
第五章
自立共生社会にむけたプレリュード
イリイチは第四章の結論のもとに、黙示録にむけた二つの世界を読者に提示する。
きわめて近い将来のうちに、人間が道具の環境に対する干渉に限界を設定することができず、効果的な産児制限を実行できないなら、次の世代は多くのエコロジストによって予言された背筋の凍るような黙示録的光景を経験することだろう。こういう切迫した災厄に直面して、社会は官僚制的独裁によって設定され強制される限界内での生存という未来図をじっと待ちうけることもできる。あるいはまた、法的政治的な手続きを活用することによって、政治的家庭に参与することもできる。
イリイチはこうして地球の未来を二分する分水嶺にいま我々が直面していることを示唆しながら、前者の至る世界を次のように嘆く。
人間を官僚的に管理して生きのびさせようとするのは、倫理・政治両面の根拠からして受けいれることはできない。そうすることはまた、それに先行する大衆的な矯正療法の企てと同様、不毛であるだろう。このことはもちろん、大多数の人々がはじめのうちは官僚的管理に従わないだろうという意味ではない。人々が人口増大と資源減少のふえいく証拠におびやかされて、自分たちの運命を独裁者たちの手に自発的にゆだねるというのは十分に考えられることだ。人々の面倒をみる技術官僚があらゆる次元での成長への限界設定を委任され、その諸限界を、これ以上の成長が完全な崩壊を意味する臨界点ぎりぎりに設定することだって考えられる。こういう悪の楽園カコトピアはたえうる限度での産出の最高水準に、産業主義時代を維持することもできるのである。そうなれば人間は、自分を保護して生きのびさせ、しかも生きのびることをますます無価値にするような、プラスティクのドームの中で生きることになるだろう。人間の受忍限度は成長のもっとも深刻な限界になりうるのだから、理性の夢にかこまれて生きるのに適した怪物的タイプの人間をつくりだそうと企てる錬金術師の営為がふたたびよみがえるだろう。より以上の成長の条件として、人間自体を心因的に道具化することが、工学の主な機能となるだろう。人々は誕生から死にいたるまで世界規模の校舎に閉じこめられ、世界規模の病院で処置を受け、テレビジョン・スクリーンにとり囲まれることになり、そういう人工的な環境が世界規模の牢獄と区別されるのは名前だけということになるだろう。 然し勿論イリイチは「過去についてイデオロギー的に歪んだ解釈がなされているために、政治的過程を正しく認識することはますます困難になっている」などと、自立共生社会への道筋が困難極まることを理解している。ゆえに「管理的ファシズム」に替わる「質素な社会を政治的に選び取ることは、これから述べる三つのことが必要であるばかりか可能であることが明示されないかぎり、敬虔な夢にとどまる」とする。
第一に、いっそう多くの人々がわれわれの今日の危機の性質について啓発され、諸限界は必要だし自立共生的な生活スタイルは望ましいということを理解するようになるための具体的な手順をはっきりさせること。第二に、人々の質素に暮らす権利を要求し、人々を自立共生的な生活に満足するように、従ってまたそれに深く関与するようにしむける集団に―そういう集団はいまは抑圧されているのだが―最大多数の人々を導きいれること。第三に、あるひとつの社会内で受けいれられる政治的ないし法的道具を再発見、再評価するとともに、その芽生えがあるところではどこででも自立共生的な生活をうちたて擁護するために、その道具を活用するしかたを学ぶこと。
むすび
私が差し迫ったものとして述べてきた危機は、産業主義的社会内部の一危機ではなくて、産業主義的生産様式そのものの危機なのである。私が述べてきた危機は、自立共生的な道具か、それとも機械に圧しつぶされるかという選択に、人々を直面させる。
独裁者の支配や専門家による統治やイデオロギー的正統性に容易に行きつく可能性もある全般的危機こそまさに、万人が参与する政治過程を再構築する好機なのである。
災厄の避けがたい暴威を自立共生的な再構築へと革命的に転回させるいとなみに、大多数の人々を協働させることができるものは、弱きものとしての言葉あるのみなのだ。(...)自立共生の防衛は、自分たちが統御する道具を装備した大衆によってひきうけられてこそ可能なのである。帝国主義の傭兵どもは、自立共生のために道具に限界を課すことを選びとった一国民を毒殺したり不具化したりすることはできても、彼らを征服することはけっしてできない。
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ヴァナキュラーなジェンダーという地平
イリイチの問題意識は「商品の過剰生産から生じる望ましくない副作用に指摘すること」、すなわち希少性の仮定の上につくられた社会において「商品を買うほかなくなること」という産業社会批判にある。
このような副作用は産業社会に暗黙のうちに存在し、家庭の維持のため不必要な消費として増加していく。消費するための不必要な労働は「シャドウ・ワーク(支払われない労働)」と呼ばれ、家庭においてはその大部分を女性が担っている。 現在あるような家事労働を、昔の女性たちはしていなかったのだ
イリイチはシャドウ・ワークのルーツを探求したところ、現代では「ヴァナキュラーなジェンダー」が消失していることを発見したのだ。ここでいうヴァナキュラーというのは、「根付いていること」と「居住」を意味し、広義には風土的で伝統的で自給自足的、という意味となる。それぞれの地域が異なった風土や伝統、異なった生活習慣や言語や時間を持っており、ヴァナキュラーな社会を形成していた。ポランニーのいう市場経済が社会から離床する以前の社会のことである。 このヴァナキュラーな社会は、男女ジェンダーにより総合的に作り上げられていた。イリイチは男女ジェンダーによるヴァナキュラーな社会の特徴について以下のように説明している。
ヴァナキュラーな文化における普遍的な特性を明示することにした。ジェンダーによって、男にかかわる場所、時間、道具、課題、話し言葉の形、動作、知覚と、女にかかわるそれらとが区別される〜社会的ジェンダーというものを形成する。私はこれを、ヴァナキュラーなジェンダーと呼んでいる
ヴァナキュラーという地域による多様性を男女の関係にもあてはめたのがヴァナキュラーなジェンダーである。人間の労働力や性格や知性を分極化するセックスとは特性が異なる。セックスとは生殖器のちがいで男女を区別するが、男性セックスにまとめられた単一性の要素が強い。なお、ジェンダーとセックスの転換期はキリスト教社会に入ってからとされており、セックスにはカトリック的な要素もある。カトリック的なセックスに対し、ヴァナキュラーな男女ジェンダーは「互いに補い合って全体を構成〜ある社会の男と女による社会的現実の、互いに相補う認識」として存在し、多かれ少なかれ明確にジェンダーにより分界されつつも総合的に社会を構成していると主張する。 産業社会以前はヴァナキュラーなジェンダーの相補性が生かされ、男女ジェンダーが総合的に社会を形成していた。しかし、産業社会の発展に伴い男性がますます賃金労働のために外にでるようになると、「消費者が、買い入れた商品を使用可能な財に転換する労働」は家庭内で大部分女性が押しつけられることになった。
こうして家庭における男女の労働分担が明確になるとともに、ヴァナキュラーなジェンダーの相補性は身を潜めてしまった。もはや産業社会において容易に気づかれる概念ではなくなったのだ。ヴァナキュラーなジェンダーを、イリイチは現代物理学における相補性にあてはめて説明しようとした。量子力学において、光が波動にも粒子にも帰せず相互に補足しあっていることが証明されたことに影響を受けた。現代物理学の相補性概念を、男女ジェンダーにも当てはめることができると考えたのである。光は波動でもあり粒子でもある。同様に、社会はヴァナキュラーな男女ジェンダーの相補性により総合的に成り立っていると主張した。